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   四


 通された応接間は記憶に違わず雑然としていた。本国のみならず海外の儀式用品までが手広く蒐集され、壁や棚に飾った挙句にその数は今も増え続けているというのだから空恐ろしい。客間を掃除する家政婦らの苦労が偲ばれる。

「やぁしばらく」

 自身の屋敷の中だというのに、師は小走りに室内にやって来た。驚くことに紅茶の盆まで手前で運んだらしく、多少中身を零しながらそれをごとりと私の目の前のテーブルに置いた。また少し飛び散り私の頬は強張りを隠せない。

 受け皿ごとカップを手に取り、左手の皿から飲むか右手のカップから飲むかを乾いた笑みで迷った。師は皿を選んだようだった。仮面をずらし、干からびた唇を付ける。

「何用かな。見た目には変わりないようだが」

「先生も相変わらずのようで」

 途端に機嫌を悪くしたような半笑いを声音に混ぜた。

「嫌味のつもりだったのだがね。嫌な男になったなお前も」

 こうまで言われては返す言葉もなく、私は茶を啜った。零されたことが悔やまれるほどに良い品であるようだった。

「椿のことかな」

 思わず呆けた声が出た。

「はて違うのかね、そろそろかと期待していたのだが」

「……椿をご存知で」

 いや、違うのだろう。仮面の下で憎たらしいまでにカカと笑う師は無駄な会話を好む御仁ではない。こちらの意図をかき乱せど、結果として迂遠な前置きを跳ね飛ばすその独特の口上は懐かしいまでだ。

「あれは私の屋敷からそちらに出した娘だ」

 されど相変わらず。この恩師の話しぶりは私の心の臓に宜しくない。手元に視線を落とし、頭を抱えないだけで精一杯だった。

「戯れ言を」

 無論わかっている。そんなお人ではない。

「戯れ?諧謔を覚えたかね若造」

「年齢の算数が合いませんよ」

 私がここに住み込んでいた時分、師の娘が今の椿と同じ年頃。他に娘はなく、師に兄弟のいたという話も拝聴したことはない。

「まぁ細かいことは宜しい」

「奥様の姪で御座いましょう」

 私は妥当な考えを尋ね直した。当然答えは返ってこない。

「勉強の類いか」

 嘆息混じりに本題を切り出す。

「ええ、先生の著作のことで」

 私は昨夜の疑問をすっかり話した。すると師は心無しか嬉しげにほうとため息を吐いた。

「結局は椿のことじゃないか」

「……」

 師は突如立ち上がり、窓際に寄って分厚いカーテンを閉じた。暗暗とした闇に部屋が閉ざされ、隙間を漏れる陽光のみが視界を助ける。

「敬意だ」

 そう理由づけた。

「君の疑問は怪異の可換性を大きく見積もりすぎたことに由来する。あるいは学者としての立場からみればそれも仕様のないことなのかもしれないが、民話の分類を見誤っていると言った方が宜しいかも知れぬ」

 老人は一息にそれだけを言い切った。こちらの反応を伺うような間が置かれる。

「つまりカギツネサマは怪異と別物だと仰るのですね」

「英雄譚。詰まるところ敬意である」

 すとんと腑に落ちるものがあった。

「内実や機能以上に名前自体、即ち村民の敬意が意味を持ったということですね」

「そうさ。村人らの間には半ば身内自慢のような心地でその存在を話の俎上に乗せ、あたかも側で聞かれていながら失礼に当たらないような言葉を選んでいたのだろう。我々は忘れがちだが、怪異は信じる者にとっては間違いなく存在するのだよ」

 あるいはそれは信じていない者にも伝染する。

「更には談じるにも場所を選ばねばならぬようになる。日の当たる場所ではカギツネサマの名を口にしてはいけない。余所者に話していいのは屋内だけである。といったようにだね」

 だから師はわざわざ話し出すに当たり、カーテンを閉めたのだ。カギツネサマという怪異への敬意を表するために。

「しかしそれらには実際的な理由も含まれているように見えます。例えば暗がりで話すのはその語られる経験の効果を高めるため。余所者への語りを屋内に限るのは、それだけ村にとって信頼のおける人間だけに伝わるようにするため」

「無論そのような理由付けも出来る。されど自然と残ってしまう習慣は、常に目的から逆算してその発生を決められるものではない。いくらでも恣意的なものも偶発的なものも混ざりこむ余地はある」


 それこそ怪異そのものが混ざりこんでしまう余地も。


 師はそう締めくくった。

「先生は怪異が存在するとお思いですか」

「あるともさ」

 さも当然とばかりに老父は若さを滲ませてククと笑った。

「私だってひとつの怪異の結果だ」

 狐憑き。

 それは師に与えられた世間一般の評価だ。どうしようもないほどにその言動も容姿も社会不適合。その異端は痛ましいまでに疎外される。数十年前の怪異をむやみに調査した代償がこれであるというのならば、それはあまりに大きすぎる呪いだ。

 果たしてその発狂は怪異であったのか、偶発であったのか。

「怪異をご自分で名乗らないで下さい」

 興ざめもいいところだと、笑って見せた。師の問題は師のものであり私には関係なく、ただ弟子として不都合ない恩恵を得られればそれで十分。そんな態度を貫いたからこそ、彼の弟子として私だけが彼の側に残り続けてしまったのだろう。

「椿の話をしようか」

 しかしその不接触は唐突に終わりを告げ、気付けば私もまたその怪異に巻き込まれている。

「椿、でございますか」

 彼はついぞその下の顔を誰にも見せたことのなかった狐の面を外した。

「私ももう長くないのでな」

 ここで一度、私の記憶は途切れる。

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