椿

言無人夢

1

   一


 椿という女がこの屋敷に入ってきたのは、師走の暮れ。年越しも間近という頃合いだった。若枝を力づくで折り曲げたような、眩暈を引き起こす寒さの残る晴れた雪景色の庭で、私は彼女が敷居を跨ぐ姿を盗み見た。

 濃い紫の着物の裾とその細腕に見合わないトランクを半ば引きずるように、彼女は屋敷の門から玄関までを過ぎるところであった。垣根越しに私に見えたのはからころと音を立てる小さな二つの下駄ばかりで、その足元もすぐに壁の向こうに吸われてしまった。

 程なくして女中頭の対応する声が聞こえ、それが新しくこの屋敷に住む娘であったと悟る。私はひとつ伸びをしたところで庭を眺めるにも飽き、雪ごと砂利を踏みしだいて、縁側へと上った。



 それは年末の忙しい時期にどうしても断りきれない方面から転がり込んだ急な話だったらしく、雇い主にあたる当家主人の私の父などは最初あまりいい顔もしなかったらしい。一方、女中頭はぶつくさと文句を言いながらも丁寧に仕事を教えていったようである。私とそう年も離れていないにも関わらず、あれで自分の仕事には手を抜かない女なのだ。

 椿はその翌年、干支をようやく一周りする歳であった。

 この家に奉公した女は誰もが、最初は便所や風呂場の掃除を任される。手の切れるような冷たい水でタイル張りの床を擦るそれは、彼女らにとって生まれて初めて経験する掃除という名の労働であった。というのも屋敷に奉公する人間は余程の事情がない限り中流の良家から集められていて、椿もその例に漏れずとある財閥の分家筋の子女であった。

 大抵の娘は初め、思い描いていたそれと似ても似つかない仕事に肩透かしを食らったような顔をし、その上やり方がわからず苦労を覚える。されどついに戸惑いを何処かに失くしてしまえば、いくらか仕事にも楽しみを見出し、同時に屋敷そのものにも馴染み始める。

 さて、椿という女を初めに妙だと思い始めたのは女中頭のようであった。とはいえ、その時はそう大したことではないといったように私に向かって漏らしたに過ぎなかった。

「今度入ってきた娘は坊っちゃんのことをお慕い上げているようですわね」

 私は苦笑混じりに畳まれたシャツを女中頭から半ば奪い去るようにして受け取った。勝手に衣装棚に詰め込まれても、出す時に私自身がわからなくなっては困るからだ。

「下手な兄よりも年の離れているだろうに、いったいどうして若い花が自ら枯れるような迷いに至るのだろうね」

「あら、坊っちゃんも満更ではなくて?」

 軽口のつもりが思わずぎょっとしてしまう。

「冗談は止しておくれよ。いくつの頃の話だ」

 昔の話である。たとえ末娘であれ貴族の子女ともなれば、私の顔をどこかの末席から盗み見る機会もあったのだろう。かつては私もそんな気まぐれのような思慕に一々舞い上がりもしただろうけれど、今となれば女中頭にからかわれる種に過ぎず苦々しい笑みしか浮かばない。

「あれでご心配していらっしゃるのですわ」

「何の話だ」

 女中頭はため息を吐きながら呆れたように微笑む。まるでとぼけるなとでも責め立てるようでさえあった。

「ご当主様ですよ」

 私は黙してしまう。



 私の婚約が破談になったのはもうかれこれ五年前の話だった。産まれる以前からの許嫁を目前に当の私がその縁談を断る旨を切り出したのだから、それは常識はずれな一大事であった。

 というより一大事だったはず、なのだ。されど、そう。腹を括って覚悟していたよりも私への責は少なかった。当の私としては肩透かしもいいところであったが、あとに聞いた話では腹を痛めて私を産む母にも相談せずに自分一人でさっさとその婚約を決めた父自身にとっても、向こうの家が没落しきっていた当時となってはそれは望まぬ婚姻だったらしく、息子の我が儘をこれ幸いと一気に縁切りまで持ち込んだのだとか。

 それの負い目もあってか、未だに仕事ばかりにかまけてのらりくらりと新たな縁談を断り続けている私に婚姻を強くは勧められないようであった。

 しかしこの頃、父上はどうも妙な思い違いに至ったらしい。

「坊っちゃんがその、もしや幼児性愛趣味をお持ちなのではないかと」

「さすがにそれは酷くないかい」

 言いにくそうにした女中頭には申し訳ないが、いくらなんでも心配の方向が明後日である。

 たとえその憶測が正しかったとして、それで父が赤飯も炊かない少女を屋敷に入れたなんて何処の陽の下に顔向けできよう。

 嘆息する私の横で女中頭は、用事も済んだろうに、私の部屋の火鉢をいじりつつ手持ち無沙汰に留まっていた。互いが幼かった頃を私に思い出させるその懐かしい様子は、どうも長居するつもりのようだ。

「……茶でも淹れてきたらどうかね」

「あら気が利かなくて」

 皮肉のつもりが本当に茶を取りに出ていかれて閉口した。先日来た父の客からという洋菓子まで付けられて運ばれた湯呑みは、さすがに私の分だけであった。

 甘すぎるそれに眉を潜めながら私は尋ねた。

「それでその、椿というのが良くないのかい?」

「いいえ、覚えもいいですしよく気が付いて重宝しておりましてよ」

「ならなんだ。もしや嫉妬じゃあるまいな」

 その言葉に女中頭はきょとんとした顔をした後、かまびすしく笑い始めた。私はますます気分が悪い。

「端のう御座いました」

 笑い止んでみれば、嬉しそうに顔を赤らめているのだからこの女には年月がいくら経ても敵わない。

「こんな可愛い人が独り身というのは本当に世の生娘のためになりませんでしょうね」

「うるさいな、さっさと用を足して下がったらどうだい」

 何度も手折られたとはいえ私にも残るプライドくらいある。

「そうですね、では手短に」

 彼女は昔と同じように居住まいを正し、微笑んだ。それは自業自得で困窮した私に泣きつかれた時のように。幼い私に戯れで抱かれた晩のように。


「明日から坊っちゃんのお付は椿がいたします」


 その女は、私を突き放したのだった。

「……お前がするままで良くはないのかい」

「女中らの管理は私に任されておりますから、いくら坊っちゃんの我が儘でも、しかとした理由のないままに聞き入れることはできませんわ」

 実のところ。私はその女中頭以外の小間使いに世話をされたことがなかったのだ。生まれて以来この方、ずっと側にいた彼女が身を引くということの意味がわからないほど、もう私は若くもない。

 女は私の手を取った。

 それはいつもの仕草だった。それが始まりの合図であった。

「……やめよう」

 しかし私はその手を振り払った。女中頭の口元はそれでも、平然と微笑んでいた。

「最後なら、訊かせておくれ。父ともこんな風に」

 十五であった彼女が父の寝室に通されていた光景は、ふとした瞬間に思い出されてぎょっとする。あるいは当時そんな夢を見ただけではないかと。あるいは私を誘ったのも父の言いつけであったのではないかと。

「さぁどうかしら」

 本当に敵わない。

 ため息を引き裂かれるような心に代えた。

「まぁいいさ」

 彼女は深々と頭を下げた。

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