サンダウン:ACT1

EPISODE「サンダウン:ACT1」



 ピ、ピ、ピ、ピ……。朝日差し込む室内に鳴る電子音。その電子リズム鳴る間隔と音は徐々に早まる。





 ……ビタッ! ベッドでうつ伏せになっている少女の右手だけが素早く動き、アラームの一時停止ボタンを押した。

「……」

 少女はうつ伏せのまま動かない。右手が脱力し、だらりと時計から滑り落ちる。



 スー……。寝息。



 スマートフォンがひとりでにスリープ状態から目覚める。機械というもの、実に目覚めと寝起きが良い。

「~♪」

 女の子の間でわりと人気のある、男性歌手の甘くポップなメロディーと歌声がスマートフォンから流れる。茨城涼子の脳内チャートにおける、一日の始まりに聞きたい曲一位の歌だ。


 少女は意識も朦朧なまま、半ば本能的に音の発信源たるスマートフォンを左手で探る……が、ない。


 厳密には、ベッドから離れた机の上に充電中のまま置いて、そのままベッドに入った為、彼女の手の届く範囲にそれがない。そして一つの事実として、彼女にゴム人間の特殊能力の才能は、ない。茨城涼子は、ゆったりとした動きではあるが、観念したようにベッドから身を起こした。



「さむっ……」

 涼子が体を震わせた。



 光輝こうき35年 一月十五日 火曜日。



 まだ一月も、まだ新学期も始まったばかり。春は遠く、冬の寒さは依然厳しく、また、その勢いは冬の深まりと共に、尚増すばかりであった。



 髪を整え、制服を着こみ、朝食を取り、家を出て、駅へと向かい……。


 うと、うと。地元の私鉄の電車に揺られ、満員電車の座席で居眠りする涼子の姿があった。



 途中駅に電車が止まると、乗客の乗り降りの為にドアを開放する。すると人の往来と共に、冷たい空気が車内に入って来る。コートを羽織って、タイツを履いていても、学生服では防寒心もとない季節。涼子は身体をぷるりと寒さに震わせる。


 彼女の前に、吊革を持って立つ男性がいる事に気が付く。ふいにその人と目が合った。耳に通話用の無線インカムをつけ、コートの下に紺色のスーツを着こんだ小柄な男性。


 20代ぐらいには見えるが、ブラックジャックのような白髪交じりの髪、左目元には傷、目元には大きな隈、ひどく陰鬱そうな表情と、まるで葬式帰りかのような暗い瞳。女子高生という身分立場、ひどく疲れる大変な生活だが、その男はそれよりも、一目で更に疲れ切って見えた。




(サラリーマンって大変なんだなあ……)

 社会人になるとはかくも恐ろしいものなのだろうか。男性の姿を見て少女は考えた。




 過労かストレスか、あるいはその両方か、涼子の瞳に、その人は今にも倒れてしまいそうさえ見えた。


「あ、あの」

 気が付くと涼子は、目の前に立つ男性に、声をかけていた。

「え、はい?」

 急に呼びかけられ、男性はどこか困惑した表情を見せた。



 後から考えれば、どうしてそんな事をしたのかはよくわからなかったが、その時はとにかくそのサラリーマン (と勝手に彼女が思いこんだ) の男性が、とにかく不憫に思えて、こう申し出たのだ。


「あの、良かったら、座ります……か?」

「……?」



 男性は言葉を発しなかったが、怪訝な表情で少女を見ると、それは自分に対して言っているのか、と言わんばかりに自身を指差して首を傾げた。


 その表情を見てとって、涼子は内心我に返り、自分の行動に少々困惑するも、途中まで出した手を、引っ込める術も持たなかった。


「あ、えっと……」


 男性は、少女の言葉が自身に向けられた事を確認すると、深く頭を下げ、少女の申し出をこのように固辞した。


「あ……い、いえ、お構いなく。私は次で降りるんで。お気遣いの程ありがとうございます」



「あ、いえ……だいじょぶです」

(次終点だし、私も降りるけど……)



 その時、車両内にアナウンスが流れた。

『こちらは急行横浜行きです。次は終点、横浜となります……』

 ……この私鉄の急行はある駅を越えると、そこからは終点の横浜までどの駅にも止まらない事で、よく知られている。




「……」

 非常に気まずい沈黙。




 結局その後、どちらも終点まで口を開く事はなかった。


 終点に着くと、男性は遥か年下の少女に向け、無言で深々と頭を下げると、その場を離れる。背の低かったあの男性は、人ごみの中にすぐに埋もれて、もう見えなくなってしまった。




『やさしかったですね』

人ごみの中で若い女性の声を、男は聞いた。



「ああ、超やさしいな」

 男が短く肯定。

『ねーレイレイー、かわいかったねー』

「うん、まあ」

 女性が言うと、またもや短く肯定。

『レイレイ今日は素直……? もしかしてアラ! ひょっとしてあの子とクリームパイ、作りたくなっちゃいました? きゃー、だめよレイレイ! ヤラシーわ!』


 いま、この女性の声は会話相手の男性以外には聞こえない。一見すると男が一人で喋っているだけの不気味な独り言にも見えかねないが、耳につけた伊達インカムのお陰で、誰も単なる知人との会話と捉え、気にすることはない。



「アー……、朝からクリームパイトークかー……」

 朝から胃の焼けるようなトークに男が食傷、と言わんばかりの表情と溜息でこれに応えた。もっとも、二人の間柄ではこの手のやり取りをする側が逆になる事もしばしばあり、こんなことは反応も含めてもちょっとした品性に欠けるいつもの談笑に過ぎない。


 やがてその声も雑踏と駅のアナウンスにかき消され、男の痕跡は消えてしまった。

 



(真面目そうな人だったなあ……)


 真面目そうで、誠実そうで、でもすごく疲れてそうで、それでいて印象的な男性だった。それなのに、彼の顔を彼女はもう思い出せなくなっていた。この日の事も、学校につく頃には思い出せなくなるような、そんな予感がふと脳裏をよぎる。


 涼子も、ここが終点なので電車を降りなければならない。彼女も遅れて席を立ち、学校へと向かうのだった。



 ☘


 学校での暮らしに関して、いち女子高生として涼子は多くの意見を持たない。



 皆普通に行くものだし、行きたくない事もあるけど、やっぱり通わなきゃダメだし、というようなもの。社会の作りだしたエスカレーターやその構造、日常の不満を問われたら、涼子にだっていくつかそういうものはあるが、同時に受け入れて日々を生きている。


 教科書を開き、教師の言葉に、まあまあ真面目に耳を傾け、スマホを使えば10秒で終わる黒板の内容の複写を、人力でノートに行う。


 教科書のページをめくり、授業が終わったら、また次の課目のセットに切り替え。教科書の内容も全て電子化してノートパッドに収めれば、それで全て済むようなことも、こうしてローテクで行う。非合理的ながらも、事実として今の世の中を回している方法。



 でも「学校、嫌い?」と誰かが涼子に問いかけたら、彼女は「まあまあフツー(程度の好き)」と答えるだろう。



 クラスには親友で彼女がこの世で一番好きな麗菜がいて、それ以外でもまあまあ楽しい。少なくとも小学校の頃や数年前よりは、ずっとずっと楽しい。


 今日もいつも通りの勉強。お昼になったら麗菜と、そのほか2人ほどのクラスメイトと一緒にお弁当を食べる。ご飯を食べ終わったらスマホ、ツイッターとか見る、時々麗菜にちょっかいを出して談笑。


 休み時間が終わったら、また勉強。勉強が終わったら……涼子は部活には所属していないから、真っすぐ家に向かう。


 個人的に空手道場に通い、プロの空手の師範から稽古を付けて貰っているのに、わざわざ部活に入る必要などないからだ。




「レナちゃん、一緒にかえろー」

 いつも通りの呼びかけ。麗菜も仕事への専念から、部活に所属する余裕までは流石になく、また中学時代からの同級生であるため自宅が近く、ゆえに学校から帰る方角も同じだ。未所属同士、地元同士、二人はしばしば一緒に帰宅する。



「うん。でもゴメン、駅まででいいかな? 私寄らなくちゃいけない所があるの」

「? うん、もちろんいいよ」

 涼子はそれを承諾する。


「それじゃ途中まで、一緒にかえろ」

「うん」

 二人は通学カバンに荷物を詰め終えると教室を後にした。




 学校からの帰り道。二人で歩く都会の道、二人は駅向けて歩く。麗菜が口を大きく開けると、うっすらとだが白い息が吐かれた。



「ねえレナちゃん、今日何かあるの? ひょっとしてデート?」

「違うー!」

 ふいに涼子が顔をにやけさせて聞くと、麗菜は頬をわざとふくらませて不機嫌そうに返事する。


「じゃあお仕事?」

 その可愛らしい反応に少し微笑んだ後、涼子が質問を変える。


「うん、まあ、ちょっとねー」

 新たな質問内容に、麗菜は少し歯切れ悪く答えた。


「? そっか、お仕事頑張ってね」

 いつもより少しだけ歯切れの悪い麗菜に、涼子は小首を傾げたが、それ以上深く尋ねる事はなかった。


 涼子にしてみれば、別に今日の麗菜が特別おかしいという事はない。仕事の都合や、それ以外にも麗菜のカレシとの予定や都合の関係で、彼女との帰り道が途中で別れるなんて事はしばしばある。



「うん、ありがとう」



 仕事の性質上、いくら涼子が親友といえども、麗菜が全てを口にするわけではないし、契約上の事情、あるいは諸事情で話せない。ということもある。


 基本的には麗菜の事なら仕事もプライベートも何でも構わず知りたがるが、無理強いはしないし、その時の事情や複雑な気持ちも理解してくれる。麗菜はそんな涼子の事がとても好きだ。


「……ね、ところで最近”彼”とは、うまくいってる?」


 涼子は話題を変えようと思った。この後の麗菜の予定に対して、苛立ちや悲しみとは違う、何か漠然とした不安のような、大げさではないが、でも小さなストレスの気配を、涼子の嗅覚が感じ取ったからだ。


「うーん、まあまあね」

 麗菜がはにかんで答えた。返事そのものは先の問いと変わらなかったが、こちらの返答の表情は、先より顔も声も明るい。



「いいなあ~。膝枕とか耳かきとかしちゃうんでしょー?」

「しないし。そんなに良いなら涼子ちゃんだってカレシ作りなよー」


 他人の恋愛事情にやたら突っ込んでくる親友に麗菜が言い返した。すると涼子の滑らかな口と麗菜をからかう為にとっていたジャスチャーの動きが止まり、少しきょとんとしてから、今度は涼子自身が困った表情で必死な言い訳を始めた。


「えっ……だめだめ! 私モテないし、なんかあって、その、別れちゃったりするの、怖いし……」

 徐々に涼子の声のトーンと、喋るペースと、目線が下へ下へ落ちてゆく。


 涼子はいつもこうだ。知りたがりで、好奇心も旺盛で、噂話も好きで、特に他人の恋愛事情なんて知りたがりも知りたがり、とにかく首を突っ込みたがるような子である一方、自分自身の事となると急にこうなってしまうのだ。



 ……まあ、もっとも麗菜からしてみればそんな涼子の姿を、可愛らしくは思うののだが。


「大丈夫よ。涼子ちゃん凄くカワイイし、性格良いし、料理も上手だし……結構モテてるよ?」

「嘘、ぜんぜんそんなことないし。私可愛くないし、レナちゃんみたいに凄くないし……」

「涼子ちゃん」

 必死になって否定する涼子に、一回り背の高い麗菜が後ろから抱きついた。



「涼子ちゃんは私の友達で一番凄いよ。本当にカワイイって思うし、頭良いし、運動神経凄い良いし、すごく優しいし。ねえ、もっと自信持たなきゃダメだよ。ほんとは私より凄いんだから」

 麗菜は優しく囁きながらも、本心から語った。

「あ、ありがとう、レナちゃん」

 涼子は、ようやく笑顔を取り戻した。


「それに安心して。悪い男が寄って来たら、私が助けてあげる」

 麗菜が抱き着く手を離すと、両の手でファイティングポーズを取った。それは素人特有の見様見真似ではなく、確かな知識と経験の下地を感じさせる、空手の正しい構えだ。


「ふふふ。じゃあその時は、”また”助けてね」

「いいよ。それじゃ私、寄る所あるから、ここでごめんね」

 歩きながら話している内に、二人は既に駅のすぐ近くまで来ていた。涼子は駅に向かおうとしたが、麗菜は途中で立ち止まる。



「うん、わかった」

 二人の後ろ、駅前近くのコンビニ前に一台の黒い車が止まる。車の助手席側から一人の、黒いスーツ姿の男性が出てくるのが遠目に見えた。一瞬、男がこちらを見た気がした。


「また、今晩か明日ぐらいにはブログ更新するから、ぜったい見てね」

「うん、絶対みる!」

 麗菜は涼子との握手を済ませるとコンビニ側へと向かった。自分の向かおうとする道から離れ、逆側へ遠ざかってゆく麗菜。涼子はスマートフォンで時間を確認して、それから一度だけ遠ざかってゆく麗菜の後ろ姿を見て、あとは振り返らなかった。






 その晩、涼子のお気に入りのブログサイト「La vie en Rose」の更新はなかった。次の日も更新はなかった。翌日の学校、麗菜はクラスにその姿を見せなかった。



 もう会えないなんて、その時はまったく思わなかった。




EPISODE「サンダウン:ACT2」へ続く。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る