お腹がしくしくと痛む。気分もなんとなく憂鬱だ。生理が近づいているからかもしれない。

「和奏ちゃん、喜んでくれた?」

 蒼太の声が耳に聞こえて、ハッと我に返る。顔を向けるとすぐ隣で、私のことを見ている蒼太と目が合った。

「うん。まぁね」

 そう答えて、押していた自転車のハンドルをきゅっと握る。

 空は夕焼け色だった。海も同じ色に染まっている。それはとても美しい光景のはずなのに、私はどうしてだか切ない気持ちでいっぱいになる。


「ねぇ、蒼太」

「うん?」

「最近、和奏と会った?」

 蒼太が不思議そうな顔で私を見ている。

「会ってないよ。だって和奏ちゃん入院してたんだろ?」

「その前とか」

「もうずっと会ってないな。最後に会ったのは……和奏ちゃんが中学に入学した頃だったかなぁ」

「そっか……」

 蒼太の答えを耳にしながら、私は何を聞きたかったのだろうと考える。

「和奏ちゃんがどうかした?」

「うん、ちょっとね。あの子、私と蒼太が付き合ってるの知ってたから」

「ふーん、どこかで見られたんじゃない?」

 きっとそうだ。こんなに狭い町の中、一緒に歩いている姿をどこかで見られていたって不思議じゃない。

 ――でも蒼太くんだけは、やめといたほうがいいと思うけどなぁ? 

 じゃあ、あれはどういう意味? どうして和奏は、あんなことを私に言ったの?

 胸の奥がもやもやして、気分が悪くなる。


「俺さ、ちょっと羨ましいんだよな」

 そんな私の隣で蒼太が言う。

「琴音には仲のいい妹がいてさ。俺ってひとりっ子だし、父親とふたり暮らしだし」

「ああ……」

 そうだったのだ。蒼太にはお母さんがいない。

 小学生の頃、いつも授業参観にお父さんが来ている蒼太の家が不思議で、私は遠慮もなく蒼太に聞いたことがある。

「蒼太んち、お母さんいないの?」

「うん。うちのお母さん、死んじゃったから」

 顔色も変えず、当たり前のように蒼太は言った。

 五歳の時に、突然の事故で亡くなったというお母さんのことを、蒼太はほとんど覚えていないらしい。

「お母さん、また欲しいと思わない?」

 それも小学生の時に言った言葉。蒼太は少しだけ考えて私に答えた。

「よく、わかんない」

 お母さんのいる生活というものを、蒼太は知らなかったのだ。


「蒼太さ、毎日ご飯とかどうしてるの?」

 私のことを羨ましいと言った蒼太に聞く。

「ああ、昔は父さんが早めに会社から帰って作ってくれてたけど、今は自分でなんとかしてる」

「料理するの?」

「たまに。ほとんどコンビニ弁当かスーパーのお惣菜だけどな」

 誰もいない家で、たったひとりでお弁当を食べている蒼太を想像して寂しくなった。

「うちもね、和奏に付き添ってお母さんがいない時は、私がご飯作ってるんだ」

「へぇー」

 素直に感心したような表情で、蒼太が私を見る。それがなんだか照れくさい。

「今度ご飯作ってあげようか?」

「ほんとに作れるのかなぁ、琴音が」

「あ、信じてないでしょ? 私けっこう料理できるんですけど」

 ふたりで顔を見合わせたら、なんだかおかしくなって少し笑った。


 いつの間にか坂道を下りきり、私たちは海沿いの道まで来ていた。

 堤防に沿って続く道は自転車で走ればあっという間だけど、こうやって蒼太と並んで歩くと、知らなかったことをたくさん知ることができる。

 歩く時間によって微妙に変わる海の色。風に乗って流れてくる潮の匂い。

 自転車を押しながら歩く私の歩幅に、蒼太が合わせてくれているってこと。

 ふたりで並んで歩いていると、さっきまでのもやもやした気持ちがすぅーっと消えていく。

 砂浜に打ち寄せた波が、静かに引いていくように。

 そして私は思うのだ。

 私と蒼太が惹かれ合うのは、同じような想いを抱えているからなんだと。それは誰にも気づかれたくない秘密みたいに、いつも胸の奥底にしまってあるもの。


「誕生日」

 夕焼け色の空の下で私はつぶやく。蒼太との別れ道が近づいている。

「なにか欲しいものある?」

 蒼太は黙って前を見ている。私はそんな蒼太の横顔をじっと見つめる。

「……に、いたい」

「え?」

 よく聞き取れなくて聞き返す。

 蒼太は空を見上げて、呼吸を整えるように息を小さく吐いてから、もう一度言った。

「琴音と一緒にいたい」

「え……」

「一日中ずっと……琴音といたい。それだけでいい」

 どうしていいかわからずに、自分の足元を見つめる。そんな私の耳に蒼太の声が響いた。

「ダメ……かな?」

「……ダメなんかじゃ、ないよ」

 うつむいたままそうつぶやく。波の音がかすかに聞こえる。

「私も……蒼太とずっと一緒にいたい」


 どちらともなく立ち止まる。私の家はこの道を左へ曲がらなければならない。蒼太とはいつもここで別れるのだ。

「じゃ、じゃあ」

 なんとなく気まずくなって私は苦笑いをした。よく考えたら今、ものすごく恥ずかしいことを言い合った気がする。

 止めた自転車を動かそうとハンドルに力をこめる。するとそんな私の前に蒼太の顔が近づいてきて……。


「じゃあ、また明日」

「……うん」

 私に背中を向けた蒼太が、いきおいよく走り出す。私はその場に立ち尽くしたまま、オレンジ色に染まる蒼太の背中を見送る。

 やがてその背中が見えなくなると、私はそっと自分の唇に指を当ててみた。

 私いま――蒼太とキスしたんだ。

 一瞬だけ触れ合ったやわらかな感触は、夢ではなく確かな現実。

 幸せなはずなのに、なぜか再び私の頭に和奏の言葉がよみがえる。

 ――お姉ちゃん、きっと傷つくよ?

 ハンドルをもう一度握り返し、自転車を押して歩き出す。

 忘れようと思えば思うほど、その言葉は私の中で大きく膨らんで、またお腹がしくしくと痛み始めた。

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