追悼・高畑勲「かぐや姫の物語」~月へ還っていった人

 先日の某・金曜ロードショーにて故・高畑勲監督の遺作「かぐや姫の物語」を初めて観て大変感銘を受け、その後いまさらのように高畑氏について書かれたものをネット中心に様々に読んでいくうち、自身が大変な思い違いをしていたことに本当に今さらのように気づいたのだった。そして何一つ知らなかった。ただ知った気になっていた。その存在がどれほど得難いものであるのか気づけなかった。おそらく自身の幼少期からずっとそばに在った人。決してそれと知らせず。それはまるで美しい月明かりのようにひっそりと心を照らして――。


 周知の通り、宮崎駿監督とともにスタジオジブリで名を馳せた高畑勲氏はその昔の一大TVアニメシリーズ「世界名作劇場」にて大変な功績を残した方でもあった。世にいう高畑勲・名作劇場三部作「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」の三作にてである。自身はこの三作のみならず’70年代~´90年代初頭にかけての世界名作劇場は、ほとんどの作品をモノクロのその黎明期からリアルタイムでTVで見ていた。が、なぜか宮崎駿の名とその才能、功績にばかり目を奪われ、ほとんど高畑氏の存在については注視してこなかった。



 ところが先月頭、高畑監督が志半ばで亡くなり(それでも御本人は満足されているのだろうか?)その遺作として前述の番組枠で「かぐや姫の物語」がノーカット放送され、今から既に5年前に公開されていた本作を初めてリアルタイムで鑑賞して、過去のアニメ体験における、忘れがたくも豊かな感慨をそれとなく思い起こしたのだった。


 高畑監督のジブリ作品「平成狸合戦ぽんぽこ」も「ホーホケキョとなりの山田くん」も未だ観ていないし、「火垂るの墓」ですら実はまだ一度もじっくり観たことがない。「太陽の王子ホルスの冒険」「じゃりんこチエ」「セロ弾きのゴーシュ」もしかり……。唯一「おもひでぽろぽろ」だけは、なぜか奇跡的に?(笑)公開当時、レンタルした音楽サントラを好んで聴くなどして不思議な感慨にふけったものだったが(それでも実際映画を見たのは後年のTV放送にて)。


 実際「かぐや姫の物語」には、その名作劇場の「~ハイジ」のオマージュがあるのだそう(公式ページのプロダクションノートより)。そう言われてみればそうなのだが、今回初鑑賞した「かぐや姫~」のあまりにリアルな感情描写に、『竹取物語』という日本最古のすまし顔の古典を、ここまで激しくも豊かに感情移入するに足る作品に仕上げた高畑氏の物語そのものや登場人物に心から寄り添う真摯な真心に感服した次第。特に派手な展開があるわけでもなく映画としてのカタルシスもない。が、深く静かに淡々と語りかけられる何か。そこにかつての子供時代に触れた作品群に通じる、作品の物語性の何たるかが秘められていた。


 かなりハードな内容の竹取物語。そして、ただの霞のような姫様じゃなく、ちゃんと「生きてる」。その喜怒哀楽の激しさ豊かさを包み込むような、全編鉛筆書きの水彩画が背景美術やキャラクターごとそのまま動いている、あまりに自然かつ驚きの、まさにジ・アニメーション。米ディズニー・ピクサーのアニメ作家ジョン・ラセターが絶賛したように、アニメーターが最初に描いた生き生きとした一本の線画がそのまま生命力を失わず映画全編に活かされている。従来のセルアニメとは一線を画した、こうした新しい奇跡のアニメーション描写は、決して一夕一朝で出来あがるものではない。まるで鳥獣戯画。これまでのアニメそのものの固定観念を壊してここまでやるかという新鮮な驚き。


 実際、製作には企画などの紆余曲折も含め8年の歳月と50億という巨額の制作費が費やされた。それでも氏は最後までそれを貫いた。その新しくもどこか昔懐かしい、実はアニメそのものの表現方法に最も根ざしてもいる革新的なアニメ表現を、かねてから実現させることを純粋に夢見ていた高畑氏。そして日本アニメーションの黎明期からアニメ作家として冷徹なまでの視点をずっと失わずにいた高畑氏。その真摯な姿勢が奇しくも遺作となってしまった「かぐや姫の物語」の随所にあふれており、本作が氏の集大成と言っても文字取り過言ではないだろう。


 高畑氏が初のプロデューサーを務めたスタジオジブリ第一作とも言える宮崎駿監督作品「風の谷のナウシカ」のナウシカの元となった『堤中納言物語』の『蟲愛づる姫君』をどこか彷彿とさせるような……。野山を駆けめぐり鳥や虫や獣を愛し、自然そのものの落し子として、そのあまりに自然で素朴な手書き風のアニメーション描写によって描かれている本作のかぐや姫。原作である古典『竹取物語』の容易には窺い知れぬそれのように、決して霞のようなお姫さまではなく。自分自身の素直な実感である、喜び怒り悲しみの喜怒哀楽を文字通り感情豊かにあらわす彼女は、本当にそこに「生きていた」――。


 嬉しいときは嬉しく。美味しいと感じるときは文字通り美味しそうに。そして悲しみや怒りも。そうした高畑氏による生き生きとしたキャラクターの素直な感情表現は、高畑氏が過去に主要スタッフである演出家として関わっていた、かの世界名作劇場の各々の登場人物たちを俄かに彷彿とさせるものだった。それはあまりに自然に。それは今一度、現在いまの子供たちに心から見せてあげたいと思うほど、ありありとした生命力にあふれて。


 それだけに高畑氏の描写した「かぐや姫」は一筋縄ではいかなかった。キャッチコピーとして躍る「姫の犯した罪と罰」という、日本人のスタンダードなトラディショナルであるかの古典、まるで書割そのもののような日本昔話であるそのものからは、およそ窺い知れぬショッキングなフレーズ。が、氏の意図したかぐや姫の人物造形を、それはこれでもかと真摯に突き詰めた結果なのかもしれなかった。


 彼女は自分自身の望み求めた“幸せ”が周囲の人々を不幸にすると、そう思ってしまった。それだけに自身の神がかった出自があまりに特殊で“この世”では得難いものだったのかもしれない。けれど、彼女のその望みは本当に罪だろうか。そして彼女が「もうここにはいたくない」と、そう望んでしまった結果、自らの故郷である月の世界へ帰らなければならなかったのは、本当に罰なのだろうか。鳥や虫や獣のように、ただ生きることを望んだ彼女は本当に罪人なのだろうか。彼女が月への帰郷の真実を思い知り、地上での育ての親である翁と媼に、その悲しみを吐露するシーン。そして「私はただ生きるために生まれてきたのに!」と懊悩する、その胸の内の叫びが想像以上に自ずと心に刺さり、我知らず涙が。


 親に期待され周囲に持ち上げられ、何かの役割を押し付けられる偽りの人生。野山を駆け回る子供のままの輝きや生命力を否定され、能面を張り付けたような、その表情がただただ痛々しかった。その絶望や悲哀を描きなぐるままの絵表現で疾走させ――。すごかった。かぐやの名の意味をどう取るかで生きもし死にもする。やはり彼女は人以上に「人」だった。そのかぐやの葛藤や哀しみが現代社会に生きるすべての人のものに感じられ……。かぐや姫をこれほどまでにリアルに描いた高畑氏の想像力。そう想像力を失ってから、私たちの世はただの書割になってしまった。


 様々なひずみがあちこちで感じられ、まさに進退窮まった感のある世の中にあって、やはり人は自然に帰るべき。そうでなくとも、もっと素朴に自然の営みそのものと寄り添い、我欲を忘れ真摯に生きるべき、との普遍的な視点やテーマをベースに『竹取物語』という古典を独自に扱っている様は、さすが高畑監督。竹から生まれ月へ還る運命の姫も一度ひとたび人としての生を受ければ、虚飾や虚栄の渦巻く人の世に絶望もする。そうしたリアルな視点が、ただの書割に過ぎなかった日本の古典にありありと命を与えた。


 親と子や子育てという視点でも、文字通り本作は注目されているよう。そしてそれは元よりとりもなおさず、人間存在への偽らざる信頼や、人は本来こうであるべきではないかとの氏の問いかけではないだろうか。高畑氏はそれをかつての素朴な名作劇場時代からずっと貫いてきた。その人としての真実を、氏の名作劇場三部作などから子供時代に我知らず学んだ自分は幸せだったかもしれない。そして今にして再び高畑氏の信じたそれが、人として本当に大切なことと、物言わぬその死が如実に示唆しているのかもしれない。


 かつてのセルアニメの形式を踏襲したアニメーション表現が蔓延る今の世にあって、ここまで徹底したナチュラルな絵表現を完遂させた。おそらく宮崎駿でさえ、ここまで出来なかった。遺作、か。そのことが意味するもの。何度でも繰り返し見たくなる、そんなアニメーションそのものの動きの豊穣さで見せる命の物語。アニメも何もかも様々に利益優先の世の中に静かに警鐘を鳴らす。やはり色んな意味における、この達観が凄い。


 死の二年前に日本で公開されプロデューサーを買って出た、ジブリが海外共同制作した「レッドタートル ある島の物語」(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督)をも、この「かぐや姫の物語」は自ずと彷彿とさせる。こちらは海亀の女との異種婚姻譚だが、全編台詞の一切ない素朴な映像表現だけで見せる手法といい、命そのものの意味を問う普遍的なテーマ性といい。すべからく「かぐや姫」と似ている部分に、やはり高畑氏の遺作と言うなら、こちらもセットで考えるべきかと個人的にも深く感じ入るほど。


 その「レッドタートル」の舞台となる無人島にも自ずと竹林が出てくるのだが、それは偶然?竹の子と亀の子。奇しくも「レッドタートル」と「かぐや姫」の物語のラストシーンに非常に似通った深い感慨を感じた。その人ならざるひとはどこへ還っていくのか。月の世界と豊穣の海。偽りの人の世を捨て。喜びも悲しみも。きっと俯瞰して見ることでしか辿れぬ、本当の「いのちの記憶」。


 『どこから来たのか どこへ行くのか いのちは?』――「レッドタートル」のキャッチコピーはそのまま「かぐや姫~」にも当てはまる。筆者である自身も愛読する作家・池澤夏樹氏が関わり名付けた「ある島の物語」という副題の通り、島そのものの自然や海が見守る、ある無人島に流れ着いた男の物語。男はどこからともなく現れた海亀の女と契を交わし子をもうけ、その島で一生を全うする。如実にそのすべてを物語る、波の音、風の音。嵐や津波でさえ、自然からの贈り物。すべてがフラット。生も死もその物言わぬ循環でしかない。


 如実にこうした「レッドタートル」や「かぐや姫~」のテーマや視点は、池澤夏樹氏の過去の短編著作「帰ってきた男」をも、個人的に彷彿とさせるのだが――。


 (「ある遺跡を調査した男がこの世のものとは思えぬ、聴こえぬ音楽に魅了され、廃人同然となって人間社会に帰ってくる」という内容。超自然的な何かと人間存在の意味。世界や宇宙そのものと同化することで個を超えた何ものかになることは人としての死を意味するのか?といった独自のテーマに不思議に恐ろしくも深く深く考えさせられた。こちらの池澤氏の著作については、またいつか)


 映画公開当時、その「レッドタートル」を実際に劇場に足を運んで観て、こちらも感銘を受けた。そしてこうした作品に人の目が集まらないのはなぜなのかと、がら空きの劇場ホールに絶句し、興行成績ばかりが全てではないな、と思い知った。そしてやはり高畑監督の目は正しかったのだと。今の時代のCG技術などの正しい使い方。それを高畑氏はアニメーション人生最後の最後で平然とやってのけた。おそらくヒットとは無縁の人。けれどだからこそ、こうした見解が本物の映像技術や想像力の源となっていく。ヒットだけでは全ては語れない。むしろそのしがらみがない方がいい。その意味でも高畑勲は、やはり宮崎駿の一歩先をゆく本物の映像作家だった。それを今心から実感した、「かぐや姫の物語」。


 アニメーション作家としては勿論のこと、もっともっと表現したいことは山ほどあっただろう。けれど高畑氏の残したものは、きっとはかりしれない。人々の心に寄り添い自然を愛し、何よりただ生きることそのものに意味があると知っていた人。派手な色彩は何も要らない。かぐや姫はおそらく高畑監督そのものだったのかもしれない。……その意味でやはり高畑氏は月へ還っていったのだな、と。どこまでも美しく何もない、清くまっさらなその世界へ。日本アニメーションの黎明期の記憶、それは命の記憶。その本物の「生きる」ということの意味をただ淡々と残して――。


 今は虚飾に塗り固められてしまった不特定多数の誰かの心を文字通り喜ばせるエンターテインメントの真髄が実はここにある。あらためて高畑勲さん、御冥福をお祈りいたします。

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