若かりし長き苦闘期

他人ひとがこわい 知らなかった視線恐怖という社会不安障害

http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n121639


 就職……。まず自分には、それそのものの本来的なメリットが思いつかない。勿論、自分でお金を稼げる、という身も蓋もない理由だけならありましたが。そもそも成人して社会人になったら働く……という社会的に当たり前な構図が目の前に横たわっており。しかし、そういった四角四面な社会人としての義務的なことと自分自身の本能的喜びとが尽く乖離していた。


 そして嫌々(社会不安障害的に)恐ろしくて仕方なかった短大の就職窓口へ母親に引きずられていくのでした(苦笑)。で、自分自身の意思もあやふやなまま、ほとんど「ここでいいよね?」的な流れで、とある地味目な中小企業の面接へ。


 今考えると、なんで自分はそうなのか……!?というか、なぜそんなことになってしまうのか。私は就職なんかしたくない、もっと他にやりたいことがある。でも、そう声を大にして叫びたいことが尽くどこかに吸い込まれるように消えていってしまう。まさしく、何もわからない。どうしたらいいのか何一つ術が見当たらない。


 だから意味のない、向いているかどうかも分からない、そんな方向へ半ば強制的に放り込まれるしか――。そんな自分自身には(言葉はあまりよくないですが)文字通りの強制収容所でした。こういう有無を言わせぬ強引さも、最果ての星・冥王星のなせる業の怖ろしさよね(汗笑)。



 埃っぽい国道沿いの、味気ない事務所の建物と、いくつかの四角い倉庫の立ち並ぶとある会社は、反対側の道路を挟んでぶどう畑にも面していた。入社初日の朝の朝礼に出た途端、早くも「ああダメだわ……」と思った(苦笑)。何だか貧血で倒れそう(実際、倒れたことも何度か)。なぜ自分は、こんな所に毎日通っているのだろう、なぜそうしなければならないのだろう。


 内心ではそんな口には出せない疑問をずっと抱えながら、それでも免許を取ったばかりの車で通勤し、頭痛とも吐き気とも憂鬱とも取れるような不快感をぐっと心身に閉じ込めたまま、まるで殺人的な忙しさの中、それでも我慢に我慢を重ねて自分自身を自分で騙し続けてきた若かりし数年間……。


 私が新卒の正社員として勤めたその会社は、県内随一の薬品や農薬、食品原材料などの卸売業を幅広く展開している中小企業で、いわゆる地消地産の県産業を支える会社として各方面から重宝されていた優良企業。そこに勤める社員の方々も素朴な地元気質のあふれるよい方ばかりでしたが、私はその中に円満に溶け込み、会社の雰囲気自体に最後まで馴染むことができませんでした。


 死に物狂いで発注時などにかかってくる電話を取り続け伝票を作成して、あとから飛び込みで入ってくる注文なども自ら配送の物流部へ配達をお願いしに行き、空いた時間は倉庫内の在庫管理に、窓口へ商品を買いに来る顧客や来客の応対などに追われ。女子の一般事務などというと、そのくらいの雑務が当たり前だったでしょうが、とにかく連日気を張り詰めて必死に仕事に追われていたせいか、ほとんど自分自身のこの病気を気にしている暇もなかったと思います。


 それでも微妙な対人関係での軋轢が次第に加速していくのを自分自身、日々実感しては戦々恐々とする毎日。そう、それは悲しくも苦しい誤解。もしその時「私はこういう病気なんです」と堂々宣言いや打ち明けることさえできれば……でも自分自身でも、その当時は全くわからなかったことを、どうして人に理解して貰うことができたでしょう。


 特に私は人と対面して座るのが死ぬほど苦手で、面と向かって誰かに前に座られると、もう逃げ場がない(苦笑)。というか、とにかく相手の視線の行かれどころに困ると同時に自分が相手を見るということにも恐怖を感じており(こういうのを視線恐怖と言うのでしょう)異様な居心地の悪さで、仕事中もずっと下を向いてばかりいたので首から肩が凝ってしまい、終いには胃が痛くなり吐き気まで……。が、それさえ訴えることもできず、ただ独りきり人知れず耐え続けるしかなかった、その数時間は本当に拷問地獄そのものでした。


 でも相手からすれば、なぜ私自身がそんなに苦しんでいるのか解らない。いや苦しんでいることすら全く知らず、普通に自分が嫌がられているような感じがして、物凄く不快だったのではないかと思います。その心身ともに襲う二重の大きな辛苦。特にそんな人から尽く理解されないという事態そのもの、対人面でのその精神的な苦痛は、文字通り辛く悲しく耐えがたいことでした。


 当然、食事も人前では満足にできず。人と面と向かっていると緊張のあまり喉自体がつかえたような状態になって全く食べた気がしなかったし、まるで味が感じられずゴムを噛んでいるような気さえして、仕事の忙しさを理由にわざとお昼の時間をずらして遅らせたり。忘年会新年会送別会などの飲み会などは最も苦手で、酷い時は社員旅行での昼食を皆と取るのが辛く一人だけその場から逃げ出そうとして席に連れ戻された、という苦い記憶も。


 思えば私自身のこの病気の症状や、その苦痛を回避することから端を発する人からの誤解などから来る辛さや苦しさが最も酷かった時期。様々な場面で私という人に相対する度に、皆きっと奇異な思いでいたのでは。


 一時期などは先輩のお局様と新しく入ってきた後輩との間で板挟みというか相互の虐め的な状態にも陥り……。周りの人たちはきっと何一つ悪くないのでしょう。でも一つ一つの誤解が積み重なり、それが次第に雪だるま式に膨れ上がって。もう「何あの子?」みたいな感じだったのだと思います。本当に苦しくて苦しくて苦しくて……ただ言葉もなく私は見えない何かにずっと自分自身を殺され続けていた。


 とにかく人として当たり前の健全な精神が尽く破壊されます。しかも、それと自分自身が知らなければ(まさに無知ほど怖ろしいものはない)まず対処の方法もないも同然。自分自身がこういった病気を人知れず患っていることを自分自身も、そして誰一人知らないということの怖ろしさ。ただ周囲から言葉もなく疎外され、著しく孤立する。


 実は今もそれで悩んでいるのですが、どうも私は(あまりに緊張している状態が長かったせいか)人前でよほど人相が悪くなってしまっているのか、人と面と向かうと、相手を怖がらせたり嫌な気分にさせたり終いには怒らせてしまったりするようで――。


 常日頃そうしたことに悩んでおり、それが現在も辛くて気分が塞ぎ、できれば外出したくないと思うことがしばしば。たとえば買い物のレジでも自分は店員さんを不快にさせており、行く店行く店ブラックリストに乗せられているような気分に。決して相手を睨んだり威圧したりするつもりはないのに、どこへ行っても自分は人から嫌われる……。


 現在は10年ほど前から県立病院の精神科に大体三ヶ月に一回程度通い、不安を和らげる抗うつ剤を処方して貰っているので、具体的な症状自体は以前よりずっと緩和されてきて普通の状態の自分でいられるようにはなってきてはいるのだけれど、後遺症のようなものかどうなのか、それでもまだ上記のような不安がかなりの頻度で心をもたげ、時折無性に悲観的になってしまう瞬間が。


 ある意味で(幼い物心ついた頃からのことでもあり)自分という人間は、この病気と一生付き合っていかなければならないようなところがあり、それはそれで仕方ないことと開き直らなければまともに生きられないのでしょうが、それでもこの病気によって進学、就職、結婚、そもそも人の一生に必ず付いて回り社会生活全般において重要不可欠な人間関係そのものが阻害され、様々な回り道や諦め落胆などの精神的ダメージを深く受けたことは事実。


 社会不安障害という病気の本当の怖さというのは、まずそういう「人としての根幹」の部分にまつわる障害にあるのではないかと。まず人として当たり前の健全さが失われる……。だから様々な意味において「心の病気」というのは、目には見えないけれど「(肉体の)病は気から」の言葉通り、決して疎かにできない、むしろ目に見えないからこそ、厄介な代物的な部分の多い病気といえるのでしょうね。


 本来20代の若々しく希望に満ちあふれていておかしくない数年間を、本当はしたくもない仕事に忙殺され、同時に人としての精神こころも押し潰され、文字通り生ける屍と化していた自分自身。どこにも心の身の置き場がなく、当然仕事自体の効率も悪かったことから(一度だけ在庫管理をミスって得意先の工場を停めてしまったことも、汗)結局二度ほど部署を転々としました。


 入社して一番最初の部署に入った時にはもう一人先輩がいて、その方はとても気さくなよい方で、長い髪を揺らす風を肩で切るような、サバサバとさっぱりした非常に気持ちのいいカッコイイ女性でした。その優しさから周囲の皆からも慕われており、私自身も密かに憧れていたのですが、でもその方はすぐに辞めてしまう予定で要するにその後釜として私自身が雇われた模様。


 仕事自体もほぼその先輩から何から何まで直々に教えていただき、非常にお世話になったのを覚えています。でも、どこまでも鈍臭く要領の悪い私はその方のようにきっちり仕事もこなせないし、当然周囲にも明るく振る舞い自然に馴染むことなどできず……とてもとても、その部署の営業の老若の男性社員諸氏の女房役など務まるはずもなく(地方の中小企業の会社にはありがちなニーズ、笑)。


 そういった劣等感が結局最初から最後まであって、ああ自分はやっぱり(ここに)向いていないと日々実感することばかり。そんな感じで落ち込むことばかりで、やはりあまりよい思い出はなく、とにかく苦しかった、そんな長い長い7年間だったという記憶しかない。なのでお世話になった会社の様々な方々には本当に申し訳ないというしかなく――。


 本当は私自身は勿論のこと、誰も何の罪もないのに、なぜこんな不幸なことに……(と、どうしても思ってしまう)という文字通りの「申し訳ないです」という気持ちばかりで、たまに国道沿いのその会社の前を通りかかったりすると、今でも人知れず頭を下げてしまうのですが。


 あとから考えてみたら、その数年間、きっちり私自身のホロチャートでは、自分牡牛座の対岸の蠍座に物事の究極を司る地獄(冥界)の代名詞のような「破壊と再生」の星、冥王星(しかも本宅オウンサインで強力!)がどっかり居座っており、思わずゾッとした(苦笑)。文字通り頭の上に大きな石もとい忌むべき巨岩を乗せられた状態でいたんだなと、はーっと大きくため息を吐きつつ物凄く納得して深く頷いてしまった。まさに長くはてしない苦闘期。確かにボーナスなど給料だけは非常によかったので、それ相応の対価は支払われたのでしょうけど。


 まあ普通に言ってみれば「若い時の苦労は買ってでもしろ」という感じなのでしょうが、もうそんな次元じゃなかった。まさに人として死んでました。そういう所も冒頭の序文で触れた、10室カルミネート星の土星とアセンダント月がスクエアという厳しい角度を取っている自分自身の持って生まれたホロスコープの様相そのもの。まさに社会人として世に出た途端、そうした苦闘もとい死闘を強いられた。


 だから、この精神疾患が最も酷かった時期だったからなのか、それが酷かったから死ぬような思いをしたのか。たぶん両方でしょうが、本格的に精神科に通う前は、人ごみなども大の苦手で、酷い緊張のあまり顔面が痛くなり、思わずその場にしゃがみ込んで両手で顔を覆ってしまうことなども。


 そもそも最初の選択の段階で、自分自身の本来の魂に反する不本意な道を自ら選んでしまった、だからそれこそ「不本意な」その報いのようなものだったのかも……。でも私自身には、どうすることもできなかった。ただ与えられた目の前に提示された道程ルートを律儀に進むしかなかった。それでも、その正社員として就職した、ただ我慢に我慢を重ねていただけの一見不毛に思えた若い時期の長かった7年間も、きっと私自身に何かを残してくれていたのかもしれません(いや、残してくれたのは苦痛の記憶だけだけど、笑)。


 ただもう、あんな忙しい職場には二度と勤めたくない……と言いつつ、さらに10年後くらいには再び似たような電話対応などの忙しさに襲われる仕事(郵便事業会社のコールセンターのパート)に就いていたりするのですが。


 まさに歴史は繰り返す……(汗笑)。

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