第五場 再びの夏

 ジーーー……。


 校門の脇の花壇に腰かけていると、どこか近くで蝉の声がした。見渡してみたけれど、その姿は見当たらない。


 ジジッ。


 短く鳴いて羽音が聞こえた。姿は見えないがどこかへ飛び去ったらしい。後には、肌を射るような強い日差しが降り注いでいるだけ。


 夏休みに入ってすぐに大会の地区割りが決まった。

 地区割りといっても、地域で区切るわけではなく、会場のどこがいいか第三希望まで提出し、その希望票を元に振り分けられる。わざわざ遠くの会場を選ぶ理由もないから、大抵はいつも同じような顔ぶれになるらしい。けれども私たちは今回が初出場だから初めて聞く学校名も多い。

 城東学院とは会場が別れた。お互いに県大会に進まない限り、相手の劇を観ることはできない。


 職員室に部室の鍵を返しに行った美香が早く戻ってこないかと校舎に目をやる。屋上から垂れ幕がかかっているのが目に入る。



 ――県陸上選手権大会 男子走高跳 二年 北山翼君 三位入賞



 白っぽい壁に夏の日差しが反射して目の奥が痛くなる。烏が飛んできて、垂れ幕のかかっている屋上の縁にとまった。烏が身じろぎをすると、黒々とした羽が虹色に光る。


 ふと日陰ができ、横を見ると北山が並んで立っていた。また身長が伸びたんではなかろうか。なんだか圧迫感がある。


「どうだ!」

「……なにがよ?」

「あれだよ、あれ」垂れ幕を顎で示す。

「うん。すごいね」

「俺って、やればできる子なんだよね~」


 とても「子」とは呼べないサイズの男がのたまう。


「……あれ? 褒めてくれないの?」

「すごいね、って言ったじゃん」

「そうじゃなくてさ。去年の夏、ボロクソに言われたじゃん、俺」


 そういや言ったな。こいつがサボってばっかりいるから。そのくせ一年生なのに補欠になれて自慢していたっけ。それがむかついたんだよなぁ。けど、あれは明らかに八つ当たりだったよね……。だって羨ましかったんだもん。


「あれは……ごめんって。根に持たないでよ」

「だから、そうじゃなくて。感謝しているんだよ、一応」

「なにそれ」

「本気でやるとさ、楽しいんだよな。そりゃ、適当にやっていた時よりずっと苦しいことも多いんだけど、それすら楽しいって言うか……あ、いや、苦しいのが好きとか、変な趣味じゃねーぞ」

「わかってるよ、ばか」

「よし! わかった」


 北山は自分の腿をひとつ叩いた。ポンッといい音がした。


「これからなんか奢ってやるよ」

「はあ?」

「お礼だよ、お礼」

「そんなお礼なんて……」

「なにがいい? ラーメン……じゃねぇよな。そうか、ケーキか! 女子はケーキだよな」

「ばっかだね~」思わず笑みがこぼれる。


 通りすがりの女子集団から「やー」と笑いを含んだ嬌声が上がった。こちらを見てつつき合っている。


「あー、ばいばい~」


 知り合いなのか、北山が手を振ると、彼女たちも胸の前で小さく手を振ってから「きゃあ」とまた嬌声を上げて去っていく。


「……なに? 今の」

「さあ? 俺のファン?」

「けっ!」

「けっ、ってなんだよ! けっ、って!」


 大きな図体でジタバタする北山を笑いながら、「そうかぁ、こいつモテるのかぁ」とぼんやり思う。


「お祝いしてあげるよ」


 思わず口をついて出た言葉に自分でも驚く。照れ隠しに一気にしゃべる。


「ほら、褒めてほしいんでしょ? 三位入賞のお祝いしてあげる」

「うそ。マジで?」


 飛びつかんばかりに喜ぶ北山を見た新しい女子グループがまたこっそりと嬌声をあげている。あー、なんか敵つくりそうだな。

 そこへ美香が昇降口を出てくるのが見えた。これはちょうどいい。


「あ、美香も一緒で」

「おお。両手に花だな」


 相変わらずのオヤジ臭さだな。


「あ、入江ーっ!」


 北山が美香が出てきたのとは別の昇降口に向かって大きく手を振る。数冊の本を鞄にしまいながら歩いてくる入江が顔を上げた。

 みんなが揃ったところで北山が「ケーキ食いにいくぞ」と宣言する。


「ケーキだぁ?」


 入江が顔をしかめる。スイーツとか苦手なのかな、と思いきや。


「入江ちゃーん、女子の前だからって、カッコつけるなよ~。お前の好きなプリンでも食ってりゃいいじゃん」

「ばっ……!」

「え~? 入江くん、プリンが好きなのぉ? 知らなかったぁ。やだぁ、かわいー」

「あ、ちが……いや、違くはないんだけど」


 あたふたしちゃって、本当にかわいいかも、入江。思わず笑ってしまう。


「木内もなに笑ってんだ、こら」


 って、それ八つ当たりですよ、プリン好きの入江くん。


「はいはい、暑いからもう行きますよ~」


 先に校門を出た北山が振り向いて号令をかける。と、「あーーー!」と両手で頭を抱えて叫んだ。


「くっそー! 烏の野郎!」


 北山の視線の先には烏のフンがべっちょり付いた垂れ幕があった。

 烏は素知らぬ顔で、カァと一声鳴いて飛んで行った。



      *



 みんなでケーキを食べて別れた後でも、夏の夜はまだ訪れない。私は腹ごなしがてら、明るさと熱の残る懐かしい道を歩いていく。

 国道に出て、大きな十字路にかかる歩道橋の階段を上る。向こう側に緑色の高いネットが張られているのが見える。萩台北中のグラウンドに張られたネットだ。


 歩道橋の手すりに寄りかかり、北中を眺める。空はまだ青さが残っているものの、地表は薄闇が訪れようとしている。国道から離れた敷地の一番奥に建つ体育館の明かりは落ちている。夏で日が長いとはいえ、中学生はこんな時間まで残っていられない。明かりがついているのは職員室だけだ。


 中学の地区大会は夏休みに入ってすぐだ。今年も県大会に進めただろうか。


 国道の信号が赤になったのだろう。足元の車の流れが途切れた。束の間の静けさが訪れる。


「あ」


 車が通っていたら聞こえなかっただろう小さな声がこぼれた。歩道橋の階段を上ってきた女子高生と目が合う。


「瑞希」


「梢」


 瑞希は私の隣に来ると、並んで手すりに寄りかかった。


「先客がいるとはね~」瑞希がコロコロ笑う。

「北中、大会どうだったかなぁと思って」

「あー。なんかダメだったらしいよ」

「そうなんだ……」

「やっぱ、私たちがいないからね」


 瑞希は半ば本気で言っているようで、思わず苦笑する。いなくなってダメだったとしたら、それは瑞希の存在だよ。私じゃない。


 再び足元の国道を多くの車が走っていく。


「――下郷高校はどう? 稽古、進んでる?」


 心持ち声のボリュームを上げて瑞希が聞いてくる。


「今日やっと半立ち稽古に入ったよ」

「そっか。荒立ちは?」

「うーん。同時進行って感じかな。初心者もいるから時間はかかるよ」


 「半立ち稽古」は立ち稽古のひとつ。稽古の大きな流れは、脚本を読む「読み合わせ」、実際に動作や表情をつけて行う「立ち稽古」、いちいちダメ出しをしない「通し稽古」の順。立ち稽古の内訳もあって、本格的な立ち稽古に入る前にも段階がある。

 まずは「荒立ち」で立ち位置やハケとかの動きを決めていく。出ハケは、登場と退場のこと。次に「半立ち稽古」で脚本を持ったまま演技する。この段階で脚本にいろいろ書きこんでいくことが多い。脚本がクルクルに丸まって、ボロボロになっていくのも半立ち稽古の間。

 舞台用語で話が通じると、ああ演劇をやっている仲間だな、と実感する。


「城東学院は? 順調?」

「まあね。今回は萌先輩が演出に回ったから、『ポスト萌』争いが勃発しそう」


 瑞希はそう言って笑った。


「『ポスト萌』は瑞希でしょう?」


 私も冗談っぽく笑いながら、でも実は本気でそう言ってみる。そうそう、とふざけて乗ってくるかと思ったら、以外にも「まさか」と真顔で返された。


「――私、存在感がないから」と、瑞希が意外なことを言う。

「なに言っているの? そんなわけないじゃん」

「それ、本気で言ってるぅ?」


 瑞希は笑顔で私の顔を覗き込んでくる。


「当たり前でしょ」


 私が驚いて食い気味に答えると、瑞希は「そっかぁ」と遠い目をした。


「……今だから言っちゃうけど、私ね、梢に嫉妬してた」


 一瞬息が止まる。ボンッ! と力いっぱい鳩尾を殴られたような衝撃があった。あ、いや、実際にはそんな経験ないから想像だけど。


「中学の時ね、なんかもう梢が憎らしくって嫌いになりそうだった」


 衝撃発言ですよ? 瑞希さん。

 私がポカンとしていたのだろう、瑞希は慌てて「違う違う」と両手で辺りの空気を払うようなしぐさをした。


「演技がうまいって、梢のようなことをいうんだろうな、ってずっと思っていた。個性的な役が多くて、なんかこう、演技に熱があって。私には真似できない。なんていうか、ナチュラルになっちゃうんだよね。力が抜けているっていうか。私なりに精一杯やっているんだけど、録画したのとか見るとドラマかなにかみたいで。ちっとも舞台らしくないの。その点、梢は迫力があって、舞台に立っています! ってオーラがバンバン出ているんだもん」


 驚いて口もきけなかった。だって、それは私が思っていたことの裏返しじゃん。瑞希の抑えた演技には近づけなくて、私の演技は大袈裟で悪目立ちしていたはず。だから瑞希のことが羨ましくて憎らしくて、大好きなのに大嫌いだった。瑞希と演劇をやるのは楽しいのと同じだけ苦しかった。


「だからね」瑞希は私の相槌なんて期待していないみたいに話を続ける。


「私、梢の演技、一度も褒めたことないの。気付いていた?」


 私は高速で首を横に振る。


「だって悔しいんだもん。私が劣っているのを認めるのが」


 私こそ、瑞希の演技を褒めたことがあっただろうか。ううん、きっとない。誰かが褒めたとしても「え~? そうかなぁ?」とか言ってはいなかっただろうか。もしかしたら「あとはどこどこが良くなればね~」なんて粗探しをして貶めるようなことさえ言っていなかっただろうか。

 私も洗いざらい吐き出してしまいたい。けれども思いばかりが膨らんで、口から出たのはしょうもない台詞だけだった。


「……私も同じだったよ」


 そんな台詞でも、瑞希はホッとした顔で笑顔を見せてくれた。


「えー本当? よかったぁ。私って性格悪いなあって落ち込んでいたんだよね。梢も同じなら、ふたりとも性格悪いってことでいいよね」

「なにそれ。ひどーい」


 私も笑って答える。もうこの話はおしまい。だってこんなに瑞希のことを近く感じたことはないから。きっと瑞希だって同じはず。

 北中の職員室の明かりが消えた。


「うわっ! もうこんな時間!」


 瑞希が腕時計を見て大袈裟に驚く。きっとこれも照れ隠し。だから私も一緒になって焦ってみせる。私たちは自分のことも相手のことも中学時代よりはわかるようになった。


「本当だ! 早く帰らなくちゃ!」


 私たちはそれぞれ歩道橋の反対側に足を向ける。

 でもまだ去りがたくって、声をかけてみる。


「地区大会、会場違うけど頑張ろうね」


 瑞希が大きく頷く。


「うん。県大会で会おう!」


 あの日の約束を今なら素直な思いで果たせる気がする。


「絶対に、県大会で!」


 私たちはお互いの姿が階段に消えるまで手を振り続けた。






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