第三場 場転なし

 演劇部の基礎練習は結構ハードだ。

 なんでもそうだろうけど、基礎ができていないとその上にどんな立派なものも乗っからないから。特に、キャストは体力も大事だ。上演時間の後半に息切れして台詞が聞こえない、なんて失態はもってのほか。


 だから体力づくりのために、私たちは今日も外周道路を三周ランニングしてきた。当然そのまえにはストレッチと柔軟体操を済ませている。

 部室に戻ると筋トレ。これが部外者には一番意外に思われているみたいだけど、全身の筋肉がついていない人の動きほど見苦しいものはない。普段の生活なら気にならなくても、舞台の上に立ったらスムーズな動きを無理なくしなくてはならない。特別美しくある必要はないけれど、動きがぎこちないと、見ている方はそのことばかり気になってしまう。


 基礎体力と最低限の筋力が付けばいいのだから、回数が多い必要はない。毎日続けることが大切だ。腕立て伏せ、腹筋、背筋、スクワットをそれぞれ三0回ずつ。

 本気で勝ちに行くことを決めてからは、部活だけでなく、登校前とお風呂上りも同じメニューをこなすようになった。


 学校以外でできないのは発声練習だ。

 下郷高校は呆れるほどの自然に囲まれているけれど、校外ではそんな景色にはめったにお目にかからない。一応政令指定都市なだけあって、どこに行っても人だらけなんだから、大声を出しても構わない場所なんてどこにもない。だから、どんなに時間がなくても発声練習は必ずやることにしている。


 発声練習のメニューも多い。バリエーションも豊かだ。声の表情の豊かさは必ず劇の質を上げる。

 それだけ重要な発声練習なのに、なぜか名前のついていないものも多い。私たちの場合、ただ単に「発声練習」と言ったときはこれをやる。


 まず「あ」を八コマ伸ばす。

「あーーーーーーーー」

 次に「あ」をスタッカートで八回。

「あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ」

 同じことをそれぞれ十六コマと十六回でもやる。それで一連の発声練習。


 でもって、こんなもので終わるはずはない。名前のついている発声練習がまだまだある。


 長音ちょうおん。出しやすい声でいいから、できるだけ長く伸ばす。もちろん大きな声で。ちゃんとした声がでるのはせいぜい二十秒くらい。でも空気が漏れる音だけになっても腹筋に力を入れて絞り出すと震えながらもかすかな音がまだ出る。それを毎日繰り返していると、一分近くは出るようになる。ま、最後の方は声とは言えないほどの小さく汚い音なんだけど。


 短音たんおん。スタッカートで清音、濁音、半濁音をはっきり聞こえるように発声する。

「あえいうえおあお、かけきくけこかこ、させしすせそさそ……」

 一文字一文字、口の形も意識してはっきり発音する。これがけっこうほっぺたが痛くなるんだ。悠基はいまだに顔が筋肉痛になると言っている。


 あとは、高音と低音。それぞれできるだけ高い声とできるだけ低い声でできるだけ長く伸ばすというもの。もちろん、裏声厳禁。喉壊すからね。低音は一見楽そうだけど、女子には結構苦しくて、時々オエッとえずいてしまうことがあるので要注意。


 このあと、私たちが「五十音」と呼んでいる滑舌練習になる。

 だいたいこのくらいの時間になると、古賀先生が来てくれる。先生が気にするな、と手をひらひらさせるので、挨拶もしないでそのまま続ける。まずはア行。

「あいうえお いうえおあ うえおあい えおあいう おあいうえ」

 これを五十音の清音、濁音、半濁音まで。だから五十音という名前のくせに全然五十で済んでいない。えっと、何文字になる? ……えーい、わからんっ! とにかくたくさん。

 古賀先生が窓に向かって横一列に並ぶ私たちの後ろをゆっくり見て回る。悠基の姿勢を直したり、美香の頭を動かして顎を引かせたり、私の両肩を軽く揺すって力を抜いたりしてくれる。古賀先生がそうやって直してくれた後は、喉を通る空気の引っ掛かりがなくなって、声がスーッと前に流れ出る。


 滑舌練習はこのほかに「あめんぼの歌」と「外郎売りの台詞」をやって、やっとおしまい。時間があれば早口言葉もやるけど。


 はっきりとした滑舌で大きな声を出すというのは、これで意外と全身運動だ。今頃の季節だと、発声練習だけでも汗をかく。

 古賀先生がいつもポケットマネーで差し入れてくれるスポーツドリンクで喉を潤しながら十分くらい休憩をする。そのころには葵も合流できることが多い。

 そして脚本作りのためのエチュードが始まる。



「場面転換は少ない方がいいんですよね?」


 葵が古賀先生に尋ねる。


「そうだな。六十分の劇なら暗転は二、三回――多くても五回が限度だろうな。それに一回の暗転にかける時間は短ければ短いほどいい。舞台の上では必死になっている時間でも、客席では休憩時間になっちゃうからな。それだけ明転してから劇の世界から離れてしまうしな」


 古賀先生の言葉に葵と悠基は感心したように頷いている。だけど私や美香にとっては常識だ。

 舞台の場面転換はドラマや映画のシーンが切り替わるのとはわけが違う。シーンとシーンの間も時間は流れている。一般的に暗転は少なければ少ないほどいいとされている。それだけ劇の世界に集中できるからだ。

 それでも場面転換や時間の経過を表すためには暗転が必要になる。その場合は古賀先生が言ったように短ければ短いほどいい。たまに長い暗転が多くて、本編の時間の差がほとんどないようなひどい劇もあるけれど、一回の暗転は二十秒以内に収めるのが妥当だろう。十秒なら理想的。そのために暗転の練習もストップウォッチで時間を計りながら何度も練習する。


「この前の春季発表会みたいに場転なしにする?」


 葵が今度は私と美香に尋ねる。

 美香が「うーん」と例のアヒル口をしながら言う。


「春季発表会は評価されないから、あれでよかったのかもしれないけどぉ、大会で勝つとなるとどうだろうね。一幕物って観ている方は飽きちゃうんじゃなぁい?」


 同じ場面にキャストは三人だけ。よほど魅せる演技ができるメンバーじゃないとかなり厳しい。なにより悠基は初舞台だ。頭数には入っているけれど、演技面では戦力外だろう。


「梢はどう思う?」


 葵に指名されて必死に考える。劇としては場面転換がゼロである必要はない。だけど、暗転だって人手がいる。三人で二十秒以内に動かせるセットなんてたかが知れている。いくら暗転とはいえ、音を立てるのは興ざめだから、極力音を立てずに物を動かす練習をするくらいだ。だから大きな物は二人がかりで運ばなくてはならない。そうなると、三人ではますますできることが限られてくる。


「場転なしがいいと思う。たいしたことない場転でマイナス評価をもらうより、限られた空間でプラス評価を積み重ねた方がいいと思う」

「たしかに、暗転での場転の練習する余裕もないか」美香も意見を変えてくる。


「あのー」


 悠基が小さく手を挙げる。みんなの視線が集まると、うつむきがちに話し始める。


「同じところに六十分もいるって、どういう状況ですか?」


「え?」全員の頭上に「?」マークが浮かぶ。


「上演時間って六十分ですよね? 劇の中ではもっと時間が経っていた、みたいな話はあり得ると思うんですけど、実際の上演時間より短いことってあり得ませんよね?」


 あ。なんかわかってきた。


「なるほど。場転じゃなくても時間経過を表す暗転があれば、ストーリー上は何時間も何日も経っていることにできるけど、逆はないもんね」


 私がそう言うと、美香も「ああ!」と両手を合わせる。

「そっか。場面がいくつかあれば、『その時、一方では……』みたいに、十分間の出来事を六種類とか観せられるけど、一場面だと六十分は六十分なんだ……」


 当たり前のことなのに、案外気付かないものだ。


「ですよね? ですよね?」


 悠基はわかってもらえて安心したのか笑顔を見せる。


「その上で、六十分間一箇所に留まる状況かぁ……」


 美香が頬杖をついて斜め上を眺める。葵も腕を組んで同じく斜め上に視線を投げる。悠基は自分の投げかけた問いが思いのほか真剣に取り上げられたためだろう、目をパチパチ瞬きを繰り返しながらみんなを順に眺める。


 六十分間同じところに居続ける状況――。


「授業」とりあえず呟いてみる。

「病院の待合室」美香が続く。

「電車……はそんなに長く乗らないか」


 人はなかなか一箇所に留まってはいないらしい。しかも一箇所にずっといるということはそれだけ変化がないということでもある。つまりは、ストーリーが作りにくい。

 ポツリポツリと誰かが思いつく度に、一箇所に留まり続ける状況を挙げていく。


 ――ああ、楽しいな。


 まだなにも形になっていないし、それどころか最初の問題に行き詰っている真っ最中なのに、ふわふわの犬か猫を抱っこしているかのような温かい気持ちになる。

 みんなで同じ方向を向いて、一緒に進もうとしているこの空気。


 ――これだ。これが大好きだったんだ。


 舞台の上でライトを浴びて台詞を言っているのも楽しいし、本番直前のやる気がみなぎってくる感じも充実感がある。でも、私が演劇を好きな一番の理由はそこじゃなかったんだ。

 たった今気が付いた。私はこの一体感が好きなんだ。もしかしたら、これは演劇じゃなくても持てる気持ちなのかもしれない。けれど、私が出会ったのは演劇だったし、今も演劇をやっている。それはきっと偶然なんかじゃない。架空の世界を仲間たちと作り出すその過程はほかのことじゃ補えない。


 演劇に出会えて、演劇を続けられて、演劇をやる仲間がいる。


 私は今、幸せだ。




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