第43話 「違えねえや」 と、誰かが言った。
魔女が去った事に、歌誉は安堵の息をついた。痺れるような緊張感から解放される。
すっと肩の力が抜けて腰をつきそうになるのを、手を繋いだままのアビス・タンクが力強く引き上げた。
「へたるには早いよ。これからが本番なんだからさ」
厳しい声に、歌誉は浅く頷く。
「ん。ごめん」
深呼吸して、動悸を落ち着ける。荒涼とした戦場に吹く風に、冷たい汗が引いていく。風は不自然なほどに熱い。炎脈によって熱せられた空気が、ここまで運ばれているのだ。
歌誉は魔女の去っていった方角を端然と見る。
目と鼻の先に、戦場があった。魔女の奇襲に応じる中で、いつの間にか随分と移動してきていたらしい。肉眼でも充分に、男女族と龍魔族の衝突が見て取れる。
炎脈に浸食された戦場まで、距離百メートルといったところか。気紛れに視線を転ずる龍魔がいれば、一瞬で詰められる距離感だ。
戦場に展開する惨禍に、歌誉は身を強張らせた。
「……これは、酷いな」
装甲車ハッチから戦場を見渡す少年もまた、苦渋の表情で呻く。
戦局は大きく傾いていた。炎脈に翻弄される男女族が、龍魔の猛攻に晒されている。地にもつれる人を、上空からの攻撃が襲う。爪に裂かれ、牙に貫かれ、炎弾に焼かれ、魔法に射抜かれている。
その構図は、殊更に上下関係を誇示するかのようだった。
自らの戦果が僅少である事を、否が応にも痛感させられる。龍魔は数百にも達するのだ。そのうちの数人ばかりに動揺を与えたところで、何の足しになるというのか。
慄然する歌誉の両脇を抜けて、護衛についていた二人が歩み出た。
「不味いね。あたしらも早く行かなきゃ」
「だね。さあ勝ちに行こうか」
心強い言葉さえ、地獄絵図の前には酷く空虚に響く。
意表を突くだけでいい、と虹子は言った。
確かに、魔女の動きを鈍らせる事は出来たかもしれない。だがそれは局所的な戦闘における優位であって、大局を左右できる程の影響力は持ち得ない。戦場全体に動揺を広がるのを待つ間に、この戦争は決着してしまうだろう。
何が出来るのか――と思考を巡らせている自分に、歌誉は驚いた。
胸中に広がる感情は、悲しさではなく悔しさだった。
悔しく思う以上、自分はまだ諦観していない。足掻く方法を、抗う術を、まだ探している。この諦めの悪さは誰に影響されたのか、と面映ゆく思う。
考えるまでもない。
一人の友人と、一人の想い人だ。
と、視界に一際大きい敵影を捉えた。身のこなしからして、他とは一線を画している。空を自在に滑りながら攻撃を放つのは、ドラコベネ・ゼゼブ・ベネ・レゼだ。
という事は、それに対するのは――
意中の人を遠くに捉えた瞬間、歌誉の思考に熱が滾った。目を見開き、全身の毛が逆立つ。引いていた汗が噴き出す。
「桐吾……ッ!」
思わず、彼の名を叫んでいた。護衛の二人が驚いて振り向く中、歌誉は愕然とする。集中する意識が視力に魔法を施し、戦況を克明に写しだした。
散々Cラボで見たアーセナルタイプは、無残な姿と成り果てていた。
左腕は失われ、背部の装備は捨て置かれている。両脚部は装甲が剥がされ、内部構造が露出している。満足な機動が出来ず、地を這うようにスラスタを噴かせて、何とか応戦している有様だ。
咄嗟に、歌誉は両手を掲げた。攻撃魔法を詠唱しようとして、しかし、躊躇する。こんな遠くから投じる一石が何の役に立つというのか。
大海に波紋を生んだところで、一瞬で波に洗われてしまうだろう。
即座に盤上をひっくり返すだけの力が必要だ。そんな、奇跡のような方法が。
「考えろ、考えろ考えろ……」
「歌誉さん……?」
懊悩する歌誉を気遣う様に二人が覗き込んでくるが、それさえ視界には入らない。
歌誉は思考を加速させる。
奇跡を起こすのだ。自分にしか出来ないやり方で。
科学が奇跡を理論化する技術ならば、魔法は奇跡に追随する技術だ。落とし込むのに対して、迫る技術だ。なればこそ、人には到達出来ない領域に、届く事も可能なはずだ。
無意識に、歌誉は魔族としての誇りを魔力に灯す。
奇跡そのものでなくてもいい。擬似的に構成する、限りなく奇跡に迫る一石を。大海さえも溢れさせるだけの、巨大にして唯一の一石を――!
想い人に、届けるべきものを。
言葉を。
想いを。
声を。
「――――――」
声に想いを乗せる。想いを乗せた声に音が付随していく。高く。低く。一つの音は次の音へと連なるために。また次へと。連綿と。連なりを編んでいく。
「La―――――」
そうして必然性が生まれていく。一つの想いを紡ぐために、無数の音は自由に、それでいて規則的に旋律を構成していく。
それは音でありながら音の域を超え、言葉でありながら万言の先へ至る。
伝えるべき想いに普遍を約束するそれを――歌と呼んだ。
力を宿した緑瞳で、歌姫は戦場に心を捧げる。
◆
異変を感じた生徒はまず、とうとう身体が限界を迎えたのだと思った。痛覚が麻痺して、身体が軽くなったのだ。
痛みは危機を知らせるアラートだ。それさえも機能しなくなったという事は、少しでも楽に死を迎えられるよう、脳内麻薬が過剰分泌されているという事だ。
悲嘆に暮れる生徒は間もなく、それが間違いである事に気づく。思考は白く塗り潰されるどころか、酷くクリアになっていく。痛みは薄れていくが、感覚は研ぎ澄まされていく。全身に漲るのは倦怠感などではなく、活力に他ならない。
掠れていた視界は鮮明になる。武器を持つ握力が増強される。地を踏みしめる両脚が奮起する。痛みはなくなっていく。傷が癒えていく。
体力が元通りになるばかりか、増進していく。透明なパワースーツにアシストされているかのように、身体が嘘のように軽く、俊敏に動くようになっていた。
「いったい何だ、この感覚……?」
狼狽しているのは自分ばかりではなかった。周囲で戦闘を繰り広げていた他の生徒達も一様に、狐につままれたような表情をしていた。
急襲していた龍魔もまた、怪訝な表情で攻撃の手を緩めている。瀕死にまで追いやっていた敵軍が次々と復活しているのだから、彼らの困惑も当然だ。
戦場が不思議に包まれると、自然と戦闘音がやむ。
その静寂を縫って、風に運ばれて届くものがあった。
歌だ。
母なる大地の懐に 我ら人の子の喜びはある
大地を愛せよ 大地に生きる
人の子ら 人の子その立つ土に感謝せよ
平和な大地を 静かな大地を
大地を誉めよ 頌えよ 土を
恩寵の豊かな 豊かな 大地 大地 大地
頌えよ 頌えよ 土を
母なる大地を 母なる大地を
頌えよ 誉めよ 頌えよ 土を
母なる大地を 頌えよ大地を
その清廉な歌声には聴き覚えがあった。否、より正確を期すならば、以前に聴いた時よりも、遥かに洗練されていた。
彼女の歌を初めて聞いたのは、魔女裁判で記憶映写された際だった。それは龍に怯えながら披露された辛苦の歌で、素晴らしくも悲哀を禁じ得ないものだった。
いま耳を通じて心に響くのは、全く性質を異にするものだった。
旋律をなぞる歌声は清澄さには磨きがかかり、一音ずつを大切にしている事が分かる。全ての想いを余すことなく伝えたいという、我儘ながら、いじらしい気持ちに溢れている。
彼女の歌はふわりと風に乗り、穏やかに、暖かく聴衆の耳へと想いを届ける。くすぐったくも心地よい、少女の清純な思慕を。
七夜月・歌誉。種族の壁を越えた戦友の歌は、魔法となって戦場を満たす。
共に戦う友を優しく包み込み、傷を癒し、力を増強していく。
生徒達は活力を取り戻していく。
「なあ、おい。聴いてるかよこの歌」
一度は屈した膝を立てる。
「うん、ヤバいねこれ。メッチャ月並みだけど、何かさ――泣けてくる」
地べたを向いていた視線を上空へと転ずる。
「甘酸っぺえなあ。こしょばゆくて寝てられねーっつの」
人族全体に、活気が横溢していく。
「第二回・大告白大会を希望! 強く!」
対して、龍魔全体に動揺が波及していく。
「そっかあ。まだ頑張れるかあ――うん、一緒なら怖くないかな」
更に、変化はそれだけに留まらない。
「……水?」
仰ぐ視界に雲が満ち、一つ、二つと降り落ちる雫が戦士達の頬を濡らし始めた。
「これもしかして学校で習ったやつ? 雨ってやつ?」
やがて、数えきれない雫が戦場に降り注ぐ。
「これも、七夜月の力なのか?」
豪雨となって戦士達の熱を冷まし、足元を這う炎の脈動さえも鈍らせる。
大地を讃え、癒していく。
「そんでこの後、スカッと晴れて虹ってのが出るんっしょ? うっは完璧」
その完璧に、空を覆う敵影はいかにも似つかわしくない。
「俺自伝書くわ。タイトルは雨中の英雄」
剣を掲げる。
「前時代的センスだなー。ってか活躍んとこ盛る気満々っしょ?」
銃を構える。
「あん? これからの俺の活躍から目ぇ離すんじゃねえぞ馬鹿野郎」
指揮を執る。
「さあ正念場だお前ら。さっさと勝って統合して良い恋愛しようぜ、七夜月みたいにさ」
互いを鼓舞する。
「んふふ、勝ったらアンタを好きだって女子の事教えたげよーか」
互いに頷き合う。
「君だったらいいなーとか、思ってるんだけどな」
互いに語り合うのは、戦場に似つかわしくない戯言の数々。
「大地讃頌かあ。歌誉ちん選曲渋いなー」
龍の爪牙を恐れる声はなく。
「でもさ、これ以上の曲なくね? 何がって言われたら困るんだけどよ」
魔女の錫杖を恐れる声もなく。
「無事に帰ったらプリメラ観て爆睡するぞー」
悲壮な覚悟も、悲観の嘆きもない。
「それ死亡フラグに聞こえるんだけど」
快活に、凛然と、再び戦場に立つ。
「ばーか、こりゃ勝ちイベント確定だっての」
だって――と、生徒の一人が空に言葉を投げる。
「負けられなくね? ――いい歌をありがとうって、歌誉に伝えるまでは」
戦場には血が流れている。既に幾百もの死が累々と積み上げられている。
それでも戦士達は不敵な笑みを浮かべる。
勝利を確信した瞳に、討つべき敵を映し出しながら。
「違えねえや」
と、誰かが言った。
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