第11話 戦うくらいなら

明朝六時、桐吾は生産工場区画の周囲を散策していた。


眼にはっきりと浮かぶ隈が、徹夜作業を容易に想像させる。

少しでも眼を覚まそうと朝日を浴び、まぶしい光にようやく目が慣れてきた頃、桐吾の視界の端に、なずなの姿が映り込んだ。


ティーシャツにホットパンツという出で立ちで、ポニーテールに結わえた髪を振り乱しながら走っている。彼女が日課でこなしているというランニングだろう。

声をかけようして、しかし踏みとどまる。様子がおかしい。


遠巻きに見る彼女に、桐吾は目を奪われてしまった。その様子の爽やかさにではない。殊勝さにでもない。寧ろ彼女を支配しているのは、切迫した緊張感であるように見えた。


軽く汗を流す程度どころか、全力疾走に近い。

それはどこか、逃走という言葉を想起させた。


焦燥や悲壮感さえ漂わせるその姿に、結局声をかけることも出来ないまま、なずなは遠くへ走り去っていった。


やがてその背中も見えなくなった頃、また一人、見知った人物が桐吾の前に現れた。


「桐吾さん、おはよーございます」


声の主は虹子だった。制服姿に通学鞄、右腕には「会長」の腕章が朝日に輝いている。額を出した髪型まで、すっかり身支度を整えているようだった。


「おはよう虹子。早いね」

「それが昨日の仕事がまだ残ってて……早く行って片しちゃおうと思って」


虹子は苦笑した。


徹夜明けの桐吾も相当だが、彼女も大変な働き者である。

その小さい身体で、日々激務をこなしている。


生徒会役員と破鐘によるサポートが彼女の負担を減らしてはいるが、学園生徒の命運を預けるには、その双肩は華奢に過ぎるようにも思う。


「桐吾さんこそ、めっさ早いですね。というか酷い顔してません? ちゃんと寝てます?」

「あまり……。ちょっと開発に夢中になっちゃってね」

「それで目を覚ましたくて散歩ってとこですか?」

「そういう事」

「じゃあそこまでご一緒しても?」

「もちろん」

「でも無茶は良くねーですよ桐吾さん。何をするにしても身体が資本なんですから」

「そういう虹子だって、随分無理してるんじゃないか?」

「私は大丈夫です。無理しようとすると破鐘君がうるせーんですよ。昨日だって、夜のうちに仕上げちゃおうと思ってたのに休め休めって聞かなくて」

「あ、成程」


虹子は胡乱な眼差しを、首に提げたデジタル一眼に向ける。

その筐体に封じられた前生徒会長・周防破鐘の、思念やテレパシーとも言うべき声は、虹子にのみ聞き取ることができた。破鐘も、妹の無茶を諌めずにはいられないのだろう。


「あーもー分かったから破鐘君うっさい少し黙っててくださいよー」

「お兄さん、何だって?」

「夜更かしによる肌年齢の加速について具体的な数値と仕組みを延々と説法中です」

「……むごいね」

「耳塞いでも聞こえてくるし、ほんっとウザいです」


喧騒に包まれる時間帯ではなかったが、それでも十名以上の市民とすれ違った。早朝出勤の大人や、朝練に向かう小等部から高等部までの生徒達だ。


虹子はその全員の名前を呼び、一人一人と挨拶を交わしたり、近況を話し合った。


桐吾には彼らの名前と所属が簡単に虹子から紹介され、彼らには桐吾が新たに加わった仲間である事が伝えられた。一気に十名以上が紹介されたものだから、最初に教えられた名前はもう忘れかけてしまっていた。


「凄いな……」

「何がです?」


電力系統管理区画に務める大前さんに手を振って別れたところで、桐吾は感心の声をあげた。振り返った虹子の表情は、屈託のない笑みに溢れている。


「年も職業もばらばらなのに、全員ちゃんと覚えてるのがさ」

「そりゃーそうですよ。お友達ですもん」


老若男女を問わず「お友達」とカテゴライズしてしまうのは、何だかとても虹子らしいと思った。


「実はですね」と、彼女は前置きする。「私には、ある壮大な計画があるんですよ」

「計画?」

「人類補完計画」

「……?」

「あはは、ネタ伝わらないですか」


ソプラノの声音を精一杯低くした虹子だったが、残念ながら重厚さは備わらなかった。首を傾げる桐吾の横で、少し頬を赤らめている。

気を取り直すようにして一息を入れ、虹子は改めて告げた。


「千友計画。千人のお友達を作る計画です」

「それはまた、壮大っていうか途方もないな」


だが虹子らしい。人見知りせず快活で、重圧に耐えながらも己が職務を全うせんとする責任感の強さを兼ね備える彼女には、その計画を達成してほしいと思う。


「にしても、百を通り越して千かあ」

「それはもう達成しちゃったんですよー」


にべもなく、虹子は言ってのけた。

桐吾にとってそれは素直に驚嘆すべき事実だった。


「成程、それで桁を増やしたわけだ」

「そうなんです。でも最近はなかなか増やせなくて。桐吾さんと歌誉さんで久々の更新だったんです」

「へえ、僕らで何人目?」

「九百八十二人目のお友達です」

「あと少しで達成じゃないか」

「いやーそれが、こっからが難しいんですよー」

「?」

「アシハラには、九百八十四人人しか市民がいないんです」


気軽に続けられる虹子の言葉に対し、桐吾は言葉に詰まる。彼女の計画の達成がいかに困難かを、改めて理解させられた。


つまり彼女は、外界に友人を求めている。


アシハラという城塞の外へ踏み出し、他種主体の秩序に飛び込み、友好関係を築こうとしている。


「放課後、その足掛かりになるイベントがあるんです。桐吾さんも行きますか?」

「イベント?」

「龍魔を招待して、技術提供会を開くんです」

「……っ」


桐吾は息を呑む。

敵意ある上位種族との交流など、桐吾にとっては悪夢でしかない。にもかかわらず虹子は、それを楽しみに待つ余裕さえ見せている。


彼女の言う友達の対象には、あるいは龍族や魔族も含まれているのかもしれない。


開いた口を塞げないでいると、虹子が学生に呼ばれた。彼女は招きに応じて、同級生らしい少女に大きく手を振る。


「それじゃ桐吾さん、また後で。提供会は多目的室で行わるので、待ってますよ」

虹子が小走りに遠ざかっていく。


ただでさえ小さな背中が、更に小さくなっていく。

その背中に、一体どれだけの重責と志を負っているのか、桐吾には想像も出来なかった。



アビス・タンクを駆るなずなは、強く大地を蹴った。一瞬遅れて、警告機能が動作する。遅すぎる警告音は耳障りなだけだ。網膜の動きだけで、アラーム音をミュートに。


刹那の後、なずなの真横を炎熱波が走り抜けた。警告音を聞いてからの行動では、回避は間に合っていなかったかもしれない。それくらいの速度だ。


過ぎる熱を肌で感じながら、前方を見据える。


そこには、特徴的な錫杖を構える女性の姿があった。黒いローブを羽織り、頭頂には漆黒の三角帽子が乗っている。魔族だ。

回避された事に特段驚いた様子も見せずに、魔族は次の攻撃を放つ。


「踊れ踊れ。火の向くままに」


その手にはライターが握られていた。何の変哲もない日用品だ。しかしそれが、魔族の手技によって凶器と化す。着火後、その火は爆発的に膨れ上がり、なずなを強襲した。


驚異的な力だ。


が、魔法は決して万能ではない。


なぜならそれは、無から有を生み出す術式ではなかった。既にして其処に有る力に干渉する術――それが魔法。本来起こるべき現象の定量に干渉し、増幅と転向を加えるのが魔法だ。要は、種火が必要という事だ。そしてその術は、口話による詠唱と魔力の消費をもって成立する。


一般に、詠唱が長ければ魔法は強大化し、消費する魔力も多い。

大きな魔法を連投するにはリスクが伴う。消費した魔力は、二度と補充出来ないからだ。

制約の多い術ではあるが、しかし人族にとっては十分な脅威だ。


例えばそれは、細胞分裂の速度に干渉し、治癒能力を飛躍的に向上させる。

例えばそれは、静電気を稲光の迸出へと変貌させる。


そして、いま魔女が行って見せたように、ライターの火を巨大な炎熱波へと変える。


なずなは襲ってくる炎を先刻と同様の動きで回避し、今度は応戦する。左右それぞれに構えた二丁の重機関銃が火を噴いた。毎分二〇〇〇発――左右で計四〇〇〇発という速度で、五〇口径の弾丸が魔族に降り注ぐ。正確にして一撃必殺の射撃だ。

対し、魔族は立ち位置を替えながら魔法を展開する。


「阻め阻め。その鉄扉は欠陥品」


なずなが構える前から始められていた詠唱により、アスファルトが迫り出し壁を作る。

しかし、それは防護の役割を果たさなかった。銃弾の雨が、蜂の巣を叩くがごとき断続的な破砕音とともに、壁を激しく叩き、貫通したのだ。


拳銃とは比較するのもおこがましい暴力。土壁ごとき、障害にもならない。


急激に広がる土煙が視界を奪うが、なずなは慌てる事なく、それが収束するのを待った。焦る必要はないと、網膜に照射された光学センサが如実に知らせていたからだ。


念のため銃口を向けながら、無数の穴の開いた壁の向こうを見やる。

そこには、壁と同様に無数の弾丸に撃ち抜かれた魔女の姿があった。


ほとんど原型を留めないその姿は、やがて地面に溶けるように消えていった。


もちろん、本物の屍であれば消える事などありはしない。その消失は、なずなの戦いがシミュレーション――特殊戦闘訓練である事を示唆している。


なずなは昼休みを利用しての自主練習に来ていた。


一息つきながら、改めて両腕を見下ろす。


「性に合わないわね、やっぱ」


吐き捨てるように言う。両手の先に、慣れ親しんだ五指はない。代わりにあるのは武骨な銃口である。拳と銃が独立しているのではなく、銃器そのものがアビス・タンクの腕部と一体化しているのだ。


「やけに肩凝るのよね、これ……」


重機関銃一丁につき一五〇キログラム。背部には一万発の弾丸を収納した大掛かりな換装式弾倉三百キログラム。

重量をほとんど感じさせないアビス・タンクではあるが、俊敏な立ち回りを得意とするなずなにしてみれば、どうにも愚鈍な印象が拭えなかった。


「さて、あとの二体は……」


なずなは目線の動きで計器類を操作し、マップの縮尺を替える。さっと目を走らせて、敵影の位置を確認する。


今回の訓練で倒すべき目標は三体。いずれも魔族。


設定された行動範囲は半径三キロメートル圏内。


フィールドは広大な駐車場。


仮想空間ではあるが、そこは実在の場所をトレスして作成されている。

その駐車場は、アシハラの人族が龍魔との戦いの場として想定している場所だった。かつてアシハラが、技術研究開発都市と呼称されていた頃の名残だ。商談や交易の盛んだったアシハラには、ドームの外に来客用の巨大な駐車場を構えていた。


ドームを城塞として背後に守りながら、広大な駐車場を戦場とする。


かつて数千台を収容した広大な土地は、しかしいま、荒涼と乾いた風に吹かれる。随所に戦争の跡が痛々しく穿たれ、放棄された自動車は砂礫と鉄錆に蝕まれている。


なずなは戦況を把握して苛立ちを覚えた。敵影を示す赤色のアイコン二つが、自軍を示す緑色のアイコンに攻撃を加えている。


「何してんのよあの子は……」


倒すべき目標は三体。

自軍は自分含め二名。なずなはタッグを組んでいた。その相棒の名を、七夜月歌誉。

なずなは両脚部のバーニヤスラスタを起動し、戦友のもとへと急行する。


最高時速二三〇キロメートルという速度で、轟音と砂埃をまき散らしながら疾駆する。前方を見据えたままマップを見る。積極的に立ち回る二体の魔族に対し、歌誉は微動だにしない。彼女のアビス・タンクの損傷率がみるみるうちに高まっていく。


「……またか」


嘆息を挟んで、なずなは重機関銃を構える。間もなく接敵する。戦場に飛び込む前に、光学望遠レンズで先行して視認する。案の定、歌誉が一方的に攻撃を加えられていた。

膝を屈し、低くした頭を両腕で抱えて、降り注ぐ魔法にじっと耐え忍んでいる。アビス・タンクという頑強な甲冑に身を包んでいるにもかかわらず、それよりもずっと華奢な魔族に嬲られている。


「全く、亀じゃないんだからッ。――接敵五秒前! 四、三、二、一、ゼロ……ゼロ」


カウントが終わっても接敵しない。そういえば今日のアビス・タンクは普段より重く、速度も出ないのだった。ばつの悪い思いを、なずなは叫びと変えた。


「マイナス一マイナス二マイナス三んんんッ!」


参戦するや、裂帛の声と同時に左右の砲門が火を噴き、戦場をかき乱す。

歌誉を誤射しないように気遣った斉射は、魔族を射抜けなかった。ただ、歌誉を魔族から隔離する事には成功した。滑り込むように割って入ったなずなが、更に銃撃を放つ。

左右それぞれに退避する魔族を追うように、なずなは両腕を広げながら追撃する。その手を緩めないまま、銃撃音をかきわけて歌誉に問う。


「生きてる!?」

「……多分」

「濁した!?」

「…ぅ……ゃ」

「何!? 聞こえない!」


鋭く問い返すと、今度ははっきりと聞こえた。


「もう嫌……」


と。


それは拒絶の声だった。押し殺した、しかし断固とした意志の表明だった。


「もう嫌……」

「歌誉……」


思わず歌誉を振り向き、小さく震える背中を見る。彼女はただ背を丸め、増援が来た事に目も向けず、大地に映る自らの影に視線を落とすばかりだ。

真っ黒で茫漠な、自らが動かなければ動くはずもない、自分の影だけを見ている。


計十回。歌誉の出撃回数だ。


それだけ戦場に立てば、少しずつでも、誰しもが態度を変えてきた。涙する者も、足を竦ませる者も、やがては武器を取り敵と対峙した。


だが、彼女は。徹頭徹尾、現実から目を逸らし続けた。


どれだけ戦い方を教えても、どれだけシミュレーションの難易度を下げても、彼女は戦果を上げられなかった。


「戦うくらいなら……私は……」


呟く言葉は思考よりも本能から漏れ出す呪いのようで、蚊の鳴くように細いくせに耳朶にこびりついて離れない。いつの間にかこちらの思考に絡み付いてくる。まるで触手のように不気味に。あるいは聖女の抱擁のように嫋やかに。


「あの街にいたほうが、良かった……」


その声に呼応するように、なずなの視界がぐらりと揺らぎ、反転する。天地の区別がつかなくなり、足元が覚束ない。眩暈を覚えた瞬間、拳で腹を殴られた。


鈍い痛みに目覚めると、龍が怒りの形相でこちらを見下ろしている。


痛みと熱を持つ腹を押さえ蹲りながら、つんとした臭気が鼻につき、自分が吐瀉物をぶち撒けたのだと理解する。噎せながら、しかし恐怖に縫い付けられたかのように、怒りの形相から目を逸らすことは出来ない。立てと龍は命令するが、激痛で起き上がれない。


周囲の龍が嗤い声を上げる。怒る龍と自分を取り囲むように立つ龍は全部で五体。どれもが三メートル以上の体長で、こちらを見下している。

立てと、龍は声を荒らげて命ずる。立てずにいると乱暴に腕を引っ張り上げられた。肩が千切れるような痛みに苦悶しながらも、何とか震える足で身体を支える。


歌えと、龍は容赦なく命ずる。周囲の声がやむ。侮蔑と期待の視線が集中する。


そうだ、歌うのだ。


記憶の限り虐げられ、蔑まれ続けてきた。

誉められる事なく、期待される事なく、道具としての評価さえなく。

連綿と下される命令を、ただ逆鱗に触れない事にのみ心血を注ぎながら、こなしていくだけの日々。


だが、誉めてくれた。


歌だけは、誉めてくれた。


ほんの些細な思い付きだったろう。気紛れだったろう。暇つぶしだったろう。だが、予想もしなかった事に、その歌声は聴衆の琴線に触れた。


龍は目を瞠ってその歌声を褒め称えた。それは彼女にとって初めての賛辞だった。良い道具だと――彼は初めて誉めてくれたのだ。


龍は自らの玩具を自慢するように、友人を呼んで披露する事に決めた。

その期待に応えなければ。

恐怖と自負と憂慮と喜びと緊張とで混乱しながら、彼女は息を吸う。

歌うのだ。

震える声。清廉な声。喘ぐ声。清澄な声。強張る声。


だけど――と。


歌に乗せて、彼女は思った。願った。祈った。


その期待は皮肉にも、彼女に明確にして簡潔にして真っ直ぐな、意志を持たせた。


全てに不自由した彼女だからこそ、唯一誉められた歌だけは、せめて。


もっと、自由に歌えたなら――。


切実な思いに比較して、その声はやけに無機質だった。


それもそのはず、それは単なる電子音声で、同じ言葉をただ繰り返して、状況を伝えているだけなのだから。


唐突に焦点が合い、眩む視界が像を結ぶ。状況終了を告げる文字が浮かんでいる。

繰り返し聞こえていた電子音声も、同様の言葉を告げていた。


「何、いまの……」


なずなは呆然として、疑問を呟く。が、答えは返ってこない。

ただ明らかなのは、シミュレーションが終わっている事だけだ。敵影は全滅している。なずなが倒したのだ。両腕を見下ろすと、仕事を終えた、まだ熱を残す重機関銃が発射煙を満足げにくゆらせている。


対し、その煙を吸い込んだかのように、なずなの思考は白く濁っている。全身にぐっしょりと汗をかいている。身体は冷え切って硬直しているのに、心臓の鼓動だけがやけに早い。


背後を振り向くと、蹲った姿勢のまま、歌誉が小さく震えていた。


身震いする。それが寒さのせいなのか恐怖のせいなのか、なずな本人でさえ判別しかねた。


とにかく落ち着きたくて、なずなは歌誉に声を投げた。


「終わったわよ、歌誉。……帰りましょ」


その声音は、自分でも驚くほどに疲労の色が濃かった。


アビス・タンクの収容所を離れたなずなは、まっすぐシャワー室に向かった。

歌誉は先に帰らせた。何となく、一人になりたかったのだ。


汗で冷えた身体を温めると、少しずつだが緊張が和らいでいった。震えや動悸も収まってきた。自分の思考で身体が動く事を確かめるように、手を握ったり開いたりを繰り返した。


末端まで血が通ってくるのを感じながら、なずなはようやく一息をつく。


「何だったのかしら、あれ……」


白昼夢で片づけるには、鮮明に過ぎる凄惨な光景。見た事のない部屋で、会った事もないはずなのに旧知に感じられた龍族と、彼に長く虐げられてきた記憶。


「記憶、ね……」


馬鹿馬鹿しい。そう思いつつも、唾棄する事の出来ない考えだ。

身体を拭いて制服に着替え、シャワー室を出る。


と、廊下に背を預けた人影がなずなを迎えた。まるで彼女を待ち構えていたように立つ彼女の事を、なずなは良く知っていた。


「虹子?」


学年は一つ下でありながら、生徒会選挙を勝ち上がって会長の座に就いた少女がそこにいた。ふと気づいて、腕組みして立つ虹子から腕時計へと視線を転ずる。


「どうしたの? 明日の提供会の準備で忙しいんじゃ――」

「少しいいかね? それほど時間は取らせない」

「……?」


言葉を遮るように放たれたその一言で、なずなは異常を察知する。

声質こそ変わらないものの、その怜悧な声は虹子のものではなかった。

改めて注視すると、細められた眼はどこか虚ろで、しかし不思議とその奥に、沈着冷静な犀利さを感じさせた。


そこに立っているのは間違いなく周防虹子だというのに。


しかしなずなは、訝しげにではあるが、呼びかけをこう改めた。


「……会長?」


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