もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら

tsutsumi

第1話 ドラッカー参上

 ルカが目を覚ますと、朝の11時だった。

 昨日も午前3時くらいまで仕事をしていたので、どうしても起きる時間はこのくらいになってしまう。仕事と言ってもスナックのアルバイトなのだが、これはこれで意外にも奥が深い。

 カーテンに太陽の光があたっている。外は天気がよくて暖かいかもしれない。

 ルカは最近、仕事のために必要なので「カッコいい」というセリフの言い方を練習している。姉と二人のアパート暮らしだが、姉は朝早く仕事に行くので、今は部屋にだれもいない。だから、こういうことは心置きなくできる。

 今日も早速ふとんのなかで言ってみる。

「カッコいい」

 うーん、ちょっとわざとらしいかな。

「カッコいい」

 少しよくなったかな。

「カッコいいー」

 少し語尾を伸ばして気分を込めてみた。こんなものだろうか。でも、何か足りないような気がする。練習する時に心がけるべきコツのようなものがあったはずなのだが。まあいいか。

 洗面所に行き、表情もチェックすることにした。

 鏡は昨日姉が磨いておいてくれたのでピカピカしている。でも、鏡の中にいる金髪で丸顔の女の子は少し眠そうだ。

(われながら眠そうなすっぴんにもかかわらずそれなりに可愛い)

 と思いつつ、鏡に向かって「カッコいい」と言ってみることにする。

「カッコいい」

 少しにやけている。

 もう少し真面目な顔をしなければ。

「カッコいい」

 うーん、だいぶよくなってきたぞ。しかし、どうも何かが足りないような気がするが、気のせいだろうか?

 それと、これは一人のお客さんの対策にしかなっていない。もっと一般的で汎用性の高いことを練習しなければいかん。って、そんなことに今さら気づいてどうするのだ。

 でも、まあ、気がつかないよりはましか。

「いらっしゃいませ」

 これが一番大事だ。

「ありがとうございました」

 これも大事。やはり、基礎・基本が重要だ。

 と一人で納得しつつ、立て続けに3回もあくびをした。

 それにしても起きて早々「カッコいい」の練習をするとは、我ながら少し変なのではないか。変なところで仕事熱心だ。とルカは少し自分のことをいぶかしく思った。


 今日は、夜の7時40分頃に仕事に行く日だ。肩書は、スナックの女の子ルカちゃん。肩書というほど大げさなものでもないか。年は23歳。いわゆるフリーターで、今のところスナックのバイト以外の仕事はしていない。


 少し部屋を掃除してからテレビを見たり、パソコンでニュースを見たり漫画を読んだりして過ごした。

 ちなみに昨日のプロ野球は巨人が勝った。

(うーん、なかなかいいことだ)

 勤めているスナックのマスターが巨人ファンなので、巨人が勝った日の翌日は機嫌がいいのである。

 家を夜の7時ごろに出て、7時半過ぎにスナックについた。店の名前は『おしゃれねこ』。

 まだマスターは来ていないので、渡された鍵でドアを開け、電気やエアコンをつけたり、掃除機をかけたりする。カラオケ兼テレビの画面の電源を入れると、「ボワーン」と独特の音がして画面が明るくなる。この音を聞くと、「今日も仕事が始まるぞ」という気持ちになる。

 8時前にはマスターが出勤してきた。マスターは小柄で短髪の精悍な顔つきの男で、スキーが得意なスポーツマン。時々、原因不明の怒りを爆発させるので油断のならない人物である。

 早速、挨拶の練習が始まる。

「いらっしゃいませ」

「もっと元気よく」

「いらっしゃいませ」

「まあまあだな。次」

「ありがとうございました」

「よし、じゃあ、次は沢田さん対策だ」

「例のあれですか」

「そう。例のあれ。あれは、ちゃんと沢田さんの変なポーズを思い浮かべないと効果半減だぞ」

 そうだった。沢田さんの変なポーズを思い浮かべながらやらないと効果半減。家で練習した時はそこが足りなかったのだ。

 ルカは、ほっぺを膨らませながら手を顔の横でぶらぶらさせる沢田さんの変なポーズを思い浮かべながら言った。

「カッコいい」

「うーん、ちょっとわざとらしいなあ」

「カッコいい」

「もうちょっと、真実味のある言い方はできないか」

「カッコいいー」

 語尾の伸ばし、気分を込めてみた。

「よし、だいぶよくなってきた」

「練習してきたんですよ」

「それはいいことだ」

 マスターは、ちょっとだけニコッとした。やはり、昨日巨人が勝ったので機嫌がいいのだろう。


 8時半くらいに、リナちゃんとエリコちゃんが出勤してきた。

 リナちゃんは黒髪で背が高い日本美人。エリコちゃんは茶髪・中背でボーイッシュな顔立ち。ちょっとみると17才の男の子みたいだが、もちろん女性だ。3人とも店に週5日くらいくるレギュラーメンバーで、この3人がいれば、そんなに人手不足にはならないだろう。

 お客さんは5人。この時間だったらまあまあかもしれない。

 その時、ドアが開き、例の沢田さんが来た。

 沢田さんは、40代くらいに見える常連のお客さん。書店を経営しているらしいが、いつも「大登場おー」と言いつつほっぺを膨らませて手を顔の横でぶらぶらさせる変なポーズをしながら入って来る。本当に経営者なのだろうか。どうも疑わしい。

 本日も、例外ではなく、いつものポーズとセリフが出てきた。

 そして、いつもと同じように「カッコいいポーズでしょう」と、ルカちゃんのことをキモイ涙目で見ながら聞いて来きた。

 今までの練習が試されるのはまさにこの時だ。

 もちろんルカちゃんはできるだけ気持ちを込めて「カッコいい」と答えた。

「うーん、だいぶ良くなってきたけど、まだ、少しわざとらしいなあ。無理して言っているでしょう」

「ばれたか」

「まあ、でもよくなってきたから、この調子で練習するといいよ。今日もちゃんと練習してきたでしょう」

「もちろん」

「ちゃんと練習してきたとは、偉いねえ」

 多少は練習の成果があらわれたようである。 


 店の閉店時刻は特に決まっていない。お客さんが全員帰るか、アルバイトの女の子が全員都合が悪くて帰らなくてはいけなくなると、そこで閉店になる。この日はこの店には珍しく1時半頃終わったので、近くの居酒屋で反省会をすることになった。

 メンバーは、マスター、ルカ、エリコの3人。リナは都合が悪いらしく帰った。

 近くの朝6時までやっている『シルバー酒場』という焼き鳥屋に行った。

 まず最初にビールで乾杯。

 そして、なぜか、沢田さん対策の話になった。

「あんな変なポーズをやる人に『カッコいい』なんていう言葉をわざとらしくない言い方で言うのはなかなか難しい。いやー、ルカは偉いよ」

 マスターから褒められた。

「でも、拙者は、そばで見ていて、まだまだ今イチかもしれないと思ったでござるよ」

 エリコちゃんは、こういう席では自分のことを拙者と言い、「ござる」「ござるよ」という語尾を多用する。

「うーん、それもそうだけど、あれ以上は難しいですよ」

「欲を言ったらキリがない。でも今日のところはだいぶよくなっていた。よし、じゃあ、こうしよう、明日から都合のいい人は7時半までには出勤して場面を想定した訓練をする。もちろんその時間の時給は払う」

 マスターは、時々こういうことを言い始める。

「わたしは、いいけどみんなやるかな」

「拙者は、そういったことには興味がありでござる」

「じゃあ、決まった。やる人だけでいいから、早速明日、というかもう今日か。今日の夕方から始めることにしよう。おれがみんなにメールで知らせておくよ」

 言い終わるとマスターは、ニヤニヤとにやけた。これがマスターの会心の笑みなのである。


 次の日の7時半に店に集まったのは、反省会の席にいたマスター、ルカ、エリコの3人だった。ルカは、この訓練をすることを決めた席にいたし、店の中心的なメンバーなので、なんとなく来なければいけないような気がしてきてしまった。

「じゃあ、おれが沢田さんの役をやるので、まずはルカから」

 マスターは沢田さんの物マネをして、ほっぺを膨らませつつ手をぶらぶらさせる変なポーズをしながら言った。

「大登場おー、ぼくのこのポーズかっこいいでしょう」

「マスター、似てる。すごい。そっくり」

「感心している場合ではない。これは訓練だ。劇みたいにその場面の役になりきってやらないとだめだ。ちゃんとやろう。…ぼくのこのポーズかっこいいでしょう」

「変なポーズ」

「おい、こら、やる気があるのか」

「でも、ここで言いたいことを言っておけば、本人の前では言わないでもすむから、それはそれでいんじゃないでしょうか」

「それじゃあなんにもならない。わざとらしくない言い方になるように練習するのが目的だ。やり直し」

「はーい」

 ということでやり直した。

 再びマスターが沢田さんの変なポーズの物まねから始めた。

「ぼくのこのポーズ。かっこいいでしょう」

「カッコいい」

「うーんまあまあだな。どんどん練習しよう。今度はエリコだ」

 そんなふうにしてマスターの特訓は続いた。


 何十回も練習した。マスターは満足そうである。

「これだけ練習すれば大丈夫だ」

「でも、一人のお客さんだけのためにこんなに時間をかけて練習する必要あるのかしら」

 ルカは素朴な疑問を口にする。

「いや、典型的な変な人の対策を万全にしておけば、それが他のことにも応用がきく。今日はよく頑張った」

「でも、かえって欲求不満が心にたまって、本人を目の前にして本音を言ってしまいそう」

「拙者もそう思うのでござる」

 マスターは二人の顔をじっと見つめ、真剣な口調で言った。

「ちゃんと練習の成果を生かさないとだめだ。なんのために練習したんだ」

「はーい」

二人は気の抜けたビールのような返事をした。

 ルカは、仕事とは言えなんでこんなことを練習しなければいけないのか少し疑問に思った。


 その日も、9時過ぎると店はだんだんと混んできた。

 そろそろ沢田さんが来る時間だ。

 ルカはどうも落ち着かない。それにしても変なことを練習させられたものだ。

 まあ、どうしても嫌だったら訓練に参加しなければすむことなのに参加したのだから、そこは、仕事熱心というか、自分が仕事が面白くなってきている証拠なのかもしれない。が、それにしてもマスターも変なことに真剣になる人だ。でも、変なことが、本当は大切なことなのかもしれない。

 この店はわりと繁盛しているので、方向性は間違っていないのかもしれないが、さすがにあれはかなり極端なのではないか。

 ドアが開いた。が、別のお客さんだった。この方は50代くらいのやはり常連のお客さま。

(なんだ)

 とつぶやいたのは、心の中だけ。大きな声で「いらっしゃいませ」と言うことができた。

 5分くらいしたらまたドアが開き、背の高い若い男の子が入ってきた。

「いらっしゃいませ」

 と反射的に言ったが、それはお客さんではなかった。氷屋さんの集金で、マスターがお金を払ってくれた。

「まいど」と元気に言ってから引き揚げて行った。

 そしてさらにその10分くらい後、またドアが開いた。

 待ちに待った、というわけでもないが、いよいよ沢田さんが登場。

 予想通り、「大登場おー」と言いながら、ほっぺを膨らませて手をぶらぶらさせ、いつも通り「ぼくのこのポーズかっこいいでしょう」と言った。

 ルカは思わず「カッコ悪い」といいそうになったが、なんとか思いとどまった。そして頑張って「カッコいい」と言うことができた。でも、明らかにわざとらしい言い方になっている。

(くそー、あれだけ練習させられては欲求不満がたまって「カッコ悪い」と言いそうになるに決まっているではないか)

 ルカは、心中穏やかではない。

「今日は、調子が悪いね。なんかけっこうわざとらしい言い方になっているよ」

「そうですか。気のせいでしょう。カッコいい―」

 今度は、なかなかいい言い方で言えたと思うが、相手に指摘されて言い直しているようではいけない。完全な大失敗だ。


 その日は店が2時半に終わり、「少しだけ反省会をしよう」ということになった。メンバーは昨日と同じ、マスター・ルカ・エリコの3人で、場所も昨日と同じ居酒屋。

「今日は失敗した。でもあれだけ練習させられると欲求不満がたまってかえってうまくいかなくなる」

 ルカは正直に不満をぶちまけた。

「いやー、まあ、仕方がない。今日はうまくいかなかったけど、練習したことは無駄じゃあない。ちゃんと練習してきたことは沢田さんにも伝わっているはずだ」

「むだでしょう」

「拙者もあまり意味がなかったと思うのでござる」

「いや、絶対むだじゃない。練習するとかえってできなくなる場合があるということがわかったのは大きな収穫だ。自分を見つめることができた」

「スナックのマスターが学校の先生みたいなことを言っている」

「うるさい。自分の言葉とか行動とか表情などに自覚的になる、自分に対して客観的な視点をもつ、ということ自体にも大きな意味があったんだ」

「なんだか禅問答みたいでござる」

「まー、しかし、少し違うやり方を工夫してみるのも一つの手かな。いろいろな学び方を試してみて、その結果がどうなのか検証することは大事だからな。まったくおんなじ場面を想定して練習してみる方法もあるけど、もっと一般的な意味で演技力を身につけるようにする方法もある。本日からは、演劇の練習を取り入れる。『劇団おしゃれ猫』結成」

「だれが入るの」

「もちろん、ここにいる二人は決定だ。ほかのみんなにもメールで知らせておく」

「それで、脚本とか小道具はどうするの」

「それは、各自持ち寄ることにしよう」

 というわけで、『劇団おしゃれ猫』なるものが結成されることになった。

 

 その日の夜7時半に店に集まったのも、例によってマスター・ルカ・エリコの3人だった。

「さあ、君たち、脚本は考えてきたかな」

 マスターはやけに張り切っている。

「もちろん」

「考えてきたでござる」

「じゃあ、ルカのやつから見せてもらおう」

 マスターはルカが書いて来た紙を受け取って読み始めた。


 昔々、あるところに、カメとカメをいじめている子供たちがいました。


「うーん、浦島太郎の話か、それじゃあ、まずカメの役と子どもの役と浦島太郎の役がいるな」

「マスターがカメでどうでしょうか。あとでカメが浦島太郎を背中に乗せることになります。私たちは、か弱い女性なので背中に人を乗せたりできません」

「賛成でござる」

「うーん、参ったな。俺がカメか…」

 と言いつつ、マスターの眼が輝き、口元が緩んでいる。

「…それで、浦島は誰がやるんだ」

「拙者ではいかがかな」

「エリコちゃんはボーイッシュだから、男の子の役にはちょうどいい。そうすると、残りは子どもね。私はカメをいじめている子どもの役」

「まあ、しょうがない。それで始めよう」

 マスターは、言うが早いか床に這いつくばり、「僕はカメですよ。わんわん。じゃあなかったカメは鳴かないのか。失敗失敗、大失敗」などと不気味な独り言をいいながらカメのようにはいはいを始めた。どう考えても「参ったな」「しょうがない」なんて思ってるようには思えない。楽しんでいるみたいだ。もしかしたらマスターはドMなのか?

 そう思ったルカは、「おい、カメ。どっから来た。開店前にスナックに勝手に入りこむとはいい度胸だ。カメのくせにずうずうしいにもほどがある。成敗してくれるわ」などといいながら、たまたま店のスミに置いてあった子供用の黄色いプラスチック製バットを持って来て、マスターの背中や頭をポカポカたたき始めた。

「イテテテ、もっといっぱいたたいて。あ―、気持ちがいい。いけね。俺は何を言っているのだ。早く―、浦島―、浦島、早く出てきて我を助けよ。イテテテ。さあ―、浦島―――。出番だ。出あえ出あえ―――」

 マスターはニヤニヤとにやけながら、セリフを棒読みした。

「あっ、そうだ。私の出番でござる。遅くなって悪かった。おい、そこの子ども、カメだって命のある同じ地球上の生き物だ。同じ地球にへばりついている仲間なのだ。弱いものいじめは卑怯でござる」

 エリコはそう言って、ルカの持っているプラスチック製バットを奪い、ルカの頭をポカポカと叩きまくった。

「やめろ。おい馬鹿もん。浦島はただ単にカメを助けるだけだ。イテテテ。浦島太郎が子どもの頭をたたくなんて脚本に出ていない。ちゃんと脚本に従うのだ。演劇の基本は脚本なのだ。イテテテ。ちゃんと脚本に―、脚本に従え――」

 ルカは、絶叫した。

 と、その時、ドアが開き何者かが店の中をのぞいた。

「まだ、開店していません。申し訳ありません。あと少ししたら開店します」

 マスターが床に這いつくばったまま、あわて気味にいつもの営業トークのしゃべり方で言うと、ドアが閉まった。

「まずい、今変なところを見られた。いけね、もう8時か、開店の準備を急ごう」

 というマスターの声を聞き、ルカとエリコは、あわててカラオケ・テレビの画面をつけたり、掃除機をかけたりして開店の準備を始めた。

「今、だれだった」

「拙者が見た記憶によればフッ君だったようでござる」

「ああ、フッ君か。フッ君だったら、女の子とばかり話して店のお客さん同士で話すことはないから、変な噂が広まることもない。ひと安心だ」

 フッ君というのは、30歳くらいで比較的早い時間によく来るお客さんだ。いつもキチンとしたスーツを着ている優男で、店の女の子としか話さない。職業は会計士をやっているらしい。

「でも、拙者たちが『さっきなにやってたんだ』なんて聞かれたらどうするのでござるか」

「まあ、『童心に帰ってバットを持って遊んでいたんだ』とかなんとか適当に答えておけばいい」

「わかったでござる」


 急いで準備したので、8時10分くらいには開店できた。

 フッ君は8時半くらいに来た。「さっき何をしていた?」なんていうことは全然言わず、リナ相手に自分のことばかり話している。リナがお気に入りらしく、リナが近くにいるとにやけながらリナのことばかり見ている。こういうタイプの黒髪の美女が好きらしい。

 さっき見たことについては全然気にしていない様子なので、ルカはほっとした。

 だんだんお客さんが集まってきて、9時前後には、6人。今日も、この時間にしてはまあまあだ。

 9時過ぎには、いつものように氷屋さんが来て、マスターからお金を受け取り、「まいどー」と言いながら帰っていった。

 そしていよいよ、沢田さんが来そうな時間になってきた。

 ドアが開いた。

「いらっしゃいませ」

 みんなで声を合わせて唱和した。案の定、入ってきたのは沢田さんだった。

「大いに大登場」

 これがいつものセリフである。そしていつものようにほっぺを膨らませて手をぶらぶらさせる変なポーズを始めた。

「どう、このポーズ。なかなかカッコいいでしょう」

「カッコいい――」

 ルカの言い方はなかなか気持ちがこもっている。

「今日はなかなかいい言い方だった。頑張って練習したでしょう」

「もちろん」

(うまくいった)

 ルカは、心の中だけでにやけたつもりだったが、表情にも出てしまったであろう。

 でも、常ににやけているような顔なので、別に変に思われないだろうと思った。

「ルカちゃんは今日もにやけているねえ」

 ルカの予想通りだ。沢田さんは、いつもと同じような反応である。

「笑顔、笑顔です。にやけているって言い方がよくありません」

「そうかなあ」

 沢田さんは、クビをかしげていた。が、けっこう嬉しそうだった。


 その日、店は2時頃終わった。

 例によって反省会があった。メンバーもいつも顔ぶれでマスター・ルカ・エリコの3人。場所もいつもと同じシルバー酒場。

「今日はうまくいったぞ」

 ルカは嬉しそうだ。

「そうだな。やっぱり練習の成果があらわれただろう」

「って言うか、マスターをバットでポカポカたたいた成果が現れたのだ。あれがストレス解消になり、のびのびと演技をすることができた」

「そんなことはないさ。練習の成果は少し時間が経ってから現れる。前の日にやった特訓の効果が現れたんだ」

「そうかしら。変なの」

「って言うか、前に日にやった特訓及び今回の浦島劇、両方合わせた相乗効果でうまくいったと拙者は考えるのでござる。物事はいろいろな角度から体験的にとらえていくことが大切なのでござる」

「おお。エリコもたまにはいいことを言う。確かにそうだ。物事はいろいろな角度から体験的にとらえることが大切だ。これぞ実存主義」

「実存主義でござるか。大学で習った実存主義はそんなものではなかったでござるよ」

「それは、ちょっと違う。確かに大学の先生は実社会に役に立つような言い方をするのが苦手だったり好きでなかったりして、でそういう言い方はしない。でも、おれのとらえ方の方が実用的だしわかりやすい。よくよく考えると同じようなことを言っているのだ」

 マスターの確信に満ちた言葉を聞き、ルカとエリコは顔を見合わせながら首をかしげた。

「うーん、首をかしげているな。それではいよいよドラッカー様の登場だ。20世紀の偉大なる経営学者のドラッガーは『仕事の仕方において知っておくべきことは、仕事の学び方である』と言っている。今回、ちょっとだけだけど、二三学び方を試してみた。その体験を通じて、自分がどういうタイプの学び方をすればうまく身につくのか感じをつかむことが大切だ」

「マスターは、難しそうな本を読んで、書いてあることをちゃんと暗記してるんですか?」

 ルミが突っ込みを入れると、「暗記って言ったって、『仕事』と『仕方』と『学び方』と『知っておくべきことは』の4つの語句を覚えれば言えるようなことだから大したことではない」とマスターは珍しく謙遜した。

 が、マスター自身も、よく覚えていたな、と不思議に思う。

 ドラッガーの本はもう4年くらい読んでいない。よさそうなことが書いてはあるが、出て来るエピソードがベートーベンとかアインシュタインとか歴史上の偉人のような人が多く、凡人にはあてはまらないことが多いような気がして、遠ざかっている。

 でもこうして、言葉を思い出すということは、また読み直した方がいい時期に来ているのかもしれない。

 ルミとエリカは煙に巻かれたような顔をして黙り込み、もくもくと焼き鳥を食べ始めた。


 約一週間後。

 沢田さんは3日連続で来たので少しお休みして、その後一週間くらいしてからまたやってきた。

 例によって9時前後に現れた。

「いらっしゃいませ」

 と女子3人が唱和すると、沢田さんは「よっ」という感じで手を上げてからカウンターに座った。女子3人というのはいつものメンバー、ルカ・エリコ・リナの3人だ。

 ルカはおしぼりを出しながら言った

「今日は元気がないわねえ。いつものカッコいいポーズが出ないじゃないですか」

「うーん。元気がないわけでもないのだけど…。あれから家に帰って、自分で鏡を見ながら例のポーズをやってみたら、全然変なポーズなんでびっくりした。ルカちゃんはあんな変ポーズのことを『カッコいい』なんて一生懸命無理して言ってくれていたんだねえ。本当に変なお客さんがいて、スナック勤めも大変だねえ」

(これは今まで練習していない新しいパターンだ。沢田さんがこんなことを言い出すなんて思わなかった。なんて答えようか?)

 ルカは答えにつまり下を向いてしまった。

「予想外のことを言われてびっくりしちゃったのかな。まあ、今のは独り言だと思って聞き流しといてよ」

 と言って、沢田さんはニヤニヤとキモイ顔をしてにやけた。そしてその時、なぜかマスターや他の女の子たちもにやけていた。

 そこでツッコミを入れる鬱陶しいお客さんもいない、平凡で日常的で平和な楽しい夜である。

(仕事の学び方か…)

 ルミはこころの中でつぶやいた。

(自分に合った仕事の学び方は、…)

 もしかしたら自分は、声を出したり体を動かしたりしながら学ぶタイプかもしれない。なんとなくそんな気がする。もちろん、その中でもまた、いろいろなタイプがあるのかもしれないのだが。

 それに自分でそうわかっていても、それを生かすのは難しい。

でも、確かに自分について知ることや知ろうとすることは大切なのだろうと思う。


 マスターは次の日、ドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を鞄の中に入れて家を出た。

 時刻は2時を回ったあたり。

 10時頃起きて、テレビを見たりラーメンをゆでて食べたりしてうだうだしているうちにこの時間になった。

 会員になっているスポーツクラブでウェイトトレーニングをしてから、行きつけのKという喫茶店に入った。

 この喫茶店は、駅前の2階にあって、座席数80席くらいのこの地域では比較的の大きめの店。一般紙とスポーツ新聞がいくつか置いてあって無料で読めるのが特徴で、わりあい便利だ。

 2人掛けの小さな丸テーブルと4人掛けの四角いテーブルと大きな丸テーブルがある。

 マスターは、大きな丸テーブルの席に座り、持ってきた『プロフェッショナルの条件』を取り出して、「仕事の仕方に着目する」という項目を読み始めた。

 昨日女の子たちに話したことは確かに書いてあり、ちゃんとマーカーが引いてあった。


 もうひとつ仕事の仕方において知っておくべきことは、仕事の学び方である。


 「もう一つ…」という文言が最初についている。仕事の学び方以外に何かあっただろうか。

 その前の段落を読んでみた。

 

 仕事の仕方について初めに知っておくべきことは、自分が読む人間か、それとも聞く人間かということである。


 なるほど、これが書いてあったのか。

 これはしかし、うちの女の子の教育に応用するのは難しい。「接客の心得」みたいな紙をつくって新人の女の子に見せたりするが、「読む人」の対策はそれくらいしかできていない。基本的には、最初からできるだけ「聞く人間」を採用するようにするしかないと思う。

 実際、雇うときは履歴書を出してもらうので、学歴がわかるが、学歴が高いからと言って仕事の覚えがいいわけではない。それも「読む人間」「聞く人間」ということと関係しているのかもしれない。学歴が高くても、その人が「読む人間」だったら、スナックの仕事を覚えるのは大変だろう。

 マスターはそんなことを考えた。その後「仕事の学び方」のところに戻って、一通り読んでみた。


 …自らの学び方がどのようなものであるかは、かなり容易にわかる。得意な学び方はどのようなものかと聞けば、ほとんどの人が答えられる。では実際そうしているかと聞けば、そうしている人はほとんどいない。…


 わかっていてもなかなか実行できない。ということか。確かにそうかもしれない。これは、女の子たちともよく話し合って、考えていった方がいい。

 

 …だが、この学び方についての知識に基づいて行動することこそ、成果をあげる鍵である。あるいは、これらの知識に基づいて行動しないことこそ、失敗を運命づけるものである


(ドラッガーは学び方を相当重要視している。「鍵」だとか「運命づける」とか言って強調して書いてある)

 マスターはコーヒーを飲みながら、『プロフェッショナルの条件』を読みつついろいろな事柄が頭に浮かぶのを楽しんでいたが、ふと思いついて手帳を取り出した。

 それは、気になる言葉をメモするための手帳で、主に本の引用が多い。

(この本にはいろいろとよさそうなことが書いてあるが、今の自分に必要なことと言えば…)


 仕事の仕方について初めに知っておくべきことは、自分が読む人間か、それとも聞く人間かということである。


 これに決めた。愛用している0.4ミリのボールペンで丁寧に書き写す。

 自分自身について考えてみると、「読む人間」か「聞く人間」かで言えばたぶん「読む人間」なのだろう。それと同時に、書くことで考えが進むことが多い。今までも、手帳に書き写した言葉からいろいろと考えが発展したことがある。

マスターは、そんなことを考えながら、そろそろ自分の店にいかなくてはと思い、店を出た。

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