夜市(よいち)

「粽子(ちまき)を六個」


 屋台の喧騒の中から、すぐ前に立つ母親の声が鴉児の耳を捉える。


 やっぱり、今日も六個だ。


 少年は肩を落として、手に持った花籠を見やる。

 萎(しな)びて本来の緋色から黒っぽく変色した薔薇が、籠の半分以上を埋めている。


 まだ生乾きの薔薇の、むせ返る様な芳香が少年の鼻先よりやや上にぶら下げられた母親の花籠からも漂ってくる。


 母ちゃんの籠にも花がいっぱい売れ残ってるんだ。

 どれだけ余っているのか、鴉児は背伸びして覗く気にもなれなかった。


 籠の八割以上花が売れた日は十個、六割ぐらい捌(は)けた日は八個、そうでない日は六個だけ母ちゃんはいつも夕飯に粽子を買う。


 いつも花を売りに行く公園の木が葉を落とし、散歩する人が少なくなってからといもの、ずっと晩飯は六個の日が続いている。


「行くわよ」


 人混みの中、母親に手を引かれながら、鴉児は腹を擦って空を見上げた。


 今度、流れ星を見たら、毎晩粽子が十個買える様にお願いしよう。


「はい、焼餅(シャオピン)、焼餅、焼き立てアツアツの焼餅はいかが?」


 売り子の声と共に、温かで香ばしい匂いが鼻孔を衝く。


 やっぱり、焼餅もお願いしよう。


 少年は思い直す。


 母ちゃんは、粽子の方が腹持ちするからと言うけれど、おれはこんがり焼けた餅の方が、本当はずっと好きなんだ。


「蜜たっぷりの山査子(サンザシ)だよー!」


 流れてきた甘酸っぱい香りに、今度は涎が出る。


 山査子もいいな。


 九月の重陽節(ちょうようせつ)の頃、母ちゃんとお祭りの屋台で一本買って、半分こして食べたきりだ。


 食べて噛みしめたあの味は、匂いよりもずっと甘くて、そのくせ酸っぱくて……。


 あの時、夢中で串にむしゃぶりついたせいで、最後の一個はドブに落としちゃった。


 母ちゃんがやめろと泣きそうな顔で言うから、拾わなかったけど……。


「親父、海鮮炒麺(ハイシェンジャオミエン)を二つ!」


 飛び込んできた威勢の良い頼み声に胸が騒ぐ。


 炒麺って、食べたことないや。


 いっつも、この市場に来るたびに、よその人がチュルチュルおいしそうに麺を啜るところを遠くから眺めるだけ……。


「気取った餐庁(レストラン)なんかより、ここの屋台の方がずっとうまいよな」


 喧騒からまた誰かの声が届く。


 せっかく、流れ星にお願いするなら、普段食べられないご馳走の方がいいかも。


 鴉児はまた思い直す。


 上海蟹、北京ダック、鱶鰭(フカヒレ)のスープに燕の巣……。


 次々ご馳走の名は浮かんでくるが、どれも名前を耳にしただけで、どんな食べ物なのかは見当もつかない。


「今日は三回くらい洋車(ヤンチャ)にぶつけられそうになってヒヤヒヤしたぜ」

「あんなもんに轢かれたらペシャンコだ」

「洋人(ようじん)の奴らは気違いみたいに飛ばすからな」


 屋台の客たちの声がまた少年の耳を通り過ぎる。


 どうせなら、中国だけじゃなくて、洋人のご馳走も食べてみたいかな。


 しかし、そうなると今度は名前が浮かんでこなかった。


 強いて思い浮かぶとすれば、いつも大通りで花を売り歩く時に洋菓子屋の前を通ると流れてくるふんわりした甘い匂い。

 それから、真夏に公園を散歩していた洋人たちがよくおいしそうに舐めていた、不思議な溶けるお菓子。

 珈琲(コーヒー)って凄く苦いらしいけど、お茶とどう違うのかな?


 頭の中で次々食べ物を追加しながら、鴉児は色とりどりの灯りが点る市場の路上から夜空を見上げて目を皿にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る