銭湯(2)

 銭湯から寮へ戻る道の途中で複数の男たちに暴行を受けた一部始終については、応急手当を受けるあいだに寮長とその三年生へ話した。「たかはら」という人間と間違われたことも、男の一人が停学になったと話しかけてきたことも。二人の先輩は何か心当たりがあった風でお互いに顔を見合わせ、揃って苦々しい表情を浮かべた。

「男たちというのが誰か、たぶんわかると思う。学校と警察に相談して必ず捕まえるようにお願いするから、辛抱してくれ」

寮長は固くこぶしを握ってそう言い、塚原を真剣な瞳で見つめた。三年生の方は真っ赤な目でくしゃりと顔をゆがめ呻くように言う。

「……ごめんなあ。俺が銭湯に行けばって言わなかったらこんなことにならなかったのに。本当に悪かった」

 ラウンジに残っていたのも、塚原が帰らないことに責任を感じてのことだったらしい。塚原は恐縮して、二人の先輩に心から礼を言った。



 翌朝、塚原が浅い睡眠から優しく起こされ目を覚ますと、寮長と寮母さんの心配そうな顔が視界に並んでいた。寮母さんが目を潤ませて体調を問う。塚原は慌てて大きな問題はないと説明した。寮長は気遣わしげな視線を向ける。

「午前中病院に行って、大丈夫そうなら学校へ来て先生たちに事情を説明してくれるか」

「わかりました」

ベッドから起きると身体中が痛む。塚原は顔をややしかめながら了解した。


 その後苦労して着替え、時間を確認して食堂へ向かった。松谷へ事情を説明しておこうと思った。午前の授業を休むことは寮母さんがついでに連絡しているらしいから、部活のことは松谷へ言っておかなければ。頭に巻いた包帯のせいで、他の寮生からちらちら見られているのがわかるけれど、どうしようもない。


「……お前、どうした」

 松谷は塚原を見るとこれ以上ないほど驚いて、表情を硬くさせた。その瞳が鋭く光っていて、塚原は冗談混じりに話そうとした自分の口を一旦閉じなくてはいけなかった。

「昨日ちょっと、色々あって」

「色々って何」

肩を掴んで詰問される。声は重々しく、嵐の前兆をはらんでいた。痛みに塚原が顔をしかめると、松谷ははっとして手を離す。

「寮母さんに病院に連れてってもらうんだ、とりあえずメシ食っていい?」


 二人が朝食についたところで、「塚原!」と声がかかる。甲斐だった。慌てた様子で駆け寄って来、塚原の様子を目の当たりにすると、青ざめた顔で息を吸い込んだ。

「甲斐」

「さっき先輩から聞いた。お前、昨日……」

「先輩?」

「塚原銭湯に行ったんだろ? それ、教えたの、俺が付き合ってる先輩」

「! そうなのか」

真っ赤な目で顔をくしゃくしゃにして謝ってきた三年生。彼は甲斐の恋人だったのか。

「さっき、先輩に会って、塚原ってお前の友達じゃないかって、それで事情聞いて……俺、俺、びっくりして、塚原が、」

普段の態度からは想像もつかない、取り乱す甲斐の背中を松谷が軽く叩いた。

「落ち着け。こいつ今日病院行くらしいから。怪我は一応手当してもらってるし」

言いながら松谷が塚原へ目配せする。

「大丈夫。もう大丈夫だから。甲斐、座って」


 甲斐が座って落ち着きを取り戻したのを見計らって、塚原は改めて昨日あったことを説明した。話を聞くうちに二人の顔はみるみる苦いものとなり、犯人と真相について寮長は心当たりがあるらしい、必ず捕まえると約束してくれたと言っても、それは晴れなかった。

「……そうか」

「こんなにやられて……痛かったよね。何もできなくてごめん」

 松谷と甲斐に何も責任はない。けれど甲斐は言わずにおれなかったのだろう。松谷も同じ思いでぐっと言葉を飲み込んだに違いない。逆の立場なら塚原だってきっとそう思うから。わかっていれば助けに行ったのに、一緒に銭湯へ付き合ったのに――そう思ってくれるだけで、塚原にはありがたかった。正直なところ、昨日のあの状態で誰かに助けを呼ぼうと思っても、そのために行動する余裕はなかったのだ。携帯電話を手に取ることでさえ。


 話をしながら塚原は内心、恩田が今にも食堂に現れやしないかとひやひやしていた。それは非常に複雑な気持ちから来ているものだった。恩田に知られて彼に苦い顔をさせたくない、心配させたくないという気持ちと、そもそも彼が自分を心配をしてくれるだろうかという気持ちと、心配してくれなかった場合に自分が受けるダメージはどれほどだろうと恐ろしく思う気持ちだった。幸か不幸か、それは現実にならなかった。自分でもどうしようもないな、と改めて思う。



 その後病院で検査と治療を受けた。幸い頭や骨に異常はなく、顔の擦り傷、背中や腹の打撲の手当を受け、後頭部は三針縫うことになった。替えの包帯と、抗生物質を渡され、学校で寮母さんの車から下ろしてもらった。

 そのまますぐに校長室を訪ね、寮長と一緒に先生たちへ事情を説明する。そこで塚原は大まかな真相を知ることができた。


 塚原を襲ったのは三人組(塚原は何本もの足で踏みつけられたように感じたが、それはたった二本だったらしい)で、同じ寮生の三年生だった。彼らは先月度重なる校内での暴力行為や寮での盗難未遂、街での万引き行為が発覚し、揃って停学処分になったのだけれど、その犯行を学校側に密告したのが「たかはら」という生徒だった。彼は万引き行為を彼らから強制され、けれどいつも拒み、そのために暴行を受けていたのだ。その後密告した人物がいると知った彼らは、自宅謹慎中にもかかわらず報復のため「たかはら」が一人になる機会をここのところ探していたらしい。そこで彼らの目の前に現れたのが、「たかはら」と背格好がよく似た塚原だったのである。


「……呼ばれた気がしたというのは、名前が似ていたせいじゃないか。彼らが酒を飲んでたってこともあったろう。さらに君はパーカーのフードをかぶっていたと言ったな。自分たちの前で顔を隠していると思われた可能性がある」

 三人組の担任である先生は弱り切った顔でそう言った。のちに彼らが捕まった後には、「たかはら」は彼らの前でよくパーカーのフードをかぶっていた、という事実が先生たちにも知れ渡るのだけれど、このとき彼らはそこまでの事情を知らない。隣に立つ教頭先生が硬い口調でそれに続いた。

「警察へ連絡して、今度こそ彼ら三人を逮捕することになるだろう。親御さんにもその旨を連絡し、協力してもらう。塚原くんには、とばっちりということになって、本当に気の毒だが……」

 いえ、と短く応じて、塚原は寮長と共に頭を下げた。そもそも消灯後の外出は禁じられているのである。けれどそのことについては校長先生が「今後はきちんと寮の規則を守ることです」と言っただけだった。さすがに暴行の痕がありありとわかる塚原を叱る気持ちにはなれなかったのだろう。もう一度頭を下げて、二人は校長室を後にした。



 時間は昼休みもあと十分で終わるというところだった。寮長と別れ、二組の自分の教室に戻る塚原の足取りは重い。クラスメイトから色々と聞かれることは特に問題はなかったけれど、恩田と顔を合わせるのが気が重かった。

 それでも授業を休むわけにはいかない。暴行を受けた原因は、だるさにかまけてうたた寝をし、結果寮長を巻き込んで規則違反を犯した塚原本人にもあるのだから。複雑な気分で教室へ入った。

「おう、塚原」

「大丈夫だったか」

「おじいちゃんから聞いたぜ、大変だったな。痛いか」

 クラスメイトが次々に心配する声をかけてくれる。どうやらホームルームで三木先生が事情を簡単に説明していたらしかった。きっと彼らは詳しい話を聞きたかったのだろう、塚原は構わなかったのだけれど、頭に巻いた包帯や顔に大きく貼られたガーゼにその気を削がれたようだった。温かい言葉をかけた後は、誰も塚原の行動を制限しようとはしなかった。塚原は自分の席へ鞄を置き教室を見回し、そこで恩田がいないことを知った。


 まだ甲斐とメシ食ってんのかな。それとも好きな人とかな。

 ちょっと拍子抜けして、松谷に一声かけておこうとまた教室を出たとき、その声がした。

「塚原っ!」

 振り向くと廊下の先に恩田の姿があった。彼は慌ただしく他の生徒のあいだを走り抜け、あっという間に塚原の元に来ると両肩を掴んで揺すった。驚いた。その瞳も表情も尋常とはいえない恐慌に陥っている。

「恩田」

「大丈夫か! 頭と、顔……あとどこやられた」

「大丈夫。てか恩田、痛い」

「どこだよ!」恩田は手を離さなかった。

「背中と腹とか……恩田、離して」

肩に食い込む彼の指が服の下の傷を押さえていて痛い。塚原は身をよじったけれど恩田は気づいていない様子だった。

「……大丈夫だって」

「何が!? だいたい誰がこんなことしやがったんだ!」


 彼は明らかにいつもと違っていた。顔が怒りに赤くなっていて、塚原の話す言葉尻だけを捉えて短絡的に詰め寄る。塚原はそんな彼に戸惑いながら、とりあえず彼の肩を軽く叩いた。

「大丈夫だよ。頭も骨も異常ないって病院でも言われたから」

「…………」

「犯人に心当たりあるって寮長も言ってたし、教頭先生も警察と協力して捕まえるって言ってくれたから。先生から聞いたろ。俺、人違いだったんだよ」

 かなり必死になって塚原が言い募ると、ようやく恩田の顔から怒りが鎮まっていき、その代わりいっそう沈痛な表情が満ちていくのがはっきりとわかった。

「だから大丈夫だって。俺、午後は授業受けるし」

 肩を掴む恩田の指が力を弱めたこともあって、塚原は微笑むことができた。内心ほっとしていた。彼と顔を合わせることを恐れていたけれど、それは一瞬で消え去り、今はまったく別の恐れが塚原の心のうちにあった。苦い顔より、怒った彼を見る方が何倍も怖い。まったく、心配してもらってうれしいとかそういうレベルではない。

 それに恩田の大声に何事かと周囲に人が集まってきていた。教室の窓から二人を見やる生徒もいる。とりあえず恩田を教室に連れていかなければ。


「恩田、」

 うつむいてしまった恩田の顔をのぞき込んだ塚原は、しかし次に腕を引かれ、彼に抱きしめられた。

「わっ……!」

 今度は塚原の方が恐慌に陥った。心臓が飛び跳ねる。恩田の腕が回って、手の平が腰を掴んで、痛む肩に彼の顔が押しつけられる。長いこと触れていなかった彼の匂いに包まれ、その体温を敏感に感じ取ってどうしようもなく胸が震えた。その震えがやがて大きくなって全身を通り抜け、酔った身体が動かなくなり……たちまち何も考えられなくなる。

「……笑うな」

「な……に……」

「そんな風に笑おうとすんな。笑って話せることじゃないだろ」

 頬と頬が触れていて、耳にかかる彼の息が、塚原のこごった気持ちを激しくかき立てた。とても抑えられるものではなく、それは溶けて心の中に満ちていく。目がくらんだ。

「だから、おれは……」

「きつかったろ。痛かったろ。大丈夫なんて言うなよ、俺には」

「けど、ほんとに、たいしたことなかった、って」かろうじて塚原が返事をすることができたのは、周囲の目を感じていたからだった。最後の最後で理性を保とうと頭が必死に回転している。なのに恩田の方は、そんなものまったく眼中にないらしく、どこまでも感情にあふれた声で塚原の心を乱した。どうして。

「お前がたいしたことなくても、俺が嫌なんだよ……」

 彼はますます抱きしめる手に力を込める。苦しかった。いけない。痛みとは別の理由で目が熱くなった。まばたきを繰り返し、その衝動をやり過ごそうとする。


「……離せよ」

「嫌だ」

「恩田、ばか、ダメだって。……また噂になる」

「お前が泣くまで離さない」

 これだけ身体が密着していて、恩田が気づかないわけがなかった。答えられず、塚原は首を振る。深呼吸して嗚咽を飲み込んだ。声はほとんど吐息のようだった。

「離せよ」

「…………」

「……ダメだって、」


「ダメならそれでいい!!」


 廊下に響き渡る声がそう叫んだ。恩田は身体を離し、肩を掴んでもう一度塚原と向き合った。痛い。

「頼むから、俺のいないところで痛いとか辛いとか苦しいとかそんな目に遭うなよ! そういうときは俺に言えよ!」

「……な」

 いつもの彼からはとても想像できない、理不尽な言い分だった。さっきの怒りと沈痛さを同じだけ飲み込んだ苦しげな表情がそこにあった。

「……なに、言ってんだよ」

「――お前がっ!!」

 噛みつくように続けて叫び、彼は瞳の中で感情をほとばしらせた。波立つ強い光、強い感情の色――怒りか、それに近いもの。

 けれど次には塚原の驚く顔を認め、恩田はその目を伏せた。

「……そんなお前を見てると……平気でいられない」

強い感情の末に、そんな言葉が彼の口からこぼれる。

「……塚原には笑っていてほしいんだ。何も言わないから、俺のために笑って」

「……なん、で、そんな」

「なんでも何もない。理由とかじゃない。……嫌なんだよ」

「……そんなの、俺……俺に言うことじゃないだろ」

「…………」


 恩田が口をつぐむ。彼はただ動転しているのだ。自分が今何を言っているのか、きっとわかっていないのだろう。こんなに人がたくさんいる中で塚原を抱きしめ、途方もない言葉を吐くなんて。そう思い至ると反対に、塚原は少しずつ平静を取り戻し始めた。

「落ち着けよ。俺は大丈夫だからさ」

 肩に置かれた恩田の手をぱんぱん、と叩く。手の震えを悟られたくなくて、すぐに引っ込めた。周囲の生徒に聞こえるようにわざと声を大きくして言った。

「……恩田さー、いくらおせっかいっても限度あるだろ。なんだよこれ、なんか俺たち、生き別れた兄弟みたいじゃん」

 一言めが滑り出ればあとは簡単だった。軽い口調、最後は笑い声に近いような声も出せる。恩田が唇を噛んで表情を固まらせる。波打つ瞳が、ようやく鎮まった。


 ふと塚原の視界に近づいてくる生徒が見えた。甲斐だった。隣に立つ松谷の身体をさりげなく手で制して、こちらに駆け寄ってきた。腕を伸ばして塚原と恩田、二人を抱え込むように抱きしめた。

「塚原が心配だったんだよー、だって見てよこの包帯!」

「でもちょっとこれ、強そうに見えない? 勲章っぽくない?」

「全然! かわいそうな怪我人にしか見えないって」

 調子を合わせて話しながら、塚原は心の中でほっと息をついた。甲斐も松谷も、たった今騒ぎに気づいて駆けつけてきたのだろうか。それとも周囲の生徒に混じって制止する機会をうかがっていたのか。どちらにしても助かった。


 そこで運良く昼休み終了のチャイムが鳴り響いた。誰からともなく周囲の生徒は散っていき、塚原たちもそれに急かされた体を作って、それぞれの教室へ戻った。

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