崖っぷち

 三学期が始まった。

 今日も北風が強く吹いていて、空もどんより曇っている。いつ太陽が沈むのかというより、太陽が本当に昇っていたのかわからないくらいだ。こんなに寒くて風が痛いほど冷たい日は、早く帰ってこたつにでも入りたい。グラウンドで活動する運動部のほとんどの生徒はそう思っているだろう。塚原もそうだった。今すぐ寮に帰って温かいご飯を食べたい。熱い風呂につかりたい。ふかふかのベッドにもぐり込みたい。そう思いながらも、かじかむ彼の手は陸上部の部室の鍵を開けている。


 ぽん、と後ろから頭を叩かれた。

「さて、今日で何回目でしょう」

松谷の声だ。手にしたジュースの紙パックを塚原の頭から下ろす。塚原は振り向きもせず、平たい声で答えた。

「……三回目」

重いドアを開けて、中の電気を点ける。

「……わかってたのかよ」

そう言いながらも松谷の表情はまったく他人事と言った風である。塚原に続いて部室に入り、自分のロッカーに鞄を放り込み、着替えを始める。

 何のことか、言われるまでもない。塚原の「朝自力で起きる」目標のことだった。


「まだ罰ゲーム何にするか決めてないんだからさ、もうちょっと頑張れよ」

他人事の次は、まったくやる気のない先生の風情である。塚原も隣で着替え始め、Tシャツを頭からかぶって言い捨てる。

「五回目やってから決めれば。ゆっくり時間くれてやる」

「じゃあ罰ゲーム! ってなってから決めたら不公平だろ」

変なところで律儀なものである。塚原はため息をついた。

「……だったら罰ゲームなんてやらなきゃいいじゃん」

「ペナルティがないと意味ねえだろ。あと俺だってボランティアでやってんじゃないし。何か得するためだし」

「松谷くんさいってー」

もはや台詞の棒読みだった。


 塚原はここ二週間の間に三回も遅刻をした。先月、恩田に宣言して「朝自力で起きる」目標を立てて以来、年末実家に帰る日まで一度も寝坊をしていなかったのに、である。別に目覚まし時計が壊れたわけではなかった。松谷に説明できる理由としては、

「実家でぐうたらしてたからだろ。せっかく整ってた体内時計、また狂わせやがって」

ということになるのだけれど、本当の理由は、塚原自身が一番わかっていた。

 寝つきが悪い。

 ここ最近は、布団に入ってから一時間は眠れない日がざらだった。それによって夜中の眠りが浅くなり、さらにそれが朝方の眠りの深さにつながる。二ヶ月前よりもっとひどい悪循環が起きていたのである。


 ランニングシューズの靴紐を結ぶ手が止まる。

 寝つきが悪いのは、年が明けてから。夜空を見つめながら、心のうちで収束した自分の気持ちの終着点がわかったから。胸にずきりと痛みが走った。

 ――淋しい、という気持ち。

 夜になって、布団に入ると必ず彼のことを思い出してしまう。音を立てずひそやかに、塚原の部屋に避難してきた彼。ためらいがちに布団に入ってきて、心の底から安堵した息をつく。そのうちに温かい布団の中では異質なほど冷たかった彼の身体にゆっくりと体温が戻ってくる……

 どうして今になって思い出すのだろう。その記憶はもう一ヶ月以上も前のものなのに。


 彼から好きな人がいると伝えられ、もう部屋には行けない、迷惑をかけられないからと言われた。もっともだと思った。あのときは彼の恋が叶うことを願ってすらいたのに。それは本当に、塚原の心の本当だったのに。

 もう少ししたら彼が避難してくるかもしれない、と今でも塚原の心のどこか掴みどころのないところがそれを待っている。あり得ないことだとわかっているから、それがさらに淋しさを呼んで、胸の痛みを呼んで――実は寮の部屋の鍵をいまだにかけられずにいる。

 味わったことがない感情に、塚原の心は沈み込んでいた。



 この朝の事態がわかれば(同じクラスだからすぐにわかる)、その彼……恩田は眉をひそめて詳しい事情を塚原に問いただすかもしれなかった。もしくは、塚原の頭を軽くこづいて励ますかもしれなかった。けれど、そうはならなかった。

 三学期に入ってからは、恩田は塚原が遅刻しようとしまいと、そのことについてはまったく触れなくなった。ただ変わらない笑顔でおはよう、と挨拶をする。遅刻してしまった日はその笑顔が少し困ったような笑顔になるくらいだった。

 そのことがさらに、塚原の心を沈ませた。

 それ以外のことは今まで通り、気軽に話しかけてくるし、甲斐と三人で昼休みに学食へ行ったりもする。二月に行われる持久走大会の練習でも、スタート地点で一度隣り合うとゴールまで話をしながらのんびり走り、二人揃って先生に注意されたりもした。


 けれど。

「おはよう」

「おー」

 恩田の柔らかい笑顔。だんだん、それに合わせて笑顔を作って挨拶をすることにものすごくエネルギーを必要とするようになっていた。心のエネルギー。今日もそれを振り絞って恩田に顔を向ける。甲斐がいれば、もう少しましなのに。


 そういう沈み込んだ心を放り出すため、塚原はひたすら走った。

 今までもそうしてきたのだ。どうにもならない、朝に弱い自分の体質。事あるごとにそれを悲観して悲しげな顔をする母。悟ったように気楽に笑う父。遅刻のことでちくちく嫌味を言い続けた中学校の英語の先生。陸上部の大会でわざと足を踏んできた他校の選手。第一志望の高校の不合格通知。付き合っていた彼女からの別れ話。走っている間にすべて風に吹き飛ばして、切り替えて乗り越えてきた。

 初めて味わうこの淋しさが身体中から吹き飛ぶまで、走る。何十時間走ればいいのかわからないけれど、きっとそのうち切り替えられる。

 単純な塚原は、ただ一途にそう思って部活に打ち込んでいた。

 どうしてこんな気持ちになるのか、その根元を考えることもなく。



 今夜も眠れないな。

 机の上の目覚まし時計の針を見て、塚原は大きく息をついた。蓄光塗料が使われていて、暗い部屋の中でも時間が確認できる。その頼りなくぼんやりと浮かぶ黄緑色の二本の針は、午前一時を指していた。以前ならとっくに眠っている時間だ。

 いや、起き出したことはあるか。

 ベッドの中で寝返りをうち、塚原は記憶をたどる。初めて恩田をラウンジで見つけた夜。塚原はふと目を覚まし、喉の渇きを覚えてベッドから起き出したのだった。あれは何時頃だったか覚えていないけれど、一度布団をかぶって眠りについた後だったから、たぶん同じくらいの時間帯だったろう。


 なんであのとき、目が覚めたんだろうな。

 不思議なものである。似たような夜が今までまったくなかったとはいわないけれど。


 …………。


 何か服の端を引かれるような感覚に導かれて、塚原は起き上がった。そのまま自分の部屋を出て、ラウンジへ向かう。

 その行為が何を表すのか、塚原は自分でわかっていたけれど、やめようとは思わなかった。どうせこのまま布団に入っていたところで眠気が起きるとも思えない。薄暗い廊下を歩くうちに身体が冷えてきた。窓の外は暗い。寮の庭の木々の合間に遠く街のネオンやビルの明かりがささやかに見えるだけだ。しばらく自分の足音だけが頼りなく廊下に響いていた。



 いつかと同じように、消灯後のラウンジは自動販売機の無機質な明かりだけに照らされて、しらじらと浮かび上がっていた。塚原が一歩進むと、ソファの一つに人影を見つけた。


「恩田……」

 どうしてこんなところにいるのか。彼はそこに座っていた。あのときと違い、毛布にくるまってイモ虫になってはいなかった。塚原はまばたきを繰り返して目を凝らした。それは視線の先の彼も同じだったようだ。眉根を寄せて目を細めている。

「塚原?」

 塚原を認めて、恩田は微かに笑った。その表情を見た瞬間、なぜか塚原はひび割れた鏡に映る自分の顔を見たような気がした。


「……どうしたんだよ。何か買いに来たの」

 そう訊かれて初めて、塚原は自分が何の目的もなくここへやってきたことを思い出した。ここへ来るためにここへ来たのだった。

「……お前こそ、こんなところで何してるわけ」

訊かれたことには答えず、質問で返す。けれどそんなこと、訊かなくても塚原にはわかっている。

「またここで寝るなんて言うんじゃねえだろな」

軽い口調でそう言ってみたけれど、少しずつ心臓の鼓動が早くなっていた。熱を伴わず、ひたすら高鳴り続ける鼓動。


 今、ひとつ言葉を間違うだけで、ひとつ身体の動きを間違うだけで、何かが崩れ去ってしまうような気がする。何かというのは、塚原のことか、目の前の恩田のことか、二人のあいだのことなのか、今この空間のことなのかはわからない。自分が今崖っぷちに立っていることを、唐突に塚原は自覚した。


「まさか」

 恩田も塚原の調子に合わせて軽く応じた。「あいついるじゃん。登山部の。頼んだら、寝袋もあるし、同室のやつも大丈夫って言ってくれた」恩田はクラスメイトの名前を口にした。教室で恩田とよく話す仲間のうち、どちらかと言えば物静かな、落ち着きのある印象の男だった。

「……甲斐のいびきがひどい上に、俺が神経質になってるって伝えてるよ」

 心配する塚原の表情を読み取って恩田がそう付け加える。なんだか彼の顔を見ていられなくなってきて、塚原は目を伏せた。

「なるほどな。あいつ何号室だっけ」

「一○二」

 ラウンジは寮の一階の玄関に隣接する中央部分に位置している。一○七号室の恩田が一○二号室へ向かう途中に、このラウンジはあるのだった。

「……そっか」

「……うん」


 そのまま二人は黙り込んだ。恩田はソファに座ったまま、塚原はその向かいのソファに手を置いて突っ立ったまま。自動販売機の低い駆動音が一段落して、隙間のない静けさが辺りに広がった。しん、と耳が無音の刺激を拾った。

 どのくらいの時間になるか、二人ともおかしいほど黙っていた。これ以上特別に話すことがあるわけではない。だったらどちらも次の行動へ移ればいいのに、それをしなかった。相手も動かないことが、黙っている理由のひとつでもあった。


 早い鼓動は鎮まる気配がない。それどころかずきずき痛み始める。いつかと同じように胸が詰まって、息が苦しくなってくる。思わず塚原はうつむいたまま自分の喉に手をやった。

「……そろそろ、行くよ」

 恩田が静かにそう言って立ち上がった。顔を上げた塚原と目を合わせて、「おやすみ」と柔らかく微笑む。


 胸が痛い。

 息が苦しい。

 これ以上はこらえきれない、とそのとき思った。


 ――もうだめだ。


「……行くなよ」

 すれ違いざまに、恩田に背を向けたまま、塚原は口に出してそう言っていた。恩田が驚いて振り向く気配が伝わる。

「塚原?」

「行くなよ」

「…………」

「行くなよ。他のやつのとこになんか」

 苦しくて苦しくてようやく絞り出した言葉は、塚原をさらに苦しませるものでしかなかった。崖っぷちから突き落とされて、遥か真下の地面に叩きつけられ上を見上げたところで、ようやく塚原は自分がどこに立っていたかを知った。


「お前が好きだ」

 思うと同時に言っていた。寒い。身体が震え始める。両手で自分の身体を押さえ込んでも、震えは止まらない。

 痛みを覚えるほどの――思い。

「……つかはら」

「恩田が好きだ」

床を見つめる塚原の視界の端に恩田のスリッパがうつる。

「…………」

「お前に恋人がいるのはわかってる。けど、お前がいないと眠れないんだよ」

 膝から力が抜けていく。いつの間にか、塚原はしゃがみ込んで頭を垂れていた。身体は冷たいのに目だけが熱い。胸を詰まらせ息苦しくさせていたものがとうとう目からあふれ出ようとしていた。


 自分がどこに立っていたかわかったところで、叩きつけられた痛みが消えることはなかった。むしろ、わかったことでより強い痛みを感じる。

 肩に温かい手が触れて、目が眩んだ。恩田の手だった。

「ごめん……」

彼の手はいっそう強く塚原の肩を掴んだ。その力のまま、抱きしめてほしいとそのときほど望んだことはなかった。雪が舞う寮の門の前で、彼が誰よりも何よりも大好きなあのきれいな人にしたのと同じように。

「……俺には、付き合ってる人がいる」

 ――そんなものいくら望んだって、叶うはずないのに。


 手が離れた。立ち上がる気配がして、さらに彼の声が届く。

「……部屋に、戻って。あったかくして、」

寝るんだ、という言葉がかすれていた。そのまま気配は離れていき、足音も次第に遠のいていく。

 その音がずっと頭の中で反響する。

 消えない、消えない、消えない――……。


 ごめんという言葉、肩を掴んだ手、遠のく足音が何度も反響しながら頭の中をぐちゃぐちゃにかき乱していく。いつまで続くかと思えたそれがようやくおさまったとき、塚原は自分の部屋のベッドで朝を迎えていた。

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