勉強会

 十二月も中旬に入り、期末テスト一週間前になった。二人で顔を赤くして朝食を食べて以来……ここ二週間ほど、恩田は塚原の部屋に世話になっていない。さすがに甲斐もその恋人も、テスト前まで夜中に会っていられないのだろう。夕食後はそれぞれ部屋の机について、テスト勉強に追われる日々だった。


「恩田、何時までやる?」

 部屋の時計を確認して甲斐が訊いてくる。時間は十二時十分。

「いや、もう寝る」

きっぱりと恩田は答えた。問題集の答え合わせまできりよく終わった。伸びをして、すぐにベッドへ向かう。

「お前まだやるんなら電気つけてていいよ」

「あー……いや、いいよ消して。その方が集中できる」

勉強するだけなら机の照明だけで充分だ。そっか、と応じて恩田は遠慮なく部屋の電気を消し、布団にもぐり込んだ。仕切りのカーテンを引く。再び静まり返った部屋の中で、鉛筆が紙の上を滑る音や参考書をめくる音だけが聞こえる。


 塚原ももう寝たかな。まだ机についてるかな。

 ベッドの中で、自然とあの世界一平和な寝顔が思い出された。眠ること、時間通りに起きることを第一に考える彼なら、もう布団に入っていてもおかしくない。

 それとも、根詰めて勉強してるのかな。

 高校に入ってから、中学の時にはなかった焦りがあると以前言っていた。授業についていくので精一杯だと。

 ひとつ思い出せば、花開くように塚原のことが頭の中に広がっていく。

 精一杯なら、言ってくれれば……何かしてやれることが……あるのに……。

 そんな思いを広げたまま、恩田は眠りに落ちた。



 翌朝。朝食を食べ終えた恩田はすぐに席を立った。

「塚原くん見に行くの?」茶碗を持ったまま甲斐がすかさず尋ねる。

「うん。ごめん、先行ってて。今日なんか嫌な予感がする」


 甲斐には、恩田が朝塚原の世話をしてやっていることについて説明していた。もちろん恩田自身の事情も、塚原の部屋で(しかも二人で一つのベッドを分け合って)寝ていることも一切言わず、単に「彼が朝に弱いため、様子を見に行っている」ということだけだ。別に嘘でもない。


 それ以前は塚原の部屋で寝た後、早めに起きて自分の部屋に戻っていた恩田だったが、最近はそのまま塚原の部屋で自分の支度も済ませることも多くなった。甲斐にはさらに「基本的には朝食を終えた後見に行くけれど、時間割によっては一限目が絶対に遅刻できない鬼山先生の授業だから、朝起きてそのまま彼の部屋に行く」と説明している。これもまた嘘ではなかった。その通り、恩田は塚原の部屋で寝なかった日でも、起きてそのまま彼の部屋に行くこともある。


 ちなみに恩田と塚原、二人の身長と体重の数値はどちらも塚原が少し小さい。けれど制服のサイズは同じだ。シャツのサイズも同じだから、この間は洗濯物が乾いていなかった恩田に塚原がシャツを貸してくれたこともあった。「俺のとこで着替えるならその方が早いじゃん」とのことだった。

 それを知った甲斐はにやりと笑う。

「俺も同じ屋根の下で生活してるってのに、この上二人だけで同棲みたいなことしないでくれる?」

「……あほ」

さすがの恩田も、少々頬を赤くして甲斐の頭をこづいた。そして彼は絶対に「俺も塚原くん見に行こうか」とは言わないのである。わかっているくせに面白がっている。


 塚原の部屋をのぞいてみると、なんと彼は机に突っ伏して寝ていた。夜に勉強していてそのまま眠ってしまったのだろう。それにしても眠気を感じた最初にベッドへ行かないものか。恩田はため息をついて駆け寄った。

「こら、塚原」

「あ……、おんだ」

「寝るならせめて布団に入って寝ろよ」

「……うん」

いつも通り、曖昧ながらも律儀に返事が返ってくる。半分寝ている状態の彼を立たせ、洗面所まで連れてってやる。顔を洗って少しは開くようになった瞳をのぞき込んだ。

「えらく根詰めてやってんじゃん」

「……うん。……悪い点、取りたくないし」

尤もだ。「目ぇ覚めた?」

「うん、ごめん。大丈夫。ちゃんと行く」

「よし」

ぽんぽん、と塚原の頭を叩いて部屋を出る。一歩進んだところでふと思いつき、ドアノブを手にしたまま振り向いた。塚原は気づかず眠気と闘いながら着替えている。まあいいか、と口の中で言ってから、恩田は廊下を歩き出した。


 学校へ向かうと、昇降口で甲斐に追いついた。恩田の顔を見るとすぐに訊く。

「あ、塚原くん大丈夫だった?」

「うん。つーかあいつ机についたまま寝てた……見てるこっちが首痛くなる」

ひえー、と甲斐も驚いて目を丸くした。靴を履き替える。

「そりゃまた頑張ってんねー」

「中学の頃より、授業ついていくのが大変だって言ってたから」

「そっかぁ」


 階段を上がって、廊下をさらに進む。ところどころで生徒が固まって話をしたり、ふざけ合ったりしている。昼休みになると、この中にキャッチボールなど始める者が出てきたりする。手前の恩田のクラス、二組で二人は自然と足を止めた。

「……部活って、今日からどこも試験休みだっけ」

唐突に、甲斐が聞いてくる。

「うん? 確かそうだった」

「塚原くんも休みかな」

「たぶん」

恩田がそう答えると、甲斐はうれしそうに笑った。

「……じゃあさ、三人で勉強会しない?」

瞳をきらきら輝かせてそう言う。その表情を見て肩をすくめながらも、ついさっき似たようなことを自分でも考えてはいたので、恩田はうなずいた。

「声かけてみるよ」

「よろしくー」

ひらりと手を挙げて、軽い足取りで甲斐は駆けて行った。恋人は恋人で、塚原のことはよっぽど気に入っているらしい。苦笑した。

 まあ、わからなくもない。


 さて教室へ入ろうとしたところで、声をかけられた。

「恩田」

「……佐野先輩!」

驚いて大きな声を上げた恩田に、彼は優しく笑いかけた。

「どっ……どうしたんですか」

「びっくりしたー? あはは」

「めっちゃびっくりしました」

正直に恩田がそう言うと、彼はますます笑いを深くした。


 ひろ。恩田と同じ中学だった、一年年長の先輩だ。中学時代に委員会を通じて仲良くなった。大きな目と口許、色素の薄い髪の毛がまるで外国人のようで、ファッション雑誌からそのまま抜け出たような洗練された雰囲気を持つ男だった。小首を傾げてくすくすと笑う仕草は、小粋な外国人女優といった風にすら見える。恩田は大声を出したことが今更ながら恥ずかしく、頬が熱くなった。


「英和辞書貸してくんない? 知り合いんとこ行くより階段ひとつ下りた方が早いからさー」

校舎は一年の教室が二階、二年の教室が三階、三年の教室は四階となっている。

「いいですけど、同室の先輩は…」

「あいつ、ダメ。他のやつに貸してんだもん。薄情だよな」

鼻にしわを寄せて肩をすくめる。同じ高校に入ってからも、こうしてたまに声をかけられることがある。恩田は笑って大きくうなずいた。

「じゃあ持ってきますね。俺今日午後イチで使うんで、昼休み先輩のクラスに取りに行っていいですか」

「そんなパシリみたいなことさせないよ。ちゃんと返しに行くから」

「……ありがとうございます」

「優しい先輩だろ」

「いえ、普通です」

 二人揃って大笑いした。廊下にいる生徒が何事かと見ている。「あ、ほら早く」とそれに気づいた佐野が恩田の背中を叩く。恩田は慌てて辞書を取りに行った。

 辞書を渡して佐野を見送った後も、叩かれた背中の感触が残っているような気がしてくすぐったかった。


 その後、塚原はホームルーム開始五分前に教室に入ってきた。額が赤くなっている。何時間もあの状態で寝ていたのだ、さすがに顔を洗ったくらいでは元に戻らなかったらしい。クラスメイトから訳を訊かれ、苦りきった顔で説明をしていた。案の定周りで笑いが起きる。「うるせー」と言い捨てて鞄を置くと、彼はまっすぐ恩田の方へ駆け寄ってきた。


「……おんだありがと」

 口をへの字に曲げて、額を手で隠しながら平坦な声でそう言う。教室に入ってからの一連の様子を見ていた恩田が、既に笑っていたせいである。

「寝る前まで様子見てやった方がいいか」

「恩田までそういう意地悪言う?」

「冗談だよ。よく間に合いました」

ぽん、と頭を叩くと、塚原は表情をそのままに小さくうなずいた。しかしやはりネクタイが歪んでいる。恩田は席に戻ろうとする彼を引き止めた。

「不器用ってわけでもないのにな、塚原は」

いつものように結び直してやる。

「そうそう、今度ネクタイ教えてって言おうと思ってた」

「うん」

手を離すと、礼を言ってすぐに塚原は自分の席へ駆け戻っていった。本当に、馴れきった犬や猫のようで、思わず頬が緩む。


 そこで不意に視線を感じた。教室内のあちこちで数人のクラスメイトがこちらを見ている。目が合った瞬間に逸らす者、笑顔を返す者……

 ――ん?

 しかしすぐにチャイムが鳴り、担任の三木先生が入ってきた。恩田が何か感じる前に、教室内はいつも通り朝のスタートを迎えたのだった。



 今日から部活がない。それだけでかなり気が楽になるものである。別に毎日嫌々行っているわけではないけれど、練習はやっぱりきついし、時につらい。特に冬の今の時期は、寒さのお陰で走り始めが非常につらい。身体が温まるまで、ひたすら冷たい北風の中に突っ込んでいくようなものなのだ。


 塚原は授業が終わると、手早く片付け席を立った。そのまま寮に帰るだけだったので恩田に声をかけようかと思ったけれど、彼はまだクラスの友達と話しているようなので気が引けた。一人で教室のドアをくぐり、昇降口へ向かう。


「よっ」

 靴を履き替えたところで肩を叩かれた。松谷だ。彼もまた帰るところらしい、いつものウインドブレーカーではなく、学校指定のコートを着ている。

「テスト前ってさ、部活ないのが確かに楽だけど、かと言って別に楽しい気分にはなれないよなあ」

「お前は毎回真面目にやってっからな」

 塚原のぼやきに、松谷は軽く応じた。松谷が根詰めて勉強しているところなんて今まで見たこともないけれど、彼が決して成績が悪いわけではないことを塚原は知っていた。順位で言えば塚原より遥かに上だ。なんとも言えず、口をつぐむ。


 昇降口を出て歩き出すと、強い北風がまともに身体に吹きつける。刺すような冷たさだ。こんなときは寮生で本当によかったと思う。どんなに寒かろうが暑かろうが数分の我慢だ。空は冬らしく、むくむくと雲がはびこっていてすっきりしない。塚原の頭の中そのものの情景だった。いまいち晴れない気分を抱えたまま寮の玄関へ行くと、そこで甲斐と行き会った。

「甲斐くん」

「お疲れさーん」

塚原を認めると、柔らかくにっこり笑う。その笑顔を見たとき、彼と最初に会ったときに感じていたひっかかりが、心のうちのどこにも残っていなかったことに気づいた。不思議だ。自然に笑い返す。

「出掛けんの」

「ちょっとコンビニまで。あれ、つーか恩田から聞いてない?」

「へ?」

 松谷は二人が話し始めたのを見ると「じゃーな」と手を挙げ先に靴を履き替え部屋に向かって行った。「おう」と手を上げて応じ、塚原は首を振る。

「何かあったの?」

「いや、せっかくだから三人で勉強会でもしないかなって恩田と話しててさ。もちろん塚原くんが乗り気だったらだけど」

「……俺? いいの?」

「だって今日机についたまま寝てたんだろ? 恩田から聞いたよ。そのやる気は尊敬するけど、さすがに連日はきついでしょ。俺八組だけど、五教科だけなら先生だって同じだし、お互い弱いとこ埋め合わせできるじゃん。あんまし無理して当日インフルエンザとかになったら目も当てられないよー」

 明るい口調で甲斐が言う。朝クラスメイトにからかわれたことを思い出し、反射的に口をへの字にして顔をしかめた塚原だったけれど、話自体は願ってもない提案だった。その上甲斐の言うことはいちいちもっともで、それでいて嫌味も感じられない。

「えっと、じゃあ、俺も参加していい?」

「うんうん。オッケー」

大きく笑顔でうなずいて、甲斐は玄関のドアに手をかけた。

「メシ食って、風呂入った後俺らの部屋においでよ。一〇七号室だから」

「わかった。ありがと」

「またねー」

ひらりと手を挙げて、甲斐は出かけて行った。その余韻が消えるまで、なんとなく塚原はドアの方を向いたままでいた。

 本当に、イメージ違う……優しいやつ。

 恩田の言う通りだ。世の中の不思議に出会ったような気持ちに包まれながら、塚原は自分の部屋へ戻った。



 夕飯と風呂を済ませ、勉強道具をまとめて一〇七号室を尋ねたのは午後八時過ぎ。風呂から上がったばかりで、寒さはさほど感じない。入った部屋の温度が一瞬暑いかとすら思えるほどだった。

「いらっしゃーい」

「お邪魔します」

「おー……って――」

 やっぱりうれしそうな笑顔で迎えてくれた甲斐と、奥の机の一つでこちらを振り返った恩田。塚原の一人部屋よりやや広めの空間には、ベッド、机、クローゼット等の家具がそれぞれ二つずつ左右対称に配置されている。その真ん中には脚の短いテーブルが置かれていた。


「またお前は」

歩み寄ってきた恩田に軽く頭をこづかれる。

「なに」

「そんな薄着で歩き回ってたのかよ」

甲斐がくすくすと笑い出した。そんなことを言われるとは思わず、塚原は戸惑いながら着ているパーカーをめくった。

「いや薄着って、この中Tシャツ着てるし」

「ただの寝間着じゃん。もう一枚くらい着ろって」

恩田の口から躊躇いもなく出てくるその言い草に「お前は俺のかーちゃんか」とツッコミを入れたくなった塚原だけれど、冷静に考えるとこれまで毎日、実の母親以上に世話を焼かれている事実があるのだった。何とも言えず、頬をかく。

「……うん」

「風邪でも引いたら大変だしね。塚原くん一人部屋だし。このままだと恩田が看病に行く可能性大だ」

「そっか」

そういうこともあるか。甲斐の意見に少し反省する。差し出された恩田のニットカーディガンをありがたく借りることにした。羽織った途端、いつも感じる彼の匂いに包まれる。

 はっとした。隣で寝ているときいつも感じる、彼のいい匂い。

 うわ……。

 髪の匂いだけじゃなかったんだ。あれ、恩田の匂いだったんだ。

 それがわかった途端、小さな痺れのような感覚が胸の辺りからじわじわと全身に広がって、塚原はひどくうろたえた。


「そこのテーブル、ちょっと狭いかもだけど」

「狭かったら、俺か甲斐が机に行けば…」

「えーでも、みんなで座った方が勉強会っぽいじゃんー」

そう話す二人についてテーブルにつきながら、塚原はこっそり胸を押さえた。


 最初は雑談混じりに始まった勉強会も、三十分もすればそれぞれ目の前に集中して取り組むようになった。一方で行き詰まっていた塚原には恩田も甲斐も声をかけ、疑問点や不明点、遅刻して聞き逃してしまった重要なポイントなどを惜しみなく教えてくれた。塚原にとってはありがたい以上に申し訳ない気持ちでいっぱいである。もうこの二人には頭が上がらない。そもそもこうして誘ってくれる時点でありがたいのに、である。


 今朝勉強会をすることを思いつき、本当は恩田が授業の合間にでも塚原に話をするつもりだったという。タイミングを逃したのだと肩をすくめてみせた恩田を見て、彼が昼休み教室にいなかったことを思い出した。

「……恩田、甲斐くん、ありがとう」

「いやいやこちらこそ」

「お互い様じゃんー」


 十一時半。そろそろ消灯の時間も近づいてきた頃、勉強会はお開きとなった。あくびが止まらない様子の塚原を見て、恩田が声をかける。

「眠いか」

「うん、ちょっと」

「帰ってすぐ寝ちゃえば、今日覚えたこと定着するよ」

人差し指をぴんと立ててそう言う甲斐は、特に眠くもなさそうである。

「なるほど」


 勉強道具をまとめて、立ち上がる。「ありがとな」と改めて礼を言い、二人の見送りを背にドアを出ようとしたところ、恩田に呼び止められた。

「……やっぱ部屋まで送る」

「え?」

「部屋まで送るって」

「は? いやすぐそこだし」

今度こそツッコミを入れようかと思った塚原だったけれど、恩田の表情を見て口をつぐんだ。いつもと違う、硬い表情だった。目が合うと、すぐに伏せられた。

「……恩田?」

「ちょっと行ってくる」

その言葉はもう甲斐へ向けたものだった。スリッパを履く恩田の身体に押されるようにしてそのまま塚原も廊下へ出る。甲斐もこだわりなく笑顔で応じた。

「はいはい。誰かに見つかんないようにね」

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