ナーベラルの王国語学習帳

M.M.M

第1話

「ナーベ、ナーベ、ナーベ・・・と」

広い室内に小さな声が響き、再び静寂が戻る。いや、聴覚の優れた者なら硬いものが紙の上をカリカリと滑る音が聞こえるだろう。聡い者なら同じリズムの音が繰り返されるのを聞いて「同じ単語を何度も書いているな」と想像できるかもしれない。その通りだった。ナーベラル・ガンマはエ・ランテルの宿にて筆記の練習をしている。もちろん王国語のである。

戦士モモンと魔術師ナーベとして人間社会で偽装身分を作った二人はいくつかの活動によりアダマンタイト級冒険者にさっさと昇進し、名声と信頼と収入を獲得し、計画は順調であった。しかし、アインズには不安があった。二人ともこの世界の文字が読めないことだ。小さな村ならともかく、都市内の識字率は高い。自分達が南方国家の出身という設定を差し引いても、文盲である事がばれると信頼が失墜しかねない。それを恐れるアインズは時間があれば文字を覚えるようナーベラルに命じていた。

「だいぶ上手くなった……と思うけど」

ナーベラルは紙の上に何度も書いた自分の字を見て、羊皮紙に記された文字と比較する。その羊皮紙は自分達に贈られてきた、アダマンタイト級冒険者になったことへ対する祝い状だ。同じ内容のものが貴族や商家のようないくつかの高い身分の人間から送られてきた。相手はコネクション作りや部下としての引き抜きを狙っていると彼女は聞かされたが、正直、よく理解していない。羊皮紙の文字と見比べ、自分の名前だけは綺麗に書けるようになったことに彼女はわずかな満足感を覚える。しかし、自分の名前を見ていつも疑問に思うことが彼女にはあった。

(どうしてナーベが3文字じゃないの?)

ナーベラルは王国語の基礎さえわからないので不思議に思う。そう、基礎さえわからない。これが大問題だった。

(他の単語は一体どういう意味なの?)

ナーベラルは羊皮紙に何が書かれているかさっぱりわからなかった。何枚もの紙に羊皮紙の単語を書き連ね、その長さや配置から「ひょっとしたらこの言葉はこういう意味なのでは?」と想像したりもするが、答え合わせのしようがない。王国語の勉強というより未知の暗号を一切手がかりなく解読するような作業であった。彼女は自分の名前を練習した紙の下から別の紙を出す。そこにはおよそ数十種類の文字が書かれていた。王国語の文字を全て書き出したアルファベットのようなものだ。羊皮紙から抜き出したのだが、その正しい順番はわからないし、本当にこれで文字が全て揃っているかもわからない。自分が書いた王国文字の一つ一つを眺め、彼女は机に突っ伏した。

「あああ……」

ナーベラルは思わず疲労を声に出した。いつもは鋭い目じりが下がり、ポニーテールもへにょりと曲がっている。維持の指輪リングオブサステナンスの効果により肉体的疲労はないが、精神的なものは防げない。

「せめて辞書があれば……」

ナーベラルは存在しないものをつい求める。この世界にも国語辞典のようなものは存在するらしいが(非常に高価らしい)、彼女がほしいのは「ユグドラシル言語/王国語」の辞書である。存在するはずがない。

「それとも家庭教師……ありえない。死んだほうがマシよ」

ナーベラルは首を振った。多くの理由によりそれは論外だった。彼女が現状を変える方法をあれこれと考えていると、ドアを誰かがノックした。

「誰?」

この高級宿には門番がおり、不審者が入って来ることはないが、人間は全て害虫としか思っていないナーベラルは警戒した。

「掃除に参りました」

「……少し待って」

念のため、ナーベラルは防御魔法を使う。物理攻撃対策、魔法攻撃対策、状態異常攻撃対策。並みの魔術師ならもはや過剰といってもいいだけの魔法をかけ、最後に勉強中の紙を羊皮紙の下へ隠し、ナーベラルは入室を許可する。

「いいわよ」

「失礼します」

入ってきたのは若い女性の従業員だ。容姿もなかなか整っているが、今だけは相手が悪い。

「早く済ませて」

ナーベラルは机の羊皮紙を読む振りをした。

従業員はてきぱきと部屋の掃除をこなす。といっても、箒で掃いたり布で磨いたりはしない。魔法を使うのだ。これはナーベラルも真似できない事だった。生活に関する魔法が発達しているこの世界では炊事、洗濯、商売に到るまで魔術師の出番は多い(無論、上流階級に限るが)。彼女は掃除係であるが、食材の保存や毒感知などの魔法も任されているとナーベラルは知っている。ひょっとしたら攻撃魔法の一つくらい使えるかもしれない。

(いいのよ。掃除なら私もできるし、戦闘になれば私の方が遥かに強いのだから)

自分が使えない魔法を使う従業員に面白くない感情を抱きつつ、ナーベラルは早く終わることを願う。長時間の勉強で脳が疲労し、万が一の攻撃にも警戒しているので精神的にきついものがあった。従業員は最後にくずかごのゴミを回収し、失礼しましたと言って部屋を出ていった。

ナーベラルは羊皮紙の文字から目を離し、再び机に突っ伏す。頭の中では王国語がぐるぐると回っていた。

どれほど時間が流れただろうか。彼女は再び王国語と戦う決心をし、羊皮紙に書かれた単語を解析しようとする。その時、胸騒ぎがした。何か大事なことを忘れている。そんな気がする。

(なんだろう?)

彼女は部屋を見回し、空になったくずかごを見る。

「ああ!」

ナーベラルは部屋を飛び出した。


ナーベラルはさきほどの従業員を見つけ、声をかける。

「ちょっといい?」

「ナ、ナーベ様!どうかなさいましたか?」

声をかけられた従業員は驚き、不安そうな顔をする。掃除について文句を言われると思ったのかもしれない。

「あなた、さっき持っていったゴミはどこへやったの?」

「え?あれは焼却して処分することになっていますが?」

ナーベラルは安堵する。燃やされるなら何の問題もない。くずかごにあったのは彼女が勉強のためにあれこれと王国語を書いた数枚の紙だ。あれを見られたら魔術師ナーベは字が読めないとばれるかもしれない。それともう一つ大きな問題があったため、掃除係が来る前に自分で紙を処理するつもりだったが、忘れてしまった。勉強疲れは言い訳にならないだろう。

「焼却したのね?」

「い、いいえ、私は焼却炉まで運ぶだけで、あとはあちらの者が燃やすことになっています」

本当に燃やされたか確認した方がいいとナーベラルは思った。

「ひょっとして、大切なものが入っていましたか?」

従業員の顔が青くなる。相手はこの宿にとっても都市にとっても最重要人物の一人だからだ。

「いいえ、少しも重要なものじゃないわ。ただ、些細なものが入っていて、回収できるものなら回収しようかと思っただけよ。本当に少しも重要じゃないけれど」

重要じゃないことをナーベラルは強調する。ここで騒ぎになって大勢があれを探しに行く事態は避けたかった。

「そうですか。でしたら……」

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ナーベラルは無詠唱で魔法を使用した。女性の瞳に幕がかかり、顔から表情が消える。

「私が捨てた紙の内容を読んだ?」

「いいえ、読んでいません」

ナーベラルは安堵し、従業員から焼却炉の場所を聞き出した。

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