4 重間司津子

 桐沢は酷く落ち込んでいた。絶対見られた。坊主頭でぱつんぱつんのジャージを着た筋肉男に抱えられている姿を、大勢に見られてしまった。死ぬかもしれないという記憶よりも、新鮮なダメージは少年を酷く苛んだ。

「まだ小せぇな」濃紺のシャツとズボンを身に着けながら、シャケは不満を漏らした。

「お父さんのでもダメか。それ、うちにある一番大きな服なんですよ。これ以上はありません」

 着せてもらっている手前、これ以上の要求はできないと、シャケは渋々ボタンをしめた。

 校舎から走り去ったシャケたちは、そのまま桐沢の家に転がり込んでいた。道中、シャケの走りはかつて桐沢が足で体験したことのない速度であった。健康な男子高校生を一人抱えているというのに、驚異的と言う他ない。

 桐沢家は大吾の他に母と兄がいたが、いずれも今は外出中である。これは幸運であった。まるで速度を落とさないシャケが飛び込んだ時、母がいたら警察に電話をかけていたことは間違いないのだから。

「それで、なんでシャケはこの家に、堂々と入っているの? 僕を抱えちゃってさ、走ってさ……」

 亡き父の服を着てもらうことで少しは見れる格好になったシャケに、桐沢は尋ねた。

「やる事があるのよ。学校だと邪魔が入るかもしれないし、人目もあったからな」

 人目なら外にもあったと、眼鏡を弄りながら少年は静かな怒りを溜めた。

「ちょいとごめんよ」桐沢の顔を両手で押さえ、シャケはその瞳を観察した。二、三頷くと、口を開けるよう伝えた。

「はひ?」何、と、口を開けながら桐沢はこの意味を聞いた。

 突然、巨漢は指二本を丸く開かれた中へと突っ込み、一瞬で口腔内を隅から隅まで撫で回した。驚いた桐沢は、思わず口を閉じシャケの指を噛んでしまったが、そのあまりのかたさと力強さに更なる驚きを禁じ得ない。指と共に口が開かれると、サッと抜き去り、シャケは一言断ってちり紙で指を拭き取った。

「今のはなんですか!?」変態染みた男の指を口に入れた事実に関する嫌悪を隠そうともせず、少年は涙目で問うた。

「変なもん入れられたんだろ? 残りがないか確認したんだ。なかったよ」

「それはどうも。良かったですね」言葉とは裏腹に、嫌そうな顔である。

「逆だ。あれば手がかりになった」

 がっかり、という体ではなかった。

 桐沢が疲れていたこともあり、台所で水分補給を終えると、二人はテーブルを挟んで向かい合った。

「シャケ、今一つ分からないことが多いんだ。僕は一体、何を見て、どんなことに巻き込まれているんだ? 君が知っていることを全部教えてくれ」

 顔を強張らせ、桐沢は尋ねた。底の見えない沼に手を突っ込むようなおどろおどろしい感触が冷や汗と共に落ちる。

「ふむ」少し悩み、シャケは答えた。「桐沢君が体験した、誰もいない学校は術によるものだ。術というのは俺と師匠がそう呼んでいるだけで、神の御業、奇跡――いやいやもっと低俗で面白いペテンだな。超能力と言ってもいい。学校では教えてくれないことをやられたんだよ。人間をよく似た場所に閉じ込めて怖がらせるなんて、悪趣味で教えられんからな」

「そんな魔法みたいなことが?」

「ああ、できるさ。君が見たのが全てだ。ああいうことはどこでも起きている可能性がある。

 俺は、そんなもの気にしねぇもんでね。見た通りに、ペテンに使われる力を引っぺがすこともできるし、ぶっ壊すことだってできる。君だけ閉じ込めたつもりで、俺がほいと入り込めていたのも、俺の良いところってわけよ。

 では次に、桐沢君がどんなことに巻き込まれているかだ。これはもう、君の運が悪かったとしか言えねぇ。君が見たのは遺物かそれに連なるナニかを人間に分け与えて、例のペテンを与える作業だ。これをやるってことは、相当根が深いんだなぁ、俺たちを狙った輩は。人を消すのをなんとも思ってねぇんだ。活動の果てに、それ以上の価値があると思い込んでやっちまってるのよ」

 至って真面目な目を向け、シャケは続けた。

「桐沢君。俺の師匠はこういう事件のエキスパートでね。国中のみならず世界中に親交がある。その半分以上が、お仕事だ」

 「もう半分は?」と、桐沢が聞くと、旅行と歌手のツアー追っかけという返答があった。

「お化け退治ではない。ペテン潰しが師匠の仕事で趣味だ。俺はその真似事をして旅をしていたんだが、先日師匠から連絡があった。以前の仕事での旧知である重間司津子から相談を受け、彼女の学校に関する異変の原因究明と事態の収束を引き受けることになった。だが、師匠は今忙しくてな。俺に任せるということだったんだ」

 重間司津子の名前が出ると、力を込めている桐沢から脱力が見て取れた。行方不明になった彼女が大きく関係し、シャケが言うにはもう見つからない。それは自分についての最悪の未来を暗示していると察したのである。

「重間司津子が言うには、学校について師匠の領分であると思われる異変の兆候が見られる。そして、おそらくは生徒の何人かがこれに関わっているとのことだった。彼女もそれ以上は分からなかったらしく、師匠が――実際に来たのは俺だが――到着してから詳しい事を、という予定だったんだがな。この相談のあとすぐに重間司津子が行方不明になっちまってて、俺は困り果てている。

 桐沢君、今度は俺が聞くぜ。重間司津子はどういう人なんだ? あまり知らないだろうが、印象だけでもいいし、行方不明になった前後の情報でもいい」

「本当に、あまり知らないのですが……」間を置いて、桐沢は少しずつ思い出しながら語りだした。「評判は悪くなかったと思いますが、良い評判も聞かない。数多い生徒の内の一人でしかなかったと思います。行方不明になるような兆候も見当たらなかったし。もし、行方不明になったのが個人的なことなら、みんな首を傾げますよ、きっと。残念ですけど、これだけです」

「そうか……」

 腕を組み、巨漢はうーんと呻った。

 絞り出すように、次の問いが放たれる。

「どこか、近づいてはいけないような所で見かけたとか、そういう話は聞いたことがないか?」

「ああ、それならありますよ。というより、その重間司津子が最後に目撃されたのが、猫塚の前なんです。だから、最初は祟りか何かだなんて噂が立ったほどですよ」

「猫塚?」シャケは身を乗り出し、聞き返した。

「ええ。学校の西側にある、黒岩です。ただ、由来が分からないんですよ。昔からあるという人もいれば、あれは戦中に死んでいった猫を慰めるため、戦後になって作られたという人もいます。だけど逸話なんてそんな程度で」

「いや、結構結構。なるほど、猫塚ね、なるほどね……」嬉しそうに頷き、あちこちに目を向けながらシャケはブツブツと言い出した。「そうか、そうか。なぁ、桐沢君。これはとんでもないことだぞ。その猫塚がカギだよ。明日はそれを調べてみようじゃないか」

「僕も調べるんだね……」

 覚悟をしていたものの、それを前提で話すのはやめてもらいたいと、桐沢は呆れ顔を向けた。シャケは笑って返す。

「桐沢君は危ない連中に目をつけられちまったからな。まぁ、俺と一緒にいた方が何かと安全さ」

「そりゃ、シャケが凄いっていうのは分かってるけどさ」

「そうだ」思い出し、シャケは再び問う。「俺が力ごと巻き取ったあの男、菊田といったか。どんな奴だ?」

「真面目な美術部員。部室が隣だったからよく知ってるよ。悪いことをするような人じゃないと思ったけど……」桐沢もまた、身を乗り出す。「悪いことをしてるんだよね?」

「当たり前だ。桐沢君は殺されかけたんだろうが」

「そりゃそうだけどさ。それじゃあ、東雲はどうなの? あれも、シャケが言う、人を消すのをなんとも思わない奴?」

 不安交じりの質問に、巨漢は動じず答える。

「おそらく違うな。聞いたところから推測するに、その東雲ちゃんは意識を失っているだろう。もしかしたら、自分が協力しているという事実すら知らないかもしれんなぁ」

 かと言って、桐沢をぶちのめした事実は消えないとシャケは付け加えた。

「どうだい? これを機に責任取らせて彼女にしちまうってのは?」

「そういうのは嫌いだよ」おどけて言ったシャケに、桐沢は毅然と答えた。邪念のある男子高校生と言えど、わきまえるべきところは分かっている

「あら、そう」満足気に、シャケは頷いた。

 一通り話し終えたのか、シャケは立ち上がり、玄関へと向かった。

「行くところあるの?」心配になった少年は尋ねるが、シャケは明日学校でまた会おうとだけ告げ、そそくさと出ていった。

 あ、ジャージ――脱ぎっぱなしになったそれに気づいた桐沢は、さて、これをどうしてしまおうと家族が帰ってくるまで悩むことになった。


 * * *


 明かりがちらほらと水面に映るのを眺めながら、シャケは夜を歩き続けた。無一文では泊まるところなどありはしない。寒くなるにつれ、人のざわめきやエンジンの音が聞こえなくなっていく。

 暗いのも、寒いのも、平気だった。昔はもっと劣悪な環境で、師のしごきを受けたものである……。

 粒となって夜を彩る星々に、人がその心を奪われやしないか。公園のベンチで風と虫の声を枕に決めたシャケは、写真を見るのを忘れた少女の事を思った。

 シャケが動き出したころには、既に重間司津子は行方不明になっていた。責任などありはしない。しかし、それでもシャケは星を見ていた。木製のベンチの冷たさが、筋肉に守られた身をそれでも苛む。木が揺れれば煽っているようにも思えた。水を吸ったらしい草の臭いもやけに刺激が強い。感傷的になっている自分は、それでも変えようとは思えなかった。

 消えていく街の灯と共に、シャケはその一日を終えた。

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