第7話 援助者

 瓦礫を踏み砕きながら、カレンは懸命に階段を駆け下りる。

 息をきらし、薄闇に覆われた一階エントランスの四方を見まわす。

 無人――ただ、瓦礫が山を成しているだけだ。床には注射器などの医療器具が投げ出され、受付カウンターには、夥しい数の診療録や処方箋が捨て置かれている。

 耳を澄ます。

 ――。幽かに雨の音が響く。そのたびごとに、闇が深さを増していく。

 しかし――さきほどの生存者の跫音は、もうきこえない。

 どうやらあの子供――地下にまでは、降りていないらしい。

 建物に入る際も試したように、エントランスの自動ドアは開かない。見上げると、天井が崩落し、鉄骨が剥きだしになっている。

 …………

 崩落した天井から、液体が漏れているのをみて、カレンは怖気だった。まるでタールかヘドロのようにまっ黒い水滴が、足もとに不気味な水溜りをつくっている。これが世にいう黒い雨――放射性降下物フォール・アウトである。原発から噴き出す放射性物質、死の灰が、雨となって降り注いでいるのだ。

 カレンはゴクリと唾をのむ。

 外でもない。地下でもない――あの謎の生存者の子供はこのフロア――一階の何処かにいるはずだ。地下にまで逃げられなかったというのは、カレンにとって好都合だった。GPSの性質上、地下を探索することになれば、ふたたび作戦本部との連携が分断されてしまう。

 腕時計型のガイガーカウンターに視線を落とす。放射線量は、毎時一〇五〇マイクロシーベルト。

 今回の任務にあたりカレンに支給された腕時計には、通常の時間表示以外に、大きく三つの機能が備わっている。

 まずひとつめが〈ガイガーカウンター・モード〉。常時放射線量を計測しながら、なおかつ積算放射線量が一定量を超えるとブザーが鳴るアラームの役目も果たす。これがあるから、安心してこの廃墟の町の探索ができるのだ。カレンにとっては、まさに命綱とも呼ぶべきものである。

 ふたつめの機能であり二本めの命綱が、本部に居場所を伝える〈GPS機能〉。

 そして――みっつめの奥の手ともいえるのが〈通信機能〉だ。


「作戦は単純だよ、絹木くん」

 社長室で阿藤社長は胸を張っていった。

「善意の見舞金の話を餌に、一カ所に原発ピグミーどもを集めてもらいたい。じつにそれだけなんだ――たった、それだけ」

 眼鏡のブリッジを上げながら、カレンは言葉を挟む。

「〈彼ら〉への支払額の上限は?」

「無尽蔵だ!」阿藤社長は気炎を揚げた。「どうせ政府からの支援金と電気料金の値上げで払う金だ、いくらかかったってわれわれの懐は痛まない。連中が補償の話に乗れば、それもよし。だが、もしも連中が断れば――それならそれで、構わない。もしそうなれば、きみが合図したところで、われわれは本隊を突入させて実力行使でこの騒動を収束させるつもりだ。有事の際にはその腕時計を通信機能モードに切り替え、合言葉を口にしたまえ。『』――それが合言葉だ」

「『』――」

「仮に合図できない状態に陥っても、GPSの反応が途絶えてから一時間が経っても突入させる。原発ピグミーの連中を、一網打尽で捕獲して、永遠の闇に葬り去ってやる!」

 気分のいい話ではなかったが――カレンにとってはひとまず心強い提言でもあった。本隊のバック・アップがあるのなら、ひとまず、じぶんの安全は保証されるというわけだ。援護も命綱もなしに、得体のしれない危険地帯には飛びこめない。

「ところで阿藤社長――その本隊とは、どのような人選を?」

」阿藤社長はカレンの問いをさえぎる。「なぜなら警察は、大衆から金持ちを守るためにつくられた組織だからだ。治安の維持とは、金持ちの暮らしの維持のことなのだよ」

 阿藤社長は禍々しい表情で声を殺して嗤う。

「きみも大東亜電力社員なら『PLTプルート』の存在を知らないわけではあるまい?」

 カレンの表情が凍りつく。冷静な彼女でさえ、眼鏡の奥の切れ長の眼に驚きを隠せない。

 社員同士の噂話で、きいたことはあった――だが、多くの社員がそうであるように、都市伝説のようなもの――と思っていた。あまりに、荒唐無稽のように思えたからだ。

 PLTプルート――正式名称は大東亜電力愛国陸上部隊Patriotic Land force Team。警察組織の機動隊銃器対策部隊からよりすぐりの精鋭のみを集められ、税金で動く大東亜電力の私兵として特別に編成された特殊部隊である。もっぱら大東亜電力関連施設の警護を任とするほか、原発へのテロ行為の警戒、大東亜電力重役の警護、反原発デモの武力鎮圧、原発反対派の議員や知識人の暗殺、原発推進世論形成のためのネットでの裏工作など、その任務は多岐にわたる。けっして表舞台にでることはないため、その戦力の全容はあきらかにされていないが、PLTに比べれば実戦経験のない自衛隊など兵隊ごっこに過ぎないとまで豪語する軍事評論家も少なくない。

「原発ピグミーなどという都市伝説の怪物たちを相手にできるのは、おなじく都市伝説の怪物しかないと思ってね」

 表情をこわばらせるカレンに対し、阿藤社長は不敵に声を上げて嗤った。


 そうだ――いざとなれば、PLTがきてくれる。

 必死に神経を尖らせ薄暗い廃病院を徘徊するカレンにとって、それはなによりも心強いことだった。彼女の背なかは、屈強で練度の高い、銃器で武装したPLT隊員に預けられているのだ。

 一階廊下の奥へと歩を進めるたび、闇がしだいに濃くなっていく。跫音が廊下に反響し、背後から何者かが迫りくるような錯覚に襲われる。

 恐怖と不安を紛らわせるべく、カレンは必死に声を張った。

「何処? ボク、出ておいで。わたしは、あなたの味方よ」


 ――……


 まただ――カレンはじぶんの耳をふさぐ。

 またきこえた――たしかに。

 いったいなんなのだろう、この声は――遠くからの呼び声のようでもあるし、耳もとでささやくような声でもある。

 闇のなか耳を澄ます――しかしそれっきり、声は途絶えてしまった。

 幻聴か――それともさっきの子供の声なのか。廊下は闇に覆われている。なにも、みえない。ただ唸るような風のような音が、耳鳴りのようにきこえるだけだ。まるで異次元へといざなう入口のように。

 なにかが危険だ――この一階廊下の奥には、なにか禍々しい雰囲気が腐臭のように、瘴気のように充満している。

 抑えつけていた不安が、胸のなかで増幅していく。鼓動がすこしずつ、早く大きくなるのがわかる。


 ――カレンさんのことは、ぼくがずっと守るから――


 躰が弱いのに、年下なのにそういってくれた侑梧の言葉を思い出し、反芻する。

 この場に侑梧がいなくとも、その言葉だけが、彼女の支えでありロザリオだった。

 彼はおそらく見抜いていたのだ。いくらカレンが女だてらに背が高く、媚態もふりまかず、気丈を装っても、所詮はひとりの女でしかないことを。

 世の女性がそうするように、周囲の人間に甘えたくとも、甘えることを許されない役を押しつけられてきただけだということを。

 ふいにじぶんが情けなくなった。ふつうの女として生きていれば、家庭に収まり安穏と暮らすこともできたはずだった。だのにじぶんはひとりぼっちで、放射線にまみれた廃墟の町を怯えながら彷徨っている。そんな境遇に――じぶん自身でじぶんを追いこんでしまったのだ。

 彼女の心から希望が失せるように、ふいに闇が濃くなった。

 気配を感じてふり返る――心臓を掴まれたような戦慄。

 

 音もなく、カレンのすぐそばに。

 悲鳴を上げて逃れようとするカレンの腕を、巨躯の男がぐっと掴む。力は強く、ふりほどけない。

「絹木さん――じぶんです」 

 男があわてたようすで放った間のぬけたひと声が、張り詰めた緊張感を一瞬で吹き消した。

 涙の霞みが晴れるにつれ、闇に眼が慣れるにつれ、カレンは眼前に白い防護マスクをかぶった肥え太った男の姿を認めた。

 肥った大男は、弁明するように言葉をつぐ。

「じぶんです――茂楠もくすです。下請けの――。お願いですから、絹木さん、そう怯えないでください――落ち込みますから」

 ようやく事態を呑みこめたカレンは、必死で鼓動を落ちつけようと、深く息を吸った。

「茂楠さん――なぜ、此処に?」

「すみません」茂楠はでっぷり肥った身を縮めて謝る。「病院の外で待っているようにいわれましたが――絹木さんが、どうしても心配で」

「わたしなら……、大丈夫です――」

「いえ」茂楠はかぶりを振る。「じぶん――廃墟探索が趣味で、全国いろんな廃墟をみてまわった経験があるんです。『チェルノブイリ・ウォーカー』ってご存じありませんか? 関西方面じゃ少しは名の知れた廃墟探索サークルです。大学時代に所属してましてね、六甲山の摩耶観光ホテルだとか、愛宕山ケーブルカー駅跡地、広島の毒ガス島、香川の屋島廃墟群なんかにも行きました。だから廃墟がどんなに危険か、わかります。たとえばこの廃病院、注射器が散乱していますが、あれを踏めば防護服の破れからの被曝はもちろん、感染症の恐れもあります。危険な薬品もあれば、野生生物が棲みついている可能性もある。単独行動で動けなくなるような怪我をすれば、それこそ命とりになる。ですがふたりなら――どうにかなることもあるでしょう? ご一緒します。いえ、ご一緒させてください」

「茂楠さん――でも」カレンは声をうわずらせる。「わたしなら、危険は承知の上です。この町の惨状は、大東亜電力が起こした十年前の原発事故によるもの――事故当時、もちろんわたしは社員ではなかった。でも社員になったいまでは、それにふさわしい責任というものがあるんです。下請けであるあなたをこれ以上、巻きこむわけには――」

「大東亜電力の責任もなにも」茂楠は言葉を詰まらせる。「十年前のあの事故は、未曾有の震災による天災じゃないですか」

ッ」

 カレンはまるで悲鳴のように語気を強める。廃病院が、沈黙と静寂の底に沈みこむ。

 原発事故当時――大東亜電力は、事故原因を想定外の地震と津波によるものと何度もくり返した。だが、そんなものは責任逃れ以外の何物でもない。原子力損害賠償法では天災による原発事故に関しては、電力会社の賠償免責を掲げている。地震や台風によって原発事故が起こった場合、大東亜電力は責任をとらず、全額、国家が税金から負担するというものである。免責が保証された以上、電力会社が地震対策、津波対策を怠ろうとするのは自明の理だ。事故前から、非常用電源の脆弱性や津波対策の甘さなど、もともとの安全管理はザル同然だったという。

 さらには事故後の対応も、杜撰をきわめた。津波と地震で発電所内が全電源喪失ブラック・アウトし、冷却装置が機能せず、異常過熱する原子炉を前に、十時間も指をくわえて傍観していたというのだ。本来ならすぐに海水を注入して強制冷却させるべきところをそうしなかったのは、いったん海水を注入してしまうと原子炉は二度と使えず廃炉になってしまうからである。大東亜電力は、地元住民の安全とじぶんたちの損失拡大を天秤にかけ、結果的に被害を拡大させてしまったのである。さらに原発は安全だ、事故は起こらないという前提で運営していたために、まともな防災計画や避難計画さえなく、結果的に住民をいたずらに被曝させてしまった。

「大東亜電力のトップは、いまなお責任逃れをしています。彼らはいい、もう組織を去るのも時間の問題なのだから。だけどこれから大東亜電力の社員として生きていくわたしたちは、責任から逃れることなどできない。この死の町に生存者がいるかもしれないというのなら――そこから眼をそらして生きていくわけにはいかないんです」

「その、お人柄なんですよ――」

 茂楠はゴム手袋に包まれた太いひとさし指を、カレンに突きつけた。そして自嘲するように彼は笑った。

「絹木さん、わたしね、独身で、今年で四十二になるんです。長く勤めていた仕事も失くして、家族もわたしに愛想を尽かし出て行った。ちんけな日銭で暮らす毎日です。日雇い労働のあとに呑む、ビールだけが楽しみの。いってしまえば、負け組ですよ。わたしに生きていてほしいと望んでくれる人間は、ひとりもいない。だけどそれ以上に、じぶん自身でさえじぶんの生を望んでいないんだ。生きてる価値なんて、何処にもない人間なんですよ。ですから、せめてこの残りの命をだれかの役に立てたいと、いままで原発事故処理の下請け労働に志願してきたんです。

でもね、じっさいやってみて、心が折れそうになりましたよ。わたしら下請け労働者と大東亜電力の社員じゃ、おなじ現場でおなじ作業をするにせよ、賃金にしても送迎の車や弁当にしても、露骨に格差があった。あさましい話、社員さんがうな重弁当を食べてる横で、わたしらに配られた昼食は菓子パン一個だったりしましてねぇ――豪華なバスで送迎される社員さんと引き換え、わたしらに割り振られた送迎車はおんぼろワゴン。座席もない荷台に乗せられて、移動するんです。

 それだけなら、ただのやっかみということでもいい。ですが統計によれば、下請け労働者と大東亜電力社員では、おなじ現場でも四倍から五倍もの被曝量の差があるとか。如何にわたしらが最前線の危険な現場に投げ出されているか、わかろうというものですよ。作業には一定量の被曝を検知してブザーが鳴る線量計を携帯する決まりですが、ある現場じゃあその時間制限が不便だからと、放射線を遮断する鉛のカバーをつけた線量計を渡されたこともありました。面と向かって『おまえらは死んだっていい人間なんだ。大東亜電力のための捨て駒だ』とまでいわれたこともあります。国を救うため、と英雄きどりでこの地にやってきたわたしは、ずいぶん理想と現実で差があることを思い知らされましたよ」

 言葉を挟むことができないカレンに、茂楠は片膝をつき、大きな躰を沈めてみせた。

「絹木さん、あなたはほかの大東亜電力の社員さんたちとはまるでちがった。あなたはわたしを、ひとりの人間として扱ってくれた。身を案じ、心を配ってくれた。うれしかった! なんだかひさしぶりに、人として血の通った扱いを受けた気がします。そんな恩人を、見捨てるわけにはいかない。危険のなか、ひとりで行かせるわけにはいきません。嫌だといっても、ついていきます。詰まらない人生を送ってきました――死ぬ覚悟は、できているんです。どうせなら、あなたのようなやさしい人の、役に立って死にたいのです」

 カレンはなにもいえなかった。膝をつく大男の剣幕に、ただ圧倒されていた。

一方で、さっきまで凍えていた胸に、心強い安堵の灯が広がっていく。

 正直いえば、心細かった。押し潰されそうなほど、不安だった。

 たったひとりで――こんな危険な場所に、足を踏み入れなければならないなんて。

「ありがとう、茂楠さん」

 カレンがやっと絞りだしたその声は、震える涙声だった。堪えていた緊張の糸が切れ、カレンはその場に泣き崩れた。

「こちらこそ、お願いします――助けてくださいッ……。生存者を、捜しています。さっき、子供をみかけました。この廃病院の何処かに、子供がいる。生きているんです、あの子は――。どうか――お願いです、いっしょにあの子を――捜してください……ッ」

 茂楠は分厚い手をカレンの肩に置いた。ゴム手袋越しだったけれど、たしかなぬくもりが、カレンの肌に伝わっていく。

「もちろんです! かならずその子を捜しだしましょう!」

 カレンは頷き、腕時計に眼を落とす。

 午後一時十六分――被曝限界時間まで、あと約四時間四十四分。

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