第3話 追跡

 しかしよりによって〈陸の餓島〉とは――。

 ぼんやりとくすむ五棟の建物を、カレンは見上げる。曇天を背にそびえるそれらは、まるで巨大な五つの墓標のようにみえた。死の灰にまみれた強風によろめきながら、カレンはその建物の隅ずみまで眼を走らせる。

 黒草病院――鉄骨鉄筋コンクリート造り四階建ての五つの病棟に分かれた大規模な総合病院である。白壁はどす黒い雨だれに汚れ、窓のいくつかは割れている。もの悲しく荒んではいるとはいえ、建物自体にそれほど古びた印象はない。事故後放置され十年経ったいまの眼でみても、先鋭的な施設だったことがうかがえる。

「行きましょう――絹木さん」

 悲壮な声で、防護服を全身に纏った茂楠がいう。

「時間がありません。こうしている間にも、確実に躰は放射線に蝕まれていく。生存者がこの建物にいるというなら、なおさら急がないと――」

「茂楠さん」カレンがさえぎる。「ここからは、わたしひとりで行きます。あなたはワゴンのなかで待機を」

「えっ」茂楠は頓狂な声を上げた。「待機ですって? 莫迦な、おひとりで生存者の捜索に行かれるつもりですか」

 カレンは無言のままうなずく。

「ワゴンのなかなら、まだ安心でしょう?」

 任務に支給された白ワゴンは特別仕様である。最新の現用主力戦車の対NBC技術がフィード・バックされ、車内の気圧を高めることで放射性物質が入りこまない構造になっている。また、窓ガラスは鉛を含有させることで放射線遮蔽能力を高めたクリスタル・ガラス製。移動手段であると同時に、それは簡易的な避難施設シェルターでもあるのだ。

「茂楠さん――あなたのいうように、時間はありません。できるかぎり早く戻るつもりですが――もし限界だと感じたら、おひとりでお逃げになっても怨みはしませんし、報酬もきちんと支払われるはずです」

「あの」茂楠の声色に、狼狽が覗く。「わたし、この任務の詳細については、きかされていません。ただ、絹木さん、あなたの助手をしろといわれただけで。帰還不可能区域の生存者を捜索する誇り高い任務だ、といわれただけで。ですが――報酬の額をみれば、非常に危険な、わけありの任務だってことぐらい、わたしにだってわかります」

「時間がありません。手短に」

 茂楠は白い防護服を揺らしながら訴える。

「あ、あのですね、いいづらいことですが――絹木さん、あなたは女性です。しかもお若くて、未婚でいらっしゃる。毎時一〇〇〇マイクロシーベルト――五時間で戻れば五ミリシーベルトの被曝、女性労働者の被曝限界に収まると概算なさったのかもしれない。ですがそれは三カ月という長期勤務に対する限界値です。厳密に法的な話をするなら、女性労働者の被曝限界数値は時間単位にして毎時一〇マイクロシーベルト。その一〇〇倍の数値の場所に五時間滞在するなんて、異常というほかない。たしかに、急性放射線障害が起こるような数値じゃあないかもしれない。致死量じゃあないかもしれない。死にはしないかも――ですが、それだけです。長期的にみれば、これはすでにどんな健康被害が起こってもおかしくない数値なんですよ。過去には五.二ミリの被曝で癌を発症して労災認定された例もある。運よく発癌しなくても、死ななかったとしても、低線量の長時間被曝によって人が廃人になる例は広島でもチェルノブイリでもスリーマイルでもアフガンでも確認されているんです。原爆ブラブラ病。チェルノブイリ・エイズ。湾岸戦争症候群。呼び名はいろいろですが、共通していることはひとつ。もう、まともな人生は送れない――ってことです。絹木さん、若い女性がこの放射線量のなか作業をするなんて、悪夢です。任務の詳細さえおっしゃってくださるなら、わたしが代わりに行ってもいいとさえ考えているんです。わたしは独り身だし、それにトシだってもう四十二――」

「危険だからこそです、茂楠さん」

 茂楠の声を払うように、カレンは背を向ける。そしてこめかみに据えつけた小型CCDカメラの位置を整えた。

 カメラはリアル・タイムでその映像を本部に送信している――もしもカレンが任務から戻れない事態に陥っても、彼女の身にいったいなにが起こったのか、その映像だけは本部が確保できるように。

「下請けのあなたをこれ以上、巻きこむわけにはいきません――これは、大東亜電力の問題なんです」

 ふるえる声で、彼女は言葉をつぐ。そして彼女は歩きだした――眼前にそびえる、廃墟の巨大迷宮に。

 

 窓から、人影が覗いていた病棟――その外周を、仔細に眺める。

 五つある病棟のうち、入院病棟として機能していた南病棟――砂埃にまみれたエントランスの自動ドアに、当然ながら、反応はない。

 カレンはゴム手袋越しにそっとドアに触れてみた。手動で開くようにも思えない。砂埃の集積からも、ずいぶん長い間、この入口が機能していないことがわかる。

 となると、なかにいる生存者――さっきのが幻覚でなければだが――は、何処か、別の出入口を使っているにちがいない。

 灰色に濁った壁伝いに歩き、黒く朽ち果てた植えこみを踏みしめる。錆びついた医療用バスを避けながら、すばやい足どりで裏手へとまわる。

 地下へと降りる階段の先に、裏口の鉄製ドアが開いているのを発見した。

 瓦礫を避けながら、コンクリートの階段をゆっくりと降りる。もの寂しい靴音が辺りに響いた。打ち捨てられたバケツには、ぞっとするような濁った水が溜まり、そのそばには古びた靴が片方投げ出されている。

 錆びついた鉄製ドアを開け、足を踏み入れた瞬間――カレンは息をのんだ。

無人の車椅子やストレッチャーが、まるでバリケードのように薄闇の廊下を塞いでいる。

 悲しくも不気味な光景だった――十年前の避難の際の混乱が、そのまま残されているようだ。


 ――……


 カレンは咄嗟に耳に手をやる。何処からか、子供の声がきこえた気がしたのである――混濁する意識のなか、カレンは必死に気を張り、神経を尖らせる。

 幻聴――? 

 それは頭に直接響くような、奇妙な声だった。

 この廃病院にまつわる凄惨な悲劇を、絹木カレンは知っている――そのことも、彼女をよりいっそう陰鬱な気分にさせた。

 いつだって、そうなのだ――賢明な彼女は、知らないでいいことまで、いつだって知りすぎているのである。


 何処からが都市伝説で何処からが真実か、いまとなってはさだかではないが――この黒草病院は、通称〈陸の餓島〉と呼ばれる呪われた廃墟として知られている。

十年前の原発事故当日、黒草町全域に避難指示が下った。多くの住民が着の身着のままで泣く泣く家を離れたはずだ。しかし、離れたくとも離れられなかった者がいることは、あまり知られていない――病院の入院患者たちである。

 軽症の者なら、自力で避難ができただろう。しかし車椅子の患者たちはどうなる? まして、寝たきりの患者、認知症の患者、経管栄養や点滴で命を長らえる重病患者たちは?

 当時の新聞の記録によれば、院長がまず患者を見捨てて避難したそうだ。それに倣うスタッフが相次ぎ、医療体制は完全に崩壊したという。

 しかし、一方で数名のスタッフが患者のために留まった。震災による混乱、津波による狂騒、降り注ぐ放射性物質による恐慌のなか、彼らは献身的に患者たちの治療と避難のために奔走するという気高い使命感をみせたのである。

 それがどれほど困難な事業だったかは、想像に難くない。すくない人員。乏しい食糧と医薬品。水道、電気などのインフラも停まったなかで、懸命の看護が続けられた。バスの手配、新しい受け入れ先となる病院の手配など、問題は山積みだった。町から派遣されたバスで比較的軽症な患者は避難できたものの、大多数の重度の患者たちは一般のバスに乗ることさえできなかったという。

 インフラの復旧、救援は滞った。当然だ、黒草町は放射線に汚染され、物資を運びこもうにも工事をしようにも、逃げ出すトラック運転手や作業員があとを絶たない状況だったから。やがて情報が錯綜した混乱の末、救援の手さえも差し伸べられなくなった。外界からの連絡さえ途絶え、世界から見放されたような絶望感が、じつに二カ月も続いたという。

 自衛隊の救援がようやく到着したとき、黒草病院はまるで地獄絵図だった。建物を覆い尽くす異臭の正体が、糞尿のためだけでないことは明白だった。病院に残っていた重度患者の多くは、すでに死亡。スタッフたちでさえものいわぬ廃人のようになって、動けなくなっていた。運よく生き残った者たちは、警察や自衛隊の車輌で避難することができたが――いまでもフラッシュ・バックに苦しむ生還者もすくなくないという。

 そのほかにも奇妙な記録が残っている――黒草病院の入院患者の人数の記録と、受け入れ先の病院に入院した患者の人数の記録が、まるで一致していないのだ。

病院のスタッフも、いまでも数名が行方不明のままになっている。

 空白の二カ月のなかで、カニバリズムが起きたのではないか――そんな心ない噂話も立った。だが、それについては公式に否定されている。当時の黒草病院では貯蔵された食糧が豊富にあり、また重度患者の多くが食餌よりも経管栄養や点滴に頼っていたため、なおさら食糧面での奪い合いなどの心配はなかったとされている。

 しかしそれはなお、大きな謎を残したにすぎない。

 混乱のさなか、記録から姿を消したスタッフや患者たちが大勢いる――自衛隊や警察は全員を救出したつもりでも、もしかしたら、助けを求める声も出せない患者やスタッフが、そのときまだ、病棟にとり残されていたのかもしれないのだ――。


 そんないわくを思えば、廃病院裏口前に密集するこの無人の車椅子やストレッチャーに、カレンがなにか怨念めいたものを感じるのもごくごく当たり前のことだった。

 さっきの幻聴じみた声も、まるで亡霊の声のようにも思える。

 弱った心を鼓舞し、カレンは車椅子やストレッチャーを押しのけて、廊下に足を踏み入れた。

 長い廊下が、闇の先へ何処までも伸びている。まるで敵の胃袋にみずから呑まれていくような恐怖がカレンの華奢な胸を押さえつける。

 埃と瓦礫にまみれた廊下の不気味な感触――リノリウムが劣化しているのだろう、歩くたびにパキッ……パキッ……と、まるで骸骨でできた道を踏みしめるような音が響く。

 当然ながら、病院内に電気は通っていない、が、採光用の窓のため地下とはいえわずかながらに明かりはある。

 幽かな日光に照らされ、陰影に富んだ廃墟のなかに埃がきらきら光るさまは、恐ろしくも神秘的な光景だった。

 引き斃された調度品。投げ出された毛布や注射器具――足もとが危ういなか、カレンは廃墟の奥へ、奥へと向かう。まるで、RPGのダンジョンに迷いこんだような気分だ。

 床にばら撒かれ、染みや塵にまみれて黄ばんだ紙の束――診療録に、ふと眼が留まった。


 患者氏名:小高浪江こだか なみえ――医師署名:鞠木まりき

 主訴:吐き気、嘔吐


 気が滅入る――この患者は無事、避難できたのだろうか。 

 溜息とともに視線を上げた刹那――カレンは足をすくませた。

 呼吸が大きく乱れる。防護マスクのなか顔が蒼ざめていくのがわかった。

眼前の薄闇のなか、白い人影が、浮き上がるように立っている――、

 それが鏡張りの壁で、白い防護服を着たじぶん自身が映りこんでいるだけだと気づいても、息の乱れは、にわかには整えられない。

 彼女は溜息を吐いた。あきらかに――神経が過敏になっている。

 絹木カレンはいつだって、冷静沈着なことで知られている。その仕事ぶりはロボットのように正確だと、揶揄とも賛辞ともつかぬ修辞を受けていた。

 だけど、それはけっして現実を反映した評価ではない。彼女とて所詮はひとりの女なのだ。恐怖もあった。不安もあった。この廃病院に来る以前からも、いつだって、だ。

 彼女はただひとりで、だれにも頼ろうともせず、折れそうになる心をじぶんの細腕で支えながら、必死で仕事をこなしてきたにすぎない。

 呼吸を整える。鏡の脇、地上一階へと上がる階段を一歩、また一歩、踏みしめていく。

 彼女の頭脳は優秀だ。病院内の見取り図は五棟すべて、頭のなかに記憶している。病室の位置関係、階段の位置、エレベータ、非常口に至るまで、そのすべて把握しているのだ。

 さっき、生存者らしき人影がみえた窓は二階だった。

 頭のなかで探索ルートが一本につながっていく。

 あれが幻覚でなければ――この病院には読みどおり、生存者が暮らしている。

 逃げ遅れた患者だろうか? いや――有り得ない。

 十年間だ。この高線量の放射線のなか、十年間。健康な人間でも、生き延びるのはほとんど不可能。

 ましてや、当時入院していた患者が生き残っているなど、あるはずのないことだ。

 だからといって幽霊だ、などと非科学的な結論に行きつくほど、カレンは愚かではない。

 なにかあるはずなのだ――この超危険区域に生存者がいるなら、生き残るだけの合理的な理由が。

 それについてはカレン自身、すでにいくつかの仮説を立てていた。

 そのうちひとつが『クール・スポット仮説』である。

 原発事故以後、漏出した大量の放射性物質が風に乗って飛散することで、日本各地に点状に、汚染の激しい地域ができあがった。これが原発事故現場から地理的にも距離的にも遠いのに拘らず、局地的に事故現場周辺並みの高線量放射線が計測される場所、『ホット・スポット』である。

 ――『クール・スポット』があってもおかしくないのではないか?

 たまたまその『クール・スポット』を生活拠点にしていたがために、原発ピグミーと呼ばれる生存者は生き延びられたのではないか――。

 しかし、腕に巻くガイガーカウンターの数値に眼を落とすと、その仮説は無惨にも否定された。

 一〇五〇マイクロシーベルト……一一〇〇マイクロシーベルト。

 ぞっと背すじに冷たいものが走る。数値がみるみる上がっていくではないか。

 この廃病院は、クール・スポットなどにはなりえない。

 放射線――喩えるならそれは極小サイズのショット・ガンのようなものだ。痛みは感じないが、確実に人体を貫通し、電離作用とフリーラジカルによって細胞内の人体設計図、DNAを粉々に破壊していく。損傷した異常のあるDNAが細胞分裂によって増殖すれば、それは長期的にみればやがて癌や白血病など致命的な遺伝子異常を引き起こす。大量に被曝すれば、それほど悠長に待つまでもなく、脱毛、失明、皮膚組織の損壊や骨髄の異常など急性症状を引き起こし、あっという間に死に至る。

〈彼ら〉がこの廃病院で暮らしているのだとすれば――致死量の被曝は絶対に避けられないのだ。

 しかし、クール・スポット仮説が否定されたことで、カレンはかえって希望を抱くことができた。

 原発ピグミーが放射線のなかで生きられる秘密は、やはり彼らの特異な体質にある可能性が高いからだ。

 その秘密を突き止めれば――医学的な大発見になるだろう。

 大東亜電力からのボーナスにも繋がるし、それになによりも――。

 瓦礫にまみれた階段を昇るたび、カレンの視界が明るく拓けていく。

 ガイガーカウンターの数値は、すでに一二〇〇マイクロシーベルトを振り切っていた。

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