みはたのもと 駅
がたん、ごとん。電車はぐらぐらと蛇が地面の上を這う動きで進んでる。電車に揺られるたび、ぼくの体も左に右にと傾く。電車の窓枠に頭を乗せて、ぐうぐうと眠っている兄ちゃんはちっとも揺れてないのに。
どうしてだろう。ぼくは口をすぼめてたっぷりと考えた。兄ちゃんが起きた時に話そうと思って。でも考えた結果はぼくが小さすぎるからなんて面白くとも何ともない理由で、僕は考えることをやめた。
兄ちゃんの顔の上にはお日様の光が降っている。眩しくないのかな。いつもは寝てばっかりいる兄ちゃんがずっと起きて駅まで連れて来てくれたことだけでも十分なのに。
今は起きていた分だけゆっくり眠って欲しいな。ごそごそとズボンのポケットを漁ってみた。出て来たのは、切符一枚で他には何にもなかった。がっかりした。ぼくがぼくに。
兄ちゃんは今、どんな夢を見ているんだろう。いい夢だといいなあ。悲しい夢や怖い夢はぼくは見たくないけど、兄ちゃんはきっとそれも見ちゃうよね。夢だから。
――がらっ。
電車と電車とを繋ぐ連結部を仕切るための扉が開いた。誰もいないと思ってたからぼくは吃驚した。音が聞こえた方を見ると貫通扉の向こうから唐草色の軍帽と同じ色の軍服を着、革のベルトには軍刀を下げたがっちりとした体格の人が現れた。
その人は手袋をはめた手で軍帽のつばを押さえ、路地と同じよう揺れる電車の中をきびきびと歩いた。
「切符、切符を拝見いたします。ご乗車のお客様はお手数ですが、切符のご準備をお願い致します」
低く背筋がぞわぞわする声にぼくはびくびくとしながら、ポケットから出したばかりの切符を凝視する。
「少年、切符を拝見しよう」
ふっと顔を上げる。艶々とした夕焼け色の羽とふっくらとした赤いおひげがはみ出ている。
「吾輩の顔に何か?」
真珠みたいにちっちゃくて平たい目は鋭くって、兄ちゃんの方をちらちらと見てしまう。
「な、なんでもないです……」
どうみても鶏にしか見えないその人は黄色い嘴の横を掻く動作をする。困っているみたいだ。
「切符を宜しいかな」
二度目の問にぼくはおずおずと持っていた切符を鶏さんに渡した。「失敬」と断って、鶏さんはぼくから切符を受け取る。
がたん、がたん。電車がご機嫌に歌ってる。ぼくと鶏さんは無言だけど。間に挟まった微妙な空気に口をへの字にして今も眠る兄ちゃんを眺める。
……、そういえば兄ちゃんの切符はどうしよう。切符を切ろうとしているから、軍人さんの恰好をしたこの鶏さんはたぶん駅員さんなんだろうけれども。説明したらまた後に来てくれるかなあ。
「少年はどちらまで行く予定なのだ」
不意を突かれて、「ふえ」と僕は変な声を出す。鶏さんは開いていた嘴をつなぎ目が見えないくらいかっちりと閉じた。『自分がされて嫌なことはするなよ、
『いいやつにはならなくていいから、人のことを泣かせるような奴にお前はならないでくれ』
ぼくはぐっとお腹の辺りに力を込めて、前を向く。
「し、島根に行きます!」
鶏さんの嘴がぱかっと開いた。そして何度かまばたきを繰り返し、はっと手袋で口元を隠した。「えほん」とごまかしのための咳ばらいが払われる。
「島根か。海に面しておるから、海産物が絶品である」
「お魚」
魚は骨が多くていつも手こずっている。その度、お母さんが「こうよ」と骨の取り方を丁寧に教えてくれた。
「そういえば島根は黄泉比良坂の比定地であるな」
「よもつひら……?」
「ヨモツヒラサカ、死んだ者が住むあの世と少年のような生きている者が住むこの世の境目のことだ。うっかり境目を超えてあの世に行ってしまう……、なんてこともあり得る訳だな」
「そうなるとどうなるの?」
鶏さんは立派な赤いおひげを撫でる。
「吾輩にも分からぬ。それこそかの神々のようになるかもしれないのである」
「……、難しい」
ぽつりと零すと、鶏さんは「信じるか信じないかは少年次第なのだ」と他人任せなことをいう。
生きている人には生きている人の、死んだ人には死んだ人のお国があって、生きている人が死んでいる人のお国に行ったらどうなるんだろう。逆に、死んでいる人がどうしても会いたい人がいて生きている人のお国に行きたくなったらどうすればいいんだろう。ぼくは会いたい人に会いに行くためにはどうしたらいいんだろう。さよならを言わなきゃいけない人にまた会いたくなったら、ぼくはどう探したらいいんだろう。どう見つけてもらったらいいんだろう。
俯くぼくの前に切符が差し出される。切符の端っこには赤い模様がある。半分しか捺されていないけど、きっと鶏さんの絵だ。
「信じたら、会いたい人には会えますか」
鶏さんは直立不動のまま、軍帽を被り直した。
「少年の会いたい人は、どこにいるのだ?」
「遠いところ。うんと遠いところ。それと今は近くて、これから遠くなるところ」
「……、吾輩は嘘が嫌いである。よって、君のような少年にも嘘偽りなく話すが、生憎吾輩の言葉には慈愛の類は一切なく、現実のみが存在するものと考えてくれ」
肩幅ほど鶏さんは足を横に開いて、ふうと短く息を吐く。
「人が死んだ先には何もない。虚無すらない無の世界だと吾輩は考えている。だがこれはけして悲観からではない。吾輩は生きていて、死んだその後のことは死んでからでなくては分からないからだ。少年、これは君も同様である。君は今を生き、その先には必ず死が待っているだろう。しかしそれはこうも言える。今、生きているこの時間に君は色々な人々と出会い、話、笑い怒り泣くことが出来るのだと。本当に君が会いたいと感じ、願う人は君単独で行くには遠すぎる場所にいるのだとしても、どんなに会いたくとも、君は今を生きねばならんのだ」
「どうして?」
「それが死の国へ行く為の大切なことだからである」
てのひらに収まった小さな切符に視線を落とす。「そうだね、そうだ。これはそういう旅だった」
「この道を行くか、少年」
「行くよ、そう望んだんだ。僕自身が」
鶏さんはその場で敬礼を取った。
「良い旅を願う、少年」
――ピーッ!
警笛の音が甲高く届く。鶏さんの姿はもうなかった。ガーッ。トンネルの中に電車が入る。ドーム型のその中は暗黒だ。深い深い闇。目の前にいる兄ちゃんの息遣いさえ聞こえない程の。
母さんの膝で眠っているような安息感を覚えて、瞼をそっと下ろす。
何でも生み出せるのに、永遠に一人ぼっちの誰かは今日も幼いその見目に合わない思慮深さと切なさを覗かせて生命が眠る海へと手を伸ばす。「誰か、この私と一緒に話をしようじゃないか」
銀色でふちをなぞった神秘の惑星を守護する0と1で出来た誰かは任された使命を果たそうとしているのに、時々起る「痛み」に仕事が滞る。そんな時は決まって風が気持ちよく凪ぐ芝生が生えた場所に足を運ぶ。「…………、これは
貧しい里から家族を食べさせるため出てきた誰かは自分を救ってくれた天女を信奉している。傷つき傷つかされたその心を癒したくてたまらないのに、誰かの目には天女と同じ景色は見えない。だけどその愛が渡せる日が来ると信じている。「弁財お嬢様、千代はいつまでもいつまでもあなたのお帰りを待っています」
願いを叶えた誰かはベッドの上で目を覚ます。包帯に巻かれた自分の体を見てお医者様が話す内容にも上の空で。雨が上がった後の空と自分を生かしてくれた彼女たちに思いを寄せている。ひとまずはそう。花屋に行きたかった。「先生、退院はいつ頃出来るでしょう」
誰かは初めて夢を持った。いなくなった姉を捜すこと。一人で生きていけるようになること。この二つ。他人から見れば大きな願いごとじゃない。だけどもそれらは誰かが自分自身の手で叶えたいと初めて思える願いごとでもあった。「ずっと、ずっと一緒ですよ兄さん」
ガタン。車輪が回る音に覚醒する。いつの間にかトンネルは抜けていたらしい。
『お客様にご案内いたしまぁす。次は嘘つき、嘘つきの皮駅ィ』
切符はまだ僕が降りるべき駅名を示していない。
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