戦う術を求めて(4)

 暗い夜道を一人、走っていた。自分の荒い息遣いと、土を蹴る微かな靴音だけが、響く。


 家に着き、ジェレミーをそっと布団に寝かせると、 彼女の母親は俺に泊まっていくよう勧めてくれた。今夜はもう遅いし、あの方のお住まいを知りたいなら、明日長老に聞いてみればいいわ、と。

 しかし俺は、申し出を丁重に断った。長老だって、確実にあの老人の居場所を知っているとは限らない。何日も捜し続けて、やっと手に入れた大きな手掛かりを、みすみす逃したくはない。今すぐ広場に行けば、もしかしたらまだ会えるかも知れない。

 だから俺は、こうして走っている。それはとても低い確率だろうし、ジェレミーの母親の親切を断った理由は、それだけじゃないだろう? と己に問いかけながら。


 ずっと大人しかった胸の痛みが、段々と膨らみ始めた。振動が直接傷に響くようだった。それでも、足を止めるわけにはいかない。患部の辺りを手で押さえ、なんとか体勢を維持して、走り続ける。

 怪我の分を差し引いても、いつもより足が遅いような気がしていた。きっと思い過ごしだろう。単に、焦っているせいだ。頭ではわかっていても、落ち着くなんて出来そうにない。

 お願いだから……残っていてくれ! 祈りにも似た思いを込めて、ただ一心に地面を蹴る。


 到着した広場は、夜道同様に暗かった。静かな闇に、開けた空間だけがひっそりと沈んでいた。

 周囲には誰も居なかった。本当に先ほどまで賑わっていた場所なのか、と訝るほどに静まり返って、中心部にあったはずの木々の燃えカスまで、綺麗に片付けられていた。


「やっぱり……もう……」


 両膝に手をつき、あえいで呟く。額から流れ出した汗が、潮の香りを含んだ生暖かい風に吹かれて地面にしたたった。唾を飲み込み、なんとか呼吸を整えようともがく。全速力で走ってきたのに急に止まってしまったせいか、何度か咳き込み、その度、胸に激痛が走った。

 身を起こすまで、数分はかかった。痛みはまだ消えない。歯を食いしばり、周囲に意識を飛ばす。

 闇にうごめく微かな影さえ捕らえようと目を凝らすが、小動物一匹すら見つからなかった。淡い天然の照明の下、ろくな作物が育ちそうにないせた土地が、延々と続いているだけだ。いかにも生命力の強そうな雑草ですら、所々にしか生えていない。


「っ……」


 急に眩暈がして、崩れるように座り込んだ。腰が抜けたみたいだった。結局徒労に終わったと、気が抜けてしまったのか。

 それだけではなさそうだ。痛み方もおかしい。いつもは、数分安静にしていれば歩ける程度に良くなっていたのに。今は、立ち上がることさえ難しい。胸と腹の中間辺りが、刺すように痛む。心臓の鼓動に合わせて、じんじんと響く。


「……ケホッ……」


 一つ、軽い咳が出た。今までには無かった鉄くさい味が、口の中に広がった。咳き込む瞬間、無意識に口元に当てた手のひらを見ると、うっすら黒ずんでいた。

 暗くてよくわからないが、もしかして、血か? 無理をおして行動してきた、つけ、だな。ぼんやりと、他人事のように思う。


 身体を刺し続ける痛みは、増していた。座っていることさえ苦痛だった。失神しそうになる意識をなんとか抑えこんで、鞄を傍らに下ろし、ゆっくり体を横たえる。

 冷たい土の上で、うずくまった。どうか治まってくれと、祈るような気持ちだった。しかし痛みは強く激しく、鼓動に合わせて脈打った。

 いつの間にか、咳が止まらなくなっていた。一度治まると次に咳き込むまで多少間隔はあるが、根源はずっと胸の奥にあって、落ち着いた頃にまた衝動が沸き上がる。

 口内がどんどん、血生臭い味で侵されていった。血が気管に入ってしまったのだろうか。呼吸の音がおかしい。


 このままでは危険だ、一先ず村に戻らなければ。そうは思っても、体が動いてくれない。必死で肘を突っ張り体を支え、上半身だけでも起こそうと奮闘する。鼻の先から、冷や汗が滴った。

 ジェレミーとその母親は、今頃夢の中だろう。こんな夜中に村から離れた催事場まで来るもの好きが居るとは思えない。だからきっと、助けは来ない。

 もう、駄目かもしれないと、心のどこかで考えていた。霞みかけた視界、零れ続ける汗を目で追った先に、突然、黒い何かが飛び込んでくるまでは。


 靴だ、と思う。靴のつま先部分。今時にしては珍しく、木でできている。

 誰かが来たのか……? こんな夜中に、こんな辺鄙へんぴな場所まで。一体、誰が。何のために。

 体はほとんど起こせないまま、顔だけを動かして上空を仰いだ。


「どうした、おまえサン。行き倒れか? どのみちこのような所に寝ていては、野獣に食われるぞ」


 しわがれた、低い声。年老いた男のようだが、聞き覚えは無い。

 月あかりの下、逆光に陰る姿はおぼろだった。顔の輪郭さえ、定まらない。それでも、見惚れたように視線が動かせなかった。

 知っていた。覚えがあった。どれだけ痛みに喘ごうと、苦痛に思考が侵されようと、頭上で揺れるこの尖った帽子だけは、忘れない。


「それで? わしに何の用じゃ。宴の席で、殺気立った気配を向けていたのはおまえサンじゃろう。実の所、かなどとうに分かってはおるが」


 その老人――俺が捜していた人物は、長い髭を撫でながら、可笑しそうに笑った。


「それ……どういう……」


 思うように声が出なかった。途中で胸から沸き上がる衝動を感じ、下を向いて思いきり咳き込んだ。両腕は体を支えるのに精一杯で、口許を押さえる余裕はない。紅い鮮血が、霧のように飛び散る。

 視界を、影が覆った。老人がしゃがみ込んだのだと分かった。何の確認も無かった。ほとんどうつ伏せになっている俺の背に温もりが、恐らくは老人の手のひらが、そっと寄り添う。


「まずは、その怪我を直す事が先決のようじゃな」


 疑問が声になるより先に、奇妙な感覚が身体を包んだ。手を置かれた部分が、とても温かく気持ちがいい。眠りに落ちる前のまどろみ、そんな心地良さに似ている。

 黙って身を任せていると、数秒もしないうちに呼吸が楽になった。胸を蝕んでいた咳が、治まった。その大元から、完全に取り去られた感覚。苦痛に縫い付けられていた体が、ふっと軽くなる。


「もう良いじゃろ。起きられるはずじゃ」


 促されるまま、半信半疑で腕に力を込めてみた。


「あれ、痛く……ない?」


 驚いた。つい、声を漏らしてしまった。さっきまで――いや、数日前からずっと感じていた胸の痛みが、嘘のように消えている。しばらく安静にしていなければならないほどの重症、肋骨の骨折が、一瞬で治ったというのか?

 立ち上がり、胸をそっとさすってみる。不思議なことに、傷の違和感すらない。勘違いでなければ完全に、健康な状態に戻っていた。


「それが、おまえサンの求める力。じゃ」

「え?」


 色々なことが一度に起こり過ぎて、まともな思考ができなかった。求めた奇跡がすぐそこにあるのに、気の抜けた返答しか返せない。癖なのか、老人はまたも髭を撫でながら、可笑しそうに笑った。


「言ったはずじゃ。おまえサンの用など、既にわかっている、と。おまえサンは、力を求めてここに――わしを捜しに来た。そうじゃな?」

「ああ、そう……だけど、何で……?」

「魔法の力というのは、言うてみれば精神力じゃ。精神を研ぎ澄ませれば、人の考えもある程度ならば理解できる。逆に自らの意思を伝える事も可能なのじゃ」

「つまり言葉が通じるのも、そのためなのか?」

「そうじゃ。なかなか物分りが良いのう」

「それは誰にでも扱える力、なのか」

「努力次第、と言っておこう」


 老人は嬉しそうに目を細め、頷いた。

 魔法。致命的な重症に近かったはずの身体さえ、たちどころに治してみせた神秘の力。生まれ持った特別な素質が要るのなら、諦めるしかない。しかし必要なのがだと言うなら、努力で辿り着ける未来なら、試してみる価値はきっとある。

 あやふやな希望が、確かな目標へ変わった。気づけば地面に両手をつけ、老人の足元にひざまずいていた。


「お願いだ! 俺に魔法を教えてくれ! 俺にはどうしても、力が必要なんだ!」

「何ゆえ力にこだわる」

「どうしても、許せない奴がいる。そいつに一矢報いたい」

「安易じゃな。他の方法など、いくらでもあろうに」

「今の俺じゃ、決死の特攻をしたって犬死にするだけだって、言われたんだ。だから」

「力を、魔法を身につけたい、か。血塗られた復讐を果たすために」


 顔を上げる。笑みを消した老人の無表情は、能面に似ていた。恐ろしいとさえ思わせる気迫が、大気をも震わせるようだ。


「闇雲な力は、世界に混沌をもたらすのみ。それは周りはおろか、自らをも破滅に導く諸刃もろはの剣じゃ。力を持つ者は、それ以上の困難にみまわれる。己のみでなく、周囲の者にも不幸を呼び込む。というのは、そういうことじゃ」


 落ち着いた声。そして、とても冷たかった。老人は刺し貫く視線で、俺を見つめていた。

 一瞬気圧され、恐怖から顔を背けた。それでも、絶望には至らない。胸の中で熱くたぎる炎は、消えない。消えてくれそうにない。


「でも俺は……どうしても母さん達の仇が取りたい。冥王を倒したい。それが多分ここでの、俺の存在意義なんだ」


 諦めない。諦められるはずが無い。あの日、あの河原で。俺は二人に誓いをたてた。強くなって、いつか必ず仇をとると。帰る場所も無い。待っていてくれる人もいない。そんな俺に残された、たった一つの目的。俺が俺である証。


「成る程。そういうカラクリか。確かに、おまえサンならできるやもしれぬ。いや、恐らくはおまえサンにしか、冥王を討ち取ることはできぬ。この地におまえサンを呼んだ人物は、それを見越しておったのだろう」

「分かるのか? 俺が……この世界の人間じゃないと。それに――どういう意味だ? 俺がここにって?  冥王を倒すのも俺しかできないって、それ、どういうことだよ!」


 老人は、畳みかけた問いには答えなかった。ただ、跪いたままの俺に、真っすぐ手を差し伸べてくる。


「良かろう。おまえサンの志、しかと聞き届けた。わしが知り得る限りの力を与えてやる。共に来るか?」


 頭の中は、疑問でいっぱいだった。混乱は不安を呼び、焦燥を掻き立てた。目の前の老人が、神の使者にも、悪魔の化身にも見えた。

 それでも、答えは決まっている。


「……勿論だ。そのために、ここまで来たんだから」


 頷いて、立ち上がる。傍に転がっていたバックパックを肩にかけて、差し伸べられた手を力強く握り返した。


「では、わしにしっかりと、つかまっておるがいい。途中で手を放すなよ? どこに放り出されるか、分かったものではないからのう」


 言葉の意味を頭で理解する前に、形の無い何かに全身を引っ張られるような感覚が襲った。激しい眩暈にさらされた時の、浮遊感にも似ていた。

 周囲の景色が揺らぎ、ぼやける。思わず強く目をつぶり、体を強張らせ、老人をつかむ手にいっそう力をこめる。

 そして。世界が、空間が、現実が歪む、音だけを聞いた。




  to be continued...■


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る