それからどうしてこうなった

文野さと(街みさお)

第1話

― はじまり ―

 

 

「……そういう訳で、お前には私と婚姻を結んでもらう」


「そう言う訳でって……簡単に人の人生を決めないでほしいのですが」


「お前の人生には興味がない。お前の家が担う役目を最大限に利用するために、この婚姻が必要なのだ」


 黒地に金糸の刺繍がふんだんに施された、きらびやかな上着の襟を整えながら男は冷たく言った。上背がある所為で、常に見下ろされる形になるのが非常に癪だが、もっと腹が立つのは、この男が我が家に命令を下す立場にあることだった。


「お前は亡き父の跡を継いだのだろう? お前の代になって初めてのお役目だ。お父上も喜ばれるのではないか?」


「……お役目は受けます。しかし婚姻までは……」


 私は、背後の椅子に座って息をひそめている母と弟にちらりと目をやった。母は最近病気がちである。弟もまだ幼い。私がこの家を守っていかなくてはならないのだ。

 だが、男はふんと鼻で笑った。


「なに、便宜上の事だ。それなりの報酬も支払うと言っておる。……よもや断りはすまいな? もとよりお前に選択権などないが。家族が大切だろう?」


 男の言葉に、母がはっと顔を上げた気配がする。弟はまだ事態がつかめていないようだ。八歳では無理もない。二十年ぶりに下された王家からの命令。従わねばならないのは無論である。だが……

 

「それは脅しでしょうか?」


 私はせいぜい虚勢を張った。一寸の虫にも……と言うではないか。私は確かに彼から見ると虫ケラなのだろう。案の定、伯爵は冷然と私の放った小さな矢を受け止めた。

 

「いや、命である。お前のような者を脅かす手間はかけない。それに、私にしてもお前のような、下級田舎貴族のパッとしない地味な女を妻に迎えるなど、大いに不本意で不名誉だ。しかし、国の為には多少の事は目を瞑らなくてなならぬのも、貴族に生まれた者の務めである」

 

 男は美しいが酷薄そうな唇を歪めて私に言った。

 彼はユージーン・サイリューム・イン・レーニンクライク伯爵。枢密院の若き精鋭にして、元近衛の千人隊長。その地位にふさわしい押しの強さと、それを裏付ける実力と魅力にあふれた男である。しかし、あまりに完璧すぎるものは、私の好むところではない。そう思いながら彼を見上げた私を、伯爵は不愉快そうに見つめ返した。

 

「……分かりました。支度をします」

 

「ぐずぐずするな。荷物など要らぬ。役目が済めばさっさと離縁してこの田舎に返してやる。むしろ感謝してもらいたいほどだ。一生かけてもできないような贅沢をさせてやるのだ。とっとと来るがいい」

 

 こうして私、リスル・モンティは、部屋の隅で震える母と幼い弟を残して王都へ、レーニンクライク伯爵の屋敷へと赴くことになってしまったのだ。彼の妻として。

 

 

 

 

 ― 一日目 ―

 

 

 私はレーニンクライク伯爵夫人になった。

 確かに妻にはなった。書類も見せてもらったが、国王の印璽も(大貴族の婚姻ともなると国王の許可がいるらしい)押印してある正式のものだ。私は押しも押されぬ有力貴族の妻である。

 だが無論それは愛情に基づいた婚姻ではなく、貴族によくある政略結婚ですらない。これは戦略なのである。

 ざっと書類に目を通して署名をすると、伯爵は満足そうに自分の名前をその上に書き込んだ。力強い筆跡である。貴族の結婚証明書はその写しを三日の間、王宮のホールに貼りだされる仕来たりがあり、便宜上の婚姻とはいえ、これは正式な手続きであった。


「さて、これでいい。存分に働いてもらうぞ我が妻よ」


 夫となった伯爵は、憎らしいくらいの美しい微笑みをその頬に浮かべて私を見た。

 私も無表情に彼の金色の瞳を見上げる。確かにこんな顔に生まれた男には、特別な人生が与えられるに違いないと思う。

 しかし、かくいう私も少々特殊な事情の家に生まれた。

 私の家は下級貴族の端くれで、父は二年前に病死しており、この国では女も家を継げるから、私が一家の長である。

 我がモンティ家は、代々領地もなく収入源もほとんどない。レーニンクライク伯爵家などから見たら、吹けば飛ぶような家なのだが、それでもつぶれることなく細々と続いてきたのは、我が家がいわゆる隠密稼業を生業としているからなのであった。

 つまり、当主は王家に仕える御庭番――シノビなのである。

 ただし、言葉のとおり王宮に直接仕えているわけではない。国内に争いの絶えなかった昔はそうだったらしいのだが、先々代の王の御世より内政は安定し、御庭番の仕事も少なくなり、祖父の代には王宮から下される仕事は激減した。最後の仕事が私の生まれる前だと言うから、もう相当な期間、何も働いてこなかった事になる。

 しかしその間、王家からは少ないながらお手当が出続けて、我が家の少ない収入に潤いを与え続けてくれた訳だから、王家には多大なる恩義があるのだ。いつかその恩に報いるようにと祖父や父に教え込まれたが、結局その父も生前に二度ほどしか、お役目は回ってこなかったらしい。しかし、父は満足して死んだ。

 かく言う私も、幼い頃から父や祖父に隠密活動の秘術の全てを教え込まれた。

 いつ思し召しがあっても、それに応えるのが我がモンティ家のお役目だと言う訳だ。当時の私は幼かったから、ただ盲目的にそれらの技を習得したが、二十歳にならんとする今では、すっかり無意味な技術だと思っている。ここ二十年国内外に戦争はなく、我が国は平和と繁栄を謳歌していた。

 だから、王都から遠く離れた屋敷とは名ばかりの小さな家の前に、豪華な馬車が横付けされた時には、家族三人で魂消てしまい、母などは腰を抜かしそうになっていたのだ。


「これが王宮内の見取り図だ。渡すわけにはいかんぞ。見て覚えるように」


 伯爵はするすると大きな卓上に、分厚い皮に書かれた地図を広げて私に見せた。確かに広い。この屋敷も広いが王宮はまるで一つの街のようだ。しかし、まぁ三分の一くらいは王家人たちの私的な空間だろう。一般の貴族が出入りする主要な宮を覚えればいいと思う。私は冷静に地図を眺めた。その様子を夫になった男はじっくり観察しているようだ。


「はい」

 

「既に話したように、お前の役割は私の妻として王宮に出入りし、サンタンジェロ伯爵の汚職のしっぽを掴むことだ。それには社交の場が一番手っ取り早い」


 サンタンジェロ伯爵家は王家に深い縁を持つ大貴族だが、数年前に当主となった男は、権勢欲が強く、次期宰相の座を狙ってさまざまに暗躍しているらしいと、昨夜から伯爵に詳しく聞いている。しかし、私には正直何の感慨もない。仕事だからやるけれど。

 

「そうですか」

 

「なんだその返事は。お前は役割の重要性が分かっているのか」


 レーニンクライク伯爵は男らしい眉を吊り上げた。吊り上げたって恐くはないが。 

 

「重要性と言うか、私の担う仕事の中身は完璧に理解しました」

 

「ならばよい」

 

「ですが、私には王宮内での作法や人間関係が分かっていません。それは拙くはないですか?」

 

「拙い。だから、お前にはこれからこの屋敷で、一週間でそれらの知識を身に着けてもらう。できるか」

 

「……多分」

 

「結構。それから妻だとは言っても、あくまで便宜上のものであるから、私に甘い期待は一切期待しないように」

 

 伯爵は明らかな侮蔑をその口調に乗せて私を冷たく見据えた。

 

「しませんが……」

 

「よろしい」

 

「一つ尋ねても?」


「なんだ」


「この仕事は少々危険が伴いますよね。相手だって警戒して用心棒の一人二人雇っているかもしれないし。万一怪我でもしたら、保障はしてくださるのですよね? 私の家族にも危害は及びませんね」

 

「それは心配はいらない。お前の出自はある貴族の遠縁と言う事になっている。例えお前が殺されても家族に類は及ばない」


 レーニンクライク伯爵は質問の前半部分を無視して答えた。つまり私自身は使い捨てだと言う事だ。

 

「縁起でもないことを言わないでください。それにしてもなぜ報酬後渡しなんですか? 天下のレーニンクライク伯爵ともあろう人が」

 

「お前を完全に信用したわけではないからな。下々の者は色々と浅ましい故。報酬が欲しければ成果を上げることだ」

 

「……存外ケチなんですね」


 ぼそっと言ってみたが相手は涼しい顔である。

 

「何か言ったか?」

 

「いえ何も」

 

「よろしい。これから王宮に出入りすることが多くなるが、お前はあまり丈夫でないことになっている。その方が何かと動きやすいだろう。結婚式は陛下の御前でごく内輪に上げたことになっているから、そのつもりで口裏を合わせろ。それからお前の王宮での公式デビューは、十日後の皇太子殿下の誕生を祝う舞踏会と言う事になる。それまでに準備をしておけ」

 

「かしこまりました。伯爵閣下」


「その呼び名は堅苦しいな。人前では名前で呼ぶように」


「……努力します」


 この尊大な男を呼び捨てにするには、かなりの覚悟が必要だと私は思う。だが、彼は私の殊勝な答えに満足したようだ。


「それから私はあまり家にいない」


「そうですか。ご自由に」


「……」


 伯爵は意味深な流し目をくれた。無論色事にちがいない。この分では相当な浮名を流している事だろうが、仮にも結婚したばかりの男が大手を振って遊び歩けるほど、王宮の風紀は乱れているのだろうか?

 興味がないからいいけれど。


「帰らぬ夜も多いが余計な詮索は無用だ」

 

「ですからしませんって」

 

 目の前の美麗な男がすっかり面倒になって、私は唯一目を楽しませてくれる窓外の景色に目をやった。庭は広くて、大変に美しい。よくある貴族の屋敷のように、人工的に刈り込まれた庭木などはなくて、できるだけ自然そのままの美しさを取り入れてある。この屋敷中で、人も物も含めて一番気に入ったかもしれない。

 

「……ずいぶんあっさりした女だな。流石はシノビと言うべきか」

 

 夫となった男の呆れたようなつぶやきを、私の耳は受け付けなかった。

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