第5話 帰還


「この道をお行き」

 ベルクが開けてくれた道は、細く下へと伸びる管のようだった。

「気をつけて。呉々も気をつけて」

 送り出す紅い目の鳥に頷き、託された大事な物を大切に胸に抱え、ソフィーは駆けるように踊り入った。

 神の通い路。これは、昔、神が通ったという道なのかもしれない。ベルクは、途中でいろんな物が見えるだろうけど、見てはいけないと言っていた。ーー捕まったら、帰られなくなるから。

 全体がほの明るく、白い。ソフィーが通る道以外にも、幾筋もの重なる道々が見える。たった独りの道行きの不安と恐怖に襲われながら、幼子は知らず壊れ物を抱えた胸をきつく抱え込んだ。

 下りの路を小走りに急ぐ。

 不思議な路。足下には確かに地を蹴る感覚があるのに、何処もかしこも白いせいで、ソフィーはまるで宙を駆けているかのようで心許ない。周囲を取り巻くその白の天幕にいろんな物が映し出されては、小さなソフィーに纏わり付いた。

 ああ、あそこには炉の前で木を削る父さん、縫い物をする母さん。急ぎ駆る馬車。あそこにはヘルマさん。寂しそうに笑うロッティ。神を待ってるエイル。銀の魔法使い。金の鳥に、ルー。ベルク……!

「南へお逃げ、南へ――!」

 紅い目をした鳥の、鐘の音のような警告が少女の頭に甦る。少女は駆ける。早く――、早く下りなきゃ。追いつかれてしまう。

 ほら、もう雲は切れた。

 ……雪……。

 雲海の下は、果てまで広がる針葉樹の黒い森。その堅い黒に、斑のように雪がチラつく。雪は白き淑女の先触れ。雪の化身。ベルクの現し身。

 逃げなければ!!

 本当に追いつかれる前に、早駆け降りなければ。

 里へ、皆のいる里へ――。

 転ぶように駈けるソフィーの後ろから、猛烈な勢いで追いかけてくるものがあった。黒い烏のような影。

 それは、不安の影。

 黒い馬が牽く馬車。ソフィーを追いかけてきているのに、それ自体も何かから逃げようとするように、右に左に大きく揺れていた。その背後に、ちらちらと閃くものがある。

 それは、蒼き雷。馬車は神の鋭い枝から逃げようと、必死に駈ける。悪路のためか上下に激しく弾み、車輪は今にも外れそうに撓む。空を割るのか、地を割るのか。ガラガラとけたたましい音を立てて、ソフィーの目の前を馬車が通り過ぎていく。

 その刹那、幼い目に人影が映った。馬車を駆るは金の髪の男。車には小さな子どもとその母親。母親は、娘らしき子どもを固く抱く。まるで車外のソフィーなど見えていないかのように、一頭立ての馬車は彼らをせき立てる雷を背負ったまま彼女の脇をすり抜けて、何もない筈の場所で壁にぶち当たるように霧散した。その残骸が、霧雨のように降り注ぎ、駆け下りる速度に任せるまま、ソフィーはその中へと飛び込んだ。

「父さん、母さん、エイル、ロッティ!」

 知らず、幼子の口から人々の名が零れた。

「ルー! お願い、誰か返事をしてよ!」

 最早自分が森まで達したかどうかもわからなくなった時、彼女の叫びと同時に衝撃が走り、柔らかく抱き留められた。

「帰ってきたね、愛し子や」

 声の主はエイル。老女は顔中の皺という皺を全て繋げたようなクシャクシャの顔で、未だ緊張解けやらぬ少女に頬擦りした。

「よくお戻りだね。ああ、マニよ、感謝します。この子をワシ等のもとへ返してくださって! 言い伝えは本当だった。その昔、クピ・ル・マニがお出でなさった路を通って、この子は帰ってきた! マニは答えてくださった、この子を通して!マニはおいでになる! ワシらを見ておられる。マニはまことに……!」

 枯れ木のような老女の、何処にこんな力が有るのかと驚く程の強さで抱き締められ、揺さぶられる。

「エイル、エイル、私ね……」

 少女は息継ぎの合間にもがくようにして言い焦ったが、興奮したエイルの耳には届かない。

「ああ、マニよ、高貴なる光よ。……至高なる御方よ。我が全霊をかけてお礼を言います。輝かしき御身に感謝します。御名を讃えます。我が愛し子の無事を、心より感謝します!」

 感極まって涙を流し、強く掻き抱くエイルに気圧されて、ソフィーは口を噤んだ。されるままに身を預けている愛し子の戸惑いを察知してか、老女は神への祈りを切り上げ、ソフィーの瞳をのぞき込んだ。

「いいんだよ、お前さんは帰ってきた。それだけで良いんだよ。何も心配することなぞないんだよ。さあ、寒くはなかったかい? 温かいスープをいれてあげよう。さあ……」

 叱られて家を出された子供を迎え入れるように、優しく手を引いて誘おうとしたエイルに抗って、ソフィーは動こうとしなかった。

「ソフィー?」

 名を呼ばれても足を突っ張って俯く幼女に、エイルはその小さな手の内にあるものを見咎めて問う。

「その、胸に抱えているものは何だい?」

 叱られるのを察知したのか、一瞬びくりと肩を震わせたが、少女は偽ることなく正直に白状した。

「ーーベルクの卵」

「そんな物! どうするっていうんだい」

 青黒く、エイルの顔が見る見る怯えに引き歪んでいく。

「お祭りを……冬節のお祭りをするの。この卵を使って」

 ソフィーには、もうこれ以上黙っている事はできなかった。堰を切り、転げるように出てくる言葉を、思いを、押し止めることは、幼子には出来ない。エイルがどんなふうに思うかなど、慮る余裕も伺い知る術も無かった。

「そしたら‥‥、そしたら、いなくなった人たちも帰ってくるでしょう? ベルクの卵なら! ベルクの卵なら、お祭りは本当になるでしょう?」

 本当に、なる。それがどういうことなのかを、本当にわかっているとは思えない。老女は血相を変えて問い質す。

「恐ろしい事だよ。神はそんな事をお許しにはならない。マニの怒りに触れる大罪だ。お前さんは召された者を、死の門をくぐった者達を呼び戻そうというのかい? そんな事、出来るわけないじゃないか。何だってそんな罰当たりな事考えたりしたんだい! さ、こっちへお寄越し。そして、忘れるんだよ」

 取り上げようと伸ばされた枯れ枝のような茶色の腕を、させまいと争うように避けた。

「だめ!! コレには凍った魂が入ってるの。眠ってるんだって、ベルクが言ってた!」

 泣き出しそうなぎこちない笑みを浮かべて、エイルがこの上無く優しい声音で諭そうとする。

「なら、態々起こしたりしなくても良いだろう? さあ、困った事を言い出さないで、こちらへお寄越し。そして馬鹿な夢なんぞ忘れるんだ」

「夢なんかじゃないわ。

 ベルクの卵だもの! それに、いつもの土人形なんかじゃなく、本物の人形なら、ルーの作った人形なら、きっと叶うわ」

 きかん気の子供が必死に、一途に言いあげるのと同じように、少女は信じる思いの丈を開放した。

「ルーの人形なら、大丈夫だもの! ルーの人形は本物だもの!」

「ルー? あの男の人形に、あの男にそんな力があるものか。本物の人形? 人形は人形だよ。血の通わない、ただの儡さ。あの男はただの人形作りだよ」

「ううん! ルーは、マニ・エトだもの」

「マニ・エトなぞいないよ!」

 石火のような否定だった。それまで子供の戯言を軽くいなしていた手ぬるさが、一変して形振り構わぬ否定へと変わった。エイルの窪んだ目が皿のように見開かれ、黄ばんだ白目が剥き出しになった。気色ばんだ老女に一瞬怯みそうになったが、ソフィーは胸の卵を抱え直し、逃げることなく向き直った。

「いるわ! だってルーはマニ・エトだもの。そうでしょ?」

 エイルは言っていた。

 ルーは、水を留めると。それは、不思議を成すというドルイドと同じなのではないか? ルーは、神の業を身に付けし者なのではないのか?

 ーーエイルはこの前言っていたのと反対のことを言っている。これは本当にエイルだろうか? 幼子の心に小さな疑いが浮かんだ。

 老女の全身が小刻みにかたかたと震えだす。唇に色はなく、土気色の顔にも表情はない。

「あの男はマニ・エトではないよ」

 何を言っていると、愚にも付かないことをと一笑にふすつもりだったが、色を失した顔では、ソフィーの思いを阻むことは出来なかった。

「ううん。ルーは、マニル・エ・シュトラよ。

 そうでしょ、ルー?」

 ソフィーの澄んだ目に覗き込まれて、老女の口がだらしなく開かれたまま彷徨うように動く。

「何を……何をお言いだい。ワシはエイルだよ。クピの守のエイルだよ。薬作りのエイルだよ。ソフィー、ここにルーなぞ居らんよ」

 身じろぎしてひどく狼狽するエイルを、じっと見つめる。

「お願い」

「なぜワシに言うんだね。ワシは……」

 怯えたように目を閉じる。その眉間に、痛みを堪える皺が刻まれ、じっと動かなくなった。

「何を言っているんだ、ソフィー」

 太く、低い声がエイルの背後からして、ソフィーは反射的に見上げる。

「とうさん」

 聞き慣れた声に、幼子の心が警戒を解く。

「そうだよ、何を、駄々を捏ねて困らせてるんだい」

「かあさん」

 優しい声と共に現れた姿に、突っ張っていた心が挫けそうになる。

「エイルはエイルだよ、他の何でもない。どうしたね、変な夢でも見たのかい? 可笑しな事を言い出すんじゃないよ。困った子だね。そんなもの、ちょっと大きな鵞鳥の卵だろ。何時までもきかない事を言ってると、あの恐ろしい鳥に浚われてしまうよ」

「そうだ。さあ、そんなもの持ってないで寄越すんだ」

 懐かしくて暖かいものが、ソフィーを包み込もうと手を伸ばす。幸福な匂いが幼女の鼻を擽り、心地よい目眩によろめいた。

 けれども。彼女の腕に抱えられた卵が不意にずしりと重さを増し、その存在を彼女に知らしめ、揺らぎかけた歩みを留まらせる。

「早くおいで。家へ帰ろう。さあ!」

 伸ばされた手を、払い落とす。

「駄目よ、かあさん」

 次いで、囲み込もうと追いすがるもう一つの手も払いのける。

「できないよ、とうさん。

 約束したもの。何があっても守るって、私、約束したもの」

 ベソをかき、泣き出してしまうのを必死に堪える時、幼子はしばしば歪めた顔を固まらせ、涙の零れるのを必死で留めようとする。

 拒絶された手は、行き場を無くして宙ぶらりんのまま。尚もソフィーを手繰り寄せようと画策する。

「そら、行こう、ソフィー」

「家に帰ろう」

「ほら、こんな所に何時までも居ないで」

 入れ替わり立ち替わり、ソフィーの周りを見知った者たちがぐるぐると、近付き遠退きして廻る。親しい者も、そうでない者も、里の者たちが総出でソフィーを取り囲んだ。

「お願いよ、ルー。助けてよ」

 石のように動かないエイルに向かって訴えるソフィーに、又しても声をかける者があった。

「私はここだよ、ソフィー」

 父や母の後ろに、まるで呼び出されたかのようにルーが顔を覗かせた。

「ここだよ」

 黒い髪の人形師は、皆と一様に柔らかな笑みを浮かべて、幼子の主張を掻き消そうとした。

「私はここに居る。

 皆で、一緒に帰ろう」

 人形師の声に、ソフィーの決意が揺るがされる。多くの人々が口々に、森のざわめきのように彼女の意志を挫けさせる言葉を口にする。人々の中には、ヘルマさんも居た。

「帰りましょう、ソフィー。

 ルーはマニ・エトなんかじゃ無いわ」

 目尻の端の際で辛うじて留まっていた涙が、瞬きと共にはたりと柔らかな頬を伝った。

「ルー! マニル・エシュ・トラ・ルー!!

 力を貸して! お願い、ルー!」

 幼子の叫びは、細く遠く空間を貫き、うるさく鳴っていた梢を黙らせた。

 凍りついた人垣が、動きを止める。薄っぺらな板に描いた灰色の絵のように、人々は突然存在を薄くした。

 寄席木の、半球体の屋根が覆い被さってくる圧迫感と閉塞感で窒息しそうになる。そのうち丸い天井にぴしりと乾いた音と共に亀裂が走り、ばらばらと剥落し、ソフィーの上に無数の破片が降りかかった。キラキラと鋭く光り、けれど幼子を傷付けることなく、当っては跳ね返り、跳ね返っては散り、それらは全て硝子が砕けるような音を立てながら、塵と化して消えていった。

 現れたのはベルクと共に居た時と同じ、果てしなく白い空間。けれどもあの不思議な暖かさは無く、白々と薄ら寒い風が吹き抜けた。

 何にも、何にもない、空っぽの空間。残ったのは膝を折り幼子の肩に両手を置いて崩折れる人形師だけ。音は、死に絶えたようにソフィーの周りから姿を消した。

「できないよ、ソフィー」

 くぐもった、力なき声が地面に落とされた。

「できないんだ」

 更に弱々しくもう一度。ルーは顔を上げず、頑なに俯いたまま呟く。少女の双肩に置かれた手の指に力がこもって痛い。

「やってはならない事だ。神の力を使って、理を覆すなど、あってはならない事だ」

 体の奥から搾り出すような声。俯いて表情は見えないが、ソフィーには彼が今どんな顔をしているのか、透けて見えるような気がした。けれども、それをおしても、ソフィーは尋ねなければならない。

「どうして?」

 と。ーー肩を掴む指が食い込んで痛い。

「禁忌だからだ。人として生まれた身には、触れてはならない事がある。

 この世界において、人の世において、生と死は絶対だ。それを決めるのは人ではなく、また、魂を買うという悪魔ですらない。摂理という名の、神の御手だ。

 魂は器を持って生まれて死ぬ。洗い、清め、さらに戻すには、長い眠りが必要だ。そうして、又新しい器を持って生まれるんだ。

 だから、魂は永遠なんだよ。それを曲げて無理に呼び戻しても、『シ』を経た魂は、生きていた時のようには笑えない。世の理を曲げて取り戻しても、生じた歪みまでも消せはしないんだ」

 ルーの言葉は地に吐かれ、水の中に落ちていく山羊の乳のように広がっていく。

 暗い瞳にクピの池の緑がかった灰色が溶かし込まれ、過ぎ去りし幻影が訪なう。ソフィーはルーの背中に、いろいろな影が浮かんでは消えていく幻を見た。彼の背負うモノが人であるのか、そうではないのか、ソフィーの目に映ったのは幾つもの幻影。埃のように体から舞い上がっては、雨に溶けるように消えていった。

「人は、人としてあるのが一番だ。人の身で、神の領分に立ち入るなど、手に余る事だよ。どんなに理不尽で突然だろうと、別れねばならない時は来るんだ。シを覆して、人の手で理屈を捩じ曲げて呼び戻したとして、良い事などあるわけがない。出来るからといって、全てをやっていい事にはならない。大きな罪を犯せば、やがてつけがまわってくる。

 一度シを迎えた者を呼び戻すなど、してはならないんだよ。人の身で、生と死の境界線を越えようとする者は、最早人ではない。悪戯に人の運命を狂わせる、奢った存在だ。そんな忌まわしい力など、無い方がいいんだ」

 白くて、何も無い場所。二人だけの、空虚な空間。足下を温度の無い透明な風が緩く地を舐める。重く立ち籠める霧の裾を、その力ない風が捲ったように見えた。翻る度に覗くのは、翡翆色の湖面。深い色した針葉樹の木立ち。

 水の中で息を止めているように、じっとして動かない人形師を見下ろしながら、少女はその大きな瞳を微睡むように軽く閉じた。

「じゃあ、誰がその力をくれたの?」

 虚をつかれて、ルーは口を噤む。

「神様じゃないの? 力を使いなさいって、神様がくれたのでしょ?

 神様の、祝福ではないの?」

「……」

 男には、答えるべき言葉が無い。

 足下を漂う風が何処かから冷気を運んでくる。二人を取り囲み、頭上をも覆っていた固い殻が、撓んで緩み、冬の気配を滲ませた空気がソフィーの細く軽い髪を揺らした。固まって動けないでいるルーに、少女は軽やかな音色で言葉を紡ぐ。

「この卵ね、孵らないの。ベルクが言ってた。あんまり悲しい事があると、卵の中で魂が固まってしまうって。

 でも、ちゃんとお祭りをすれば、……ヘルマさんはロッティを連れていけるわ」

「ソフィー……!」

 それまで伏せていた顔を上げて、ルーは幼子の名前を呼んだ。

「お願い、ルー。ロッティを、シャルロッテを孵して。

 ベルクはね、卵が冷たくて寂しそうだって言ってた。ベルクの卵とルーの人形なら、きっとロッティは帰ってこられる。

 このままだとロッティもヘルマさんも、二人ともかわいそう。ーーロッティは、私の友達だもの」

 二人の足下から、小さな夥しい数の生き物が這い出るように、世界が色を、匂いを、存在を取り戻していく。深緑の瞳が、風に揉まれる木々を映して揺れる。少女の願いは、送り出すこと。反魂の術にて、黄泉がえりを望んだのではない。けれども、ただそれだけでも、冷たい死と冬を統べる女神の、禁忌に触れることは必定だった。

「私には……できない。

 私は恐ろしい。魂を呼び戻す程の大きな力が、引き換えにどんな余波を生み出すのか。何を、要求するのか。

 私は力を使うのが恐ろしいのだ、何にもまして。持っているからといって、使って良いとは限らない。私は……もう二度と、災禍を招きたくはない。あんな思いは、もう二度と味わいたくない。

 覚醒と共に夢は終わる。夢と現の境界はあやふやで、とても危うい。全てが、君を取り囲む全てが、消えて無くなるかもしれない。それでも、君は卵が孵るのを望むかい?」

 ソフィーは小さく、だが発問者に答えるには充分な明確さではっきりと頷いた。

「孵らない卵はどんどん冷たくなって、生まれられなくなるもの。ガチョウの雛だって、雛は殻を割って出てくるわ。

 卵は、孵るものでしょう? 温めているのに孵らないのは、悲しいもの」

 クピの池の辺。冬が来る前の、あと一押しで忽ち氷が張ってしまいそうな水面に、水際の木々が寒々しげに映る。

 彼女は過たずに帰ってきた。ベルクの卵を携えて。そして森には雪が舞い落ちる。乾燥した枯れ草の上に、白い覆いが被さり始めた。

「お前の信じる事を、お前のしたいように成すがいい」

 突然第三者の声があがり、驚いたソフィーの目に入ったのは紺色の長衣を纏った魔法使いと、もう一人。

「お前の為に成された全ては、お前の望みの前では無力だ。お前の思いを、阻むことは誰にもできはしない。フューよ、お前は正しい。お前の望みを、叶えるがいい」

 銀の髪の旅人は、やはりあの朗々と響く声音で、不思議な韻律の言葉を紡ぐ。

「歩みを始めた幼子に、最早揺り籠は要らぬ。

 お前の負けだ。そうだろう、ミヌァトゥよ」

 言葉を投げかけられた男は、びくりと肩を震わせた。ソフィーの肩に手を置いて膝をついた男も、魔法使いの傍らに立つ男も。黒い髪、暗い瞳。同じように、白い面を俯いている。

「ルーが……二人……?」

 自分の目の前の男と、少し向こうの男と。交互に見比べる。一様に少し俯いて、人形のように表情が無い。まるで騙し絵のように佇む二人が、ついとその白い面を上げた。

「いいや。私は一人だ」

 どちらが、そう言ったのか。ソフィーの両肩から重みが去り、二人のルーが重なった瞬間、二重の人影は幼女が目を擦っている間に一重となって、前にも増して鮮明に輪郭を縁取った。

「もし孵ったとしても、彼らにはもうシルシが無い。一度光のシルシを失った魂は、たとえ孵ることが出来ても、安らぎの地へ辿り着く事は困難だ。彼らはおそらく、門を潜る前に狩られてしまうだろう。連れて行こうにも、彼らにはもう道が見えない。彷徨う魂はもう一度、ベルクに狩られてしまうだろう。そうしてまた、閉じ込められる。

 連れて行く事は、出来ないんだよ」

 機会は、一度だけ。それを逃してしまえば、魂は彷徨うしかない。眠りに就いていた魂も、同様に。指標のない迷い魂達は彷徨いさすらって、やがて冥府を司る白き淑女の僕に狩られてしまい、平安の地の門を潜る事が叶わない。それは、永遠の放浪と、二度と叶わぬ再生を意味する。救いも安らぎも無い、常なる夜を彷徨わなければならない。

「私が行こう。私が、彼らを遙かなる門へ導こう」

 名乗りを上げたのは銀色の髪をした旅人。迷い無く、まるで近所への遣いのように申し出をする。

「それは……」

 言い淀むルーに、旅人はそれまでの固い表情ではない、晴れやかとさえ言える表情を浮かべた。

「あるやなしやもわからぬ者を探す事に比すれば、目的地が定まりし旅の何と軽い事か。

 私はフューに出会い、ミヌァトゥを見出した。私の旅はこの地で終えたのだ。長き時を経て、私の放浪はようやく終わる。終わるのだ……漸く」

「終わる……?」

 長身の魔法使いを見上げて、ソフィーは小首を傾げた。

「私は、南から来たのだ、フュー。ここよりも遙か南の地から、東の国を通り、幾つもの森を山を川を越え、業師であるミヌァトゥを探して。私の役目は探し出す事。我が主であるオーヴロの希望、世に並びなき花のオルフェリアの器の復活が、我々の悲願。神の手を持つ業師を連れ帰り、美しき花を咲かせるのだ。リキュリルが飛ばし去ってしまった花の器を、再び甦らせるのだ。

 我が名を取れ、ミヌァトゥよ。我が名は標となりて、お前達を導くだろう」

 離れているにも関わらず、皿のような大きな目が、鼻先から覗くようにルーに迫る。

「我が名を取れ、ミヌァトゥ。引き換えに、私は道を失った者達を導こう」

 ルーはやおら立ち上がり、魔法使いの甘言を、草を払うようにきっぱりと否定した。

「生者に、死者の国を訪れる事は出来ない。故に、貴方の提案は理に適わない」

 生と死とは、決して交わることは無い。ただほんの一瞬だけ両者は邂逅し、その後真逆へと反転し、二度と重なり合うことは無い。それはまるで捻れた二つの線のように。ぶつかることも、重なることも。ましてや混ざり、一つになることも無い。

「生者の身では到達不可能な場所へ、どうやって辿り着こうと言うのだ」

 風が、行き場を失った風が、出口を探して舞い上がる。外から忍び入った冬の気配と、周囲に澱み滞った空気が、身を拠りあわせて三人の間を吹き抜けた。

「私は、フューの言うように、人外の者。ならば、人の身では死を経てしか行けぬ場所でも、我が身には容易い。門を探す事など、領分でない人界で、息を潜めるけし粒程の存在を探すより遙かに易きこと」

 反目しあう二人の間で、幼子が旅人の袖を引いた。

「私はフューじゃないわ、ソフィーよ」

 再三の抗議も取り合って貰えず、ソフィーは縋るように大きな瞳で見上げた。それを見下ろしながら、旅人はこれまで見せた事のない慈愛に満ちた笑顔を浮かべ、膝を折って幼女の両手を取った。

「ソフィー。私の名は、スワルロと言うのだ。よく覚えておくれ」

 彼の声は、前にもまして魔法の力が宿る音色でソフィーの耳に忍び込む。

「ソフィー、返事しちゃ駄目だ!」

 ルーは叫んだ。だが、声にならなかった。叫んで阻止したかったのに、出来なかった。何故か。彼は、声を出すことは疎か指一本、凍りついたように動かす事が出来なかった。彼には、目の前で行なわれる遣り取りを、傍観する事しか出来なかった。

 ソフィーの軽やかな声が、転がる鈴の音のように響く。

「うん。私はソフィー。あなたはスワルロ」

「ソフィー、私の故郷へ行ってくれるかい? オーヴロはきっと君に会いたがるよ」

「オーヴロって、妖精の王様のこと? スワルロ、あなたは妖精なの?」

 彼は返事の代わりに大きくゆっくりと頷いた。

「君は幼いのに物知りだ。私の故郷は、常春の緑に囲まれた、美しい場所だ。私の代わりに、訪ねてくれないか?」

「いいわ。あなたは南の方から来たのでしょう? 私、南へ行かなくちゃならないの。白の御方に追いつかれないように。ベルクがそう言ったの」

 その少女のあどけない所作からは及びもつかないような、絶望的な気持ちで、ルーは少女の言葉を受けとめた。

「ミヌァトゥよ。どのみち、もう選択の余地はないのだ。一度手綱を手放して馬の行くに委ねた者は、馬の行くに任せるしかない」

 初めて名告った旅人は立ち上がり、人形師に向き直った。ルーは目を閉じ、拳を固く握って立ち尽くす。

 ドーム型の天井に、人影のような陽炎が立ち現れる。それで、三人を取り巻く空間が、まるで卵のような形をしているのが判った。魔法使いは空を仰ぎ見、森の木々が透けて見える、透明な入れ物の中で垂れ込める冬の雲の下に巨人のような影を見た。一つは大きく、一つは小さく。ゆらゆらと揺れて、炎に映し出される影絵たちが、丸い天井や壁にまるでシミの如くに張り付いていく。

 彼らは昔日の写し絵。夢の続きを紡ごうと、縦糸と横糸を張る。ただ一つの目的のために、重く軋む綻びだらけの体を立ち上げる。顔のない人、窓のない家、目のない鳥たち、口のない犬。魔法使いのマントの色した影たちは、音もなくただのろのろと、力なく立ち並んでいく。勢いも熱も、遠い昔に費やして、抜け殻のみが頭を擡げて其処此処に姿を現した。夢を夢たらしめていた力は、もう微かな芳香を筋ばかり上げるだけだった。

「私は、ずっと逃げてきた。我が忌まわしき力を、エイルの否定する心の影に封印して、私は己から逃げたのだ。けれども、微睡みの魔法は効力を失いつつある。

 ーー潮時。なのかもしれない。

 時は、止まったのではなく、歩みを遅くしただけなのだから」

 独りごちた後、ここにおいて人形師は揺らぎなく、再度ソフィーの前に膝を折った。

「もう一度聞く。ソフィー、卵を孵したいかい?」

 躊躇い無く、こくりと頷く。尋ね手の迷いを払拭するかのように、はっきりと。

「私ね、七つになったの。あと暫くすれば、八つになるわ。もうたくさん貰ったから。だから、もう、いっぱい」

 小さなソフィーは両手を大きく広げ、目に見えない大きな塊を抱えるような仕種をした。

「わかった、お祭りをしよう。

 友達のために」

 乾いた風が旋風を起し、二人と一人を巻き込んで駆け抜けた。



 **続く**

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