第3話 『器』を造る者

 針葉樹の森を行く、対照的な二人連れ。背の高いのと小さいの。

 似て非なる金と銀。

 その、静と動。

 おそらくは、瞳に宿る年月の輝きも異なる二人連れ。柔らかい若木の一葉と、太古から生き継ぐ老木と。前を行く幼女は急ぎ足に歩み、長衣を纏った旅人は音もなく静々と滑らかに歩く。そしてその後を、森の影がついていく。灰色がかって透明な、視界をぼやかす惑わしの霧。下生えの通い慣れた小路を、少女は過たず進んでいった。

 足下で枯れ草がかさかさと音を立てる。おまけに吸い込む空気が喉を刺すように冷たい。不意にエイルの言葉が蘇った。

 湿気を含んでいるはずの落ち葉が音を立てて騒ぐ時は、もうじき雪が降る、と。知らず、確かめるように空を見た。霧の天井の向こうに、うっすらとした青が見えた。はっきりとは見えないが、今にも雪が降りそうなほど垂れ籠めているわけではないようだ。そうして仰ぎ見たついでに、頭を後ろへと巡らせてチラと背後に視線を泳がす。思わず溜息が漏れた。

 この後に及んで、ソフィーは躊躇っていた。そもそも、約束などしたのかどうかも覚えが無い。けれど引き換えにする願いと、提示された条件にはーー思い当たる節がないでもない。

 しかし。ーー彼が探しているのがソフィーの知っている人物であるとは限らない。ただ、ソフィーは同じ空気を纏う人間を知っていると思ったのだ。同じ、不思議を行なうという人物を。

 森の一軒家。戸口の前に、影三つ。

 幼女と旅人と森の精。木精は森の妖かしの一つ。生きている人間をそっくり霧に映して姿を象る。深い深い霧の中に住むという、未知なる森の、実体無き住人。それは足音なく、望めば気配すらなくヒトの影に忍び寄る。

 ソフィーは、不安を胸に戸を叩いた。

 一つ、二つ、三つ。

 もし、彼女とこの旅人との間で、何がしかの約定が交わされているのならば、その契りを彼女が違えた場合、たとえ不本意であろうと、そのしっぺ返しを被らねばならないのだろうか。

 エイルは言っていた。出来ない約束ならば、するんじゃない、と。どんなものだろうが約束を破ったなら、罰を受けなければならない。それは、子供であろうと例外はない。掌を叩かれた痛みを、ソフィーは今でもありありと思い出せる。そして、罰よりも重く沈む心の痛みが蘇る。

 戸を叩きながら、ソフィーは念じる。

 どうか、居ませんように! 留守でありますように!

 しかし、戸の向こうからの返事は、彼女の願いを事も無げに覆して、しかも拍子抜けな程簡潔だった。

「はい? ソフィーかい?」

 ルー、マニ・エト ルー。お願い、出ないで。戸を開けないで!

 幼女は強い葛藤に捕らわれる。理由も根拠も無かったが、破綻の後の罰よりも、ルーが戸を開けることの方がひどく恐ろしい。彼女の必死の心の呼びかけも空しく掛け金が外され、人形師の黒い瞳が覗いた時だった。

 突然ソフィーの背後からどうと風が吹き、東方人の姿を隠していた扉が、勢い良く内側へと弾かれた。風は収まることなく堤防を壊した激流のように部屋中を舐め、ただ中にいる者の視界を奪った。

「フュー、コレか?

 残念ながらコレは違う。ソレなら私には判るはず。コレからは力を感じない……!」

 銀の魔法使いの言葉が、魔詩のように響いた。

「私が探しているのは、ミヌァトゥ。『器』を造る、神の禁忌に触れし者。

 フュー、お前の奇蹟を行なったのは誰だ? この者からは似た匂いはするが、ソレとは違う。ミヌァトゥはどこだ? お前は、フューだろう?」

 強い風が、藍色の長衣を帆のように広げて生まれ出てくる。その身の丈は不安と共に膨らみ、影はソフィーを包んで脅かす。穏やかだった魔法使いの豹変にたじろぎ、怯えながらも、少女は強風に逆らって抗弁しようと試みた。

「私は、フューじゃな……」

 ソフィーの小さな唇が言いかけて止まり、小さく震えた。

 それは、森の影。二人の後を気配もなく追従した緑の追跡者。魔法使いの背後から地を這うように、そして恰も蛇の歩行のように身を捩り、獲物に突進する仕種で木々の合間に立ち現れた。

「やはり……そうだったのね。やっぱり!」

 突然の介入者に、場が凝結する。

 そこにあるのは緑褐色の泥顔。醜悪に中央へと萎んだ皺が、念の深さに本来の顔を歪ませる。口角が下がり、頬に深く窪みが現れている。落ちくぼんだ眼窩には、絶望と執着と希望とがない交ぜの影と鈍い光が、尋常ならざる光で宿る。

 最早、人としての姿を止め得ぬ哀れな亡霊。けれど、ソフィーにはそれが誰だかわかった。

 いつも寂し気に俯いていた人。

 何かを探すように、地に目を彷徨わせていた人。決して真っ直ぐに視線を上げることなく、伏し目がちにこちらを見ていた人。その押し殺された声が、地を伝って足の裏から体に入ってくる。他人の情念の侵入に、不和の不快でおぞ気が走った。

「マニル・エシュ・トラ! ……お願い、私の娘も‥‥私の娘も返して頂戴! 私の手に呼び戻して! あなたなら‥‥あなたならできるでしょう?! マニ・エトなら!」

 咆吼のような声は、向かっていく相手に対して今にも飛び掛かろうと鎌首をもたげて蜷局を巻く。渦巻く情念は、感応した周囲の緑を配下に従え、次々と取り込んでいく。そうして溶けた緑は、絞り上げるように木精と化した思いの塊と同化し、薄汚れた気を吐く蛇を造り上げた。育み生み出す緑の野は、木霊の支配に下り、触れれば腐食するおぞましい化け物へと成り下がった。睨まれたルーは、青い顔で動かない。

「あの子は私の宝、私の命。なのに、居なくなってしまった! 消えてしまった! あの子は帰って来ない。帰って来ないーー!」

 血反吐のような言葉が撒き散らされて、落ちた瞬間から枯葉を溶かして地を黒く染めた。

 こんなに待ったのに! 毎日毎日探したわ。ここに居はしないか、あそこに居はしないか、竈の灰の中まで探したわ。あの子の欠片があるような気がして! クピの池にも潜ったわ。森の下生えの葉陰も、一つ一つ覗き込んで探したわ。あの子が帰ってくる印が、あるんじゃないかと思って。だって私は毎日頼んだでしょう?あなたに。その子を通じて、マニ・エトに頼んだでしょう? お願いよ、お願いよ……」

 おうおうと、木霊は肉食獣が唸るような嗚咽をあげる。涙は涸れて眼窩は落ち窪み、ずるずると思いを引き摺りながら歩き回る。その姿は何とも哀れで醜悪で、滑稽だった。

「私は……あんたが思っているような者じゃない。私は唯の人形師だ。失った『モノ』を戻したりはできない」

 初めて、ルーが口を訊いた。それはとつとつと、いつものルーとは思えない程、心許なげに話された。

「だから、あんたがどんなに思いを重ねようと、私には叶えてあげられない。私は、そんな力は持っていないんだ」

 硬い表情で辿々しく、ルーが語る。

「私は……! 私はマニ・エトなどではない! 人の身で、神の御業を操るなど……! 手に余ることだ、私などに負えるわけがない。

 まして、マニル・エシュ・トラなど……!

 私は、唯の、人間だ!」

 声を荒げ、招かれざる客に叩き付けるように叫んだ。だが念の凝り固まった強固な心は、その程度で怯んだり退いたりするものでは無かった。

「嘘よ! だって、あなたはその子を……あなたがマニ・エトでないはずがない。ソフィーは、その子はあなたがつくっ‥‥」

 妄念で強った唇が、ぎごちなく言葉を継ごうとした時、マニ・エトの瞳が昏く深い緑に落ちる時、もう一人の来訪者が宣告するように、彼方の背後を振り向きざま指刺した。

「不浄なるものよ、去ね」

 魔法使いの身の内から出る風は、きりきりと身を捩り銓衡して忌み人を糾弾した。

「忌まわしき影よ、器持たぬ空蝉よ。

 我らの言葉を操り、我らの間に立ち入ろうとする邪なるものよ。

 私はお前の存在を認めない。生の理の外に存するものよ、お前はお前の領分へと帰るがいい」

 冷徹な、この上無く冷酷な顔を向ける魔法使いの言葉に、少女は膝が震えだすのを止められなかった。

 言葉の中には真実がある。真実は影に投げられ、あまたへと跳ね返ってくる。

 忌まわしき影とは誰だ。実持たぬ空蝉とは誰だ。邪なる者は、生の理の外に存するのは、誰だ? 足下が揺れ、視界が揺れ、頭の中で魔法使いの言葉が渦巻く。言葉は、投げかけられたものたちの存在を揺るがす。

「どうして……、どうして私だけ? どうして私の娘は還らないの……? 待っているのに! こんなに祈ったのに! こんなに願っているのに! 私の娘は、シャルロッテはどこへ行ったの!!」

 飴のように、粘質の増した思いが少女の心を波立たせ、駆け出させる。その名は、封印された言霊。閉じこめられた、眠っている魂の呼び名。

 全てを贖いし、隠された存在。名には力があり、覚醒を促し封印を解く。そして告発者の糾弾は迷うことなく相手に切っ先を向ける。

「その子だけ、どうして!」

 風が、一瞬の間隙を持ち、刃のような冷気が動きを止める。

 近くでパタンと、扉が開いた。

「ベルク……フレイス・ベリューク!

 白き翼!」

 それは、白い鳥の名前。冬を運ぶ、白い翼の本当の名。幼い者の小さな唇の呟きは、その言葉自身の持つ力をすれば、充分すぎるほどの明瞭さをもって生み出された。

 真の名は、原始にして創始の真。モノを象り、物事を縛る。生命は姿を現わし、妖しは存在を召還せらる。

 何処かでもう一つ、扉が開いた。

 発生と消失と。二つの点が結ばって、線が生まれる。

 線は道、道は通い路。

 天空を行く風が地上へと降り立ち、滞りを絡め取って飛ばし去る。

 後に残るは人形師と魔法使い。人形師は幼子の名を呼び、ーー応えは無い。

 羽を散らすように白い切片が舞った。

 今年、初めての雪。

 ーー冬節の始まり。

 高い所で、あの鳥が鳴く声がした気がした。


                           *続く*

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