マニル・エ・シュトラ(manil e syutora)

天音メグル

第1話 神の業《わざ》を使う者


 ーー深い、

 深い霧に包まれた、針葉樹の森。

 黒い森と呼ばれるその森に、木々が落とす碧なす影よりなお暗い、長い髪をした東方人の人形師が住んでいた。

 森の中を流れるフィルミ川の辺、人形師は独りひっそりと暮らす。どうして彼がここへ来たのか。何時からそこにいるのか。彼の素性も名前も、誰一人として知る者はない。

 彼は、そこに住まう者。子供が大人になり、やがて老人となっても、彼はそこに住んでいる。誰と関わりを持つということもなく。ずっと、独りで。蕩々と流れる秋の川と同じ輝きを持つ髪をした彼の造る人形は、どれも血の通う人間のよう。里の人々は異邦の民である彼をマニ・エトと呼ぶ。即ち、マニル使シュトラう者、と。

 人形師は自分の造る人形の頬よりも白い白磁の肌をしていて、彼の黒い瞳は、ある時偶に、曇ったフィルミの川が見せる水面の如く、碧く輝くことがあるという。

 野兎のように周りに目を配りながら、足早に歩く。

 暗い、鬱蒼としたこの森がソフィーはあまり好きではなかった。海のように梢を鳴らす空を覆う暗い木立の合間から、今にも魔物が現れて自分を闇へと引っ張り込みそうで、気が気ではないからだ。

 この森には、大きな鳥が居るという。

 その鳥、夜に音もなく飛び、鋭い爪で子供を浚って行く。夜の闇の淑女の僕。凶鳥ベルクは翼を広げて闇を生み出す。

 森は、彼らの猟場。彼らの縄張り。天を突く針葉樹の群れ。その樹上の上を、風が掠めるように吹き渡る。だけども、ルーの家に行くには、この道を通っていくより他にない。もとより目的の家自体が森の中にあるのだから、避けようもないことなのだが。

 森の小道を小走りに駆け、ともかく、やっとの思いで辿り着いた家の扉を叩く。

 樫の木の一枚ドア。それを、子供の小さな手で、二度、三度。

 返事がない。……留守だろうか。ここの住人は家を空けることが多い。遠くまで出かけて、長いこと帰らないこともある。不安に押されて、扉をそおっと押してみる。‥‥…開いた。

「ルー?」

 名前を呼ぶが、答えはない。工房の方だろうか。部屋を抜け、奥へと進む。

 人形師であるルーのことを、村の皆はマニ・エトと呼ぶ。まるで、魔法使いのように。隠遁者のような生活をする彼の元を訪れるのは、小さなソフィーだけ。彼女の役割は、村はずれの木箱に届く彼宛の書簡を届けること。

 ソフィーは、この家に来るのが好きだった。彼の作る人形は、どれも生きているようで、棚の上に並んでいるのを見るのは楽しい。ただ、これまで一度も作っているところを見たことはなかったが。

 工房はいつも奇麗に片づいている。木屑の一つも落ちていない。そして、ここにもマニ・エトは居なかった。やはり、出かけているのか。

「マニ・エト、ルー?」

 ソフィーの声が、空の暖炉の煙突へと吸い込まれていく。住人の留守を確認すると、彼女は預かった手紙を居間の小箱に入れ、もう一つ奥の小部屋へと向かった。

 それは、出来上がった人形を入れておく部屋。そこには彼女の友達がいる。金茶の髪に紫の瞳。緑色のビロードの服を着た、女の子。何時も、俯いて椅子に座っている。名前をロッティという。ソフィーが名付けた。ロッティは、歩いたり走ったり出来ない。ソフィーとだけお喋りをする。

「こんにちは、ロッティ」

 返事は、他の者の耳には聞こえない。形の整った唇は動くことなく、何処かしらはにかむように、ぎこちなく薄く笑っている。ふっくらとしたほっぺの両脇の窪みが愛らしい。あくまでも控え目に、ともすれば表情が乏しいとさえ思われる彼女が、ソフィーはとても好きだった。背丈も同じくらいで、年も多分同じくらい。ソフィーにとって唯一の、年の近い友達。

 ソフィーは、黒い森と呼ばれるフィルガンドの森の外にある、リュイという里の娘だ。小さな村で、彼女の他に同じ年頃の子供はいない。三年前の流行り病で、殆どの子供は死んでしまった。里には大人ばかり。子供はソフィーひとりきり。だから、彼女はよくここへ使いに来ては、ロッティとお喋りを楽しむのだ。

 部屋にはロッティが独り中央にぽつんと座っていて、この間まで一緒に居た男の子が居なくなっている。やはりルーは出かけたのだ。確か、遠い街のお金持ちの御用だといっていた。こうやって、この部屋の住人はぽつりぽつりと居なくなり、長住まいをしない。けれど、ルーはこの紫の瞳の女の子だけは、何処へもやらないと約束してくれた。ソフィーが名前を付けた友達だけは。だから、この部屋に居た多くの住人の中で、ロッティだけは特別。彼女だけに名前があり、彼女はソフィーの特別な友達。フィルガンドの森がどれ程恐ろしかろうと、ソフィーはここへ遣ってくる。彼女に会うために。

 白い空の狩人、ベルクの恐怖に怯えながらも。

「おや、お帰り。マニ・エトは居たかい」

 帰ってきた娘に、母親が声をかける。

「ううん。居なかったから、いつものとこに入れてきた。

 そういえばね、今日も行き掛けにヘルマさんに会ったわ。かあさんに宜しくって」

 母親は「おや」という顔で、首を横へ傾いだ。ヘルマ夫人は先の流行り病で家族を亡くし、今は未亡人。いつも悲しげに俯いている。線が細く口数少ないこの夫人が、ソフィーは嫌いではなかった。殊更言葉を交わすことは無かったが、柔らかい面ざしが何処となく友達のロッティを思い出させた。

「そうかい。

 さあ! お腹空いただろ。もうすぐ夕飯だからね、手洗っといで」

 子どもは元気に返事をすると、浮れた小栗鼠のように洗い場へ消えていき、母親は、物思う目で子供の背中を見送った。傍らで、黙々と木を削り大工仕事をしていた父親が、重い口を開く。

「‥‥‥今日も、行かせたのか」

 父親は、娘がマニ・エトの所へ行くのを好ましく思っていない。

 人形師には、足下を漂う靄のような、人の口の端に登らぬ噂があった。

 彼は、人に出来ぬ御業みわざを操るという。

 母親は沈みかけた空気を掻き消すべく、明るく叱るように言った。

「何言ってんだい。仕方ないだろ、仕事なんだから。マニ・エトには恩があるんだし」

「‥‥‥」

「あの人がいなけりゃ、あの子も居なかったんだから」

 ソフィーは、この夫婦の本当の子供ではない。流行り病の次の年、子供を亡くしていたこの夫妻の元にソフィーは引き取られた。ひどい雨の晩、森で泣いているソフィーを拾ったのが、マニ・エトだった。詳しくは知らないが、ソフィーの本当の両親は既に他界したらしい。大きな雷が森に落ちて、常緑の森の木々が幾つも倒れた年のことだった。

 口を噤み、父親は再び手にした釿で削りをかける。釿はかつんかつんとリズムを刻んで、夕刻の時間は更けていった。

遠くで、弔いの鐘が鳴っている。

湿った土の匂い。

森の中、下生えの草の緑。

遠い太陽。包み込む霧。

自分の他に誰もいない。

掘り返された、二つの穴。

黒い土肌。

不安な記憶。焦げた匂い。

頭上を、小さな影が横切る。

見上げた空は曇り。

膝を折り、祈りを捧げる。

願い事? 何を願う?

何を‥‥…?

「人形のようなソフィー、あなたもマニ・エトの作品?」

 ヘルマさんはどうしてあんなことを言ったのか。小さなソフィーにはよくわからなかった。マニ・エトの作る人形は確かによく出来ていて、生きてるみたいに素敵だけれど、だけどほんとに生きてるわけじゃない。いろんな人に、似たようなことを何度も言われた。よくはわからなかったけど、でも、夫人の言葉は、他の人たちとはちょっと違う感じがする。胸の上辺りが何だかもやもやして気持ち悪い。

「どうか……?」

 入り口のドアを背に、口をへの字に結んで突っ立っているソフィーに、ルーは訝しげに問いかけた。

「ヘルマさんが、」

 言いかけて、途中で口を噤み、伏し目がちの視線を脇へ流す。

「ヘルマさんが、お願いしていた人形、出来るだけ早く仕上げてくださいって」

「ああ」

 ルーは気が乗らなそうに生返事をする。

 今日も、ここへ来る途中ヘルマさんに会った。そして、いつもと同じ伝言。もうずっと前から。そんなに大切な用件ならば、自分で訪ねてくればいいのにと、ソフィーは思う。けれど里の人たちは、決してルーの家を訪れたりしない。

 人形師は書き物机に向かい、手紙を書いている。帰りの仕事は、これを郵便箱へ届けることだった。ルーも、里へは行かない。このことは、ソフィーが知る遙か以前からの取り決めのようだった。

 手紙を書き終えると、ルーは暖炉の火で火種を取り、封書に蝋印を施した。それを受け取り、ソフィーは表の宛名書きをたどたどしい口調で読んだ。

「アイ…ス…フエル…ト?」

「アスフェルド。南にある、豊かな国だよ。そこには、真冬でも凍らないディレルという大きな湖があって、その湖の真中にある島の木には、金色の鳥が巣をかけているという伝説がある」

 ルーは、いろんな珍しいことを知っている。それは、たくさん旅をしているからだ。ソフィーは、森の外の、知らない国の話を聞くのが大好きだった。

「その鳥は、何ていう名前?」

 湖に住む金色の鳥。それはどんな風に輝くのだろう。朝日を浴びた夜露のような輝きだろうか、それとも雪原から見上げる夜空の星を集めたような煌めきなのだろうか。

 好奇心に目を輝かせる子どもの問いに、ルーは困ったように首を傾げた。

「名前はあるけど、誰も知らないんだよ」

「‥‥‥どうして?」

「金色の鳥の名前を知ってる者だけが、それを捕まえることが出来るといわれてる。

 その鳥は福を招き、幸運を運ぶとされてる、神の鳥なんだよ」

「神様の鳥?」

「そう‥‥…。捕まえると、願い事が叶うとされてる。でも、まだ誰も捕まえたことはないんだ。誰も名前を知らないからね」

「ルーも知らないの?」

 無邪気に訊ねる幼子に、ルーは小さく笑みを浮かべて見下ろした。薄明かりの窓を背にして顔は影に隠される。

「ああ。でも、そう‥‥…もし知っていても、捕まえには行かないだろうね。捕まえたら、鳥は死んでしまうんだよ」

 そう言って、ルーは黒い瞳を曇らせ、辛そうに微笑んだ。

 その夜、ソフィーは金色の鳥の夢を見た。夢の中で、名前を知らないその鳥は、ソフィーが近づくと羽根を散らして逃げてしまった。羽根は夕陽のように金色に光って、とても奇麗だった。

 冬を運ぶ鳥、ベルクの到来が間近に迫り、里では冬節の祭りが始まる。

 長い長い冬。白い貴婦人のヴェールが森を覆う前に、ソフィーの里では祈りを捧げる。命を封じ込めた卵を飾り、ひと冬無事に過ごせるよう、その卵を土人形に込めて里の外へ送り出すのだ。祈りを、込めて。

 ソフィーには、叶えたい「願い事」があった。だから、昨日あんな夢をみたのだ。金色の、夢を叶える鳥の夢。実現するためには、どうしてもあれが要るのだ。

 ーー突然、何処かで何かが鳴いた。鳥のような、獣のような。恐ろしさに首を竦める。視線を巡らせ、辺りを探り見る。大丈夫、その何かが飛び出してくるような気配はしない。もっと遠くだったのだ。だけど、足が竦んで動けない。やっぱり大人たちの言うように、森の奥へは入ってはいけなかったのだ。

 聳え立つ木々が風に枝葉を揉まれながら、しゃらしゃらと音を立てる。

 夜に飛ぶベルクの羽音はこんなかしらと、恐ろしさに身を震わせているというのに、呑気に考えたりした。

 ソフィーは彼女の膝丈ほどの石に腰掛け、一つ小さく息を吐いた。

 黄昏時。もうすぐ日が落ちてしまう。そうしたら、脱出は不可能になる。灯もない。ベルクの闇の翼が下り始めたら、夜の森の中で彼女に逃げ路はない。いっそのこと、「ベルクが浚ってくれればいいのに」と思った。ソフィーが欲しいものも、きっと浚われた先にあるだろうから。

 彼女が欲しいのは、ベルクの卵。ベルクの卵は特別だ。冬節の祭にベルクの卵を使えば、「願い事」も叶うはず。ガチョウじゃなく、本物だったら。

 ベルクの卵には、人の魂が封じ込まれているという言い伝えがあった。その鳥は冬の間、人里近くで巣籠もりをして卵を孵す。それで、里に冬が来るのだという。孵った魂たちは天へ還っていくが、捕まったまま還れないものもあるという。

 父さんや母さんが言うように、寄り道なんかせずに帰れば良かった。そしたら、こんな恐ろしい目に遭わなくて済んだのに。普段、里人たちは森に足を踏み入れない。ここは禁忌の場所。道も獣道しかなく、それもとっくに途切れてしまった。

 日没を知らせる鐘の音が、細く森の木々の上を這うように過ぎていく。

 もう駄目だ!

 家路は完全に夜に閉ざされた。半べそをかきながら、ソフィーはしゃくりあげそうになるのを必死に堪える。ばさっと、何かが木から木へと飛び移る音がして、髪が逆立ちそうになった。それとは反対の方向から、がさがさと地上の草叢を鳴らす音がする。どんどん、こっちへ近づいてくる。怯えた少女は尻に根でも生えたかのように動けない。

 フィルガンドの森には、ベルク以外にも恐いものはたくさん居る。灰色狼に邪竜ゼルガー、黒い小人に大蜘蛛シルビル。伝え聞いたいろんな恐いものが、頭の中をかけ巡る。会ったことも見たこともないけれど、エイル婆さんはソフィーに色んな話をしてくれた。話だけでも生きた心地がしなかったのに、本物だったらどうしよう。

 やっぱりベルクの卵なんか、捜しに来なければ良かったのだ。捕まったら頭から噛まれるんだろうか、足からぽりぽりと食われるんだろうか、それとも……大鍋でぐらぐらと煮られるんだろうか。ソフィーはありとあらゆる恐ろしい想像を巡らせ、身を固まらせる。

 どうか、怪物なんかでは有りませんように!

 木立の向こうに姿を現わしたのは、フード付きのマントを着た背の高い人。

 ーードルイド!

 咄嗟に、そんな言葉が浮かんだ。藍色の、大きな頭巾付きの外套を羽織り、身の丈よりも長い杖をついている。話に聞く、魔法使い。違うのは鼻が顎にまで垂れ下がりそうな鷲鼻だったり、紙を一度丸めて広げたような皺々の顔をした背の曲がったおじいさんではなく、若く背筋が真っ直ぐだったことだ。それで、どうやら人間であるらしいことはわかった。それに、

「フュー?」

 ‥‥…喋った。それも、猫のように良い声で。だけど意味がわからない。不思議な韻律。一つだけ耳に引っかかった。

「フ‥‥ュー‥‥?」

 ソフィーが聞き返すと、魔法使いは静かに目を細め、彼女にもわかる言葉を口にした。

「君は、この近くの子供か?」

 今度はソフィーにも聞き取れたので頷き返す。

「そうよ。あなたはだぁれ?」

「私は、東から来たのだ。ある人を探していてね」

 老長ろうたけた光を宿した瞳が、腰掛けたソフィーを見下ろす。言葉は、歌のようにも聞こえる。魔法の呪文とはこんなものかもしれないと、彼女は思った。

 姿は若いのに、年寄りにも見える。話す言葉の一つ一つが、お祭りの時に聞く詩のよう。だけど、何だかこの感覚には覚えが有る。ソフィーはこの背の高い旅人を見上げて、二重に重なる人影に混乱を覚えた。

 誰だろう。初めて会ったのに、誰かに似ている気がする。

 長い銀の髪、夜の闇のような眼。どれも何処も、里の誰とも似てはいないのに。風に揺れる魔法使いの細い髪を見ながら、冬の鳥、ベルクの白銀の翼は、こんな色なのかもしれないと思った。

「誰を探しているの?」

 銀の魔法使いは、歌うような韻律で答える。

「神の御業を操る、白き手を持つ者。彼の者はその手で器を作り、灯火を灯す。禁忌に触れし、業師なり」

 言葉が難しくて殆ど何を言っているのか分からなかったが、ソフィーは言葉に込められた言霊のようなものを受け取った。

「私、その人、知ってるかもしれない」

 この世界に驚く事など無いかのように悟りすましたその目を瞠り、魔法使いは長い杖をこつんと一つ上下に振った。


**続く**

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