#hanako

merongree

#1 hanako

(青空の写真)#aozora #beautiful #girlsphoto #sugercube #hanako

aozorabunko:すてき!


 私が本名の佐藤瓜子ではなく、それを暗号化したようなアカウント「sugercube」としてSNSに投稿した写真が千を超えて、青空の写真がどっかのサイトに転用され、「#hanako で等身大の日常を投稿し続ける、謎の女子高生フォトグラファー」として紹介されたときから、私は自分が、自分ではないものとして消費されることを覚悟した。そのための用意もした。

「写真につけている#hanakoって何ですか?」

 と、某サイトのインタビューで言われたとき、私はとっさに、そして用意してきた答えを言ったものだった。

「日本発の、女のコの可愛さを表現する、という意味です」「cuteとかbeautifulという形容詞にhanakoを並べたい」

 全くのウソだ。二年間続けてきた個人的な習慣に、私は特別な名前なんか付けていなかった。私は唐突に他人から、過剰な期待を込めて「あなたは何で靴下を履いてるんですか?」と言われたようなものだ。ただ毎日やっている、それだけで「靴下に愛着があるんですか?」などと訊かれてもみんな戸惑うだろう。しかし「日常を売り物にする人」になった瞬間から、その戸惑いは権利から奪い去られる。

 女子高生フォトグラファーsugercubeとなった私の日常には、他者が消費出来るような情熱と昂奮とが求められていた。私が漫然と、駅で、登下校の道で、コンビニのレジ待ちのときに行っていた、ハッシュタグを付けて写真を投稿するという作業は、千に積み重なった時点で単なる惰性の堆積ではなく、一個の情熱の大爆発だと見なされるに至った。

ネット上の他人に、私は情熱家であることを求められた。勝手にそう求めたくせにと思うけれど――そうでなければ存在さえ赦されないみたいだった。

 私は、彼らの関心をさばくようなつもりで、また彼らから見過ごされ、私の実態を消費されないよう、彼らの期待するものに擬態したつもりだった。こんな擬態も、女子高生であるということのほか、ネット上でsugercubeというアカウントとしての振る舞いをするうちに、靴下の履き方のように私が自然に身につけてしまったことだった。

 擬態に慣れていくうち、私は「hanako」が形容詞などではなく、実在する他人の名前だったことをたまに忘れた。それで「実在する花子にわるいな」と思った。


 そう、確かに「花子」は実在した。少なくとも、私が中学三年のときには居た。転入生として、五月の連休明けに転入してきたのだった。

 私は他の生徒と同様、薄い関心を持って彼女を眺めた。彼女には「花子」という古風な名前以上の、鮮やかな印象はなかった。ベージュのベストを着ていて、うちの中学では紺色が流行ってたから、何か違うところから来たひとだなという、その違和感以上に強い印象がなかった。のちに「前の学校で留年したらしい」という噂が流れてきて、その理由は校則違反とも、病気ともつかなかったけれど、どちらでも違和感はなかった。理由は上手く言えない。

 偶然、帰り道の方角が一緒だと分かった。私たちはバスを降りた後など、たびたび一緒に帰った。それ以上に、一緒に歩くことの強い動機とかはなかった。隣にいても、雨のなかで傘を差していて顔がよく見えないような、それぐらい風貌の印象が薄い子だった。私が二年間、情熱と見間違えられるほどに夥しく投稿したのは、そのような友人の名前だった。

 もし他人に、それほど親しくもなかった彼女について、そのような習慣を持った理由を尋ねられて、正直に答えるとしたらこうなる。

「花子のウソに付き合わされていたことの名残です」

 その容姿よりも、彼女をよく表していたものはその虚言癖だった。とにかくその量はひどかった。各国が二酸化炭素の排出量を、話し合いで決めたりする会議があるけれど、花子が吐くだけの嘘に含まれるCO2だけで、軽く日本の立場を危うくしかねない。そのぐらいよくウソを吐いた。たぶん彼女には、現実の他にもう一つ地球が要った。彼女がただただ、消費するためだけの彼女に都合の良いもう一つの丸い星……。

 ハッシュタグ「#hanako」のきっかけになったのは、彼女が好んで言い出した「華子」というウソだった(劇の演目のように言うけれど本当それ)。

「見てごらん瓜子ォ、あそこに華子が居るよ」と、猫がおしっこをするような言い方で、花子が道路の反対側を指す。目を凝らして見ても、いつも何もない。赤信号の赤ぐらいに、火を見るより明らかな不在が、いつも彼女の指す先に在った。

 私はケータイを掲げ、漠然と彼女が指す先へ画面を向け、「そこに居るらしい華子」を写真に収める。ぱちり、という音がする。彼女にしか見えない存在を、精密機械が駆けまわって何とか本物として保存しようともがく。私のケータイはあの頃、いつも微熱を帯びていた。

 花子の「貧乏過ぎてケータイ買って貰えない」という話を真に受け、私は自分のケータイを彼女のために使った。そして自分のSNSにいつも、そうして撮影した、彼女にしか見えない華子の写真をアップロードして公開した。

「写真いろんなのありすぎて、どれが華子だか分からないよ」

(あんたの言うお化けが本当に見えてるんなら見分けられないはずないでしょ)

 そう思いつつも私は「華子の写真」を特に区別して「#hanako」というタグを付けるようにした。


 花子とは違う高校に進学して会わなくなった。私の手元には、#hanakoという習慣だけが残った。

 しかし、ネットとは恐ろしい世界だ。そこは他者の物語を消費したい他人の食欲の縁なのだ。二年間、日常にある風景を撮りためた女子高生sugercubeのアカウントは、謎のハッシュタグ#hanakoを付けていたことで、何かしらの情熱に献身していると物語を付与され、私は物語を消費したい他人のために、ネット上でジャッジを受ける羽目になった。

 実際、その当事者でない私に「#hanako」の正体を求められても困る。私にとってはそれが、透明な習慣にしか見えていない。「この柄がいいですね」と靴下を褒められても「この華子はよく撮れていますね」と言われたぐらいに、私には何も言えない。

 高校に入ってからは、花子がいないもので、彼女にせかされているような気がしたときに、漠然とシャッターを切っていた。でも、そのような現実にある、惰性と習慣の物語など、誰が求めるだろう? 「hanakoって何ですか」には、経験上「kawaiiです」で通せる。他人の想像力に委ねて仕舞えば他人は満足させられる。でも、「誰ですか」と言われたら手詰まりになる。他人のこの質問には、擬態ですら応えられない。

 花子がもし隣に居たら? でも彼女に尋ねても無駄だ。彼女はないものを「あった」と言う。それは「なかった」と言うのと同じことだ。

 私じしん、華子が見えたことは一度もなかった。でも、#hanakoの写真には、殺人現場のように「それ」はなくとも、「それがあったかもしれない」という気配が写っているように感じるときがあった。発信者である私の他、当事者を除いて誰もそのことは指摘してこなかったけれど。

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