三年秋:月曜三限『結婚と社会』

「こっちですよー」


 小声で呼びかけると先輩は眼鏡の奥の目をふっと細めた。わたしはバッグを足下に置き、席を一つ空ける。先輩は座りながら「ありがとう」と言って頬杖をついた。

 授業は既に始まっていて、年老いた教授が聞き取りにくい声で喋り続けている。学生に対して、ではなく、黒板に対して話しかけているみたいな授業の仕方だったため、何と言っているか分からず、辟易したが、先輩とおしゃべりする時間と考えれば、まあ、我慢はできそうだった。


 三年の後期、月曜三限、『結婚と社会』。それがわたしと先輩が一緒に受けている授業だ。

 大学生は概ね二種類に分けることができる。一、二年で単位をあらかた取ってしまう者と最後までひいひい言いながら生協で「単位は売ってないですか」と聞いてしまう者。わたしは前者に属していてほぼ卒論を残すだけとなっていた。ただ、やはり確認不足はあるもので教養の科目が一コマ分足りず、今になって大教室の授業を受けているというわけである。


「でも、せんぱいは」とわたしは声を潜める。「単位取り終わってるんですよね。なんでこんな教養科目を取ってるんですか?」

「教授が嫌いでね」先輩は悪びれずに続ける。「四年間で落としたのがこの授業だけだったんだ」

「ほえー」


 わたしの馬鹿みたいな感嘆に先輩はくすりと笑う。

 先輩はいつでも理知的で、真面目だ。大学生活でもっとも忌むべきイベントである就職活動も随分昔に終わらせていて、だからこそこんな余裕綽々な授業選択をしている。やはり大手銀行に勤める人間は違うなあ、と思いながら見つめていると、やはり落ち着いた声で「どうかした?」と訊ねられた。


「いえ、別に」

「それにしても、やえも結婚に興味あるみたいだな。そういうのは全然言わなかったけど」

「当たり前じゃないですか、だいたいの女の子は結婚に興味持ってますよ」


 平均初婚年齢は――。

 先輩と教授の声が重なる。教授はまるで結婚に興味を持つ人が少なくなった、と断定するような口調で平均初婚年齢が高くなっていることを告げた。そりゃ早い人もいれば遅い人もいるよ、とわたしは口の中で反論する。

 そこで先輩は表情を緩めた。


「まあ、少し安心したかな」

「なんでですか?」

「やえは男しかいないサークルで過ごしてたからな。彼氏が欲しくても寄りつかなかっただろうし」

「本当ですよー」


 と、心にもないことを口にする。恋人にできるなら誰でもいい、なんて考えたことは一度もなかったし、見知らぬ誰かに寄りつかれたところで交際するつもりなんて露ほどもなかった。

 だが、人というものは噂をするのが好きなものだし、さらにいえばそこに尾ひれをつけるのはもっと好きだ。陰で「サークルの姫気取り」だとか「奔放な性生活を送っている」だとか、わたしはそんな揶揄をされていて、わたしの耳にまで届いていると言うことはもしかしたら先輩も知っているのかもしれない。心配をかけるのもいやで、わたしは恋人が欲しくて堪らない女を大袈裟に演じた。


「せんぱいたちが卒業したら男漁りですよ」

「そうか」

「同じサークルだったことを自慢できるようないい女になってやりますからねー」


 そううそぶくたびに胸の奥がちくちくと痛くなる。それをやり過ごすために真面目に授業を聞く振りに専念する。いつの間にかチョークを握っていた教授はマードックさんとやらが提唱した核家族の理論だとか、バージェスさんとロックさんが主張した家族の変遷だとかを説明している。学者の名前にわざわざ「さん」をつけているのがおかしく、噴き出しそうになってしまった。


 横目で先輩を確認する。先輩はいたって真面目な表情で前を見つめていて、これじゃおしゃべりはできないかな、と思い直し、改めて念仏のような講義に耳を傾けることにした。

 初回の授業であるため、内容はガイダンスだ。それほど深いところまで突っ込まずに表面だけを撫でるような話が続く。平坦な口調も相まって、眠気が頭を包み込み、いつの間にか船を漕ぎ始めてしまう。


 異変が起こったのは、そのときだった。

 直線的で力強い声に眠気が吹き飛ばされる。老教授はこのときのために今まで力を蓄えていたのではないか、と思えるほどの熱弁を振るっていた。


「いいですかあ! この重婚、一夫多妻、一妻多夫、これらは現代日本において倫理的な理由で禁止されているわけですねえ! 当然ですねえ! 愛は分割できるものじゃないんですよお!」


 わたしは面食らい、遅れて、肩を叩かれたことに気がついた。先輩はいつの間にやら鞄を二つ、自分のものとわたしのものを持っている。


「やえ、ここからは授業じゃないから出よう」

「え」


 返答を待たずに先輩が歩き出したため、わたしは机の上に載っているレジュメとシャーペンを手に急いで後を追った。大教室の後ろの扉から出て、教授の声が届かなくなったところで声をかける。


「せんぱい、どうしたんですか?」

「あの教授はああやって毎回、結婚生活の秘訣を語り始めるんだ」

「それくらい別によくないですか? むしろ参考にしたいかも」

「参考にはならないよ。左手の薬指、見てなかったの?」

「はい?」

「あの教授、三年前に自分の浮気が原因で離婚してる。それを相手の浮気が原因だって言い張ってるんだ。そのくせ奥さんの口癖を自分のもののように言っているらしい」


 ……それはそれは。

 熟年離婚なんて可哀想だな、と思う反面、確かに相手に責任を押しつけるのはよくないな、とわたしはガラスの奥で演説をぶっている老教授を見つめる。どうりで先輩が嫌うわけだ。そういうちぐはぐな人が嫌いであると知っていたため、わたしは教室に戻る気にもなれず、深く嘆息した。


「じゃあ、せんぱい、これから遊びに行きましょうよ。カラオケとか」

「四限はゼミがあるんじゃなかったのか?」

「大丈夫ですよ、いざとなったら生協に単位を買いに行きます」

「ずいぶん品揃えが良くなったな」


 えへへ、とわたしは殊更に笑ってみせる。

 たぶん、先輩はわたしの置かれている状況を知った上で連れ出してくれたのだ。確証はなかったけれどそんな気がして、どうしようもないほど嬉しくなった。

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