ついてない男

 この世は確率に支配されている。

 サイコロを一度振って狙った目が出る確率は六分の一で、二回連続なら三十六分の一。血液型がRh-になるのは二百分の一で、卵を割ったら黄身がないのは二千分の一、オスの三毛猫が生まれる確率は三万分の一だ。

 では六日間、毎日、ボールが頭に当たる確率はどのくらいだろうか。


 私の暮らす街には大きな公園があり、多くの住民がそこで運動に勤しんでいる。走っている男性やダンスをする老夫婦、球技に汗を流す若者たち。犬でさえドッグランで尻尾を振り回しながら追いかけっこをしている。

 政府からの指示とは言え、誰も義務感を持たず楽しんでいるさまは外から見ていても好感が持て、職場に赴く際、私は決まって公園を横切ることにしていた。家にいちばん近い入り口から野球場、サッカーグラウンド、バスケットボールの野外コートと続き、広々とした芝生がある。芝生は道によってざく切りにされ、区画ごとにそれぞれ別の運動が行われていた。老人たちのラジオ体操であるとか、子どもたちの鬼ごっこであるとか、うら若い少女たちの繋ぐことに主眼を置いたバレーボールであるとか、だ。


 そのゴム製のバレーボールが始まりだった。

 てん、と柔らかく頭で跳ねたボールに私は怒りよりも幸運を感じた。「ごめんなさあい」と長い髪を振って駆け寄ってくる少女の容姿はとてもかわいらしかったからだ。四十代の男となるとなかなか若い子と交流する機会はない。性愛などといったものを抜きにしても癒やしと潤いを覚えるというものである。


「大丈夫だよ」私は渾身の笑顔を炸裂させ、ボールを渡してやる。「ちょうど頭が痒かったんだ」


 そのジョークに少女はぱっと顔を輝かせ、「ありがとうございます」と快活に礼を言ってから友人たちの輪の中に戻っていった。別に関係性が発展する必要はないのだ。ただあの少女、可能ならば少女たちの中で「ダンディなおじさん」として残ってくれればそれでいい。まあ、確率は低いだろうが、そういった積み重ねが大事なのだ。姪からは笑われるだろうな、と思いつつ、そんなことをうっすらと願った。


 職場に到着すると世間話の一環として、部下の女にその出来事を伝えた。就業前と終業後、紙を窓から放り投げる変な癖を持っている彼女はいつも私のことを「運がない」、「ついていない」と馬鹿にしてくるからだ。もちろんそれを否定するつもりはないが、少しは運がいいこともあるのだと主張しておきたかった。

 しかし、彼女は眉を顰めて、私の気分に水を差してくる。


「それ、運がいいんですか?」

「……運がいいとしか言えないだろう。若い女の子と話せたんだぞ」

「でも、その前に当てられたくもないボールを当てられたんですよね」

「まあ、それはそうだが」

「じゃあ」と彼女は肩を竦める。「プラマイゼロ、じゃないですか」


 そうだろうか。たかだが柔らかいボールが当てられたくらいでかわいらしい少女と話せたことが打ち消されるだろうか。私は納得できず、反論する。


「プラスの方が大きいと思うがね」

「現時点ではそうかもしれませんけど」

「現時点?」


 含みを持った口調に、私は戸惑う。彼女はデスクの中から拳大のサイコロを取り出して、部屋の隅に置かれた箱の中へと放り投げた。木製のサイコロは柔らかな放物線を描き、見事箱の中に吸い込まれ、硬質な音を撒き散らした。


「わたし、超能力があるんですよ」

「は?」


 意味不明の告白に言葉が浮かばない。しかし、彼女は自信を漲らせている。


「ほら、わたし、こうやって物を投げるのが好きじゃないですか」

「おかげでこの事務室の四隅には的やかごが置かれてるね」

「ご理解とご協力、ありがとうございます」彼女はふっと笑い、続ける。「そのおかげで、黙って考えるとこの世のことわりが見えるようになったんですよ」

「ずいぶん大袈裟なことを言うね……たかが物を投げるだけで――」


 そこまで言いかけたとき、頭に小さなゴムボールが当たった。彼女は大袈裟な笑顔で私を睨んでいる。失言だった。私は素直に謝罪し、続きを促した。


「で、ですよ。物を投げることを極めると、この世のすべてが繋がっていることが分かるんです。投げた角度によってどこに飛んでいくか、どれだけの力を込めればどこまで飛んでいくか、それが分かるのとおんなじです」

「スピノザかい?」


 スピノザを知らなかったのか、彼女は小首を傾げる。


「いえ、どちらかと言えばアインシュタインです。わたし、子どもの頃、アインシュタインを憎んでいたんですけど」

 アインシュタインはスピノザの信奉者だよ、と告げるのも憚られ、私は流した。「この時代に科学の父を憎むとは畏れ多いね」

「『神さまはサイコロを振らない』って言葉が嫌いだったんです。馬鹿にしてるって憤慨したんですよ。神さまだってサイコロくらい投げるでしょ、って」

「憤慨、とはまた強い言葉を使う」

「でも、違ったんですよね。神さまはサイコロを振らないだけで、投げてたんです」

「……どういうことか、説明してくれるかな?」

「六です」

「ん?」

「どう投げればどの目が出るか、それが分かってればサイコロを『振った』ことにはならない。そう思いません?」


 彼女の発言にぞくりとしたものを覚え、立ち上がる。部屋の隅にある箱まで歩み寄り、中を覗く。私がそこにある数字を目にすると同時に、予言めいた口調で彼女は言った。


「あなたは、六日間、ボールにぶつかり続けるでしょう」


      〇


 翌日、その予言をすっかり忘れていた私の頭に、サッカーボールがぶつかった。

 さらに翌日、バスケットボールが命中し、さすがに恐ろしくなった私は出社のルートを変更することにした。体育館や球技場のある道ではなく、ドッグランがある道だ。そちらなら当たるべきボールなどないはず。そう考え、安心していたところで犬がじゃれついていたゴムボールが額へと飛んできた。白い外国種の犬は柵の向こうから舌を出して私を見つめている。苛立ち紛れにボールを遠くに投げると心なしか寂しそうな顔になった。


 なんだ、これは。

 この街の住民に嵌められているのではないか。

 そんな荒唐無稽な想像を抱くほど私は追い詰められ、次の日、会社を欠勤することに決めた。家の中から出なければ問題はないのだ。幸い私は一人暮らしで、家に球形の物質はない。普通に生活していれば彼女の予言は外れる。

 それを油断と称するべきか、私には分からない。

 だが、結局、彼女の予言は成就した。自炊するためにキッチンに立っていたところ、戸棚を開けたら雪崩が起きたのだ。そして、プラスチック製のボウルが二つ、私の頭に降ってきた。


 ボールとボウル。

 イントネーションと綴りは違うが、ここは日本だ。口にしてしまえばさほど差異はない。強弁し、否定するのは容易かったが、それは敗北のようにも思えた。ボウルは半球形で、二つ同時に当たったことを考えると球形に進化していたのかもしれない。私は自身の勝利を掴み取るために頭に衝突したものを「ボール」と認めた。


 そう、これはもはや対決なのだ。

 私は幼い頃から負けず嫌いだった。両親から遺伝したその性格は今なお残っている。彼女の予言に勝利するには一点の曇りもあってはいけない、と拳を握りしめた。そうなるとこそこそ逃げ回ることが馬鹿らしくなってくる。私は正々堂々、普段の通勤ルートを力強く闊歩し、野球ボールの直撃を食らった。もう少しで公園を出るか、というときのことだった。


「やっぱり今日もぶつかったんですね」


 就業中だというのに紙飛行機を飛ばしていた部下に皮肉を投げつけると、彼女は自慢げにそうほくそ笑んだ。


「でも、今日で終わりですよ。お疲れさまでした」


 いいや、私は心の中で否定する。

 まだ、終わっていない。もし明日、私の頭にボールが当たったのなら、彼女の予言は外れたことになる。

 今に見てろ! 何か決定的な間違いを犯しているような気がしてならなかったが、もはや誰にも私を止めることはできなかった。

 そして、翌日、私はいつもより少し早めの時間に出社した。無論、公園を通り、普段よりも数倍遅い速度で進んでいく。風が強い日だったが、それでも球技に励む人たちは多い。


 さあ、ボールよ、来い。

 そう頭上に念を送っていると白い影がちらついた。紙飛行機だ。今日、彼女は休みだったはずだが、ここで紙飛行機を飛ばしているのだろうか。ゆっくりと描かれる円を見つめる。私を中心にした円は空を飛ぶボールすべてに的の位置を送る衛星のようにも思えた。

 そして、その瞬間を迎える。

 どこかから放たれた野球のボールが私の方へと向かって来るではないか。素早く落下点を補足し、移動する。胸の内側で喜びが暴発し、口から漏れた。

 私の勝ちだ!

 直撃の予感に高笑いが止まらない。ぐんぐん迫ってくるボールに目を瞑る。

 どうだ、私の運の悪さを見たか!

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