冬旅医恋ー物語ー

冬の猫

1話【不器用な二人】

「早くしろ、柊」

「は、はい…!」

聞き慣れた、よく通る低い声。

それが、細い木々の間を通って私の耳に届いてきた。

私は慌てて歩みを速めた。

そうだ、休んでいる暇なんてない。

動物の気配すらもない冬の森の中では、その声が唯一の励ましであり道しるべだった。

見渡す限りの銀世界に、木々の影。

置いていかれたら、そう想像するだけで足が震えた。

けれど足元は、10寸は積もった柔らかな雪上。

何もしなくても突き刺すような強い寒さに身体全体が震えるのに、

足を上げればどっしりした重みが乗しかかり、体温は奪われる一方だった。

歩けど歩けど変わらない景色は、

私の心身から少しずつ何かを奪って行くようで。


もう半日は歩いたのに、

今日も野宿だろうか、

彼はきっと、

そのことも目的地もはっきりと告げてくれないのだろうな、

何故彼は私を……

駄目だ。

またすぐに、そんな暗い気持ちに襲われてしまう。

簡単に弱点を曝け出してしまうなんて、なんて私は弱いのだろう。

こんな言い訳を言う自分が、私は大嫌いだった。


「はぁ、はぁ、はぁ…」

白い息が、私の視界を覆った。

しゃがみこんで足元を見つめていると、

徐々に背中に重いものがのしかかっていく。

帰り道も行く道もわからない。

早く歩かなければ置いて行かれることは、理解している。

彼がそのことを気にしないような、気づきもしないような人だともわかっている。

なのに、私はなかなか動き出せなかった。

ようやく顔を上げると、

まだ少し残っていた日の光が雪に反射しながら私の瞳を明るく照らした。

思わず下を向いて眼をつむって、

それからそのまま申し訳なさげに歩きだした。

雪に残った足跡は、やはりもうかなり薄くなっている。

しばらく歩いて、自分の歩く音のみが響く孤独な静寂に覆われたと気づいたときだった。


〝いらない子をもらっしまった、一体どうしようか〟

〝えぇ…嫌だよ家で引き取るのは〟

〝でも他に親戚もいないのだとさ…〟

〝全く、とんだ邪魔者よ……〟


見つめていたそこに、ポツリと涙が落ちて行った。

「もう……やだ……」

また、置いていかれる。

「疲れたくらいで大袈裟だな」

「…っ…、……は、ははっ…」

顔を上げて、思わず笑ってしまった。

私の視線の先、樹齢長いであろう太い大木に見慣れた姿が背中を預けて立っていたから。

人々から〝美しい〟と絶賛される彼は、しかし人がいない場所にこそよく馴染んだ。

「……薬さん…」

どうしてこの人は、いつも汗一つかかず息切れ一つ切れず仏頂面でいられるのだろうか。

珍しく待っていてくれたことに嬉しさと安堵を感じて、彼のところにかけよった。

彼は私に無言で、自身の腰にくくっていた水が入った竹筒をさし出して来た。

彼の身体の大きさにあったとても大きな手からゆっくりと受け取ると、私は数口、味わって飲み込んだ。

竹筒は、途中で飲んだ時と重さが変わっていなかった。

その時も飲まなかったというのに、信じられないことに彼は全く手を付けなかったようだ。

「………」

「柊」

「…はい。」

私の名前を呼ぶと同時に出された彼の手に、竹筒を返した。

その際に捉えた、鋭く光りながら狭まる彼の瞳孔に思わず首をすくめる。

彼の堪忍の袋の尾が切れたらどうなるかは、一度実体験済みだ。

鬼より怖い、この世の全てのものより恐ろしと感じたあの記憶はまだ新しい。

遅い、ならまだしも根性がないだのと言われたらどうしようか。

いや、言いそうだ。

そんな私の予想に反して、彼はまた表情を一切変えずに言った。

「柊、お前……寒くないか。」

「え……?

…あ、いえ別に…」

咄嗟に否定して、はっとする。

彼は、不思議なことに誰のどんな嘘も見抜けてしまうとことを。

そんなの、さらに怒られるだけではないか。

「………柊」

彼が私の名前を呼ぶのは、何かを催促するときか、たしなめている時。私は彼と瞳を合わせて、それから恐る恐る頷いた。

「ご、ごめんなさい、あの、わたし、嘘をいっ」

「熱があるようだ、少し休むぞ」

「て……?……」

ね、熱……。

私が?

上手く飲み込めずに固まって、首を傾げた。

いや、でも、今日はまだそういう日ではないはずじゃ……

というより、気づかなかった。

この怠さや疲れは、私の体力不足ではないのか。

で、でも、ならば何故今彼はそれを言ったのか。

私が外的要因で風邪を引くなんて、滅多にないのに。

必死に考えると、頭の中がグルグルと渦巻いてずきずきと疼いた。

そっと見ると、彼は瞳を閉じて何か考えごとをしているようだった。

どういうことなのかなどいろいろ聞こうにも、また邪魔になってしまうかもと思うと動き出せなかった。

すぐにまた目線を下ろして、私は彼のすぐ横にある切り株に座った。

即座に雪が冷たく体に吸い付くのを感じて、ビクリと反射的に小さく飛び上がる。その様子を感じとったのか、気づけば彼は瞼を上げて視線を向けていた。

「早く歩きすぎた、すまなかったな」

「そ、そんなことは…!

私がもとから遅いのもあって、」

彼が怖いのもあって、私は思わず彼を庇った。

そして、後悔する。

彼は、眈々と続けた。

「お前のせいではない

俺は、今お前の体調が良くない時期だということを知っていた」

「あ……」

当然のようにはっきり言われて、思わず言葉を失った。

そうだ、彼には人並みの同情や思いやりがないのだ。

どんな人でも、たとえ自分にだって厳しい彼が私のために足を止めてくれるはずがない。

私と共に旅をしているのだって、その精神から来ているのだから。

声が震えないようにするのに,必死だった。

「……えっと…

少し眠っても…いい、ですか……」

「あぁ、1刻ほど待つ」

1日は48刻だから……

そんなに時間はない。

私は誰かに切られた木の上で蹲り、顔を手で覆った。

冷たい手が額に当たり、そこで始めて自分の体温がいつもより高くなっていることにあることに気づいた。

産まれたときからある、私の体質。

詳しくは知らないが、熱や頭痛と言った風邪のような症状が不定期に定期的にやってくるもの。

一生涯付き合わなければならない、原因治療方法一切不明の病気。

それをこの国、いや世界一に君臨する〝医師〟の彼が把握できていないわけがない。

少しの切なさと諦めを感じて、私は沼に沈むような深い眠りについた。




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