雨上がりに、君の笑顔を【完結】

雛咲 望月

第1話 六十六歳のノビ職人

 小雨が空気を白く煙らせている。

 ひとつ飛び出た屋根の下で、彼は深く溜息をついた。

 冬の雨はどうにも始末に悪い。自分のような歳のいった人間は、特に寒さが堪えた。ましてや、自分の家などもう何十年も持ってはいない。余計に寒さが身体に響く。


 佐伯総一郎は今年で六十六歳。鈍る身体に、年老いる事を実感している一人だ。しかし、その眼光は一見柔らかいようで、極めて隙が無い。それは言うまでもなく、今までに何百と犯してきた罪により培われたものだった。

 ノビ職人の佐伯――いつしか、彼はそう呼ばれていた。ノビとは、隠語で「忍び込み」犯という意味だ。家人が夜中眠り込んだ所を、ちょいとお邪魔させてもらい、ついでに手土産を頂いて帰る部類の犯罪者である。

 三十五の時に始めてからこの道三十年、合計窃盗回数千三百五十六件。被害総額は、五千万はくだらないと言われる。それなのに、誰一人として傷つけない。静かに忍び込み、静かに去る。証拠は何も残さず、長居は決してしない。そういった彼のある意味確固としたポリシーに新米ノビは惹かれ、過去二回に及ぶ逮捕暦、それに伴う刑務所入りはノビの世界では伝説にすらなっていると、風の噂で聞いていた。


 いつしか、彼は「くだらねぇ」と呟いていた。

 伝説など、自分に何を与えるというのか。

 与えたのは一時の金による快楽と博打、虚しい時間の喪失だ。


 ただ、全てが虚しい訳でもない。二度目に世話になった刑務所では、若い衆に盗みのノウハウを教えていた。これが大変面白い。奴らは既に有名と化していた自分を囲み、敬い、慕ってきた。なにしろ、プロのノビから学ぶ事などゴマンとあるのだ。こんな絶好の機会がどこにあろうか。

 伝説には全く興味が沸かなかったが──この奇妙な信頼関係を築いた事は、ある意味功績だったかもしれない。もう足を洗う覚悟がついた自分に、仏が与えた最後の花だったのだろう。

 こうして仕事の「講習」を副業とした懲役を経、塀の外に出たのは、二ヶ月前の事だった。


 既にまっとうな仕事を紹介されてはいたが、二日で逃げた。今は文無しのまま、気楽な宿無し暮らしだ。実際、一番性に合っている。最期に眠る場所がアスファルトの上でも、それはそれで自分らしいだろう。盗みの業は果てしなく深いのだから。


「さて……今夜はどうするかな」


 白い吐息を自らの頬に浴びながら、佐伯は首を捻った。

 雨が降っている上に、冬の気温はすぐ下がる。野外での泊まりは辛い。昔はそれでも外で寝たものだが、いかんせん今の身体では持ちそうも無かった。

 渋々、駅の方へと足を向ける。住宅街であるここからはやや遠いものの、後でずぶ濡れになる事を考えると迷っている暇は無さそうだ。

 意を決して、小雨の中を小走りに歩き出し──


 その「空気」を感じて、唐突に止まった。


 僅かな空気の差だったのだろう。常人には知れないような、空気を見分けるノビの嗅覚。それが注意を促していた。

 雨に濡れるにも構わず、近くの壁へと身を潜める。

 そこにあるのは、塀のある一軒の家だった。二階建ての、質素な佇まいだ。その家へと、ゆっくりとした足取りで入っていく人間がいる。女だ──二十代後半か。俯いた顔のまま、玄関のドアを開けて入っていく。寂しげな女だと、佐伯は思った。遠目なのに、やけに印象に残る風貌だ。

 佐伯は同時に、記憶の片隅に変わらず居座り続ける、懐かしい感覚を思い出していた。痩せた細い身体で、長い黒髪を持つ女だ。女の近くには子供が佇んでいて、自分に向かって笑っている。彼女は記憶の女とどこかが似ていた。

 しかし決定的に違っていたのは、記憶の女は良く笑うという事だ。寂しげな横顔など持つこともなく、最後まで笑っていた女の名は


──いけねぇ。


 額に手をやり、佐伯は慌ててその記憶をかき消した。思い出すなと何度も自分に言い聞かせていたのに、突然前触れもなく出てきやがる。吐き気すら覚えながらも、無理矢理自分を現実に引き摺り出す。苦労して視線の焦点を戻した時には、その女は既に路地へと歩き始めていた。

 しかし若い女にしては、古い家だ。という事は、親と同居しているのかもしれない。または、親から譲ってもらったか。しかし、自分と同年代の人間が使うような道具が軒先に置かれていない。となると、後者のほうが正しいだろう。

 次に、名札へと目を移す。そこには、三つの名前が並んでいた。

  

 藍原達也

   沙希

   哲也

  

 常識的に考えて、若い夫婦と見るのが妥当だろう。親ふたり子一人、今時の家族といった所か。親から譲り受けた家という線は間違いないとして、そうなるとひとつの答えが浮び上がってくる。

 新しい家を買わずに済んだ藍原家は、逆に言うならば、相当「溜め込んでいる」と見ていい。逆に若い夫婦の住む新しい家の場合、既に家に金が無くなっている場合が多いからだ。

 ただ、子供が気になった。伝説とは言われても、何度かは家人に気付かれた事がある。その中でも、特に子供と犬は厄介だ。理屈がきかない分、手に負えない。その時は泣かれそうになった所を慌ててあやして寝かしつけ、事無きを得たのだが、それ以来子供のいる家は避けるようにしている。


 だが、それにしても妙だった。女が入ってから、声を全く聞いていない。子供の声などは甲高いので響きやすい。雨音が邪魔しているからとはいえ、これは明らかに不自然だ。乳母車や三輪車など、それなりの道具が見当たらないのもおかしい。

 中で女は夕飯の支度でもしているのだろうか、部屋には明かりが灯っていた。ただし、ひと部屋だけの寂しい灯だ。この時間に夫が帰ってこない事など今では珍しくないだろうが、それにしても引っ掛かる。

 先程帰ってきた女の姿は、余りにも寂しかった。

 この家は、彼女以外誰もいないのではないだろうか。確定はできないものの、彼は第六感で感じていた。


 結論を言えば、逃す手は無い。絶好の家だ。

 絶好の──家なのだが。


「何やってんだ、俺は」


 我に返ると、既に身体がぐっしょりと濡れていた。そっと舌打ちする。


「雨に濡れてまで仕事の物色、始めやがって……足洗うんだろうが、佐伯総一郎さんよ」


 自分にそう言い聞かせ、無理矢理身体を駅へと向ける。

 これだから、生来の習慣というものは怖いのである。犯罪に一度どっぷりと浸かった人間は、身体が勝手に罪を犯そうと動き出してしまうのだから。一種の病気かもしれない。


 しばらくすると、賑やかなネオンが見えてきた。雨に滲んで、下品な彩色も美しく見える。駆け足で入った入り口付近には、ホームレス仲間がドラム缶に火を入れて暖を取っていた。


「おや、総ちゃんじゃないか」


 不潔だが暖かそうな毛布に包まった老人が、自分を見つけて手を上げた。


「あーあー、雨に濡れちまって、風邪ひくぞ」

「またどっかの家狙ってたのかい?」

「違うよ鉄さん、馬鹿言っちゃいけねぇ。俺はもう足洗ったんだ」

 

 笑いながら輪の中に入る。かじかむ手を炎に晒すと、実に心地よい。

 佐伯のそんな仕草を見ながら、別の仲間が豪快に笑う。

 

「どうだか。お前さんの鍵開けは前に見させてもらったが、鈍るには手早すぎたぞ。なぁ」

「まったくだ」


 そんな彼の言葉に苦笑しつつも、佐伯はこの場所の心地よさを身に染みて感じていた。彼らは皆、社会に合わず、ホームレスとして暮らす者たちだ。中には自分と同じように刑務所出の者もいるし、今現在服役している仲間もいる。

 ここでは元犯罪者も元大富豪も関係ない。一人の人間として認め、励まし合い、生きていく。それが例え傷の舐め合いだとしても、佐伯はこの第二の家族を必要としていた。

 その時、彼の眼の前にワンカップの焼酎が飛び込んできた。


「おお、気が利くじゃねぇか」


 思わず顔がほころんで、受け取ってしまう。しかし次の瞬間、固く凍りついた。


「探しましたよ、佐伯さん」

「……日向か」


 始終ニコニコした、緊張感の無い童顔の眼鏡野郎である。こんな奴が刑事をやっているとは、世も末だ。佐伯は苦々しい顔でここに来た事を後悔した。


「お前、ずっとここで張り込んでやがったのか?」

「いや、仕事じゃないです。それに佐伯さんはもう罪償ったんですし、なんか会いたくなっちゃって」


 似合わないスーツとコートで、日向はあははと笑った。今年で四十二になるというのに、ちっともそうは見えない。下手したらまだ三十代前半で通りそうな程の童顔で、わざと老け顔になるために伊達眼鏡をつけている。

 しかしこんな弱々しいナリでも、十二年前、当時九百件以上のヤマを踏んだ自分を捜査し逮捕したのは、他でもないこいつなのだ。人は見かけによらないとはよく言ったものである。この手柄で八王子署から警視庁へ栄転の話も来たそうだが、断ったらしい。つくづく馬鹿な人間だ。しかしまた、その頃からちっとも変わっていなかった。苛立ちと、少し安堵を覚えながら、佐伯は酒を呷る。


「あのな。何度も言うが、お前、いい加減俺に敬語使うの止めろ。気持ち悪くって仕方ねぇ」

「なぜですか? どう見たって佐伯さんの方が年上ですよ。目上の方には敬語、基本です」

「だからって、逮捕して、取調べの時まで敬語かい。その後何度か取り調べは受けたが、お前みたいな変り種は初めてだ」

「えへへ、光栄です」

「褒めちゃいねぇよ」

「すみません」


 全く、緊張感が無い。よく考えれば、自分が昔逮捕した人間との再会だというのに。呆れた顔のまま酒を無言で飲んでいると、日向の口が開いた。

 その顔に、先程の笑みは消えていた。


「佐伯さん。もう、仕事はしないって誓いましたよね」


 真顔で問う彼の眼鏡が、炎で赤く染まる。


「まさか――また、始めたりしてませんよね。仕事」


 その時、佐伯は思った。こいつは本物の阿呆だと。

 この日向という男は、自分を心配して捜し歩いていたのだ。そんな事をする暇など刑事には無いだろうに。忘れ去る事ができなかったのだろうか。

 だが、彼はあくまで真剣だった。


「佐伯さん。五年前みたいに、僕を裏切らないで下さい」


 五年前。

 二回目に日向に逮捕された時、佐伯は五十九歳だった。その四年前に出所し、我慢仕切れず犯したノビ仕事に足が付いたのだ。

 あの時確かに彼は、日向を裏切った。それに対して、申し訳なく思った時もある。日向は常に自分を信頼していた。理由は分からない。けれどその信頼に対する裏切りは、計り知れなく重い事も分かっていたはずなのに──誘惑に打ち勝つ事ができなかった。

 ふと、先程の女の顔が脳裏に現れた。寂しげな顔。笑顔が想像もつかない、顔。

 佐伯はこれが嘘であると思いながらも、言わずにはいられなかった。


「日向……心配いらねぇよ。俺はもう仕事はしねぇって、ここに決めたんだ」


 ドンと胸を叩き、佐伯は答える。


「佐伯さん……」


 弱々しく笑う日向に、残った酒をくれてやった。


「さ、帰ってくれ。お前さんが来る所じゃねぇって事ぐらい、分かって──」

「日向さん! こんな所にいたんですか!」


 その時、男が一人飛び込んできた。まだ若い。最初に日向と出会った時と同じくらいの歳だ。こいつも刑事だろう。

 奴は実に苦い顔で自分を睨んでくる。


「あんたが佐伯か。聞いてるよ、ノビ職人だってな。もうムショから出てきやがったのか」

「高橋、口の利き方に気をつけろ」


 苦笑して日向が止めようとすると、高橋と言われたそいつは食って掛かってくる。


「日向さん! なんでこんな奴の肩持つんですか!」


 それを見ながら、佐伯はピュウと口笛を吹いた。


「随分威勢のいい奴だなぁ。日向、こいつ新米か?」

「ええ、僕が教育係。これでも大変なんですよ」

「だよなぁ。どうりで、刑事らしい刑事なわけだ。お前もこいつ見習え」

「この、てめぇ! 刑事馬鹿にしやがって!」


 どうも沸点が低いらしく、いきなり殴りかかってくる。

 それをひょいと避けて、佐伯は笑った。


「若いねぇ。実に若い。しかしまだまだ青いなぁ。この程度で殴ってちゃ、裁判じゃ勝てねぇぞ」

「うるせぇ!」

「高橋、落ち着け!」


 見るに見かねて日向が取り押さえたが、それでも高橋は喚いている。


「千件忍び込んだとか、伝説だとか聞いたがなぁ、単なる悪党だろうが! 所詮空き巣のくせに、日向さんにナメた口を……」

「高橋!」


 日向が止めたが、遅かった。

 その言葉を聞いた瞬間、佐伯は高橋の胸倉を掴む。

 もう顔は笑っていない。


「お前、今なんて言った?」


 突然の変わり様に、当の高橋は呆然とこちらを見ている。きっと今自分は、鬼のような形相をしているに違いない。


「俺の仕事を空き巣なんかと一緒にすんな──人様のいねぇ家を荒らす臆病者なんかと、一緒にされちゃ困るんだよ」


 ノビと空き巣はどちらも泥棒ではあるが、決定的な違いがある。ノビは主に夜中、人が眠っている所を忍び込むが、空き巣は逆に昼間、留守である事を確認して忍び込む。

 佐伯は例えそれが犯罪であっても、自分がノビである事を誇りに思っていた。いつ見つかるか分からない緊張感を常に感じ、職人技で証拠を残さず立ち去る。それが美徳であると思っていたのだ。

 しかし、空き巣は違う。リスクが無い分、仕事もおざなりである上に、初心者がすぐに手を出せる犯罪なのである。ノビのプロにとって、そのような仕事と一緒にされるのは最大の侮辱に等しい。


「高橋、署に帰ろう」


 優しげな日向の声で、我に帰る。渋々胸倉の手を離したが、奴は驚いた顔のまま棒立ちになっていた。それを引っ張るようにしながら、日向が囁く。


「すみませんでした、ご迷惑掛けて」

「……おう。じっくり教育してやれ、刑事ってモンをな」


 やっと何とか笑顔を作り、佐伯は頷いた。

 雑踏の中に、二人が消えていく。

 後には、騒がしい話し声と笑い声。


「……仕事はもう止める。お前ともう一度、そう誓った。それなのに」


 独り言だ。誰に聞かせるわけでもない戯言だ。

 言葉を切って、なんとか弱音を吐くのを堪えたが、それでも泣き言は頭の中で繰り返し響いてくる。身体がどうにも限界を来たしていた──

 ここ一ヶ月間、仕事の事は頭から追い出そうと必死になったが、無駄な努力だった。ノビをしたい、錠前を開けてしまいたい、家人に見つかる緊張を味わいたいという誘惑は、いつでも襲ってくるのだ。それでも一ヶ月、騙し騙し暮らしてきたが、もう駄目だ。運命とも言える家に当たってしまったのだから。それに物理的に考えても、このまま仕事をせずに暮らすのには限界があった。ここ何日も金を持っていない。

 一生、ノビの枷から逃れられないのか?

 信じると言った、日向の顔が自分を見つめている。それなのに、自分の身体は仕事の熱を忘れられない。


 「そうだ……俺はただの、チンケな悪党さ。若いの、お前さんの言う通りだよ」


 佐伯は、そんな自分が無性に悲しくなったのだった。




 あれからもう二日ほど、例の家の近くで張り込んでいた。鞄の中にも道具を準備している。幸運にも雨は止む事を知らず、馬鹿みたいにザァザァ降っていた。雨は仕事の音を隠してくれる。ヤマを踏むなら、今夜だ。

 張り込んでさらに分かった事は、全て自分に好都合な事ばかりだった。やはり、子供と夫は現在いないらしい。犬は飼っていないようだ。さらに仕事のしやすさで言うならば、目の前の街路樹が目くらましになるし、遠めに見る限りピッキングのしやすい錠前だ。古い家で、昔から変えずに放置していたんだろう。針金でだって開くに違いない。

 さらに決定的だったのが、近所との付き合いの悪さだ。あの女、隣人と会ってもにこりとも笑わない。それどころか、周りの人間たちもあの女を避けるような節があった。俺を見た者も何人か居たようだったが、無関心なまま通り過ぎていくばかりである。

 あまりに全てが好都合過ぎて、かえって気味が悪かった。ある意味、カモの見本のような家かもしれない。まあ、ここまで来たら、自分の不幸を嘆いてもらうより他は無い。防犯意識の低さは予想以上だ。あの家にも少しは責任があるに違いない。

 などと責任転嫁じみた事を考えながら、今夜の仕事をもう一度頭の中で繰り返してみる。すると一心不乱に仕事へと夢中になっていた自分に気がついて、佐伯は苦笑した。先程は日向を裏切ってしまったと悲しんでいたのに、これは一体どういうことだ。


 身体が熱くなっている──心底喜んでいる。


 久々の仕事に、身体が打ち震えていた。


 所詮、自分はノビに始まりノビに終わる運命なのだ。三十一年前のあの時、あの瞬間からこうなる為に生きていくと決めたのだから。今更、くよくよ考えて何になる。

 よし、と彼は開いていた傘を閉じ、用意していた合羽に着替えた。塀の陰に隠れ、じっと息を潜める。

 決行はいつも通り、全てが寝静まったその時だ。

  

 午前二時四十三分──時間が来た。

 彼は雨でかじかむ指を必死で暖めながら、堂々と街路樹の横を歩いていく。それはさながら、夜勤で夜遅くに帰ってきたサラリーマンを思わせた。

 誰が見ているか分からない。その緊張感に不安感と満足感を得つつも、問題の家の入り口へと急ぐ。下見した通り街路樹と高めの塀が、存分に自分を隠してくれていた。まず、この時点では見つからないだろう。


 やがて、向かって右手に藍原家の入り口が見えた。その前に来た瞬間、するりと滑り込む。ぬかるんでいた土で滑りそうになり、冷や汗を掻くが、何とかなった。塀の入り口にぺたりと身を張り付け様子を伺うものの、どうやらこの雨のせいで歩行者は誰一人としていなかった。緊張は緩めないまま、まずは小手調べに挑む。言うまでもなく、錠前外しだ。失敗する気は無かったが、それでも油断は禁物である。

 鞄の横にしつらえたポケットを探り、愛用のピッキング道具を取り出した。昔、鍵業者から掠め取った代物で、こいつとも三十年の付き合いになる。窓ガラスを割って入る手口の者もいるようだが、そんな無粋な真似はできない。野暮ってもんだ。ノビは美しく入り、美しく出るのを心情としている。飛ぶ鳥跡を濁さず、と昔から言うではないか。

 鍵穴に道具を捻じ込むと、抵抗も無く入った。長年の勘のみで鍵の性質を嗅ぎ分け、何度か違う方式で試みると、やがて鍵はカチャリ、と音を立てる。

 ふう、と溜息が漏れる。

 これで、最初の難関はクリアした。いよいよ忍び込みだ。

 いつしか歓喜で武者震いしながら、彼はゆっくりと玄関のドアを開いた。数センチずつ、それでも大胆にドアを動かすと、中の様相が段々見えてくる。明かりはもちろん全て消えているので、闇ばかりだ。夜目慣らしをしながら、彼はその中に入り込み──またゆっくりと、音を立てないよう細心の注意を払いながらドアを閉じた。


 しん、と静まり返っている。目の前には長い廊下があった。手前には階段がある。古い家独特の香りが充満している。

 いい家だ、と佐伯は頷いた。


「ちょっくらお邪魔させて頂きますよ」


 囁くような小声で、彼は雨ざらしだった合羽を脱いだ。もちろん、音には十分に気をつける。きちんと玄関に置いて、鞄からシャワーキャップを二つ取り出し、靴に嵌めた。これで足跡も残さない。さらに手に馴染んだ軍手を嵌め、準備を整えた。

 この時点で二分も経っていないだろう。久々にしては、上出来な方だ。仕事の時間は七分と決めてある。さっさと取り掛からねばならない。


 足音はあくまで殺したまま、まずは一階を探索する。目指すは居間だ。そこには大抵、カバン等が放置されていて、中には現金が入っている事が多いのだ。

 そこから通じる台所の水屋の引出しは、一人暮らしの人間は特に、生活費が封筒に小分けしてある場合が多々ある。物でも構わない事は無いが、質屋に回すと後々足が付きやすい。

 ところが、居間も台所も特に現金は見当たらなかった。それどころか、どうも生活感さえ乏しい。台所は水垢一つなく清潔で、ティーカップや食器も整然としたまま羅列している。ゴミなどあるはずもなく、ただのっぺりとした床板が広がっていた。以前に忍び込んだ家は数本のペットボトルが転がっていたり、水周りが多少なりとも汚れたりしているものだが、一階を見る限り綺麗過ぎる。あの女は潔癖症なのだろうか? だとしたら、自分はあまりここに居たくはない。それほど、この部屋には虚しさだけが充満していた。


 しかし方々捜し歩いて、彼は現金がさっぱり置いていない事を認めざるを得なかった。それどころか、相変わらずの生活感の無さに嫌気さえ覚えてしまう。

 手掛かりの無い獲物にほとんど絶望的な思いで、闇に横たわる廊下をぼんやりと眺める。そこで彼は、暗い闇の中に薄い色で四角く切り取られた、妙なドアに初めて気がついた。随分と奥に位置していたので、気に掛けなかったのかもしれない。居間と台所以外の部屋というと、後はここしか残ってはいない。

 仕事の時間はもう終わりを告げていたが、彼の職人気質が逃げる事を許さなかったし、何よりなぜか足が外へ向かおうとはしなかった。

 足音を殺して近寄り、細心の注意を払って、そのドアを薄く開けていく。その途端、今まで感じ得なかった生活臭が、微かに鼻腔を刺激した。間違いない、ここには人が住んだ気配がある。佐伯は密かに安堵していた。


 やがて──その全景が露わになった。


 月の光が入り込んでいる。

 そこは、書斎のようだった。


 静寂で満たされたこの部屋には壁という壁にぎっしりと本棚が立ち、圧倒的な威圧感を見せている。本のひとつひとつは全て取り出された形跡があり、部屋の真ん中にある机には消しゴムのカスが散らばっていた。

 あの女──藍原沙希の仕事場なのだろうか。女が働く場にしては、どうにも殺風景に感じたが。

 いや、よほど殺風景だったのはあの居間や台所の方だと、彼は首を振った。生活の要であるはずの場所が、あんな姿をしているなんて想像もつかない。ノビをかれこれ三十年、千件以上の家に忍び込んだが、あれは全く異様な光景だった。まるで、生活の墓場だ。


「……いけねぇ、仕事仕事と」


 少々動揺が過ぎたかもしれない。やや強引に仕事へと頭を戻し、彼は本棚の隅を捜索し始めた。ここにはよくヘソクリの類が挟まっている事が多い。最も、なぜかこの家には旦那がいないのだから、もっと別の種の現金かもしれないが。


 窓の鍵を開け、窓を開けて逃走経路を確保してから、彼は仕事を続けた。パサパサと本を掻き分ける音だけが、宵闇に響いている。約半分ほど続けた時だった。思わず手を止めて、本の途中に立てかけてあったものを手に取る。

 それはカレンダーだった。大手の銀行からサービスで貰ったものだろう、今月のモノクロ写真と共に、日付が曜日ごとにズラリと並んでいる。何の変哲も無い代物だ。だが、彼の手を止めた理由は別にあった。

 カレンダーの日付のひとつに、赤いペンでくるくると丸がついてあった。小さく『哲也の誕生日』と、ある。赤いペンは、そこだけでは終らず──


 突然狂ったように日付を潰し、カレンダー全体を無茶苦茶に書き殴っていた。

 よほど乱暴にやったのだろう、ぐちゃぐちゃに紙面を歪め、いびつにさせ、所々破れかけていた。

 白黒の写真の中に、その赤は月光でもはっきりと見える。


 まるで、血のような赤さだった。


 カレンダーが手の中を滑り落ちて、カランと乾いた音を立てた。つられて目を落とすと、床にもいくつかの写真が散らばっている事に気付く。


 男の顔や子供の顔が写っている、おそらくは。


 確定できないのは、その顔も同じ赤いペンで力任せに塗り潰されていたからだった。潰れたトマトでべとべとにされた人形のように、その姿は一見滑稽でありながらも、背筋を凍りつかせる何かがある。


 既に自分の顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいるのを自覚する。

 逃げろ。

 本能で感じたのは、その三文字だけだったが──

 瞬間、確かに彼は、鼓動が凍りつくのを感じた。


「達也?」


 声は、静かな雪原にただひとつこだまするような、不思議な存在感を感じさせた。

 その上、容赦なく人を凍らせる何かを持っている。そんな、声だった。

 徐々に振り向くと、長い髪の女が入り口に立っている。

 感情の無い顔が、月明かりでぼんやりと浮び上がっていた。現実感の無い、まるで生きてさえいないような、そんな女だ。

 先ほど開けた窓から雨交じりの風が入り、ふわりとカーテンを揺らす。

 真っ白なカーテンが、月光に照らされてふわりふわりと女を隠す。

 それはまるで彼岸から現れた何かのようで、ますます現実感を失わせた。

 

 白い布が、彼女の顔に──

 ああ、とうとうあいつが迎えに来やがった。

 

 過去の亡霊が自分を縛り続けている。

 逃げるという事すら頭から吹き飛んでいた。ただ感じるのは、刹那だけだ──途方も無い絶望感だけが、彼女から伝わってきている。

 しかし彼女に問い掛けられている事に気付いて、観念する。達也と、彼女は呟いていた。

 彼女は亡霊などではない。


「……残念ながら、あんたの亭主じゃねぇ。しがない泥棒さ──金を狙ってやって来た。サツに知らせたいなら知らせろ、俺は逃げねぇからよ」


 居直り強盗でもするかと、一瞬迷いが生じた。が、彼はすぐにそれを否定する。他人様を傷けずに盗むのが自分の美学だ──そのルールを破るつもりはさらさらない。例えそれが、カレンダーや写真に不気味な跡をつける女だったとしても。

 しかし、女は泥棒と名乗った自分にたいして驚きはしなかった。それどころか、音もせずにこちらに歩いてくる。息が触れるほどに顔を近づけてくると、女独特の良い香りがした。


「泥棒……さん」


 彼女は、その言葉だけを繰り返す。彼女は淡々と、こちらの手を握ってきた。戸惑う佐伯をじっと見つめて、呟く。


「通報はしません。でも、私の願いを聞いて下さい」

「ねがい……だと?」

「ええ」


 やがて彼女は、静かに頷いて。


「今夜、付き合って欲しいの──話し相手が、欲しいんです」


 藍原沙希は、その冗談とも言える様な言葉を吐く。

 色の無い瞳は、じっと佐伯を捉えていた。

  

  

 「あんた、変わってんな。泥棒相手に相談事か?」


 出された紅茶を啜りながら、佐伯は容赦無く言い放つ。

 緊張が解けて安心したせいもあるだろうか。それにしてもこれは前代未聞だ。かといって自分とて、なぜ今、こうして付き合ってしまっているのか疑問ではあったが。

 ああ、そうなのだ。結局自分はお人好しなのだと、佐伯は心の中で深く嘆いた。盗みの最中に殺しのひとつもできないのは、泥棒にしては情けがあり過ぎるのである。

 しかし彼女はこちらの気持ちを知って知らずか、楚々と笑った。能面のような笑みだった。


「あなただから話したいのです。あの書斎は、まだ誰にも見せていなかったから」


 ふと先程の赤の色を思い出し、佐伯は顔をしかめた。


「ありゃ、旦那と子供の写真だろう」

「ええ。夫が子供を連れて出て行って、もう三ヶ月になります」


 紅茶のカップに視線を落とし、彼女は付け加えた。


「理由は分かりません──ただ、彼は何も話さないまま哲也を連れて行きました。連絡もありません。今頃、どこで何をしているかも分かりません」

「それで、あんたはどうしたんだ。八王子署がこの近くにあるだろ」


 促すと、彼女は紅茶のカップを僅かに握り締めたようだった。固くなった表情のまま、呟く。


「警察にも連絡しましたが、すぐに帰ってくるだろう、夫婦喧嘩に付き合わせるなと言われました。ただここで、じっと待つ事しかできないんです。そんな時、今月哲也が誕生日だと思い出して……どうしようもできなくて、あんな事を」


 そこまで聞いて、ようやく彼は納得した。親が子を思う気持ちというのは、自分が嫌と言うほど身に染みている。


「俺もな、昔は立派に家庭持ってたよ」


 知らず知らずのうちに、佐伯は呟いていた。沙希が視線を上げる。


「女房と、子供一人の三人。裕福じゃあなかったが、概ね幸せだった。今から三十年も前の話だ……時々、その時に戻れたらと思う時もある」


 三十五歳の時、彼は何も心配などせずにその日その日を過ごしていた。小競り合いや喧嘩もあったが、円満な家庭だったと思う。しかし運命の歯車が狂い始めたのは、それから数ヵ月後の事だった。


「俺が出張していた時の事だ。女房と子供が、交通事故に遭った。首の骨ポッキリ折って、即死だったそうだ。それから、俺の毎日は変わった。酒に溺れて会社も首だ。途方に暮れて、金も無いまま最後に行き着いたのが、この仕事だった」


 錠前を開ける仕草をして、彼は笑った。


「最初は女房と子供を忘れるためのノビだった。その為に、単なる悪党にはならねぇと誓ってな。人を傷つけず盗みを働こうと決心した。ところがな、いつの間にか数こなしてたら、コツってもんを身に付けちまってよ。運が良かったんだろうが、足が付かなかったのも功を成した。千もヤマ踏んで、気が付いたら一人前だ。それでも結局、二回はお縄になっちまった。これが俺の人生よ」


 一息ついて、紅茶を啜る。外の雨音が静かに部屋にこだましていた。


「ちっぽけな人生さ。一旦陽の当たらねぇ道に入っちまうと、人間はおしまいだ。俺は二ヶ月前に出所したんだが、どうしてどうして、仕事の愛着が残っちまってなぁ。こうして今夜も、あんたの家に忍び込んだ。知り合いの刑事に、もうしねぇって誓ったのによ。そいつを裏切ってまでここにいる」


 日向の人懐っこい顔が目に浮かぶ。自分がまた罪を犯したと知った時、あいつはどんな顔をするだろうか。

 自嘲気味に笑って、彼は空になった紅茶を置いた。椅子から立ち上がると、靴に嵌めたままのシャワーキャップが小さく音を立てた。


「クズな人間さ、俺は。こんな俺があんたに助言なんて、できるわけがねぇだろうよ──自分の傷は自分で舐めろ。流した血は自分で飲め。間違っても、他人と傷を舐めあう生活だけはするんじゃねぇ」


 そう言い残して歩き出すと、沙希も慌てて立ち上がってきた。

 寂しそうな顔だった。先ほどの人間味のない表情とは全く違う。そこには、家族のいない悲しさが滲んでいた。ふと佐伯は、最初に見た彼女の横顔を思い出す。


 夫に逃げられた女と、妻に先立たれた男。


 なるほど、お似合いかもしれない。

 そんな彼女に、佐伯は笑った。


「俺たち泥棒さんはな、長居をしねぇのが身の上なんだ。最も、今夜は例外かもしれんがね。紅茶、美味かったよ」

「泥棒さん!」


 今度は彼女の制止も聞かずに、玄関へと歩いていく。置いてあった合羽を拾い、ドアを開けると、冷たい雨の匂いが包み込んでくる。心地よかった。

 後ろから声が聞こえた。彼女が追いかけてきたのだろう。足を止めずに、ゆっくりとドアを閉める。それを振り切るような、彼女の声。


「またここに忍び込んで下さい。少しでいい、また──」


 最後まで聞かずに、ドアを閉めた。その重い音に、無情すら覚えて、彼はもう一度溜息を吐く。忘れていた白い吐息が、宵闇に登っては消えていった。

 後にはただ、雨の音だけが聞こえる。

 彼は濡れるのも構わず、足早にその場から離れていった。

  

 

 

 冷たい雨だった。闇が溶けて滲んで、暖かい家の明かりが瞬いているのが見える。

 目の前の道路には、何台かの車が駆け抜けていた。白や黄色のランプをてらてらと輝かせ、我が物顔に現れては消えていく。泥飛沫を上げたかと思うと、したたかにかかって濡れた。しかし、彼は気にもせず歩き続けていた。

  

 自分はなぜ、ノビをやろうとしたんだろう。

  

 ふと、自問する。

 自分の仕事の理由。それは、死んだ家族を忘れるためだったと、沙希に言った。それは嘘ではない。酒に溺れるのを防ぎ、生きるための金を掴むためには、無我夢中になって全てを忘れられるような、そんな仕事しかなかった。だから、犯罪であるノビを選んだのだ。いつ捕まるか、見つかるかという極限状態の中に、思い出に浸る余裕など無い。


 だが、本当にそれだけだったのだろうか?


 彼は、眼を閉じた。

 そこに映るのは、微笑んでいる妻、奈津子の顔だ。美人ではないが、笑顔が可愛いと思う。最も、そんな事など生前は全く口にしなかったが。

 彼女の隣で、悪戯っ子のように笑う娘がいる。歳の程三つばかり、言葉も達者になってきた時期だ。真美子と名付けた。女の癖にやんちゃ盛りで、妻は父親の自分に似てしまったと嘆いていたものだった。

 ある日、自分は大阪に出張に行かねばならず、数日留守にする事になった。奈津子は「心配しないで」といつものように笑っていた。帰ってきたらご飯作って待っているわよと。その隣で、「お土産買ってきてね」と娘が甲高い声で叫ぶ。帰ったら休日を取ってどこかに行くかと考えつつ、自分は意気揚揚と家を出た。


 彼女たちと話した最期は、そんな、何でもない日常だった。


 二日後、佐伯は飛んで帰ってきたが──飛び込んだ病院で、既に二人は息を引き取っていた。原因は、運転手の不注意による接触事故である。

 自分は、その二つの台に眠る遺体が妻と子供など、到底信じられるわけもなかった。医者が白い布をその顔から捲るまで、何も話せなかったのを覚えている。

 しかしその布から現れた顔は、想像していたほど傷が少なく、まるで眠るような死に顔だった。

 本当に、寝てると思った。

 だから。


 涙が──止まらなかった。

  

  

 目を開くと、頬がほんのり温かい。冷たい雨に混じって、瞼から溢れ出すもの。


「そうか……」


 今まで、考える事を避けていたが──今一度考えて、彼はひとつだけ確信できたような気がした。


 自分は、それだけの為にノビを始めたわけじゃない。

 自分は。

 自分は──


「幸せな家、見たくて。触れたくて。ノビ、始めたんだなぁ……」


 我ながらその声は、今まで聞いた事もないような、寂しい声だった。

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