第14話 死の恐怖

 人生の出会いには全て意味がある。自主的に作る”家族”である夫婦であれば尚更だ。妻は末期癌になってから、「死ぬことは怖くない。」と私が聞いてもいないのに繰り返した。その後にはなにも続かなかったが、母や弟や甥っ子、そして愛犬達や私、残す人々のことが気がかりだと続けたかったのだと思う。

 私は物心ついてからずっと、死の恐怖に苛まれてきた。恐怖の対象を知ろうと、医学関連、科学関連、哲学書から宗教書、スピリチュアルな本まで様々な本を読み漁り、自分なりの解釈というものができた。ちなみに、私は大多数の日本人と同じく、ちゃんとした宗教を持ちません。信心しているかと言うとイエスですが、それは極めて多神教的で、神様も仏さまもイエス様も拝みます。真面目に信心している方、ごめんなさい。

 幽霊を見たり感じたりしている私がなぜ、矛盾しているのではないか。そう思う向きもあるだろう。私が怖れる死とは、消滅でも無になることでもない。一方で消滅であり無になることである。

 異界を訪ねたり霊を感じる中で、ある現象に気づいたことがある。霊でも異界でも、身内など知っている人の顔は、くっきりと分かり、誰だと認識できる。一方、知らない人の顔は、まるでピントがぼけたようによく分からない。男か女か、大体の年齢位は分かる。なぜだろう、興味深いと思っていたが、ある本を読んでいたとき、はっと思い至った。アイデンティティを感知できないのではないか、つまり霊のアイデンティティは、身内とか、ある特定の生きている人との間での相対的な存在ではないかということである。例えば山田太郎さんという故人がいたとして、その人の奥さんや子供たちとの関係では、その霊は”山田太郎”として存在するが、他の人にとっては無個性な霊に過ぎない。そして、その人を知る者が誰もいなくなったとき、その霊はアイデンティティを完全に失い、”山田太郎の霊”ではなくなる。成仏したり生まれ変わったとしても、それはもう山田太郎ではない。

 アイデンティティの喪失こそが、本当の”死”ではないのか。過去の偉人たちが、歴史に名を刻もう刻もうとしたのは、この死、本当の消滅を恐れたからではないのか。宗教書やスピリチュアルの本には、魂は絶対、永遠の存在と書かれ、死後も絶対のアイデンティティを持った存在としてよく描かれるが、一方で臨死体験や宗教の本の一部に、死後の忘却について書かれたものがある。生きている時を忘れ去るのが死だと。これはアイデンティティ喪失を、死者の側から捉えたものではないか。

 ここまで読むと、なぜ死を恐れるのか。それはちっぽけな自分の生への拘りに過ぎないのではないかと考える方もいるだろう。そうだと思う。しかし、だからこそ人間だと考える。忘れてほしくないし、忘れたくもない。それを全て受け入れ、全てを捨て去り、仏教でいう諦念の境地にいたることが、今後死ぬまでのテーマかも知れない。そう、愛する妻が実践し、教えてくれたように。

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