赤ずきん事件――または探偵ルードヴィッヒの憂鬱

冬野ゆな

序章

 シュトガルトの南に位置するフェザッリという小さな町は、昔の言葉で”森のそば”を意味するものだった。

 今から三十年近く前に作られた町は、今でこそ道路の整備も進み、背の高い建物も目立つが、やはり華やかできらびやかな――と、この町の大多数の人間が思い込んでいる――大都会に比べれば田舎には違いなかった。

 蒸気機関車の駅が町の顔であるかのように中心に構え、商店が立ち並ぶ通りを人が歩き、整然と敷き詰められた石畳の上を馬車と車が行き交う。そんな町の中心部から少し離れると、そこはもう退屈な牧場と農場とが隣通しに顔をあわせるだだっ広い土地だった。

 牛たちののんびりとした鳴き声に混じって、白い羽毛のマントをはためかせた赤い王冠の鶏が我が物顔で横行する、小さな町だったのだ。

 そんなフェザッリの町の郊外に程近い場所に、スミシー・アランの勤める警察署は建っていた。

 スミシーは五十代のなかごろに差し掛かった年齢で、警察署長の名を冠していた。威厳に満ち満ちているはずの紺色の制服はかつての新鮮さを失ってはいたが、仕事に対する真面目さは忘れていないように、黙々と日誌に向かってペンを動かしていた。面長の顔にせめてもの権威の象徴たるちょび髭を伸ばし、日に焼けた浅黒い肌は、やせ気味の体型をうまく隠してくれていた。

 だが実際は、警察署長というのもたった一人しか配属されなかったがゆえの肩書きだった。このフェザッリ警察署という名の派出所にきて三年が経とうとしているが、この町では酔った末の取っ組み合いや小競り合いはあれど、紙面のトップに書かれるような犯罪事件は今まで起きた事はなかった。

 それを象徴するように、書類作成用のタイプライターはデスクの端に追いやられていた。木製の古びたデスクの上には、飲みかけのコーヒーや食べかけのチョコレート菓子、キャンディの袋、地図のコピー、そしてペンとくしゃくしゃの紙といったものがのさばっていた。

 警察署の奥の階段から続く地下牢も、厳格で冷たい空気を常に放っていたが、その用途はほとんどが酔っぱらって手のつけられなくなった者を閉じ込めておくのがもっぱらだった。

 しかしそれでも、破り捨てられたメモが雑多に広がった片隅には、電話機と電話番号の一覧だけが目を引くように置かれていた。いざとなったら本部にいつでも連絡がとれるようにとの処置で、そこだけはいつもきれいに整頓していた。

 不意に外が明るく光ったかと思うと、遠くの方で雷鳴が轟いた。

 スミシーがちょいと顔をあげて壁の時計を眺めると、時刻は既に六時を過ぎていた。

 ――今夜は雨かもしれんな。

 隣の窓から見える外の景色は、陰鬱な曇り空だった。月はその片鱗もなく、今にもふりだしそうな天気だ。スミシーは再び日誌に向かい合って、次の項目に目をやった。

 今日、特筆すべき事といえば――郊外の農場から手紙を出しに来た老人に道を教えたことと、真っ昼間から〈赤ら顔のグラーシー〉が、いつものように酔っ払って道路のど真ん中で眠っていると通報があった以外には、これといったものはなかった。

 グラーシーに関しては現場にまで行ってみたものの、その時にはもう既にふらふらと立ち上がっているところだった。酒瓶を抱えてぎくりとしたグラーシーに大股で近づき、次に通行の邪魔をしたらまた牢屋に入ってもらうと脅しつけただけだった。

 この町は平和だった――本当に、平和すぎるほどに平和だった――ただ一つの懸念事項を除けば!

 ペンを置いたところで、外からぱらぱらと音がし始めた。顔をあげ、窓の外へと視線を向ける。

 ――ついにふってきたか。

 スミシーは、真夜中――人々が酔っぱらっていい気分になるぐらいの時間だ――に呼びだされないように願いながら、日誌を棚へ片付けた。代わりに棚から鉱石ラジオを手に取り、デスクの上のゴミを手で避けて置いた。

 せめてこの気分を払拭してくれる、陽気なジョッキーの番組でも聞きながら寝るまでの時間を過ごそうと思ったのだ。ツマミを弄ると、雨のせいもあって電波が安定しなかったが、しばらくするとようやく派手な声と音楽とが飛び込んできた。

 ――後は珈琲でも淹れて一息いれよう。

 署内に流れる陽気な音楽を聞いていると、少しぐらい一服しても罰は当たらない気がした。

 そんな至高の時間を邪魔するように、警察署の中に人影が駆けこんできた。勢いよく開けられる扉にさっと身構えると、スミシーは腰を浮かす。

「どうしました」

 最初に目に入ったのは猟銃だった。男は大事そうに猟銃を抱えて、警察署の入口で茫然と突っ立っていた。男は三十代に差し掛かったあたりの、頬骨が突きだし、いやみったらしい顔つきをしていた。狐のような目で落ち着きなく辺りを見回していている。

 ずぶぬれだというのにまったく雨を払うこともしない。深緑の狩猟服に身を包んでいるが、雨だけでなく汗と泥でも汚れていた。

 肩を上下させ、何かから必死に逃げてきたかのようだ。

「どうしました?」

 スミシーは落ち着かせるようにもう一度聞いた。

 最初、スミシーはこの猟銃を見て、なにかの間違いが起こったのだと思った。嫌なものがふつふつと湧き上がってくる。この異様な態度の男の口からどんな言葉が飛び出てきても大丈夫なように、我知らず緊張感がはしった。

「あ、あ、あにきが――あにきが――!」

 男はパニックになった子供のように、呂律のまわらない舌で言った。スミシーは机の裏から回り込んで男に近づくと、宥めるように背中を叩いてやった。

「落ち着いて――落ち着いて! 今、水を持ってきます。さぁ、座って。ウィスキーの方がいいですか? 一度吐きたいならバケツも持ってきましょう」

 スミシーは男を座らせようと、部屋の隅の”来客用”と呼んでいるソファに押し付けた。だが、男はそれを拒否してスミシーを振り払うと、訴えるように言った。

「兄貴が、オレの兄貴が殺されたんだ、狼に――」

「狼に殺された?」

 スミシーは聞き返した。

「ああ、ああ、事態はわかりました。今どんな状況ですか」

「殺されたんだ! グレンフィード医師に連絡をとってくれ――そいつを今すぐに呼ぶんだ――あと銃が扱える人間を二、三人連れてくるんだ、あの化け物を今すぐにでも殺してやる!」

 男の言葉は興奮しきっていて、銃を抱えたまま、怒りと悲しみでぶるぶる震えていた。これが演技だとするなら、舞台俳優ですら到底かなわないものだろう。

「とにかく落ち着いて! お名前は――言えますか?」

 スミシーは男に見覚えがあるように感じた。

 頭の片隅に浮かんだその名前は、幸いなことに本人の口から語られた。

「ピックマンだ。これだけ言えばわかるだろう! オレはカーターで、殺されたのはパーシィ・ピックマン、オレの兄貴だ」

 スミシーはたったそれだけの言葉で度胆を抜かれた。

 ――ピックマンだって?

 確かにこの男は今、パーシィ・ピックマンと言ったか?

 スミシーはその名を知っていた――知らないわけはなかった。

「いったい何が起こったんです」

 そのまま男を乱暴に座らせ、ウィスキーを持ってきてやると、男はカップを一気に飲み干した。


 フェザッリの町で、ピックマンの一族を知らない人間はいなかった。

 ピックマン家はもともと複数あった地主の家系の一つであって、近隣の住人に牧場の土地を提供して生計を立てていた。少なくともあくせく働かずとも生活が成り立つという人種ではあったのだが、三十年ほど前、彼ら三兄弟の父親であるトマス・ピックマンが、ふとしたことから町の英雄的な存在になった。町に隣接した〈狼の森〉と呼ばれる森で、人を殺した狼を撃ち殺したという功績によるものだった。

 まだフェザッリが町ではなく小さな村だった時代の、人々がもっとも恐れていたのは、狼の存在だった。農業ではなく牧畜を生活の主軸としていた村の人々にとって、狼の存在は非常に厄介な隣人だった。不意に迷い込んだ狼は、腹が減っていればもちろん羊を襲うこともあった。人々は専用の見張りを雇って、狼が来る事を知らせる係として置くこともあった。

 そこまでしても、稀に彼らの食料が不足した時、いつ自分達の家畜が餌にされるかと戦々恐々としていたのである。しかしそれもまだ、自分の持ち物が喰われるかどうかという不安にすぎなかった。いずれにせよ、そんな日々を送っていたある日の事である。

 唐突に、人間が無残な死体で見つかったのだ。

 一人目の死体は、森の近くだか、町のはずれだか――森は居間よりもずっと人の集落に近く、どちらも同じような意味だった――に住んでいたオットマー・ベンゲンという男だった。

 オットマーは一人暮らしで、稀に酔っぱらってふらふらしている事もあったが、仕事をすっぽかすような事はない、ごく普通の真面目な人間だった。

 ある時、いつまで経っても仕事場である牧場に出てこない男を心配した牧場主は、彼の家までやってくると、家の角の死角になったところで倒れているのを発見した。物陰からつきだした二本の足を見て、すわ何事かと覗き込んで仰天した。

 それまで人の死体すら見た事がなかった純朴な牧場主は、腰を抜かして助けを求めた。あたりは血まみれで、異臭が漂っていた。食いちぎられた死体の状況と、辺りに散乱したキラキラと光る黒い毛は、何らかの獣によって食い荒らされたというのを証明するに充分だった。

 人々は恐怖におびえた。

 ついに狼が人を襲いだした。恐怖はすぐさま村中に伝搬した。口から口へ、狼が人を襲った話はその日のうちに小さな子供の耳にまで入った。

 誰も彼もが鍵を閉め、一体何が起こったのかと不安に震えた。村長と村の男たちが会議という名の終わりの無い意見のぶつけ合いをしている間に、二人目の犠牲者が現れた。

 今度は夜中に家の中にまで侵入したというのである。喉笛を掻っ切られた後に肉の柔らかい部分を喰い尽くされていて、朝に起こしに行った家人は部屋の中を見て失神した。結局、家の異変に気付いた村人が尋ねてようやく発見される有様だった。

 もはや一刻の猶予も許されなかった。三人目が殺された時には、静観していた人々もついに動いた。化け物がいたという話も出て来たが、人々は確かに化け物には違いないと思っていた。そこには未知の狼に対する恐怖はもちろんのこと、化け物殺しの名誉への欲が無かったとは言い切れない。

 しばらくすると、何人かの狩猟を趣味や生活の中心にしていたハンターたちが徒党を組んで森の中に入った。その時、幸運にも”犯人”を撃ち殺したのがトマス・ピックマンだったのだ。

 結果的に三人が殺されたその事件を、フェザッリの大狼事件として人々は噂した。帝都の人間からすれば新聞の片隅にしかのらないようなその事件も、当事者たちにとっては重大な事件だった。

 そんなこともあり、狩猟を趣味としていた地主の一人は、急激に成長した。

 木製で造られていた質素な田舎の領主といった風な家はピックマン邸宅となり、感謝の意図としておさめられた金の力で、次々と他の地主の土地を買い占めていったのだった。

 ピックマンは都に対するルサンチマン的精神を糧に行動に移し始め、村を町にする事に尽力した。町のほとんどの物は同時期に作られたものだった。

 それ以後、かつての栄光も言葉通り過去のものとなり、一族自身の傲慢によって墜ちかけ埋没してきた今となっても――ピックマン家はある種特別な存在として君臨していたのだ。

 中でもパーシィ・ピックマンは、トマス・ピックマンの長男として、我儘で傲慢に育った。まだ三十代の半ばごろだというのに、既に頭の方は薄くなりかけて、油ぎっていて、豚のようにでっぷりとした腹を、洒落こました黒いシルクハットと黒の三つ折りで隠していた。

 体を動かすのは嫌いだったが、趣味以上に精神の悪いところを父親から受け継いでいたらしく、いつもいやみったらしくて、下品そうな笑い方をした。そうして二人の弟を伴い、鹿だの兎だのを撃ち抜くのに執心していたのである。

 おかげで、パーシィ・ピックマンは、影でその名にちなんだあだ名を頂戴していた。

 〈子豚ちゃん〉――ピッグマンの三兄弟――それが彼らのあだ名だった。

 ピックマンという姓名からつけられたあだ名を、パーシィ・ピックマン自身は豪快な笑いとともに受け流していた。彼が言うには、それは他人を豚と呼ぶしか能のないものたちの羨望らしかった。

 それでも町人はトマス・ピックマンの時代の恩を忘れてはいなかったから、彼に対しても丁重に扱った。内面ではどう思っていようがだ。町の発展を見守るという名目で、近々町長選に出馬するのではと言われている事も、外見的には歓迎しつつも、多くの人々が内面では面白くなく思っていた。

 そんな――そんな人間が、こうまであっさりと死んだと言われてしまうと、半ば信じられない気持ちだった。

 しかし、一報を聞いた一時間後、森の中でずたずたになっていたパーシィ・ピックマンと対面していた。

 パーシィ・ピックマンは確かに死んでいたのだった。

 スミシーは町の医者に連絡をとった後、カーター・ピックマンと名乗った男と、そろそろと森へ赴いた。いつもならば、さやさやと木々の合間を抜けて月の光が入ってくる涼しい森は、いまやまったく別の顔を見せていた。

 ――相変わらず不気味な森だ。

 スミシーは身震いして、なるべく周囲を見ないように駆け抜けた。

 夜の森を支配するフクロウたちでさえ、その異様な気配になりを潜めているようだった。得体のしれぬ巨大な獣の鋭い目に、あちこちから射抜かれているような居心地の悪ささえ感じた。


 夜の森は魔法の世界とつながっている――


 誰もが夜の森を避けたがる理由がそれだった。

 それは「そう言われている」だとか、「そういう伝説がある」という次元ではなく、紛れもない現実として存在する事実なのだった。

 三人の男たちが、蒼褪めた表情で二人を待っていた。

 そのうちの一人はピックマンの三兄弟の一番下の弟で、アーサー・ピックマンだった。

 残りの二人は所属している狩猟クラブのメンバーらしかった。彼らはパーシィ・ピックマンの死体を前に、どうしようもない焦燥感と恐怖とを、手にした銃で懸命にふるい立たせていた。

 それでも、まじまじと盟友の遺体を眺めまわせるような心の余裕はなかったらしい。

 パーシィ・ピックマンはぶくぶくに太った体を切り裂かれ、無残な死体となってそこに横たわっていた。むせえるように広がる血のにおいに、スミシーは思わず顔をそむけた。長い警官生活の中で――この町に来てからはたった三年だが――こんな死体は見た事がなかった。

 その死体は、たった一度の鋭い斬撃と、殺意の籠った牙にやられたようだった。鋭い三本の爪がパーシィ・ピックマンの体を斜めに切り裂き、それが脂肪と肉とをそのまま持っていったらしい。そして、胸――心臓を抉られ、ぐじゃぐじゃとした肉が露出している。猛烈な吐き気が胃の奥から湧き上がってくるようだった。

 ――なんて死体だ……!

 緊急電話に呼ばれた町医者のグレンフィード医師が少し遅れて到着したとき、スミシーはラジオ番組で流れていた音楽をひたすら思い出して自分の平常心を保とうとつとめていた。

 シャツとズボンに白衣をひっかけただけのグレンフィード医師も、その場に横たわっているパーシィ・ピックマンの姿に眉を顰めていた。

 医師はつるつるに剃り上げた頭に、暗視用と見紛うばかりのごついゴーグルのベルトを巻き付け、まじまじとパーシィ・ピックマンの死体を確認していった。老齢とはいえ、まだ医師の方が死体を扱うのに手馴れていた。

 医師はゴーグルから伸びたコードを手に取ると、その先についていた小さな押しボタンを親指で押した。カシャリと音がする。

「あとで現像せねばならんな」

「それは、写真ですか」

 スミシーは尋ねる。

「ああ。この現場と奴さんを、一番うまく映し出してくれるだろうよ」

 医師はボタンをポケットの中に戻すと、遺体に向かって十字を切った。

「遺体はわしの病院に運ぼう。若いのを二、三人連れてきておる。あんたらは、ほれ、何か言う事があるんだろう」

 医師はいまだ茫然と突っ立っている三人に言ったあと、スミシーを振り返った。

「大丈夫かね?」

 その言葉に、スミシーは冷や汗を拭きながら答えた。

「なんとか――大丈夫です。長い事やってますが、初めてですよ、こんなむごいのは」

 カーターからの無言の視線が飛んできた。

「だろうな」

 グレンフィード医師が溜息をつくように言った。

「わしだって初めてだよ」

 小さく続けられた言葉は、落胆したように覇気がなかった。

 不気味な死体を担架に乗せ、医師は指示を出す。

 スミシーは高鳴る心臓を落ち着かせるために、持ってきていたウィスキーを自分で飲んだ。時間をもらっている間に、パーシィ・ピックマンと初めて会った時のことを思い出す。

 この町にやってきた時、三人はにこにこしながら警察署へと入り込んできたのだ。そして、彼らは法を順守するこの警察署そのものが自分の持ち物であるかのように振る舞ったのだった。特にパーシィ・ピックマンはその傾向が顕著だったが、下の弟たちもそれを止める気はないようだった。

 彼らの内面的な事は何一つわからなかったが、そのたった一度の邂逅によって、この町で権力を持っているという事だけは知れた。

 ああ――しかし――

 そのパーシィ・ピックマンは死んだのだ。

 何者でもない不吉な狼の牙と爪によって!

「おそらく――おそらく、人の味を覚えた狼がいたのかもしれません」

 もう一度湧き上がってくる吐き気をおさえながら、スミシーは言った。

「ここは森の奥にも近いですからね。今のお話ですと、まだ死んでいないようですし――何よりもまず射殺しないといけませんね」

「僕もそう思いますよ」

 そう言葉を挟んだのは、アーサーだった。

「兄は森の奥に近づきすぎたのだと思います。それに関しては、ケヴィンさんが証言してくれるかと」

 アーサーの鋭い目がケヴィンと呼ばれた青年を射ぬく。青年はぎくりとしたように視線を受け止める。

「え、ええ――はい。僕はパーシィさんと行動をともにしてましたので」

 全員の視線が青年に向いた。快活そうな顔に、僅かながらに困惑と焦りが混じる。重苦しく沈んだ空気に、青年は言葉を探していた。

「ともかく、まずは近辺の住人には注意を出さなければなりませんね」

 スミシーはこの哀れな青年に助け舟を出すつもりで、話題を変えた。青年はほっとしたように言葉をつづけた。

「でも、この辺りには人は住んでいなかったように思いますよ」

「ええと――自分は一人、知っています」

 にきび顔の男が小さく挙手をしながら言った。

「古い森番小屋に、まだ人が住んでいたはずです」

「きみは?」

「ヘンリ・バルロイです。パーシィさんと同じクラブの――そのう、ここに一緒に狩猟に来てました」

 にきび顔の男は三十代くらいだったが、おどおどと辺りを見回していた。

「森番がいるのなら、その人に協力を頼むのも手か」

 スミシーが言うと、ヘンリはあわてたように付け足した。

「ああ、や、それは駄目です、駄目だと思います」

「なに?」

「森番をやっていたのは昔の話で――今は死んじまって、その奥方の婆さんが一人住んでるだけみたいです」

「ふうむ」

 スミシーは顎を撫でると、ぐるりと一同を見回した。

「後で連絡しないといけませんな。その婆さんのご家族やなんかはご存知ですか?」

「さあ、そこまでは……」

「そうですか。まあ、とにかくそっちはわしがやっておきます。後は――」

「ふざけるな!」

 今まで黙っていたカーターが大声をあげた。みな驚いたように其方を見る。

「狼だと?」

 ずかずかと銃を持ったまま近寄ってくる姿は、いまだ恐怖と怒りがないまぜになっている。

「あれは狼じゃなかった――化け物だ!」

 今にも自分の胸倉に掴みかかってきそうなカーターの姿に、スミシーは今日何度目かになる言葉を吐いた。

「落ち着いてください、カーターさん!」

 だが興奮状態にあるカーターは、聞いていないようだった。兄と同じ色をした目で、ぎろりとケヴィンの方を睨む。

「そういえばお前は、兄貴が襲われた時にいなかったな?」

「それは、その時は少し離れていたから――」

「あの化け物が何だったか教えてやろうか? それともお前はもう知っているのか?」

 ケヴィンにずかずかと歩むカーターは、今にも殴り掛からんばかりだった。

「人狼だ――人に化ける怪物だよ!」

 カーターが口にした言葉にみなぎょっとしたようだった。

「お前が化け物なんじゃないだろうな、ええ? お前がオレを殺す前に、今すぐにここでその心臓を撃ち抜いてやってもいいんだぞ、ケヴィン!」

「違う!」

「オレは確かに聞いたんだ、あの化け物が、次はお前だと――オレの番だと!」

 ケヴィンの胸倉をつかむカーター。スミシーは落ち着かせようと近寄った。

「そもそもケヴィン、お前は新人のくせに――」

「落ち着け、カーター」

 声をかけたのは、グレンフィード医師だった。

「ここで言い合っていても仕方ないだろう。署長、とにかく森に注意を促すんだ」

 スミシーは自分に向けられた視線に頷く事しかできなかった。

「人狼だかなんだか――その話は黙っておくことだ。変に噂を立てても、無駄にパニックになるだけだし、何より巨大な狼が出たということも考えられるだろう――三十五年前のように!」

 グレンフィード医師は、ピックマン一家の英雄を思い出させようとしているようだった。三十五年前に現れた大狼。

 だが、カーターはぶるぶると震えていた。

「ああ、そうだな、グレンフィードさん。お前たちが信じないというなら、調査しないっていうなら――おれが依頼するまでだ」

「依頼って、どこに」

 もごもごと言う弟に、吐き捨てるようにカーターは言った。

「グリム探偵協会」

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