第四話・駅のホームで。

 犬居誠人は急な発熱により仕事を早退し、帰りの電車に乗っていた。

 平日の車内は空いており、犬居は端の席に座って俯いていた。


 いくつめかの駅で、私立小学校の制服を着た、学校帰りらしき児童が何人か乗り込んでくる。頼むから大声で騒いでくれるなよ、と痛む頭で犬居は思ったが、子どもたちは案外おとなしく座っており、時折何やらささやきあっては笑っていた。


 へえ、行儀いいんだ。


 視線を上げ、彼らを観察しだす犬居。と、一人の女の子に目がとまった。

 耳元で何やら内緒話をされてくすくすと笑うその子は、胸元まで伸びた黒髪をふたつ結びにした少女だった。

 かわいい。


 胸の鼓動が速まる。そう、完全に一目惚れだった。

 犬居はしばらく少女を見つめていたが、視線に気づいたらしい少女と目が合うなり顔を背けてしまう。そして、また俯いた姿勢に戻り、時折聞こえてくる少女の話し声や笑い声に耳を澄ませていた。

 俯いたその顔がいつになく紅潮していたのは、熱のせいだけではないだろう。



 やがて、少女は仲間に別れを告げ、ある駅で降りようとする。犬居はそれを見てしばし逡巡したが、席を立って少女の後に続き電車を降りた。

 少女はどうやらここから乗り換えるらしい。移動した先のホームに人はまばらで、電車を待つ少女、そしてそれをつけてきた犬居の周囲は静かだった。

 犬居はどこか不安げな様子で、きょろきょろとあたりを見回していたが、やがて隣に立つ少女に視線を落ち着けた。

 横目で見た少女はうっすらと日焼けした顔にそばかすをちらし、活発な印象の中にもどこか大人びた雰囲気を漂わせている。

 犬居は自分の心臓が早鐘を打ち、同時に頭の痛みが増していくのを感じていた。ぎゅっと目を瞑り、鞄の持ち手を握る手に力を込める。

 そして目を開けると、意を決した様子で少女に声をかけた。

「あ、あ、あのさ」

 少女が訝しげに犬居を見上げる。

「はい?」

「僕、あの、えっと、君のこと知りたくて、その」

「…………」

「よかったら、お茶とかできないかな。あ、あのもちろん奢るから」

 少女は一歩後ずさり、いつでも逃げ出せるよう身構えながらこう言った。

「知らない人についていっちゃいけないって」

 それを聞いた犬居が、明らかに落胆を顔に出す。

「あ、そうだよね、そっか、うん……そっか……」

「すみません」

 頭を下げる少女。ううーん、と悲しげに眉根を寄せる犬居だったが、次の瞬間、ぱっと顔を明るくした。

「あ、じゃあ、じゃあさ、僕が君についていく分にはいいのかな」

 少女が嫌悪をあらわにした表情で何事かつぶやく。その声と「電車がまいります」のアナウンスがかぶり、その声は犬居にしか聞き取れなかった。



 そのまま少女が電車に乗り込み、電車が少女を乗せて発車しても、犬居はただホームに立ち尽くしていた。

 真っ白な顔を能面のように固くして、犬居は先ほどの少女の言葉を口の中で繰り返す。


『おじさん、気持ち悪い』


 犬居の頬に一筋、涙がつたった。

 そのうちに、反対方向へ向かう電車が来るらしくアナウンスが流れだす。犬居はふらふらとおぼつかない足取りで、電車の来る側へと歩き出した。点字ブロックも白線も越えてホームの端に立つ。

 そして、近づいてくる電車の姿をみとめるなり、犬居は線路へと飛び込んでしまった。


「せめて、お兄さん、って呼んでほしかったな」

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