月は何も語らない

黒石迩守

#1/Lesedrama‐堂崎美和子(五月十四日~十七日)

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死とは、モーツァルトを聴けなくなる事だ。

――アルフレート・アインシュタイン




 あたしはもう死ぬのかな、と思った。


 先刻さつきまでお留守番をしていた筈なのに、急に家が大きく揺れたと思ったら、身体が何処かに落ちていた。何が起こったか判らないまま、気が付くと、もう周りは真っ暗になっていた。


 身体の上に何か重い物が乗っていて、そのせいで動けず、全身が踏み潰される様に痛い。目にゴミが入り涙が流れてきて、埃っぽくて咽せた。目を擦りたいけれど、動くのは指と首だけ。足は何処にあるのか判らない。


 お父さんとお母さんは何処に居るのだろう……、そう思って大声で呼ぼうとしたけど、声が上手く出せず、寂しそうな犬の鳴き声みたいになる。

 諦めずに何度か声を出そうとしていたら、急に口の中一杯に十円玉の様な、変な味が広がった。同時に、胸の辺りに全力で走った時の、何倍もの締め付けられる様な痛みが走る。喉から生温かいものが込み上げてきて、吐き出してしまった。

 首筋を垂れるぬるぬるした感触と鉄の臭いで、それが血だと判って、自分がどうなったのか、どうなってしまうのか、全く判らず、やっぱりあたしは死ぬのかな、と思った。

 途端に怖くなって泣きたくなったけど、上手く息が出来ない。苦しくて無理に空気を吸おうとしたら、ただでさえ痛かった胸がもっと痛くなった。自分の口からは、ひゅーひゅーと気持ちの悪い音が出る。

 物凄く嫌なのに止めたくても止められない。その音に、とても腹が立って、だけど悲しくて、目のゴミで流していた涙は、今は自分で泣いていた。

 お父さんとお母さんに助けてもらいたい。けれども、あたしはお留守番をしていたのだから、近くには誰も居ない。自分はこの暗闇の中で、独りで苦しんでいる――その事実で余計に怖くなった。


 誰も助けに来てくれない、身体を動かす事も出来ない。血と涙でぐちゃぐちゃになっていて、喉から変な音を出す気持ちの悪いあたしを、お父さんとお母さんはきっと助けてくれないだろう。こんな風にあたしが暗闇の中で独りぼっちなのは、もう死ぬからだ。


 ……あぁ、これが〝死ぬ〟って事なんだ。


 そう思っていると、がらり、と何かが崩れる音がした。

 暗闇の上の方に穴が開いて小さな空が出来た。闇が破れて周りが仄暗くなる。それを見て、先刻までの考えが消えて無くなった。

 暗闇の中に独りで居た訳じゃなかった、ただ明かりが見えなかっただけで、まだ別に死んでいなかった。少しだけ、まだ生きられそうだと思える。


 だけど――


 小さな空に星は無い。代わりに満月が浮いていて、独りでこちらを見下ろしていた。いつもなら、綺麗だと思う筈の白い光が、何故かとても不気味に見えた。

 無理矢理破って作った様な夜には、月しか無い。他には何も、何にも無かった。月は独りだけあたしを見ている癖に、助けてくれない。こんなにも自分の光であたしを照らしてくれているのに、こんなにあたしが痛がっているのに……何もしてくれない。

 血を吐いて、身体を押し潰されているあたしは、月の光で照らされている。はっきりと見せられたその姿は、間違い無く瓦礫に埋もれて死に掛けている自分だった。

 そっか……。あたしはまだ死んでいない。だけど漸く解った。


 


 こんなにも苦しんでいるのに、あんなにもはっきりと見ているのに……月はあたしの事が嫌いなんだ。だから殺そうとしている。

 無性に悔しくて、裏切られた様な気がして、あたしは泣きながら口を動かしていた。


「――あたしだって、お前なんか大っ嫌いだ……」


 不思議と、空に向けたその一言だけは、上手く喋る事が出来た。

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