第6話

 

「でもドラマーとしてのユキは、今でも生きてますよ」

「あいつ自身が気付いたんだ。ドラムやめたら自分には何も残らないんだってね」

 分かる気がする。ドラムを叩き出すと、ユキは人格が一変する。俺が知らないくらいに-

「そんなときに、ユキは彼女に出会った」

 そのワードで、俺の脳内にけたたましく警笛が鳴り始めた。これ以上は聞けない、聞いたら後には戻れない、そんな気配を感じる。それでも、聞きたいと思ってしまう。

 俺は平然を装いながら、お兄さんを真正面から見つめる。

「マキナさんは、ユキのライブにほとんど毎回足を運んでいたんだ。ユキももちろんそんな彼女に気付いていた。一度ライブが終わってからユキが喋りかけたんだ。それから徐々に仲良くなりだしてね」

 天井を見上げる。それはまだ聞いたことのない話だった。

「同じ高校にまで行ったのに・・・どうして別れたのかな」

 その表情には、うっすらとした翳りがあった。彼女を追いかけて高校を選んだのに、入学からひと月で破局。無念なんて単純な言葉では片付けられない。

「それよりいつまで隠れてるつもりなんだろうね、雪晴は」

 ゆっくりと窓の外を見ながら、お兄さんがやや声を張る。釣られて窓に目をやると、ひょこっとユキが顔を出した。

「おわっ、ユキ!」

「なにを神妙な顔してんだよ!マジ入ろうにも入れなかったじゃねーかよ!」

「いや・・・別に」

「雪晴」

 気まずくなりかけた空気を、静かな声でお兄さんが破る。ユキは初めてお兄さんに顔を向けた。

「今日のとこはシュンに免じて赦してやる。明日から気を付けろ」

「・・・お、おう」

「まあ、そういうことだ。ところでシュン」

 唐突に話を振られた俺は、疑問符の付いた表情になる。なにかしただろうか-

「帰らなくていいのかい?」

 あっ、と時計を見ると、既に20時前だった。ユキの心配をしている余裕はない。急いで帰らなければ、今度は俺の身が危うくなる。

 慌てて帰り支度を始める俺に、

「送ってやる」

 ユキがのそっと窓から侵入してきた。

「いいよもう」

「遠慮するなよ」

 そう言いながら肩に腕を回してくるユキの、有無を言わさぬ声音に押された。どうやら二人で話がしたいようだ。

「・・・分かった」

 俺は荷物を整え、グラスに残っていたお茶を一気に飲み干した。

「お兄さん」

 一礼して、

「急に押し掛けたのに、いろいろとありがとうございました」

「いやいや。気が向いたらいつでも来なよ」

 にこやかに見送ってくれた。しかし、

「ああ、雪晴」

「んあ?」

「あまり遅かったら殺すからね」

 にこやかな表情の裏に、とてつもなく深い闇が見えたのは、たぶん俺の目の錯覚だ。きっと。いや絶対に。


 ※


 蒲田の駅までの道すがら、ユキはほとんど言葉を発しなかった。何かを考え込むかのように押し黙ってる時間が圧倒的に長い。その時間は、何となく重苦しかった。ユキと過ごす時間をこんなにも苦に感じたのは、出会ってから初めてだ。

 しかし、駅に着くや、

「俺は明日、その先しか見てねぇよ」

 などと突然わざとらしい声でほざいた。きっと聞いてたんだな、俺とお兄さんの会話を。

「ああ、そうか」

 それだけ言い残し、俺はホームへと向かう。ユキの辛さが分かる気がして、一刻も早くこの場を立ち去りたかった。

「シュン!」

 急に大声で呼ばれて振り返る。そこには、周りから奇異の視線を一身に集めながらも、にこやかに片手を挙げるユキの姿があった。

「明日、俺も絶っ対行ってやるから!大丈夫だって!泣くな!」

 分かってる。俺は分かってる。

「バカ、泣くわけねーだろ!」

 もうこれ以上は振り向かない。振り向かなくていい。

「だといいな!」

 ユキは自分自身に言ったんだ。泣きそうな、今にも凍えそうな自分自身に。

 そんなユキに向かって、「俺はマキナが好きなんだ!」なんて言える人間は、間違いなく鬼畜でしかない。

 振り向かない。そこにはきっと、泣きそうなユキがいるから。いや、もう泣いてるかもしれないけど。

「ユキ、サンキュ」

 そっと呟く。この声は届いてないだろう。それでもいい。いつかきっと届くはずだ。

「ごめんな」

 でもこの声は、もっと届いてほしくない。ユキを傷つけたくはない。

 滑り込んできた京浜東北線が、どうにも歪み、滲んで見えた。この恋は、決して許されない。なんて悲運なんだろう。親友の闇を知ったあとに、どうしてマキナを好きだって言えるんだろう。悲しいかな、俺はそれでも言えてしまう。

「ああ・・・」

 悲しいまでに、別れ際に見たユキの笑顔は綺麗だった。哀しさを殺した笑顔は、歓びの笑顔より何倍も美しく見えてしまう。

 ひたすら頭を抱えたまま新橋まで戻ったとき、既に時計の針は21時を指していた。最早駅には酒を飲みに繰り出す中年のサラリーマンばかりになってしまった。早く、帰ろう。

「この想い抱いて私はどこを彷徨うの」

 不意に駅の外から歌声が聴こえた。

「恋という名の呪縛に泣いて」

 女性のようだ。ストリートミュージシャンだろうか、アコースティックギターで奏でるバラードは、新橋をうろつくサラリーマンの心を引き留めている。

「この恋はきっと明かせない」

 何となく、ユキとマキナの顔が浮かんだ。これ以上は長居できない。

 寂寥歌のように響くバラードを背に、俺は新橋をあとにした。どこか、今の自分から逃げるように。

 しかし・・・明日がやって来れば、地獄が再び訪れることも、忘れてはない。憂鬱さのせいで足元がふらついた。

 -この想い抱いて私はどこを彷徨うの。

 さっきの歌詞が頭の中で繰り返される。問いかけても全く行き場のない答えは、耳のずっと奥で残響となり、やがて闇へと溶けた。


 ※


 屋上と言うのは、果たしてこんなに殺伐とするような場所だっただろうか。昼休みに来たのに、誰もいない。

 全く午前中の授業には集中できず、ノートもろくに取らなかった。昼休みを思うとなかなか憂鬱で、それでも心の奥底ではトシとの再会を心待ちにしてしまう。そんな繰り返しだった。

 後ろからユキとケイがついてきてるのを確認し、俺は息を深く吸った。

「トシ」

 ドアのほうにに向けられた背中に向かい、明るめの声を掛ける。

「久しぶりだな」

 反応はない。静寂だけが、この空間に佇む。

「おいトシ、おい」

「んだよ」

 ハナっから歓迎ムードではない。トシにそんなつもりがないくらいは予想できてたけど。

 高揚感を抑えられない愉しそうな表情のケイとは対照的に、ユキはこれから何が起きるのかわからないといった不安な顔で見守っている。今の俺は、どれだけ怖い顔をしてるんだろう。今すぐ鏡を見たいくらいだ。

「お前も来てたんだな、うちに」

「下らない話はいらない。本題を言え」

 一語一語を紡ぎ出してた俺に、容赦のない突っぱねるような言葉の刃が飛んできた。その背中の向こうで、トシはなにを考えてるのか、到底想像できない。

「それともまだ昔の話を引きずる気か?因縁あるなら聞いてやらなくもないけどさ」

 昔からだけど、人を苛立たせるヤツだ。だがここは抑えるしかない。

「トシ、俺はお前に因縁をつけに来た訳じゃない。今度は俺とユキとケイと、バンド、組まないか?」

 一瞬、驚いた表情を見せたが、やがて呆れたような顔で、疑わしげにトシは俺を睨み付ける。

「正気か?」

「ああ」

「今から早退して精神病院いった方がいいんじゃないか?」

「俺は本気だ」

 敢えて俺も強く言い返す。トシからすれば、本気で言ってるとは思えないだろう。だからといって茶化して逃げられるわけにはいかない。

「お前、まさか忘れてねぇだろな、なにがあったか」

「ああ、忘れるわけねぇだろ。あのときは俺が悪かったさ」

「一方的に追い出しといてなんだ?今更もう一度組もうだ?」

「ああ」

「ケイ!」

 鋭い声にケイが反応する。苛立ち混じりのトシの声に、愉しそうな表情がやや強張る。

「分かってて呼び出したのかよ」

「いや、なんて言えばいいか、その」

「お前さぁ、いくらなんでもそりゃあり得ねーだろ」

「は?」

「俺に黙って勝手に話しやがってよ」

 たじたじのケイが天を仰いだ。彼の退路は既にない。なんか気の毒だなんて、そこにいない第三者的な気分でケイを見ていた。

「んで、俺が簡単にはいそうですか分かりましたなんて言うと思ってんの?」

「そんなわけねぇだろうが」

 後ろから不意にユキの声が届く。振り返ると、険しい表情ながらも鋭い眼光でトシを見据える彼の姿があった。忘れかけてたが、ユキもこの場にいたんだ。

「なんだお前。つーか誰だお前」

「三好雪晴、シュンのダチだ」

「ほーう・・・」

 邪悪な光を両眼に宿らせたトシは、

「オトモダチまで連れてきて、女子か、てめえは」

「シュンのバンドのメンバーだ、いいだろ」

「なに、じゃあお前そのバンドとやらに入ったわけ?」

「そうだよ。根本的に軽音部で一緒なんだっつーの、俺ら」

「ああ、そう」

  興味なさげな返事をよこす。

「軽音部って理由なら、俺にはその話、カンケーないよなあ?」

 退屈そうな表情で続けたトシは、ポケットからガムを取り出した。

 軽音部の部員一覧にトシの名前はなかった。あったらすぐに気付いてただろう。つまり彼は軽音部じゃない。それは分かってた。

「どこの部活にいるんだ、今」

「・・・バスケ」

 躊躇いがちにボソッと呟く。なるほど、180センチを越えるトシなら適格だ。

「だから俺にはバンドやってる暇なんざないわけだ。しかももうやる気がないわけだ」

「それは謝る。俺が悪かったよ」

「今更謝られたって遅ぇーだろ。どう考えても許せないわ」

 困った。想像以上にコイツは難攻不落だ。手強いの一言では片付かない。

「なあシュン」

 睨み付けるように、トシが俺に目を向けた。その表情は、過去の俺の過ちを一層際立たせる。

「分かんねぇだろ、お前にはさ」

「は?」

「大好きなもんがいきなり日常から消されたときの痛みが!てめえには分かんねぇんだろ!」

 激昂したトシを、俺は異世界のエイリアンを見るかのような目で捉えていた。

 -急になに考えてんだ、トシのやつ。

 自分の過去の過ちがそうさせてるのに、どこか他人事のように聞こえてしまう。

「俺は!バンドのためにいろいろ投げ出してきた!てめえらに合わせてきた!納得いかなくても飲み込んで!腹立ってもギター掻き鳴らして!ステージに立った!なのに!てめえはなんだ!ただの一度俺が反発しただけだろ!それまで俺が!てめえになにか反発したことあったかよ!なあ!」

 この怒りについていけないのは、果たして俺だけだろうか。不安になり、背後のケイとユキを見ると、ケイは再び虚空を見上げ、ユキは呆然としたまま様子を見ていた。

 なおもトシの嵐のような罵倒は止まない。

「てめえは!マジ最低なんだよ!死ねよ!さっさと俺の前から消えやがれ!」

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