第10話2050年【感染経路6】

 三人は、二階の南棟にある食堂に入った。<ウイルス性新薬研究施設>の社員食堂の造りと殆ど同じだが、性格の違いなのかテーブルが乱雑に置かれていた。真っ直ぐだろうと斜めだろうと、食事さえ胃に収まればどうでもいいようだ。


 注文された品を出すカウンター越しには、空腹の兵士の対応に忙しい調理ロボットが慌ただしく動いていた。玲人はカウンターから広い食堂内に再び目をやった。


 自分達から少し距離を隔てた右前方に置かれたテーブル席に、兵士と一緒にカレーライスを食べる賢人の姿があった。その隣に座っているフレンド君は、天井から吊り下げられた大型テレビに放送されているコメディ番組を観て、パチパチと両手を叩いていた。きっと彼にとって楽しい番組なのだろう。


 賢人に目線を戻した玲人は安堵し、口元に笑みを浮かべた。心配していた賢人が思ったより元気そうだったからだ。


 落ち込んで食欲もないだろう賢人が休んでいる個室に、夕食を運んであげようと考えていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。兵士と仲良く会話まで交わしている。


 こちらに気づいた賢人が手を振ってきた。

 「あ、父さん!」


 玲人がテーブルに歩み寄ると、フレンド君が会釈した。

 「お疲れ様です。お父様」


 「ありがとう。フレンド君もお疲れ様」


 口周りにカレーをつけ、子供らしい一面を見せる。

 「ここのごはん美味しいよ」


 「そうか、それは楽しみだ」玲人は賢人に歩み寄り、たずねた。「会議室の自販機同様、食堂も無料なの? だって、今日お金持ってきてないだろ?」

 

 賢人の向かい側に座る二十代前半の若い兵士が玲人に顔を向けた。

 「んなわけないじゃん。有料だよ」


 年上と仲良くなるのが得意な賢人は、早速兵士と友達になったようだ。

 「安岡兄ちゃんに奢ってもらったんだ」

 

 「ええ!?」安岡に頭を下げる。「すいません」お金を返す為に財布を収めたヒップポケットに手を持っていく。


 「いいよ、別に。博士達も食券買って飯食いなよ」


 「ホント、すいません」


 ペコペコと頭を下げ、チラッと賢人に目をやった。何食わぬ顔で美味しそうにカレーライスを頬張っていた。


 (世渡り上手で、年上に可愛がられるんだよなぁ。誰に似たんだろう……)


 「ほら、お金がないと不便だろうから」


 玲人は財布から五千円抜き取り、賢人に差し出した。自分の稼ぎがある賢人が玲人からおこずかいを貰うのは、誕生日と正月くらい。


 久々のお駄賃に目の中に星を瞬かせ、受け取った。

 「やった! ラッキー。ありがとね、父さん。てか、後で返せとか野暮なこと言うなよ」


 「言わないよ。大事に使いなさい」


 「うん」


 賢人におこずかいを渡した玲人は、シャノンと佐伯がいる食券を購入する自動販売機に歩を進ませた。自動販売機の品数に目をやった瞬間、そのバリエーションの豊富さに驚く。


 佐伯は自動販売機にお金を入れ、いつもの味噌チャーシュー麺大盛りのボタンを押した。

 「凄いですね、うちの研究施設の食堂より種類豊富ですよ。軍の皆さんはグルメなんでしょうか……

 とは言え、俺はいつも通りラーメンですけど」


 玲人は天ぷら蕎麦の券と、賢人に奢ってくれた兵士の安岡に唐揚げを購入し、シャノンはミネストローネとライ麦パンのセットを購入してから、カウンターに並んだ。それぞれトレイに載ったメニューを調理ロボットから受け取った三人は、賢人が座るテーブルへ歩を進ませた。


 三人は席に着き、玲人は安岡に唐揚げを差し出した。

 「これ、食べてください」


 「美味しそう!」賢人が目を輝かせる。


 「賢人じゃない、安岡さんにだよ」


 安岡は賢人の頭を撫で、「一緒に喰おうぜ」と言ってから、玲人に礼を言った。「ありがとな、博士」


 「こちらこそ」


 気さくで好印象の成年兵士の安岡は、自分達をよく思っていないはず。それなのに何故、賢人によくしてくれるのだろう、と思いながら蕎麦を啜った。


 「本当だ、ここの味付け美味しいね」


 「ミネストローネも美味しいわ」


 佐伯は余程お腹が空いていたのか無言でチャーシューを齧り、ズルズルと麺を啜っていた。三人が落ち着いた時間を過ごしていると、君嶋と凛がこちらに歩み寄ってきた。周囲に座る兵士と安岡は席を立ち、敬礼する。


 「お疲れ様です! 君嶋指揮官! 矢崎副指揮官!」


 君嶋が一同に目を向けた。

 「敬礼はいい、飯を食え」


 凛に言ってから、玲人達に目をやった。

 「矢崎、お前も飯を食え。で、博士らお三方は執務室まできてくれ」


 「わかりました」返事し、賢人に言った。「ごめんな、一緒にいてあげられなくて」


 屈託のない笑みを浮かべ、返事する。

 「安岡兄ちゃんとフレンド君がいるから大丈夫だよ」


 君嶋は、玲人が言った台詞を、自分も息子に何度も言ったことを思い出し、賢人に目をやった。本当は一緒にいたかったけど、叶わぬ願いだった。


 国の極秘情報に携わる仕事に就いたなら、スパイ同様、そこから抜け出すのは難しい。独り身の若い頃は、無情に近い自分には向いている仕事だと思っていた。


 しかし、妻と出逢い、愛を知ってから、この仕事に就いたことを後悔したが、時すでに遅し。


 自分がこれほどまでに一人の女を愛せるとは思ってもみなかった。愛しい妻は俺の子を産んでくれたのだ。


 妻と息子を心から愛していた―――


 引き返せない、後戻りはできない、自由もない。あるのは金と孤独だけ。この特殊部隊に入隊した兵士の殆どが心に闇を抱えている。


 だが、俺のように伴侶を持った時、後悔する日が来るだろう……


 昔を思い出し、心が締め付けらる。そんな君嶋に賢人が顔を向けた。


 「勝手にコンピュータ操作してごめんなさい」


 素直に謝る賢人が可愛く思え、一瞬ふと気が緩んでしまい、軍内では決して見せることのない笑みを浮かべてしまう。はっとした君嶋は、笑みを封印した。

 「約束だ、二度とするな」


 さすがの賢人もイカツイ君嶋には敬語を使う。

 「はい、もうしません」


 素直な賢人に目を細めた玲人は、安岡に会釈し、「賢人をお願いします」と言った。

 「任せてよ」


 もう一度、安岡に会釈し、君嶋と共に食堂を出て、執務室へと歩を進ませた。階段を下り、西棟に降り立ち、通路を歩く。


 三人を横切る兵士達の目線が痛い。だからこそ、安岡を見た時の疑問が頭を過った。

 「賢人によくしてくれて、あの兵士は僕らを恨んでいるはずなのに」


 君嶋はぶっきらぼうに答える。

 「子供に罪はないからだ。それに賢人はメカニック界の希望の光だしな。俺達も注目している」


 「……。でもよかった……賢人が冷たくされたらと思うと、不安でしたから」


 「……。子供に冷たくするヤツなんざこの軍にはいない」


 君嶋は、執務室のドアに設置された網膜センサーに片目を寄せた。ドアが解錠されると、三人は君嶋の後に続いて、執務室へと足を踏み入れた。


 コンピュータが設置された大きなデスクに歩を進ませた君嶋は、戦闘服の上着を脱ぎ、椅子の背もたれに掛けた。Y字タンク姿になった君嶋の上腕筋が露わになる。盛り上がった胸筋も見事だ。


 佐伯は目を見開き凝視した。

 (スゲー。俺の太腿より太い。カッコイイ。いいな~、俺もマッチョになってみたい。胸筋は動くのかな?)


 憧れの眼差しを向ける佐伯に、眼(がん)を飛ばす。

 「何見てやがる」


 「…………」返事を返さず、君嶋の胸筋に触れた。「凄いや」


 「気持ちわりぃな! 触るんじゃねぇ!」思わず上戸を思い出した君嶋は、佐伯の手を払い除ける。「なんなんだ!?」


 「アクションスターみたいだから、つい触ってしまいました。背も高いし、筋肉モリモリだし、羨ましいです」


 「お前達とは鍛え方が違うんだよ」

 呆れ顔を見せてから、真摯な面持ちに切り替え、話を切り出した。

 「お前らを呼んだ理由は」


 デスクに設置されたコンピュータの手前から、三つのケースを取り、玲人と佐伯の前に差し出す。

 「一つは新藤博士の妻の遺骨、もう一つはあんたらの同僚の鈴野博士の遺骨と」小さなケースに目をやる。「気を利かせた兵士がシロの骨も火葬してくれた」


 君嶋に呼ばれた理由が火葬を終えた遺骨を収めた骨箱を渡す為だったとは思ってもみなかった三人は、息を呑んだ。その後、玲人は手を震わせ、結子の遺骨を収めた骨箱を抱きしめた。


 「すまない、結子……」ポロポロと涙を流し、骨箱を優しく撫でた。「結子」


 シャノンは玲人の背中にギュッと組みつき、無言で涙を流し、想いを巡らせた。

 「…………」


 (可哀想……愛していたのに。この人を慰めたい……)


 「鈴野、お帰り。よかったな、シロも一緒で……」

 ギュッと下唇を噛んで涙を我慢した佐伯も、堪えきれずに頬を濡らした。

 「お前はずっと俺の親友だ」

 骨箱を抱きしめ、友情を語った。


 「用件はそれだけだ。後は個室で休憩を取るなり、ラボに戻るなり、好きにしろ」君嶋が三人に言った。「個室は西棟 西―20、西―21、西―22が空いている」


 佐伯は気持ちを切り替え、君嶋にたずねた。

 「俺は実験を録画した映像の編集に取り掛かります。コンピュータを貸してもらえませんか?」


 「俺も一緒に見たいから……ここのコンピュータを使え」


 「わかりました。ハンディカメラはラボにあるので、ちょっと取ってきます」玲人とシャノンに目をやった。「二人は少し休憩を取ってください。特に新藤博士は気持ちを落ち着かせて下さい」


 気持ちを強く持たねばならないとわかってはいるが、正直辛うじて立っている状態だった。

 「すまない佐伯君。少しだけ休ませてもらう」

 

 シャノンに支えられるように執務室を出た玲人は通路を歩き、階段を上って西棟の個室 西―22の前に辿り着いた。


 網膜センサーはついておらず、その代わり、キーパット付きの小さな液晶画面がついていた。個人専用の番号を登録し、解錠する際は登録した番号を押すのだろうと理解した。


 玲人は番号を忘れないように誕生日で登録する。登録確定キーを押すと、ドアが開いた。二人が室内に足を踏み入れた直後、オートロック式のドアに鍵がかかった。


 室内はこじんまりとしたビジネスホテルの一室のようだった。必要最低限の家具が設置されている。玲人はベッドに腰を下ろした。


 防弾ガラス張りの窓越しから見える閃々と輝く星々が美しすぎて、余計に涙を誘う。玲人は骨箱を抱えながら、背を丸めて泣き続けた。


 シャノンもベッドに腰を下ろし、そっと玲人を抱きしめ、空と海のように青く澄んだ双眸を向けた。

 「新藤博士……」


 涙が止まらない玲人は、「すまない」と言いながらシャノンに顔を見つめ、優しく髪を撫でた。それは男女の愛ではなく、友情と信頼からそうしたのだ。


 だが、シャノンにとって玲人は、尊敬する上司であり、友人であり、愛する男でもある。髪を撫でられ、素直に抱かれたいと思った。


 シャノンは玲人の唇に自分の唇を押し当てた。突然のキスに驚いた玲人は目を丸くし、困惑する。

 「……。シャノン?」


 シャノンは化学者や友人としてではなく、初めて女の顔を見せた。玲人の腕に組みつき、じっとその目を見つめる。


 玲人はシャノンを女として意識したことは一度もなかった。シャノンがいつも自分を慰めてくれる時は、必ずと言っていいほど抱きしめてくれる。勿論、嬉しい時もどんな時も。


 ハグは海外の挨拶だし、スキンシップの多いアメリカ出身の彼女なら自然な動作のひとつ、その程度にしか思っていなかったのだ。


 だから、柔らかく豊かな胸の感触に今まで気づくことはなかった。けれどもたった今、腕に伝う女の感触と匂いに意識が奪われ、玲人の胸が高鳴った。


 シャノンの腕を軽く払い除けた。

 「なぜ、こんなことを……」


 「私……ずっと新藤博士のことが」


 その先に続く愛の言葉を遮断するべく、シャノンの告白の途中で玲人が言った。

 「僕はもうおじさんだよ。君は若くて綺麗だ。こんな脆いおじさんより、君に相応しい人がいる」


 「新藤博士……」


 言われると思っていた。奥さんを愛している玲人の心が自分にないとわかっていた。だけど、面と向かって言われるとショックは大きい。


 だって、六年も想い続けてきたのだから……


 一度きりの願いを口にするシャノンの双眸から涙が溢れ出た。

 「博士……今夜だけでいい、私を死んだ奥さんだと思って抱いてください」


 ベッドサイドの棚に骨箱を置き、シャノンと向き合う。「すまない、シャノン……僕には君を抱けない」シャノンの頬に伝う涙を、指先で拭い取ってあげた。「こんなおじさんの僕を想ってくれたことは凄く嬉しい。ありがとう」


 「いや……新藤博士じゃなきゃ、あなたじゃなきゃ、いやなの」


 玲人に対し、初めて我が儘を言ったシャノンは、ベッドから降り、床に両膝をつけた。それから玲人のスラックスと下着を下ろし、男の部分を口に含んだ。


 「シャノン!? ちょっと……あ!」


 結子が他界してから女性経験はなく、それ以来の女の唇に感じさせられる。シャノンに手を出すつもりはなかった。ましてや結子の骨箱の前で。だが、玲人も男だ。柔らかな唇と舌に愛撫され、我慢の限界に達した。

 

 唇の端から淫靡な液体が入り混じった唾液の糸をツーと垂らしたシャノンが、上目遣いで玲人を見つめる。

 「私を抱いて……」


 「…………」


 玲人は華奢なシャノンの脇の下に手を入れ、グイッと持ち上げ、ベッドに放り投げた。月光と人工惑星<ノア>の眩い光が、白いシーツの上に横たわる端正な顔立ちのシャノンを仄かに照らす。黄色みを帯びたその光は、彼女に官能の色を与えた。


 纏っていた衣服を脱ぎ捨てた玲人は、シャノンのトップスを捲り上げ、白いブラジャーをずり上げた。露わになった乳白色の豊かな乳房に吸いつき、タイトなカラーパンツのボタンを外し、白いショーツと一緒に脱がせた。


 透けるような白い太腿に唇を移動させながら、シャノンの一番感じる箇所に唇を這わせ、舌で愛撫する。

 「あっ! あああ!」

 ビクンと身を捩じらせ、喘ぎ声を上げた。

 「あ! 新藤博士!」


 暫く快楽を絶っていた女の秘部は青い果実のようだった。玲人に愛撫される度、徐々に赤く果実を実らせ、やがて絶頂という熟を迎えた。


 シャノンはシーツを掴み、爪先を縮め、身を震わせる。

 「あ! あぁぁぁぁぁぁ!」

 息を切らして、玲人にキスをした。

 「来て……」


 玲人は、もう一度シャノンの唇に自分の唇を押し当て、身を一つに合わせた。ベッドが軋む断続的な音が室内に響く。


 「あっ、あ、あ、あ」

 一度でいいから抱かれたかった。そして一度でいいから名前で呼んでみたかった。

 「あ……玲人さん……」


 シャノンの胸元に玲人の涙がポタリと落ちた―――


 「結子……」


 「…………」


 ショックだった。自分を抱きながら、亡き奥さんの名前を口にする。そして奥さんを思い出し、涙する。きっと、博士は無意識に奥さんの名前を口にした。それに全く気づいていない。


 だけど、それを望んだのは自分。

 傷ついてもいいから抱かれたかった。

 出会った時からわかっていたもの。


 彼の頭には、奥さんしかいないということを―――


 彼の深すぎる愛が<死者蘇生ウイルス>を生み出した。全ては彼女に捧げた愛だった。


 決して、自分のモノにならない愛しい人―――


 「はっ……はっ……」玲人は動きを速めた。「……あ、逝く」


 「あぁ!」


 最初で最後のセックスを終えた二人は、床に落ちた服を拾い上げ、袖を通した。玲人は今まで意識しなかったシャノンの豊かな谷間に目がいく。


 やはり、セックスするべきじゃなかった。何故、自分を抑えられなかったのか……


 シャノンを女として意識してしまう。スッと目を逸らし、自分の頭を拳でコツンと軽く叩いた。


 (しっかりせねば……)


 「賢人を迎えに行く」


 「私も行くわ」


 気持ちを落ち着かせる為、胸ポケットから煙草を取り出し、火を点け、煙を深く吸い込む。

 「……。なあ、シャノン、僕と寝たこと後悔してないのか?」


 「後悔するくらいなら最初からしないわ」唇を震わせ、たずねた。「新藤博士は後悔してるのね?」


 「…………」

 

 目に涙を溜めて言った。

 「言ったでしょ? 奥さんだと思って抱いてって……私じゃない、博士は奥さんと寝たの。セックスの最中、奥さんの名前を呼んでいた。記憶にないかもしれないけど……

 博士の目に私は映っていなかった。だからそれでいいの」

 

 「……え!?」

 (結子の名前を呼んだ!? 全く覚えていない)

 無意識とは言え、申し訳ないことをしたと思った玲人は、煙草の火を消し、咄嗟に謝る。

 「すまない、シャノン」


 「謝らないでよ、余計惨めになるじゃない」

 涙を浮かべながら、口元に笑みを作った。

 「いつも通りでいいじゃない。ぎこちない関係になる為にセックスを望んだわけじゃない」


 「…………」


 「行きましょ、賢人君が待ってる」


 玲人とシャノンは個室から通路に出て、南棟の食堂に向かった。交代で休憩を取っている兵士が、次から次へと食堂にやってくる。


 賢人はフライドポテトを食べながら、安岡とフレンド君と一緒にテレビを観ていた。二人は三人が座る席に腰を下ろし、玲人がテーブルの上に載ったフライドポテトに目をやった。賢人におこずかいをあげたが、たぶん安岡の奢りだろう。


 安岡に頭を下げた。

 「すいません……。大食漢なもので」


 安岡は笑ながら言った。

 「成長期なんだからいいんだよ。俺も小腹空いてたし」


 育ち盛りの賢人はパクパクとフライドポテトを頬張る。

 「美味しいよ。ここの調理ロボットは最高だよ。どこの会社が作ったロボだろね? センスいい」


 安岡が笑ながら返事した。

 「さあ、それは俺にもわかんないや」


 その時、テレビに夢中になっていたフレンド君がピタリと固まった。

 「……。街が……アレはいったい……」


 一同はテレビに目線をやった。今しがたバラエティ番組が放送されていたチャンネルが緊急速報に変わっていた。


 実況中継の報道陣の背景に、深紅の双眸を光らせたレッドソウルが徘徊していた。動きが鈍いことから空気感染した罹患者であることが読み取れた。


 報道陣が慌ただしくマイクに口を当てる。その表情は緊迫しつつも、どの局よりもいち早く特ダネを手に入れた喜びが窺える生き生きとした表情だった。


 『緊急速報! 緊急速報! 自我を失った深紅の双眸の人々が街中で猛威を振っています!』


 レッドソウルが人々に噛みつき、感染者の双眸が徐々に深紅に染まっていく過程が放送された。行き交う人々の悲鳴と慟哭が荒ぶ凄まじい光景が、画面越しにまで恐怖を与える。


 『見てください! 地獄絵図そのものの光景を! まるで彼らはゾンビのようです! 都市伝説にも近い死体が甦る部類のウイルスに感染したのでしょうか!? 動きは鈍く、人間としての知能を失っているように思われます!』


 実況中継に熱が入ったその時、狂犬と化した野良犬が報道陣に飛び掛かり、顔面に噛みついてきた。狂犬と報道陣の顔の間に飛び散った血液が扇状となり宙に舞う。報道陣は噛み千切られた顔面を押さえ、発狂した。


 狂犬は恐ろしく剽悍であり、街を徘徊しているレッドソウルとは明らかに動きが異なる。おそらく狂犬病ウイルスに感染していた野良犬が斃死した直後、空気感染により蘇生を果たしたのだろう。


 のたうつ報道陣の腹に前肢を置いて威嚇する狂犬に恐怖したスタッフとカメラマンの慌てふためく声が飛び交った。


 悲惨な報道陣の姿―――惨慄な光景にカメラマンの手から力が抜け、ピントを合わせることすらできない。映像は乱れ、ぐらぐらと揺れる。


 『か、噛まれぇ! 顔、顔! 犬! い、いぬ!』


 パニックに陥った彼らの言葉は日本語として成り立っておらず、意味不明だったった。しかし、怒濤の恐怖に突き落とされた心理状態で発する言葉に機能を持たせることは容易じゃない。


 顔面を噛まれた報道陣は、アスファルトの上で既に息絶えていた。横たわる無惨な顔面を直視した二人は、瞬時に慄然とする。真っ赤な血に染まったその顔面には、目 鼻 口 本来あるはずのパーツの全てが失われていたのだ。


 報道陣の顔を喰った狂犬は、深紅の双眸をカメラマンに向け、隅目した。もはや視聴率どころの話じゃない。命の危機が迫っている。


 カメラマンは仕事の命とも言えるカメラを放り投げ、全力疾走で狂犬から逃げようとした。アスファルトに放置されたカメラは、低位置で延々と悍ましい映像を収め続けた。


 走れば追う、理性は失えど、犬の本能を失っていないレッドソウル化した狂犬は、カメラマンを追い詰め、頚椎に噛みついた。ボリン! と瞬時に硬い頚椎が断裂する。糸が切れた懸糸傀儡のようにダラリと垂れ下がった頭部を下にして、アスファルトを滑るように倒れた。


 凄惨なシーンは放送事故として処理され、一旦、別の報道へと切り替えられるのが常識だ。しかし、その様子もなくお茶の間に恐怖を放送し続けた。


 それもそのはず、全身を震わせた賢人がリモコンでチャンネルを変えても、どの局も全国民を震駭させる残虐的な緊急速報だったのだから。


 視聴率合戦。トップバッターで現場に駆け込んだのは、狂犬に顔面を噛まれた男が所属する報道局だった。


 だが、夜の街灯に群がる蚊のように、特ダネがあれば群がるのが報道陣だ。他局に負けていられんとばかりに、次から次へと時間差で街に集まる。いつもは安全性を確保した上での報道だが、今夜は違った。彼らは本当の恐怖を理解していなかった。


 危険極まりない飛んで火にいる夏の虫になることを―――

 最悪の殉職が待ち構えていることを―――


 『都心部が大変なことになっています!』炎が上がった家屋を指し、『火事です! 火事です』と大声を張った画面越しの報道陣から、視線を玲人に移した賢人が椅子から立ち上がり、怒号を浴びせた。


 「南のウイルス研究施設での爆発音の原因がよくわかったよ! 何らかの理由で<ウイルス性新薬研究施設>からウイルスが漏出して、南の研究員達が感染した、だから隠蔽工作で爆発させたんだ!」


 最愛の息子に嫌われたくない一心で引き止めようとする。

 「け、賢人! 聞いてくれ!」


 「何を聞けって言うんだよ!」


 シャノンと安岡は画面と交互に二人に視線をやる。

 「…………」


 テレビ画面に狂犬に顔面を噛まれたアナウンサーと、頚椎が断裂したカメラマンが背を起こす瞬間が映し出された。絶命したはずの二人は、火事に気を取られている他局の報道陣に襲い掛かった。原形をとどめていない顔面に双眸はない。しかし、恰も見えているかのように正確な狙いだ。血塗られた剥き出しの歯を報道陣の首筋に喰い込ませ、肉を引き裂いた。動脈が破壊された首筋は噴射口と化し、凄まじい血飛沫が噴き上がった。


 他局の報道陣に噛みついたレッドソウル化した報道陣は、口に銜えた首元の肉塊を旨そうに噛み砕いて喰った。


 その後、レッドソウル化したカメラマンも、逃げ惑う他局のカメラマンに猛威を振い、頬に噛みついた。喰い千切られた頬に大きな風穴が開き、血に染まった真っ赤な歯が覗く。後、断末魔を上げて路上に倒れた二人も<死者蘇生ウイルス>に感染し、罹患者となって通行人に襲い掛かっていった。


 その報道の最中、軍事施設のスピーカーと兵士達の無線機に、君嶋の荒々しい声が響いた。

 『全員、軍需物資武器保管倉庫に集合しろ! 博士らは至急、執務室に来い!』


 数々の修羅場を潜り抜けて君嶋にとっても最悪の状況だ。心を沈着させ、事態の収拾に当たる事などできなかった。


 被害状況は自分達の想像を遥かに超える事態になるだろう。ウイルスの空気滞在期間は約二週。その間、確実に被害は拡大する。かなりの死者が出るはずだ。


 ワクチンや抗ウイルス薬が存在しないモンスターウイルスに立ち向かう術はなく、感染威力が衰える二週間後を待つしかないのかと、歯がゆい思いでいた。


 だが、荒々しい声になった要因はそれだけじゃない。先手を打つはずがマスコミに先を越されるという失態が許せなかった。


 シークレット特殊部隊の指揮官であるにもかかわらず、考えられないミスを犯したのだ。鉄橋の封鎖に当たっている兵士達からレッドソウルが蔓延した都心部まで距離がある為、その騒動に気づくことができなかった、とは言え、それは言い訳にすぎない。


 今までの功績に傷がつく汚点であるが故、悔しさも一入(ひとしお)であり、雪(そそ)ぐ事の出来ない事実。だが今それを言っている場合ではない。


 『さっさと急げ! 以上だ!』焦燥の声を上げ、無線と軍内放送を切った。

 

 命令を受けた安岡も他の兵士と共に、足早に無言で軍需物資武器保管倉庫に走っていった。安岡は賢人を可愛い弟のように思っているが、飽く迄他人だ。


 ここから先は家族の問題であり、自分が立ち入るべきではないと判断し、敢えて無言で去ったのだ。それに、自分には任務がある。


 椅子に座るシャノンは俯き、唇を結んだ。執務室に急がずにこの場に留まる理由は、玲人の精神が心配だったからだ。脆弱な部分があり、決して強い人じゃない。だから心配だったのだ。


 セックス時に妻の名前で呼ばれたのに、それでも玲人を嫌いになれなかった。身体を合わせたことにより、以前にも増して愛が大きくなってしまったのかもしれないと、自分に嫌気が差す。


 「…………」


 (……。本当に私は馬鹿だ。だけど、どうしょうもなく博士を愛しているのよ……)


 フレンド君は賢人と玲人を心配する。だけど自分が出る幕じゃないとフレンド君なりに理解し、不安げにシャノンの手を握った。



兵士が去った食堂にテレビの音が響く。賢人は死者が甦った映像を指し、泣きながら玲人に怒号を浴びせ続けた。


 「父さんはゾンビを創る研究をしてたの!? 信じてた! ずっと人類の役に立つ研究をしてるって! これが俺に隠してやってた研究なのかよ!?」


 賢人の両肩を掴み、真摯な面持ちで声を張った。

 「聞いてくれ! 父さんは母さんに生き返って欲しかった! 人類の為になる研究だとずっと信じて頑張ってきたんだ」


 「母さんを?」ピクリと頬が引き攣った後、声を震わせ、たずねた。「母さんは俺が生まれた時に死んだ。納骨堂に納めてある遺骨は? だって火葬された骨じゃ……スケルトンにもならない……あの骨箱に入ってる骨は母さんの骨じゃないの?」


 嫌われるかもしれない……その不安が子供だましの嘘をつかせた。

 「母さんの骨だ、間違いない。ウイルスに感染すれば骨でも甦るんだ……す、凄いだろ!?」


 欺瞞を暴いた賢人の怒りが爆発した。

 「嘘つくな! バカにするなよ! 母さんの骨は骨箱に入っていない! 空っぽだったんだ! 冷凍保存で遺体を保存していたんだろ!?

 俺は空っぽの骨箱に向かって手を合わせていたのかよ!? 嘘をつく事と隠すことは違う! 

 父さんはずっと俺に嘘をつき続けていたんだ! 産まれてからずっと、俺に嘘をついていた!」


 玲人は背を向けた賢人の腕を握り、グイッと引いた。賢人はその手を振り払い、玲人が一番恐れていた台詞を口にする。

 「父さんなんて大嫌いだ!」


 「賢人!」


 大声を張った賢人は、食堂から通路に飛び出した。その時、こちらに向かっていた君嶋と衝突し、転倒する。


 賢人の怒号が聞こえていた君嶋は、過去の自分を思い出し、優しく手を差し伸べた。

 「大丈夫か?」


 君嶋の手を払い除ける賢人。

 「おじさんも嫌いだ! どけよ!」


 君嶋は弾かれた手を引っこめ、声を掛けずに賢人から離れた。少し時間を置き、冷静を取り戻すまで何を言っても無駄であると過去の経験からわかっている。頭脳は大人な賢人でも心は他界した息子と同じ子供なのだから。


 「…………」


 「みんな、みんな大嫌いだ!」


 自分の個室へと走っていく賢人をフレンド君が追った。

 「賢人博士!」


 二人が去った食堂に君嶋が入り、放心状態の玲人に目を向けた。

 「遅い。俺はさっさと来いと命令したはずだ」


 「……。賢人に……嘘つきと言われた……大嫌いだって……」


 「隠し事はいずれ大きな嘘に繋がる。隠していた期間が長ければ長いほどな」過去の自分と重なった玲人の肩に手を置いた。「テレビの光景を見ていたならわかるはずだ。今は自分がなすべきことに集中しろ」


 賢人の後を追いたいが、君嶋が言うように事態は悪化の一途を辿る。今自分がすべきことに集中せねば……

 ギュッと握り拳を作って感情を堪えた。

 「……。わかっています」


 感情が表に出てしまうタイプの玲人の表情から、相当落ち込んでいると読み取ったシャノンは、いつも通り玲人の背中を摩り、そっと抱きしめた。


 腕に柔らかな胸の感触が伝ったその瞬間、玲人は顔色を変え、シャノンの身体を引き離した。いつも通りに振る舞いたいシャノンは、ショックの色を隠せなかった。


 行為の後、玲人に言ったように、気まずい関係になる為にセックスしたわけじゃない。それなのに玲人はあからさまに冷たい。


 「す、すまないシャノン……。暫くそれはやめて欲しい」


 思わず涙が滲んだ。

 「……。博士……」


 (ただ新藤博士を慰めたかっただけ……いえ、きっと違うわね。

 私は……心から彼に抱かれたかった。だから敢えて傷つく選択をしたのよ……

 だけど、ほんの少しの希望を抱いていた事は確か。亡き奥さんの愛の呪縛から解き放たれ、私に気持ちが傾くかもしれない、僅かな望みを夢見ていた。

 甘すぎる夢だった―――

 新藤博士をここまで虜にし、夢中にさせた結子さんが妬ましい。私は結子さんに嫉妬してる。

 私が堂々と“玲人さん”と呼べる日は来ないのでしょうね―――)


 亡き妻を重ねてシャノンを抱いた罪悪感と後悔から気まずくなる一方の玲人は、シャノンから視線を外し、君嶋にたずねる。

 「なぜ、ここに? 軍需物資武器保管倉庫に行かなくていいのですか?」


 「俺は後で向かうからそっちは矢崎に任せてある。それより、血相変えた上戸がヘリでここに向かってる。もうそろそろ到着するはずだ」


 玲人に返事してからシャノンに目をやった。

 「どうした? 顔色が悪いようだが」


 「大丈夫よ」本当は大丈夫なんかじゃない。「執務室に行きましょう」

 






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