5.屈しないんですの


 翌日の朝、靴箱の前に有瀬が立っていた。後ろを通り過ぎると、有瀬の靴箱の中にゴミが入っているのが見えた。嫌がらせで靴箱の中にバナナの皮を入れるっていうのは、漫画の中だけの話だと思っていた。くだらないことする奴もいるもんだな。そう思って、誰もいない教室で有瀬の机を蹴り飛ばしたことを思い出す。本当、くだらないことしちゃったな。



「芹目、おは! ねえ、今日放課後ヒマ?」

「忙しいな〜〜」


 教室に入った途端、ややこしい奴に捕まってしまった。


「え〜、最近付き合い悪いんですけど〜!」


 ギャルが体をくねらせて、唇をとがらせる。グロスを塗りたくった唇が人工的に光っている。明らかに塗りすぎだ。気持ちが悪い。


「あ、アリンコ」


 アリ?

 入口を見ると、有瀬が教室に入ってきた。


 ああ、アリセだから、むしってことか。くだらない。


「なんだ、スリッパ履いてんじゃん。あーあ、つまんないの」


 どうやら、靴箱にゴミを入れた犯人はこいつのようだ。まあ、わかったところで糾弾したりはしないけど。


 ……あれ? 俺、どうして何もしないんだろう。


 気づいているのに。

 くだらないと思っているのに。

 こんなことをする奴を軽蔑しているのに。


 そうこうしているうちに、いつものように俺の周りには人だかりができて、気づいたら渦中に俺がいた。


 昨日のバラエティ特番の話、今朝発売の週刊マンガ誌の話、隣のクラスのカップルの話、様々な与太話に花が咲く。


 有象無象にかすれる景色の中で、有瀬は一人で本を読んでいる。心無しか、その背中は普段より一回り小さく感じた。


 もし、俺も有瀬のように誰とも関わらずに一人で本を読んでいたら、有瀬と同じ目に遭っていたんだろうか。


 周りにいる奴らの顔を見る。


 コイツら一人一人に家族がいて、友人がいて、いろいろな事情があって、誰にも知られないところで、きっと悩みや葛藤を抱えている。


 そこまで思いを巡らせて、しかしそんなことは心底どうでもいいことに気づく。


 こいつらの家庭の事情がどうでも、俺には関係無いじゃないか。こいつらが何に悩んで、何に苦しんで、何を楽しんで、何に笑っていようが、俺には何の支障も影響もない。


 どうして、こんなにどうでもいいことを考えてしまったんだろう。


「芹目どうした? テンション低くない?」

「……実は徹夜しててさあ。チャレンジ中なんだよ、俺の限界にリミットブレイク。いま二徹目」


 軽い笑いを取った。でも気分は晴れない。


 こんなことはいつまで続くんだろう。


 そのとき、教室という箱がグニャリと歪んで見えた。世界を魚眼レンズ越しに覗いたような、猛烈な違和感。


 汚い机、淀んだ空気。こんな空間に同じ制服を着せられて、何十人も押し込められている。狭くて息苦しい世界。


 月曜日から金曜日まで、毎日のように同じことを繰り返す。手を叩いて、楽しくないけど適当に笑って、勉強して、飯食って、帰って、つまんねえなって毒づいて、孤立することに怯えて、手を叩いて……。


 こんなことをいつまで続けるんだろう?


 いつになったら終わりがくるのだろうか?


 俺は、


「あの」


 地を割るような凛とした低い声に、教室が一瞬静まり返った。


「私の机の中に上靴入れたの、誰?」


 有瀬が、俺たちの輪の一番外に、やはり一人で立っていた。


「えー、何? なんてー?」


 ギャルがわざとらしく耳に手を当てて笑っている。有瀬は右手に真っ黒に汚れた上靴、左手に何かで黒く汚された本を持っていた。


 有瀬の机の中から腐ったバナナの皮のようなものが見えた。またバナナか。レパートリーが乏しいな。なんて思って、この感想が歪んでいることに気づく。ゴミ箱の中身をそのまま机の中にぶち込んだような悲惨な状態を見て、俺が思うのはそんなことなのか。


 ギャルは有瀬を無視して昨日のドラマの話を始める。たかがギャルのドラマの感想なんて、スゲェとヤベェだけの陳腐で低能なものだけど、同じように陳腐で低能な周りの奴らは、追従するように笑い声をあげる。

 

 なんだよ、これ。

 この卑しい集いは一体なんなんだ。

 俺は、こんな集いの真ん中にいるのか。


 もしかして、俺がこいつらに貼っている『陳腐で低能な人間』というレッテルは、他人事ではないのではないか?

 そしてそのレッテル――レッテルを貼るどころかペンキのようにべっとりと塗りつけられているのではないか――を俺に塗りつけたのは、きっと……。


 あれ?


 見出した居場所に疑問を抱いたとき、自分が信じて疑わなかったものが、揺らいだ。


 目の奥に熱い何かが宿るのを感じたとき、小気味良い音が教室に響いた。


 有瀬が手に持った汚い上靴で、ギャルの頭を叩いたのだ。


 ギャルを追従する笑い声が止み、時が止まったかのような静寂が教室に訪れる。空気が凍るとは、こういうことを言うのだろう。


「何すんだよ!!!」


 ギャルが近くのイスを掴み、有瀬に殴りかかろうとする。


「エリ、待ちな、それはまずいって!」


 周りの女子がギャルを押さえて、ケンカを止めに入っていた。

 有瀬は目をそらさず、口汚く罵るギャルを睨みつけていた。


 有瀬はギャルを打擲ちょうちゃくした。

 欺瞞に満ちた社会学校生活に意思を持って反発する有瀬のことを、俺は見ていることしかできなかった。

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