6 「焼き肉でもたらふく召し上がればよろしいのです」

「ごめんね、難しくて、わかんない」


「人間には、高い環境適応能力というものがございます。その能力があるからこそ、サルから進化して700万年もの間、この地球上で繁栄を続けてこられたのです。考えてみてもごらんなさい、現代のように『いつでも、どこでも食事ができる状況』など、野生動物だった頃の人類には望むべくもないではございませんか」


「そっか、それもそうだよね」


「人類は長い間、狩猟と採集によって食糧を得て、今日こんにちまで進化し生き延びてまいりました。それは半面、『いつ食糧にありつけるかわからない』という究極の危機的状況との同居でもありました。その適応として、最低限のエネルギー摂取でも生きられる手段を身につけ、現代人まで遺伝したのでございます」


「と、いうことは……もしかして私みたいに、食べる量を我慢するダイエットをしちゃうと、古代人みたいになるってこと?」


「さすが室井さまです。結論を申しますと、低カロリーの食事を続けていると、体のほうは『そこにあるエネルギーだけで、なんとか生き延びる』という秘密のスイッチをオンにしてしまうのです。つまり、基礎代謝を下げて消費エネルギーを節約しようとするのです。いわゆる飢餓モードでございますね」


「じゃあ、私もずっと食事を我慢してたせいで基礎代謝が減って、ちょっと食べただけですぐ太る体質になっちゃってたってこと?」


「大正解でございます。飢餓モードでは、ほんの少し食べただけでグイグイ太るようになりますので、痩せたいと思った方はそこからさらに食べる量を減らし、それでも痩せないからまた減らし……を繰り返す最悪のループに陥ってしまいます。その先に待っているのは栄養失調とリバウンドだけでございますのに、ご本人はまるで気づかないのです。まさに悪夢です」


 鈴花は、納得した。――だって、それは私そのものだから。

 でも、やっぱり痩せるには運動が必要じゃない?


「ねえキイさん、さっきの3つの代謝のうち≪生活活動代謝≫っていうのは、体を動かすことによる代謝よね? たとえば、ジョギングとかウォーキングをすればエネルギーの消費もできるけど、それじゃ痩せないの?」


「運動は、たいした問題ではございません。基礎代謝と比較しますと、さほど影響のある消費量でもないからです。たとえば30分間のウォーキングをした場合、体重およそ62キロの室井さまが消費できるエネルギーは、62キロカロリー程度と算出されます。それが、どの程度の量かと申しますと――」


 と言うなり、キイはゴミ箱の中からポテトチップスの空き袋を取り出した。鈴花が昨日、おととい、さきおとといと食べた3袋だった。


「このポテトチップスは内容量60グラムで、335キロカロリーです。62キロカロリーはおよそ5分の1ですから、約12グラム。つまり、30分のウォーキングをしたところで、ポテトチップスを数枚食べてしまえば元の木阿弥。適度の運動をするのは悪いことではありませんが、こと減量に関して申すならば、相当に非効率なのでございます」


 鈴花は思い出していた。運動すれば痩せると思い、大枚はたいてウェアをそろえて、本音ではやりたくもないジョギングにトライした頃のことを。


 当然、結果は散々だった。ジョギングの直後には多少の体重減はあるものの、翌日には見事に元どおりになっていた。しかも、運動すると余計におなかがすいて、空腹に耐えるのが大変だった。――つまり、痩せなかった。バカバカしい。


「おそらく、これらは夜間に召し上がったものの残骸でございますね? ひと袋60グラム中、半分の30グラムが炭水化物です。こんな食べ方をしていれば、どう考えても太ります」


 キイは、力強く断言した。


「そうよね。炭水化物はよくないんだもんね……」


 そう言うと、鈴花はなぜか悲しくなった。悲しくて、涙がこぼれた。たぶん、間違ったダイエットに苦しんでいた過去の自分が、可哀想に思えたからだろう。


「室井さまの、最近の食事内容をお教えいただけますか?」


 キイは、優しい声で言った。涙を慰めてくれるような、優しい声だった。鈴花はいつもの自分の食事を思い出しながら、朝食から順にあげていった。それを、キイがボードに書き写していく。


 [朝食]

 ・トースト2枚(ジャムかマーマレード)

 ・コーンスープ(インスタント)

 ・オレンジジュース

 ・コーヒーまたは紅茶(角砂糖2個入り)


 [昼食]

 ・コンビニおにぎり(またはサンドイッチ)

 ・野菜サラダ

 ・豆乳


 [おやつ]

 ・ドーナツ(またはビスケットなど)

 ・コーラ(または甘いコーヒー)


 [夕食]

 ・コンビニ弁当(主にシャケ弁)

 ・マカロニサラダ(大好き)

 ・缶ビール1~2本

 ・ポテトチップスひと袋


 キイは、書き終えたボードを見つめてため息をついた。


「これで痩せようと思っているのが、アンビリーバボーです。と申しますか、恐ろしいです。まさに、太るための食事としか思えません」


 また毒舌。いっぺん殺したろか、と鈴花は思ったが、どうすればキイを殺せるのかがわからなかった。


「だって、肉や脂を避けて低カロリーにすれば痩せると思ってたから……」


 鈴花は必死の抵抗を試みたが、キイには通用しなかった。


「これでは炭水化物ばかりで、タンパク質と脂質がまったく不足しています。こんな低栄養の食事をなさっているからこそ、ポッチャリの加速がぜーんぜん止まらないのでございます。痩せるためにはまず、きちんとした栄養摂取が先決でございますのに」


「じゃあ、何を食べればいいのよ」

「中心と考えるべきは、タンパク質です。代表的な食品は何ですか?」

「……お肉?」


「左様です。さきほどの1日の食事内容を見ても、タンパク質がほとんどございません。タンパク質らしきものは、せいぜいシャケ弁の貧相なシャケぐらいしかないではないですか。ですので、本日からはもっと肉をたっぷり食べることを意識していただきます。牛でも豚でも鶏でも羊でも何でも可、脂身を取り除いたりしてはなりません」


「お肉かあ……」

「お嫌いですか?」

「ううん、嫌いじゃなくて逆に好きだけど、太るんじゃないかと思って……」

「いえ、太りません」

「そ……そうなの?」


「では、実験をしてみましょう。ちょうど、本日はよい機会でございますし」

「いい機会?」

「そうです。本日は、矢沢大地さまとのデートではありませんか。夕食には、おふたりで焼き肉でもたらふく召し上がればよろしいのです」

「はははは……初デートで焼き肉? ないない、それはない」


 鈴花は、顔の前で手を左右に振りながら全力で否定した。初デートで焼き肉屋に行く女なんて、いるわけない。


「そんな悠長なことを言っている場合ではないのでございます!」


 突然の剣幕に、鈴花はビックリした。でも、キイの表情は真剣そのものだった。


「ちょっと、急に大声出さないでよ。もう……」


「失礼いたしました。しかし、焼き肉がダメなのでしたら、ステーキでもハンバーグでも何でもよろしいではありませんか。とにかくタンパク質と脂質をしっかりドドーンと取って体の栄養状態を改善しつつ、代謝の状態を元に戻す……つまり、飢餓モードから脱却することから始めなければ、室井さまのダイエットに成功など望むべくもございません。ちなみに、さきほどご説明した≪食事誘導性熱代謝≫を最も高めるのはタンパク質である点も、つけ加えて申し述べておきます」


「うん……」

「当然ながら、たとえば1週間や2週間といった短期間で脱却できるはずもございませんが、いかがでしょう? 本日はとにかく1日、肉や魚や卵などのタンパク質と脂質を大量に取る食事を実行していただけませんか。同時に、ご飯やパンなどの炭水化物を徹底的に排除していただいて、甘いジュースやお菓子類も禁止です」


「ジュ……ジュースもダメなの?」

「はい。太古の人類は、砂糖など摂取しておりませんでした。つまり人類にとって砂糖は無用の食品なので、お控えください。そのうえで――」


「そのうえで?」

「明朝、体重を測定してみましょう。本日の62・2キロを下回っていれば、ワタクシの話にも真実味をお感じになるでしょうから」


 言われるまでもなく、鈴花はもう「やる」と決めていた。今日の1日ぐらい、変な食事をしたところで、一気にブクブク太るわけでもないだろうし……。


「何事も体験かも、ね」

「はい。ところで、ひとまず方向性が見えたところではありますが、ワタクシは少々疲れてしまったようでございます。本日はこれにておいとまさせていただき、明朝またお邪魔いたします。――では、失礼いたします」


 何か返事をしようと鈴花が言葉を探している間に、キイは跡形もなく姿を消した。ねちっこい話し方とは違って、あっさりとした消え方だった。


「……あ、やばい!」


 鈴花は突然、矢沢さんとの約束を思い出した。≪タマキヒロシ≫と話してる間に、時刻はもう10時をすぎていた。新宿東口のスタバで11時半に待ち合わせだから、急いで準備しなくっちゃ!

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