2 「欲情することはございません」

 突然の展開に、鈴花は枕元に向かって正座――という名の女の子座り――をして言ったが、声が裏返ってしまった。プーさんはいつもの場所に座り、いつもと変わらない表情をしていた。


「はい。昨夜の零時零分零秒ちょうどのことでございました。入浴中だった室井さまが、湯船にちゃぷんとつかりながら明快に次のようにおっしゃったのでございます。『ああああ――、痩せたいっ!』と……。ご記憶にございませんか?」


「そんなの、ぜんぜん覚えてないよ」

 反射的に答えたものの、それは咄嗟に口をついた嘘だった。


 年齢とともに、というかハタチをすぎた頃から、鈴花の体は確実にポッチャリ度を上げてきていた。体表の脂肪細胞たちは声もなく増殖し、狡猾かつ着実に付着エリアを広げて浸食しつつあった。痩せたい・痩せたい・痩せたいっ! この腹周りやお尻や太ももや二の腕に付着した贅肉どもを怒涛の勢いで根こそぎ削り落としてしまいたいっ! という鈴花の切なる願望は、洗面所の鏡に写る自分の裸を見るたびに倍増した。そして、そのつど『んああ――、痩せたい!』とか口走るのだ。呪うぞ、自分の体。


「では再度、もう少し詳細に描写いたしましょう。室井さまは昨夜の入浴中、まず髪と体を洗い終えてから湯船につかり、そのとき下腹の贅肉を両手でしっかと鷲づかみした姿勢になられて、『ああああ――、痩せたいっ!』と大々的におっしゃったのです。それはそれは切羽詰まった真剣な表情で、映画のレビューならば≪迫真の演技≫などと評されていたことでございましょう。その迫真の演……いや、真剣なご依頼がワタクシに届きましたので、こうして参上した次第でございます」


「ちょちょちょ……ちょっと待ってよ。ということは、あなたは入浴中の私を覗いたってこと? この嫁入り前の、清らかで美しい肢体を覗き見したの? このスケベ! 変態っ! 汚らわしいっ!」


 と、鈴花は枕を振り上げてプーさん目がけて振り下ろそうとした。が、その手を空中で寸止めして思いとどまる。――プーさんは、何も悪いことしてないもんね。


「見たか見てないか、という観点から申し上げますと……」

「……」

「確かに、拝見いたしました」

「ほら見たんじゃない。このド変態!」

「ですが、室井さま――」

「ですが、って何よ。変態のクセして気取らないでよ。変態!」


 鈴花は、口をとがらせながら徹底抗議した。乙女の裸を覗き見する奴なんて、金輪際許しちゃおけない。


「ワタクシについて詳細かつ正式にご説明いたしますと長くなりますので端的に申し上げますが、まずワタクシはあなたがた人間とは別種の生物である、という点をご理解いただきたく存じます。おそらく、室井さまは地球上の野生生物――キリンでもシマウマでもライオンでも何でもよろしいのですが、彼らがサバンナでのんびりと暮らしている姿を見ても何とも思いませんよね? 欲情したり、劣情をもよおしたりしませんよね? 野生の生物たちはすべて、なんと全裸で暮らしているというのに」


 鈴花は、ミョーに納得した。詭弁のようではあったものの、一応は筋が通っていたからだ。「キイ」と名乗る人物、じゃなくて存在のようなものは、さらに熱弁を続けた。


「プーさん――ワタクシが現在、諸般の事情により一時的に体をお借りしているこのプーさんにしろ、上半身こそネーム入りの赤いシャツに身を包んでおりますが、そのシャツはいささか異常といってよいほどに短く、しかも下半身には何もつけておりません。つまり、プーさんのこの状態を日本語で表現するならば、およそ半裸というか、ほぼ全裸に近い状態です。これは、いささか破廉恥と評価してもよさそうな状態の、あられもない姿でもあります。そのような破廉恥なものが、室井さまのように若く美しい女性のひとり暮らしの部屋に鎮座してるのは、いささか不用心かつ無計画かつ野放図のように思えます。なぜなら、このプーさんは毎日ここで室井さまの着替えも覗いていて、下着姿であろうが全裸であろうが――」


「ええーい、わかったわかった! みなまで言うな! 全部あなたの言うとおりだよ。降参、降参!」


 鈴花は、頬を真っ赤に染めながら言った。本気で恥ずかしかったから、本気で降参していた。これが格闘技なら秒殺だ。でも、それは本格的に下ネタが苦手だからであって、断じて「若く美しい」の部分に反応して降参したわけではなかった。


「ご理解いただけたようで、なによりです。以上申し上げたような理由から、ワタクシが室井さまの裸体を視覚認識したとしても、けっして興奮したり欲情したりするようなことはないのでございます」

「……ゼッタイに、ないのね? 欲情しないのね?」

「はい。断じて、欲情することはございません。ただし――」

「ただし?」

「室井さまの体についてのデータはしっかりと採集させていただき、スリーサイズをはじめとする全身のサイズはコンプリートいたしました」

「ぜ……全身のサイズを……コンプリート?」

「僭越ながら、鉄筋のコンクリートではありません。コンプリート、です」


「ちょちょちょちょ……ちょっと待ってよ。ということは、あなたはやっぱり私の入浴中の裸を覗いたんじゃない! この嫁入り前の、清らかで美しい肢体を覗き見したのよ! ああー、このスケベ! 変態! 汚らわしいっ!」

「……おや、なんと素晴らしい」

「な……何が素晴らしいのよ。話をずらさないでよ、この変態クマ野郎っ!」

「いえ。ですから何度も申し上げているように、ワタクシはキイです。現在、こうしてプーさんの姿をしておりますのは、一時的に体をお借りしているだけでございまして……」


「じゃあ、何が素晴らしいのよ。ちゃんと説明しなさいよ」

「さきほどのご発言です。『ちょちょちょちょ……ちょっと待ってよ。ということは、あなたはやっぱり私の入浴中の裸を覗いたんじゃない! この嫁入り前の、清らかで美しい肢体を覗き見したのよ! ああー、このスケベ! 変態! 汚らわしいっ!』とのセンテンスは、現在から数えますとジャスト178秒前を発端として発せられた『ちょちょちょちょ……ちょっと待ってよ。ということは、あなたは私の入浴中の裸を覗いたってこと? この嫁入り前の、清らかで美しい肢体を覗き見したの? ああー、このスケベ! 変態! 汚らわしいっ!』という言葉を一部のみ変化させたものでした。これは、室井さまの素晴らしい記憶力の賜物かと存じます。お見事でございます」


 そんなつもりで言ったんじゃない。でも、キイに指摘された点は本当だった。勉強は苦手だったけど、記憶力だけには自信があったから。――って、私は今ホメられたのか?

 このデジタル音声みたいな声だけの存在は、めちゃめちゃしゃくに障る。癪に障るけど、ちょっと気になる。鈴花はふと我に返り、とりあえず質問してみることにした。


「じゃあ、えっと、キイさん。ひとつ聞いていい?」

「はい。なんなりと」

「あなたは、人間じゃないのね?」

「左様です」

「性別はどっち? 男? 女?」

「どちらでもありません」

「年はいくつ?」

「わかりません。……と申しますか、ワタクシたちの世界には、人間でいうところの性別や年齢といった概念がないのです」


「それで、さっき≪コンセルジュ≫って自己紹介してくれたけど、それがあなたの職業ってことなの?」

「職業というより、使命のようなものとお考えください」

「……使命?」

「コンセルジュなのですから、ご要望にお応えするのが使命なのです」

「それで、私のどんな要望に応えてくれるって?」

「はい。さきほども申しましたように、『痩せること』です」

「ホントに、私を痩せさせてくれるの?」

「当然でございます。そのために、こちらに参ったのですから」


 ――なんて素晴らしい! 鈴花は飛び上がってガッツポーズして、体操のウチムラコウヘイみたいにムーンサルトで空中3回転したいぐらいに歓喜した。狂喜乱舞した。ムーンサルトはできないけど……ていうか、側転すらできないけど。


「いい、いい! それ、すっごくいい!」


 ――痩せられる! 私は痩せられるのよっ! ああ……なんという、たおやかな弦楽セレナーデのごとき甘美な響き……。このボテボテの贅肉たちとサヨナラバイバイして、愛しい矢沢大地さんの心もしっかりとつかめるのよっ! 待っててね、イケメン矢沢さんっ!


「じゃあ、キイさん。それ、ぜひお願いします。今すぐ、やってやって!」


 鈴花はなぜか息をハアハアさせながら、病院で手術を受ける患者みたいなつもりになって、ベッドに大の字になった。


「残念ながら、それはできかねます」


 しかし、キイは冷静な声できっぱりと言い放った。不思議なことに、デジタル音声みたいな声でも感情が伝わってきた。


「――え、やってくれないの?」

「ワタクシはコンセルジュであって、魔法使いではありません。魔法が必要な場合にはその道の専門家である、たとえばハリー・ポッターさまやハーマイオニー・グレンジャーさまのほうが適任のように存じます」

「じゃ……じゃあ……どうやって私を痩せさせてくれるのよ? この立派に波打つ贅肉を、どうやって取ってくれるのよ?」


 鈴花は、骨盤の上のあたりの脇肉をつまみながら訴えた。指先だけを使って、いまいましい脇肉をほんの少しだけつまんで。


「では、最初からご説明いたしましょう」

 キイは、自信たっぷりに言った。デジタル音声みたいな味気ない声のクセに、今度はミョーに説得力があった。

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