マルヌ會戰

第三十五話 ヒトラー、小モルトケと会談へ

『意識はここまでやってきました。のべてきたのは、自由の原理を実現していく主要な精神の形態です。世界史とは自由の概念の発展にほかならないのですから。……哲学の関心は、実現されてゆく理念の発展過程を、それも、自由の意識としてあらわれるほかない自由の理念の発達過程を、認識することにあるのです。……理性的な洞察力だけが、聖霊と世界史の現実とを和解させうるし、日々の歴史的事実が神なしにはおこりえないということ、のみならず、歴史的事実がその本質からして神みずからの作品であることを認識するのです』

                        ―ヘーゲル『歴史哲学講義』―

 

 ガタンゴトン。ガタンゴトン。

 特別手配された列車が、ゲーマルトを東から西へと横断しようとしていた。列車の中には一人の女と一人の男が向かい合って座っている。赤みがかった長髪の毛先を、クルクルと人差し指に巻きつけて女は嗤う。一方、眼鏡を掛けた金髪の偉丈夫はその様を微動だにせず眺めていた。女は髪の毛を触るのに飽きたのか、男に話しかける。

「ねぇ、ヒムラー」

「はい、何でしょうか総統閣下ヒューラ―

「あなたって運命を信じる?」

 ヒムラーは突然、ヒトラーに抽象的な議論をふっかけられて面食らった。なぜ、ここでこのような質問をするのか。質問の意図をヒムラーは察しかねた。

「……質問の意図がわからないのですが」

「では、質問を変えましょう。『世界史とは自由の概念の発展にほかならない』。この意見に賛同するかしら?」

「ヘーゲルの歴史哲学ですか」

「えぇ。ヘーゲルよ」

 ヒムラーは口元を拳で支え、眉間にシワを寄せて考える。

(ヘーゲルは歴史は弁証法的に発展すると考えた。止揚アウトヘーベンが繰り返され、いつか人類は『世界精神』へと至る……

 世界精神とは何か?それは恐らくではあるが、人類理性がたどり着く最後の終着点を指す。そこでは、人間は神と合一する。主観と客観は別個に存在するわけではない。主観と客観は関係で取り結ばれている。主観と客観、そしてその間を取り結ぶ関係。その三者から成る全体こそがヘーゲルにっての真理であった。つまり、我々が何かを認識するということは、主観と客観、そしてそれを取り結ぶ関係が生まれるので真理を知覚していることになる。

 まとめれば、意識が主観と客観、その間の関係を通じて弁証法的に上昇していく過程は神=絶対者=真理が主観と客観、その間の関係を通じて意識に下降してくる過程ということになる。まさしく、『精神の現象に関する学Phänomenologie des Geistes』という訳だ)

 うーん、とヒムラーは唸る。ゲーマルト観念論の大成者であるヘーゲル。その思想は雄大で心が震えるものがあるのは確かだった。

(神はあらゆる事物から独立して存在する。故に神は自由である。人間理性と神=絶対者=真理の合一はつまり、人間理性が自由であることを意味する。

 つまり、弁証法的に発展する『世界史とは神=自由の概念の発展にほかならない』、ということになるわけだ。

 『理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である』。それはまさしく理性の凱歌だ。人類の歴史は理性の歴史。歴史が下るに連れ、人間は神=自由へと近づく。理性とは真理=現実であり、真理=現実とは理性である。現実全てを理性によって把握することが出来るであろうという確信。理性によって把握しうるものこそが現実であるという確信……)

「あら、案外悩むのね」

 ヒトラーは長い袖で口元を隠し、クスクスと嗤う。よっぽど悩むヒムラーを見るのが面白いのだろうか。その嗤い声はますます大きくなる。仕方がないのでヒムラーはそれ以上考えるのをやめ、自分の思いの丈をぶつけた。

「……私は、歴史とは一つの目的、つまり絶対者=真理=自由へと至る過程であると考えます」

 ヒムラーはなんとか答えを振り絞った。一応、大学を優秀な成績で出ているヒムラーは専門ではないとは言え、それなりの哲学的素養があった。知っているヘーゲルについての知識をなんとか継ぎ接ぎして答えた。

「教科書的な模範解答ね」

 ヒムラーの解答に何か気に喰わないところがあったのか、ヒトラーは冷たくそういった。

「大変申し訳ございません」

「いえ、私が意地悪をしたのが悪いのよ」

 袖をおろし、口元を露わにする。珍しく口元は引きつっても居なかったし、だからといって素面のままでもなかった。ヒトラーはどこか悲しげな微笑を浮かべていた。ヒムラーはそのようなヒトラーを見て心が打たれた。ヒトラーが悲しそうな微笑を浮かべているのも、謝るということも、ヒムラーにとって殆ど初めて見る光景だった。

(もしや、この質問は総統閣下の何か……何らかの根幹に関わる問題だったのではないか?)

 ヒムラーは直感的にそう思った。

「この質問。なにか大きな意味があるのではないですか?」

「……えぇ。とっても。大きな。本当に重要な問いよ」

「総統閣下は如何様にお考えなのですか?」

「考えと、答えは違うわ」

 ヒムラーはヒトラーの答えの意味がわからなかった。ヒトラーの答えは、まるで世界の秘密を知っているかのような口ぶりだったからである。

「私は、人類は神へと至る過程を歩んでいるなんて信じたくないわ」

「では実際のところ、人類は神へと至る過程を歩んでいるのですか?」

「本当に歴史は自由の発展の過程だと、ヘーゲルのように考えてよいのかしら?理性が推し進められたその先、人間は果たして存在すると思う?絶対者=真理=自由に近づけば近づくほど、人間は波打ちぎわに描かれた砂の顔のように消滅するではないかしら?」

「やはり、質問の意図が――」

「――わからなくて良いのよ。今はね」

 ヒトラーは素早く、冷たく、小さく呟いた。突き刺さるようなその一言は、ヒトラーがこれ以上の追求を拒んでいることを言外に表明していた。ヒムラーはこれ以上、この話題についてヒトラーと話すことをやめた。なんとか会話の糸口を探そうとして、別の話題をヒトラーに振る。

総統閣下ヒューラ―。ところで、リュクセンの大本営に何をしに行くのですか?」

「そういえば、言ってなかったわね」

 ヒトラーはあっけらかんと言ってのける。先程の重たい空気は流れ映る車窓の中の風景に吸い込まれて消え去った。

「モルトケに、西部戦線から東部戦線に兵を送るのをやめてもらいに行くのよ」

「それは、閣下が手塩にかけて育てた自動車化歩兵部隊が壊滅したことと何か関連があるのですか?」

「本当はこんなことするつもりじゃなかったんだけど、どうもそうは言ってられないみたいでね。不確定要素が不確定要素を呼び込んでしまった。綻びは直さなければならない」

「しかし、西部戦線から東部戦線に兵を移すというような情報は未だあがってきてませんが……」

「だって、それ。今からの話ですもの。あがってこなくて当然よ。参謀総長は今から東部に兵を必ず送るわ」

「なぜ、そう言い切れるのですか?」

「東部には昔ながらの貴族ユンカーの荘園がたくさんある。貴族の多くは官僚や軍人の中枢にいるわ。ルーシア軍が自分の領地を荒らそうとしているのに黙っている貴族はいない。彼らはモルトケに圧力を加えるでしょうね。斯くて、気の弱い参謀総長は東部に増援を送らなくてはならなくなる、というわけよ」

「なるほど……」

「そもそも、東部には今更増援を送った所で間に合わない。シェリーフェン・プランの根幹を揺るがしてまで、西部戦線から戦力を抽出すべきではないわ」

「しかしながら、総統閣下。我が党の支持基盤はまさに中堅貴族達です。彼らの権益を脅かす提案を軍部にするとなると、相当な反発があると思いますが……」

「大勢に影響はないわ。大不況後、『あの民族』の金融資本網に辛酸を舐めさせられた彼らは、反『あの民族』の姿勢を崩さない限り私達を支持し続けるでしょう。それに、東部戦線に心配はいらない。後でお釣りが来るほどの戦果を上げることになるから」

「……なぜ閣下はいつもそんなに自信をもって断言できるのですか?」

 ヒムラーはいつも疑問に思っていた。ヒトラーの先を見通す力は一体どこから湧いてきているか。ヒムラーはそれがわからなかった。それは人間業ではなかった。抽象的な観念論の形を取れば、哲学者や思想家が未来のことを言い当てることは往々にしてある。しかし、具体的な事実の形で未来のことを寸分違わず言い当てるのは人間には不可能に思われたのだ。

 ヒトラーは突如この国に現れ、瞬く間に人心を掌握した。政界に躍り出た後も、機を見て党勢を拡大した。先手先手を打って旧来の支配者層を切り崩し、そしてナチスを文字通り、有史以来初めてと言って良い「大衆政党」に仕立て上げた。ヒトラーの手腕は、まるでどこかでそれをやっていたかのような手慣れたものであった。

「私には秘密があるのよ。そう、人には言えない大きな秘密が。どうか信じてヒムラー」

(なっ……!!)

 ヒトラーの答えを聞いてヒムラーは驚いた。そして、ヒムラーは軽い気持ちでそのような質問をした自分を責めた。ヒトラーが直截にそのような事を言うとは思わなかったのである。『信じて』。そのような、弱気な発言はヒトラーのする所ではなかった。ヒトラーは常に周りを振り回し、そして常に周りはそれに着いていった。唯々諾々と、文句も言わずにヒムラーたちは着いていった。それだけに、ヒトラーのこの一言にヒムラーは驚き、そしてそのような発言をヒトラーにさせてしまった自分を恥ずかしく思った。

「いいえ、総統閣下。そういうつもりでいったわけではないのです。私は全身全霊閣下についていく所存です」

 急いで取り繕う。ヒムラーは自分の忠誠が些かも揺らいでいないことを弁明した。

「ありがとう、ヒムラー」

 ヒムラーはこの一言にも驚く。『ありがとう』。そのような一言を、ヒムラーはヒトラーから殆ど聞いたことがなかった。先程の抽象的な質問といい、この弱気な一言といい、今日のヒトラーはいつもと違って見えた。ヒムラーは調子が狂ってそれ以上は追求せず、ただ平身低頭するだけであった。

 キキーーーッ。汽車が大きな音を立てて駅についた。

「あら、着いたようね」

「はい総統閣下。大本営が置かれているリュクセンです」

「では、参ろうかしら」

「アポは取ってませんが……よろしいのですか?」

「私を追い返せるほど、モルトケの精神は図太くないわ。それに参謀本部の実務を取り仕切る中堅士官は殆ど我々の息がかかっている。心配しなくとも、小心者のモルトケは私達と会わざるをえないわ」

 カラカラとヒトラーは嗤う。親衛隊の護衛を引き連れて二人はプラットホームに降り立った。

「さて、まずは参謀本部を探さなくてはね」

「大まかな位置は既に掴んでいます。接触さえ出来れば、後は流れるままモルトケに会えるでしょう」

 

 斯くてヒトラーはヒムラーと共にリュクセンに降り立った。当日中に彼らは参謀本部に詰めている党員の伝手でモルトケとの会談にこぎつける。果たしてモルトケの説得に成功するのか。

 『マルヌ会戦』の趨勢を左右する決断が行われようとしていた。

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