第三十二話 シャルルロアの戦い・モンスの戦い 4/5

『神は我らと共に(Gott mit uns)』

        ―プロイセン王家ホーエンツォレルン家の標語、ドイツ軍の紋章―


「一体、なにが!!なにが起きているのだ!?」

物憂げな司令室に響くはしゃがれた男の声である。男の名はアレクサンダー・フォン・クルック。ゲーマルト軍最右翼に位置する第一軍を預かる指揮官であった。

「そ、それが……前線部隊との連絡がつかず……」

クルックの詰問に、しどろもどろになりながら第一軍参謀長クールは答えた。

「そんな莫迦な!徒歩でもなんでもいい!!早く軍団と連絡を取って指揮を回復しろ!!」

「それが、師団級の司令部は既に指揮機能を喪失しておりまして……」

「なっ…なに……?何を言っているのだ?」

「……言葉の通りの意味であります、クルック大将閣下。軍団司令部は健在です。しかし、その下にある師団司令部は指揮能力を喪失しているのです。師団司令部と旅団や連隊との連絡が……いえ、正しくは旅団や連隊の司令部がそっくり蒸発しているのです」

「…………」

――沈黙。クルックは禿げかけた頭に手のひらを載せ、沈黙した。

ゲーマルト軍第一軍最高指揮官。その称号が意味するものは重かった。シェリーフェン・プランの成功にはガリア軍を包囲するのが必須である。そして、ガリア軍を閉塞するためには大きな弧を描くように進軍しなければならない。それは必然的に右翼に対して大きな負担を強いるものであった。大きな円を描こうとすれば、それだけ円周は長くなる。最右翼、つまり円周に位置する第一軍が如何に早くガリア軍の後背を突けるか。そして第一軍が予想される反撃に耐え得るかがシェリーフェン・プランの成功を左右するのであった。

勿論その重要任務を一手に引き受ける第一軍最高指揮官は、ゲーマルトが誇る優秀な指揮官の中でも最も経験が豊富な指揮官が充てられることとなった。そして、その任にあてられたのがクルックである。普我戦争の参加経験を持つ老練な指揮官がこのように取り乱すのは、よっぽどの事態が起きたことを意味していた。クルックは考える。

(旅団、連隊司令部が蒸発?確かに戦場において常に部隊間の連絡が取れるとは限らない。しかし、それにしても限度がある。このご時世だぞ?電信が普及している現代でそのようなことが起きうるのか?)

「……クール参謀長。師団司令部は実質的な指揮能力を喪失しているのだな?」

「はい、そのとおりであります」

「蒸発というのは、つまり旅団、連隊司令部が消滅したとの認識で良いのだな?」

「はい、閣下。前線でブリタニア軍の反撃が開始されたとの報告の後、連絡が取れなくなったようです」

「蒸発したのはどこの司令部だ?」

「こちらでも情報を精査しておりますが、取り急ぎ第三軍団のゼークト参謀長が緊急で収集した情報に依ると、第三軍団では歩兵第五師団麾下自動車化歩兵第九旅団司令部が蒸発、同麾下野戦砲第五旅団が殲滅、同麾下魔法兵第七旅団が全滅です。第四軍団に至っては歩兵第七師団司令部と連絡が取れないようです。率直に申し上げますと、前線の指揮は殆ど崩壊しております」

「……兵はまだ戦っておるのかね?」

「前線では第三軍団がゼークト参謀長の奮戦でなんとか組織的抵抗を維持しておりますが、第四軍団は殆ど敗走していると言っても……」

クルックはため息をついた。ありえない事態であった。なぜなら、報告のとおりだと自軍は壊滅判定を受けてもおかしくはなかったからである。

「戦線は崩壊しているのか?」

「はい、そう見るしかないと思われます」

しかしクルックは、戦線崩壊とまでいうのは何か引っかかるものを感じた。

「……そんなことがあり得ると思うか?この短期間に欧州の軍事大国である我がゲーマルトの第一線級の我が部隊がここまで為す術もなくやられると思うか?」

「……報告を読む限りはそう見るしかないかと」

(――いや、やはりおかしい)

クルックは直感ではあったがそう思った。盤上で戦線は崩壊していた。しかし、この短期間で戦闘部隊が壊滅していると考えるのは現実的ではなかった。

(なにかが、何かがおかしい。考えろ。なにかあるはずだ)

違和感。クルックの鼓動が早くなる。身体が何かを訴えかけてくる。

(……まさか、実は司令部だけが蒸発して、戦闘部隊は生き残っているのではないか?)

積み重ねられてきた彼の勘が事実の一端にたどり着いた。しかし、その事実は積み重ねられてきた経験で否定される。

(いや、そんな馬鹿なことはない。司令部だけを狙い撃ちするなど人間業ではない)

その通りだった。司令部だけを蒸発させるのは『人間』業ではないのだ。クルックの直感的な経験から導き出された正しい答えは、知識的な経験によって否定されたのである。しかし、第三軍団のゼークトから寄せられた次の報告がクルックを正解へと導くこととなる。

「クルック大将閣下。別の報告です。送付主は第三軍団のゼークト参謀長からで、『第三軍団歩兵第六師団麾下自動車化歩兵第十一旅団司令部蒸発』とのことです。それと、気になる次の報告も添えています。『第四軍団麾下魔法兵第七旅団ヨリ報告アリ。『敵ハ不死也』。羽羅起亞大王國ノ吸血鬼ト本官ハ愚行ス』。」

「……なるほど。わかったぞ!!そうだ、奴らだ。人間でないなら納得がいく!!でかしたぞゼークト中佐!!君の推論は正しい!!」

司令部を蹂躙するなどという離れ業をやってのけるのは人外しかありえなかった。欧州の最古参。生ける伝説。十字教の尖兵。異教徒の防波堤。異端にして守護者。最強の亜人間種。『吸血鬼』が遂に西欧州に姿を見せたのだとクルックは確信した。

「しかし、誤報戦場伝説という可能性も……」

「いや、これしかあるまい。総員に通達しろ。『全軍撤退』。戦線を引き直す。奴ら相手に指揮が混乱してしまっては出す手も出せない。魔法兵と騎兵を全て出して散り散りになっている部隊に知らせろ」

「よろしいのですか?ここでの停止は作戦の根幹に関わりますが……」

「良い。ここで第一軍が烏合の衆と化す訳にはいかない」

即答だった。クルックは経験からここで一度撤退することを選んだ。混乱した状況下で進軍するのは自殺行為のように思われたのだ。歩兵、砲兵、騎兵、魔法兵の統合運用こそが近代戦争の要諦である。オラニエ公から営々と築かれ、ナポレオンで頂点に達した伝統的な戦術を彼は熟知していた。

「参謀総長殿がお認めになるかどうか……」

「構わぬ。参謀本部との通信は途絶えておる。私の独断だ」

「……了解いたしました。第一軍全軍に停止命令を発布します。前線に出ている第三軍団、第四軍団には全魔法兵と全騎兵を使って命令を伝えます」

「あぁ、頼んだ」

クルックは命令を伝え終わると、椅子に深く座った。眼下の地図を見て思案を巡らす。

(我が第一軍が仮にここで、進軍を中止したとしても左隣で進軍中の第二軍・第三軍がシャルルロア方面に居ると思われるガリア軍を粉砕するだろう。そうすれば眼前のブリタニア軍は退かざるを得なくなる。人外共も流石に退くだろう。しかし……)

クルックはまた大きなため息を付く。手に汗が滲んでいくのがわかった。

(我が第一軍の先鋒部隊の司令部が蒸発したということは将校の大量喪失を意味する。なんとか通常戦力は立て直すことが出来るだろう。しかし、自動車化歩兵はもう使えなくなった。自動車化歩兵の訓練プログラムは一部の将校しか受けていない。自動車化歩兵の指揮を執れる人員はこれで消滅したのだ)

軍隊のような高度な組織を規律するには指揮官が必要不可欠である。そして、指揮官というのは誰もがなれるものではない。小隊長レベルなら一兵卒でも場合によれば可能かもしれないが、それ以上になると専門的な教育が必要だった。専門技術を有した人員の大量喪失。それは組織にとって致命的な打撃であった。特に自動車化歩兵の指揮には、専門技術の中でもさらに特殊な専門技術が必要である。走行可能な道路の確保。各種整備品とガソリンの補給。他兵科との連携。それらをすぐにやってのける逸材は中々存在しない。

軍隊。否、組織にとって重要なのは逸材ではなく、教育された大量の『人材』である。才能ある人材ではなく、画一的な教育で成形された人材。独創的よりかは平均的な人材。そういった人の喪失は、代わりがいない場合は組織を死に至らしめる。

(……機動力を失った我軍が果たしてガリア軍の後背を突けるのだろうか?フランドル軍が補給路を荒らし回ったせいで思ったより補給は改善されていない。逼迫しつつある補給状態で、我軍は進軍を続けることができるのだろうか?)

クルックの脳内を疑問符が駆け巡る。答えは開けてみなけれわからない。それは分かってはいた。しかし、その疑惑はどうしても彼の頭をもたげる。

(我軍は多大な戦力を喪失した。このままいけば隣の第二軍との間に大きな隙間ができてしまうかもしれない。その隙間に、万が一でも敵が侵入してきたら……?)

それは最悪の可能性だった。第一軍と第二軍の間に優勢な敵が侵入すれば、第一軍が孤立する。つまり、第一軍が包囲されるのだ。それはシェリーフェン・プランの失敗を意味する。

(どうかその段になって、吸血鬼共が隙間に侵入してこないことを祈るよ)

クルックは目を閉じ、手を組んで神に祈る。『神は我らと共に』。その小さな呟きが果たして聞き届けられることになるのか。一人の老人に折り重なる歴史はどう動くのか。運命は残酷である。

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