寝床

K

第1話 今年の夏

夏の朝というのは、どうもいけない。六時半に目を覚ましたとして、身じたくをし、朝食を取り、顔をあらい歯をみがき、鞄をかかえて外に出ると七時過ぎという計算だが、それでも間に合わない。七時過ぎるころにはもう、世界じゅうすみずみまで明るい。たとえ光量や気温はまだまだ上昇の過程にあるとしても、すでに空気はぎとぎとしはじめている。無理矢理早起きをしているのに早朝を味わえないというのは、夏の欠陥と言える。


眠気に目が半びらきのまま、自転車をこいでゆく。細い路地の両側からあおあおと波打つ田んぼの稲が迫ってくる。山の向こうから入道雲が噴き出して、空にのたくっている。げんなりする。なつはよる。で、今が七時。日が暮れるまで、まだあと十二時間。


しかし、脳が覚醒していく途中で一つの情景が浮かび、それは五分後、大きく放射線を描く高架橋を渡りきったところで現実目に映るものであることにやがて思い至り、ようやく、夕暮れまでを乗り切る気概のようなものが湧く。


古びたアパートである。一階には申し訳程度の庭がついており、そのいちばん西側の部屋の柵に、朝顔がいきおいよくつるをはわせている。満開の花弁は目の覚めるようなあおむらさきだ。そのむこうで、今日も洗濯物を干している、シナ子さん。急勾配の橋を自転車でころげおちるようにくだりながら、もうその姿を見つけている。減速し、朝顔の庭に自転車を乗りつけると、ほわんと笑顔になる、シナ子さん。課外授業の開始が押し迫っているため何を話すわけでもないけれど、みぎひだりみぎ確認し、柵ごし、シナ子さんにキスする。すばやく、手際よい万引きのようにすばやく。シナ子さんは「やだー」と言って今さら照れる。九つ年上の彼女だけれど、やっぱり、ああ、かわいいなあと、胸をつまらせつつ名残惜しくも朝顔の庭をあとにする。何しろ時間がないのだ。私はウォークマンで英語の例文を聞き流しながら残りの道のりを急いだ。唇をいく度も舐め、口づけの余韻をしつこく味わいながら。




課外授業開始五分前、教室の空気は張りつめている。それぞれ参考書をめくったり、幾人かで頭をつき合わせて問いを解いたりと色々だけれど、皆一様に、時間を一秒も無駄に出来ない、といった気構えで、教室を緊張させている。


先ほどまでの浮かれた気分を持て余しつつ、私も受験生の群れに収まる。隣の席の篠田に目をやると、彼もまた熱心に英単語帳をめくっている。まわりの友人たちとおはようと言いかわす中、篠田だけは集中を解かない。聞こえていないらしい。肩をつついて「おはよう」と言うと、夢から覚めたみたいな顔で「あ、おー」とだけ返事をした。先生が教室に入ってきて、授業の開始を告げた。


数ⅢCの教科書を開きながら、篠田の集中力について考えた。篠田は、月曜日の帰宅途中にジャンプを貪り読む中学生のように、英単語帳に魅了される。篠田の集中力は尋常ではなく、一度何かに取りかかると、文字通り、周囲が目に入らなくなる。三角すわりをしてテレビを見ている篠田を振り向かせるには三度肩を叩かなければならないし、本など読んでいる場合には、正面にまわり両手で肩をつかんで揺すってやる必要がある。そういう時、篠田はとくべつ不機嫌になったりはしないが、あきれるくらい呆けた表情をする。ぼうっと遠くに目を遣っていた後で急に間近に注意を戻す時のように、彼は現実に焦点を合わすまでに数秒を要するのだ。それが表情に映りゆくのが得も言われずおもしろく、私はよく篠田の集中を中断させるのだが、だいたい放っておけばいつも何かに気を取られているのだし、声をかけなければ後になって拗ねるので彼に迷惑がる権利はない。


先生がチョークを走らせ黒板に複雑な図表を滑らかに描いていく。篠田は憑かれたようにその図表を書き取っている。私はと言えば、フリーハンドで描かれる整った湾曲に思わず見入っている。もともと、あまり集中力が持続する方ではない私である。





そういえば、シナ子さんの家で林檎をむいたことがあった。普段台所に立ったりしない私も、シナ子さんの頼みとあらば、林檎の皮くらい、むくこともある。

 

今年の梅雨は妙に冷え込み、雨がつめたくてシナ子さんはかるい風邪をひいた。

「この前衣替えしたばっかりなのに、間が悪いったら」

ニットのカーディガンをはおった彼女は、部屋が散らかっている言い訳をしながら私を中に引き入れた。私にまつわりついてきた冷気のせいか、彼女はこんこんと少し咳き込んだ。私が冷えた手を伸ばすと、それを引きとり自分の額に押しあてて、つめたあい、気持ちーい、と言ってはしゃいだ。微熱のある人特有の浮かれかたも可愛かった。大した風邪ではなかったけれども、俄然、甘やかしてあげたくなり、私は尋ねた。

「何か手伝って欲しいことない?」

するとシナ子さんは、少し考える顔になった。シナ子さんの仕事。主婦であるシナ子さんの仕事は、掃除や洗濯や、夕飯の支度。それから、散らかった冬物を再びクローゼットにしまうこと。床に広げられた季節はずれの衣類の中に、メンズのモスグリーンのセーターを見つけ、私は、む、と眉根を寄せた。


シナ子さんと、目が合った。困った、悲しい目をしている。


これは、いけない。気まずい沈黙がはじまる前にと、あわてて私はシナ子さんの首すじにキスした。二人の間にいごこちの悪い空気が流れそうになると、いつも私が、電光石火の勢いでそれを修正する。私よりいくぶん年上のシナ子さんの方がその役割を担いそうなものだし、もっとスマートなやり方を知っていそうにも思うけれど、シナ子さんにそうする隙も与えない素早さで。もしかすると、シナ子さんはそんな些細な亀裂を屁とも思わず、大ゲンカだっていとわないタイプかもしれないけれど、試したことがないので分からない。私はケンカをするのを怖がっているわけではないし、その先に別離があると単純に結びつけるほど安直でもない。ただ、とかくとにかく、シナ子さんをめためたに甘やかしたいのだ。

「つめたいものとか、食べたくない?」

私は彼女のほほを手のひらで包んで尋ねた。そうすると、二人の身長はとんとんなので、目線がぴったり重なる。シナ子さんはほほをゆるめた。

「林檎むいてほしい」

そうして、私は自宅でだって寄り付かない台所に立ったのだった。そこはシナ子さん一人の領分なので、二人を邪魔するものはなかった。


林檎をまるごと一つ、皮がちぎれないようについついむいた。細さの不安定な皮は、それでも辛うじてひとつなぎのまま、シナ子さんによって磨き上げられているシンクに着地した。はじをつまんでびょんびょんと上下させ自慢して見せると、シナ子さんは「意外ー」などと心外なことを言う。見てろとばかりに二つ目に取りかかったけれど、半分もむかない内に飽き、飽きたな、と自分で思った途端、皮がぷつりとちょんぎれた。

「あ、」

私は眉をひそめた。シナ子さんが笑って言った。

「千花ちゃんの集中力は、林檎の皮むき一個分ね」


という訳で、私の集中力は林檎一個分程度なのだった。


ふと我に返り隣の篠田に目を遣ると、彼はすいこまれそうな顔で脂ぎった中年男子教諭の言葉に聞き入っている。そんな目で見つめられたら、この子は自分に恋焦がれているのでは、と先生も勘違いしてしまうのではなかろうか。一方実際恋をしている私は、どう転んでも思考と記憶のベクトルがシナ子さん周辺に向いてしまう。何しろ集中力の持ち合わせが林檎一個分なので、受験生の身上、これはたいへん厄介な問題であるといえる。





授業は三時きっかりに終了した。帰り支度をする受験生の鞄は重い。学校でも家でも勉強するので、常に参考書の類を一揃え持ち帰りするのだ。大量に持って帰っても全ての教科に手をつけるわけではないのだが、もしかしたらこれもやるかもしれない、時間が余ったらあれもやっつけてしまおう、と欲を出すから、たちまち鞄はぱんぱんになる。私は一週間のスケジュールを綿密に組み、忠実にそれを実行するので荷物は最低限に抑えられているが、隣で荷造りをする篠田は馬鹿みたいに鞄をふくらましている。

「そんなに持って帰っても、しょうがないじゃん」

私がそう言っても、

「ないよりあったほうが、いい」

ともくもくと荷物を増やしている。さらに篠田は、英和辞典も和英辞典も古語辞典も、さらには広辞苑まで持ち帰っているのだからその量は尋常ではない。

「いい加減、電子辞書買えば?」

「あれ嫌いだから」


篠田は理系のくせにアナログ人間である。しかし大荷物をものともせず、篠田はその広い肩に鞄をしょって、馬鹿じゃねえの、と毒づく私を追いこしさっさと教室を出ていった。腹立たしい。私も大股で歩いていって横に並んだ。

学校のうす暗い昇降口は、生徒の汗と夏の湿気で臭気がこもっている。私はシャツのボタンをひとつよけいに外した。背の高い篠田の目線が落ちてくる。

「見えてる」

「勝負下着」

シャツの胸元を広げ見せびらかす。

「茶色が?」

「チョコレート色って言ってよ」

「誰の趣味?」

「シナ子さん」

私は照れて、はだけた衿元をぎゅっとつかんだ。今度は篠田が、馬鹿じゃねえの、と言った。また私を置いてゆく。入り口に天窓から陽の光がおち、ほこりがきんいろの柱を作っている。その中を、篠田の長身がすり抜けていった。なんだか壁抜け男みたいだった。


篠田に追いつき外へ出ると、すかんぴんに晴れた空が上にあって、やや目がくらんだ。なれるまで数秒、目をつむって待つ。じょわじょわと蝉の鳴き声がうるさい。一瞬、学校を囲んで繁る葉桜の枝一本いっぽんが悲鳴をあげているように錯覚した。私が目を開くのを待って、篠田は「行くか」と言った。


私の自転車に二人乗りして、篠田の家に向かう。

中二の時同じ学校に篠田が転校して来てから、定期的に私は篠田の家に入りびたっている。入りびたっていないのは、篠田に恋人がいる期間などである。別に毎日彼女と会ってるわけじゃないんだし、千花がいてもいなくてもかまわないじゃん、と彼女が出来るたびに篠田は言うが、さすがに体裁と言うものもあるし、第一彼女の気持ちも考慮するべきであると、私は何度彼の無神経を諌めたか分からない。


篠田は女子の間で、一応もてる男に分類されていた。だからまあ、引きも切らさずと言うほどでもないが、彼女のいる期間というのが細切れに、年に二、三回はやってくる。身ぎれいにすることの重要性を知っていてそこそこ顔のいい男の子の誰かが、子どもの群れの中で回りに先がけ自分を磨く術を身につけている女の子の誰かに、恋をするのはわりあい簡単なことだし、その逆も同じだった。そういうふわふわした恋愛に篠田は熱中する。私もそんな躁状態の彼の話を聞くのは好きだ。


しかし、鉄の集中力を誇る篠田であるのに、長続きしたためしがなかった。ふわふわの上澄みをあまさずすくい取ったら、彼の恋はいつもおしまいになってしまうのだった。篠田が冷めてしまうこともあれば相手に愛想を尽かされる場合もあり、いつのまにかフェイドアウトというのも少なからずあった。とは言え十中八九、一つのことに取り組むと他のものが目に入らなくなる篠田の性格が、破局のおもな原因だと思われる。


それでも篠田は、それなりの評判を維持した。彼の集中力はセックスの際も、如何なく発揮されているらしかった。篠田と付き合っていた子は、その点だけはみんな手放しでほめた。そうだよなあ、あの集中力だもんなあ。それに、きれいなからだしてるし。体力あるし。たまに想像をめぐらせて、篠田の彼女をうらやましいと、思ったりもした。しかし、相手は篠田、この、篠田、と考えると、どうにもふわふわした感情の浮かびようがない私だった。


篠田の両親は共働きで、九時前に帰る日はまれだった。それをいいことに、私は日が暮れるまでの時間を、たいてい篠田の家で過ごしていた。篠田の家は古い木造の一軒家で、小さくて、せまくて、あたたかだった。日当たりがとても良く、随分昔に買った本の表紙みたいに、家中が色褪せて見えた。

「コーラ飲む?」

鞄を放り出して茶の間の扇風機をさっさと独占している私に篠田が聞いた。

「のおおむううう」

 扇風機に向かって答える。からから回転する青い羽根が声音をふるわす。

「わあれえわあれえはー、うちゅう人だああ」

「うぜえ」

篠田がどん、とコーラのボトルとコップを卓袱台へ置いた。私はコーラに手を伸ばし、キャップを外した。しゅぽっ、といい音がする。コップに注ぐと、しょわわわわわーと細かい泡がはじけ散っていく。それを、右耳にあてて左耳をふさぐ。

「もう、この音だけで、げっぷがでそう」

「それ、コーラ褒めてんの?けなしてんの?」

「絶賛」

「よかったね」


それから黙って、二人して卓袱台に参考書を広げ、コーラを飲み、勉強に没頭した。扇風機だけが地味に音を立て続けて回転している。

篠田の家では、時間がゆっくりと流れる。それは決して負の意味ではなくて、時間が体内を通り抜けていくのが、一秒ももらさずに感じ取れる気がするのだ。たとえぼーっとテレビを見ているだけでも、昼寝をしていても、それは変わらない。篠田の家で過ごした分だけ、自分の中に何かしら蓄積されたことが分かる。それは本来微々たる進歩が積み重なって初めて自覚できるもののはずだけれども、その一日分の蓄積も、この家では感知することが出来た。


今日は一段と頭が冴え渡り、数式の山がずんずん切り崩せた。手が疲れて、不意にノートの外に意識が拡散すると、私はたんこぶを冷やすように、コーラの入ったコップを耳にあてがった。しょわしょわと泡がはじけるのを聞きながら、再び意識の焦点を数式の上に戻していく。そうやって、無理矢理思考に蓋をしているのだった。何しろ、シナ子さんのことを考え出したら最後である。数式どころではなくなって頭の中がシナ子さんでいっぱいになるし、そうなると勉強など手につかなくなってしまい、自転車に飛び乗ってシナ子さんの家まで全力疾走だ。

やがて日が落ち、手元が暗くなったので私は明りを点けた。ねえ、と声をかけると、篠田はぼんやりした顔を上げた。日が暮れたことに今気付いた、という顔だった。

「休憩すれば?」


すっかりぬるくなったコーラを二つのコップに注ぎながら、私は呆けている篠田に提案した。篠田は、うん、と素直に従い、古文の参考書を閉じた。私は勝手にテレビのチャンネルを回し、どうでもよさそうな番組を探した。どうでもいい、とは、篠田が集中しなくて済みそうな、と言う意味である。結局、天才テレビくんを見ることにする。


二人でおせんべいをばりばりほおばりながら、三十分くらいだらだら過ごす。私は、シナ子さんの話を篠田に聞かせてやる。

「今日の朝も会ってきたよ。なんか照れてて、かわいかったなあ」

「あ、そう」

「そういえばさ、シナ子さん、最近はあぶり出しの絵に凝ってんの」

 篠田が、何それ、と言ったので、私は説明を加えた。庭に咲く朝顔の花びらで色水を作って、絵を描くのだ。無地の落書き帳に二人で脈絡のない絵を描いて、台所のガスコンロであぶりだして遊ぶのが、最近私たちの間ではやっていた。

「なんか意味あんの」

「ないよ。描いてあぶりだしたら、捨てるし」

そこで篠田は、いつものように私に説教を垂れ始めた。受験生の分際で、色恋にうつつを抜かしているとは何ごとか、と。

「でも、勉強もしてるし、両立出来てるもん」

「それにしたって、相手を選べよ」

「選んでするもんじゃないでしょう」

「だって、人妻だろ?倫理に反するよ。ずりーよ」

私はうるせぇ、と毒づき、両手で耳を塞いだ。篠田の声が聞こえないように、古語の助動詞を唱える。る、らる、る、らる、す、さす、しむ。

「だいたい、千花の場合は、恋愛じゃないよ」

 篠田の声がやや冷静になる。るーらる、るーらる、すーさすしむ。

「第一お前、別にレズじゃないじゃんか」

 ず・じ・む・むず・まし・まほし。

「一種のマザコンだと、俺は思うけどね」

 私は、深々と溜息をついた。

「なんだよ、その態度」

 そして、篠田の頭をやや本気ではたいた。

「痛い!」

「篠田が泣くからかーえろ」

何すんだよとわめく篠田をほっぽって、私はさっさと篠田の家を後にした。


腹が立っていた。篠田の分析はおよそ見当違いであるが、もし当たっていたとしたって、恋愛の原因を分析しても、なんにもならないではないか。その渦中にいる者は、恋愛自体を味わうことで手一杯なのだから。火事に巻き込まれている最中に、その火の元を教えられたって、意味がない。

「るーらる、るーらる、すーさすしむ」


東の、山の向こうの空に、群青色がにじみ出していた。コウモリが三匹、シナ子さんの家の方角へ飛んでった。明日は土曜日だから、シナ子さんの家に行こう、と私は思った。




翌日は快晴だった。ベッドに降りそそぐ朝日はすでに充分鋭く、体を起こすのに一苦労だった。しかし一度立ち上がると惰眠への未練は断ち切れて、だんだん頭が回転し始める。それを促進するべく、冷たい牛乳とコーンフレークの朝食をとる。


私の家族は全員生活時間帯が違うので、朝食は各自で用意し都合の良い時間帯にとることになっている。兄が父の会社に就職した頃からこの習慣は始まったが、特に問題もなく定着した。父は昨夜の残り物を適当に食べて、誰より早く家を出る。兄は、出勤時間ギリギリまで眠り、朝は何も食べない。そして母は、皆が出払ってから起き出す。朝食がなんなのかは、そういえば知らない。


テレビをつけて、ニュースを流す。お天気お姉さんが、今日も全国的に晴れるでしょう、と、指示棒を振り回して高い声をはりあげていた。ふやけたコーンフレークを飲み込んで、ため息をついた。私は健康第一を信条としているが、暑いのも寒いのも苦手である。しかし、今日は土曜日で、課外授業のみなので午前中で学校がひける。シナ子さんとゆっくり逢瀬を楽しむことが出来るのだ。そう思うと、俄然やる気が湧いてくる私だった。


通学途中、いつものように、アパートの庭にシナ子さんの姿を探した。いつもなら、歌い出しそうな様子で、洗濯物を干しつつ私を待っている彼女なのに、今日は見当たらなかった。洗濯物も干されておらず、ところどころペンキの剥げた物干し竿が間抜けに視界を横切っているだけだった。朝顔の群れは、普段と同じく垣根から溢れそうに咲きこぼれていたけれど、彼女が不在ではそれは凡庸な田舎の風景でしかなく、足を止めて目を向ける価値などなかった。


どうしたのだろう。心配になって、自転車を止め、垣根越しに中を覗き込んだ。ガラス戸の向こうはカーテンが引かれたままになっている。風邪がぶり返したのだろうか。


その時、ばたん、と音がして、シナ子さんの家のドアが開いた。思わず振り向くと、出て来た人物と正面から目が合った。シナ子さん、と声がのどまで出かかって、すぐに引っ込んだ。出て来た人物は、立石サンだった。


立石サンはスーツを着て、右手に鞄を、左手に燃えるゴミの袋を提げていた。私と目が合うと、手の甲を使い器用に眼鏡を押し上げて、いぶかしげに目をこらした。私は慌てて目を逸らし、人様の庭を覗き込んでいた無礼をごまかすのも忘れて、彼の前から走り去った。


朝一番で、縁起の悪い人物に遭遇してしまった。いつもはもう出掛けてしまっているはずなのに。普段ゴミ捨てはシナ子さんがやっている。シナ子さんに、何かあったのだろうか。嫌な予感がした。


立石サンはシナ子さんが結婚している相手である。今年で三年、とシナ子さんは言っていた。兄の会社の同期でもある。前に何度か、顔を合わせたことがあった。私の顔を覚えていないといいのだけれど。




午前中は、まだるっこしいほど時間の経つのが遅かった。授業に専念できず、十五分置きに黒板の上の時計に目を遣っては溜息を繰り返した。気が緩んで脳裏にシナ子さんの像が浮かびそうになると、鬼のごとくに集中している篠田に意識を向け、彼の熱心な授業態度にのっかって再び教室に意識を戻すのだった。その癖、当の篠田とは一言も口を利かず、授業が終わるとすぐに教室を出た。


シナ子さんの家の窓には、朝と同じままにカーテンが引かれていた。息を弾ませ、私は乱暴に自転車を垣根に寄せて止めた。ハンカチで顔の汗を押さえながらドアの前に立つ。新聞の朝刊が郵便受けにささりっぱなしになっていた。くすんだ緑のペンキがところどころ剥げかかっている鉄のドアが、いつもより重たく感じられる。他人の来訪を拒絶するような気配が発散されていた。しかしその分、シナ子さんの在宅が不思議と確信された。


チャイムを鳴らす。キンコーン、と、いつもなら楽しげに響くベルが今日はいやによそよそしかった。そして、返事がない。何か良くないことがあったのだという、今朝の悪い予感がじわじわと胸に迫った。

「シナ子さん、あたし」

ドアの向こうに呼びかけた。彼女の心をおどろかさないように、低く小さめの声を出した。それでも返事がない。仕方がないので、ドアのわきに飾られているアロエの植木鉢を持ち上げた。シナ子さんは、今はもう平成の世だというのにそんなところへ合鍵を隠しているのだった。危ないよ、と注意しても、盲点なのよ、と言い張ってやめない習慣が今日は役に立った。


家の中は、薄暗かった。外が明るい分よけいそう感じられた。

「こんにちは、シナ子さん、入るね」

今日は一度も窓を開けていないらしく、空気がよどんでいた。そこへシナ子さんのつける香水の甘い匂いがまじり、家じゅうシナ子さんの気配が充満していた。しかし、入ってすぐのリビングに彼女の姿はなかった。いつもならソファーにこしかけて雑誌をめくったりして、私を待っているのだけれど。隣のキッチンにも彼女はいない。そこで私は、めったにのぞいたことのない寝室の扉を開いた。


寝室は、明り取りの窓が小さくあるきりで輪をかけて暗かった。黒々とした幅広のチェストと、背が高く本のぎっしりと詰まった書棚のせいで、窮屈で陰鬱だった。その中で、シナ子さんが泣いていた。チェストとベッドの間の狭い隙間に座り込み、ベッドに頭を押し付けて、えっえっ、とかぼそい嗚咽を洩らしていた。夏の間はそれがパジャマ代わりなのだろう、太ももまである長いTシャツから素足を投げ出している。どこへも行かない時でもきちんとおしゃれをしている彼女が、いったいどうしたと言うのだ。

「シナ子さん」

私は彼女の隣にしゃがみこんだ。シナ子さん、シナ子さん、と三回名前を呼んだところで、ようやく彼女は顔を上げた。目も鼻もほほも真っ赤で、涙と汗で髪が顔に張り付いていた。

「どうしたの?」

私が尋ねると、シナ子さんはまた、う、と悲しい声を洩らし、私の胸に縋りついた。私はぎゅっとシナ子さんを抱きしめた。肩の震えが止まり、呼吸が静かになるまで、そのまま背中をさすっていた。体が湿っていて、熱かった。甘い液体をひたひたに吸っているかのように柔らかく、重く、匂いたっている。その水のようなものは、もうすこし力をこめたら滲み出すのではなかろうかと思われた。

やがてしゃっくりのような嗚咽がおさまると、彼女は顔を上げ、私の唇を噛んだ。湿っぽい吐息で私のほほは濡れた。私はシナ子さんをそっとベッドに引き上げて腰かけさせた。シナ子さんはまだ少し泣いていて、私の顔を手のひらで包み、また唇を噛んだ。彼女の滑らかな舌が私の歯を撫でて開かせ、私の舌を導き出した。赤ん坊がおしゃぶりを離さないみたいに、彼女はひたすらに私のつばきを吸った。

目元に手をやってシナ子さんが完全に泣きやんだのを確認し、私は少し強引に彼女を引き離した。

「ねえ、何があったの?」

あらためて、私はシナ子さんのまんまるい目をのぞきこんで尋ねた。しかしシナ子さんは再び答えず、潤んだ目を伏せ、私のシャツのボタンを手早く外しだした。

「ねえ、ちょっと」

シナ子さんは私の呼びかけを無視し、ブラジャーを押し上げ、彼女の口づけでとうにかたく尖っていた私の乳首を噛み付くようになぶり始めた。


あっ、と、思わず声が洩れたのと裏腹に、一瞬、私は悲しかった。心臓をそっくり抜かれたみたいなひどい悲しみだった。しかし、ごまかされた、という単語が頭の中できちんと結ばれる前に、シナ子さんは私の感覚を一気に束ねて彼女の愛撫だけに傾けさせた。不甲斐ないことに、私の単純な肉体はあっさりとシナ子さんに巻き込まれ、すぐさま感情を飲み込み、手はもうシナ子さんのTシャツをまくりあげ彼女の肌を這っている。

ムモウノエキカ。

汗にまみれた腹の上に指を滑らせながら、口の中でつぶやいた。




その言葉が篠田の口から発せられた時、何のことかさっぱり分からなかった。去年の秋口である。篠田は可愛らしい一つ年下の女の子と交際を始めたばかりで、珍しく日々彼女のことだけにかまけていた。体育の授業中、校庭のフェンスに背をもたせかけ二人してバレーを見学していた時だった。お互い、球技は苦手である。

「だから、ムモウノエキカ」

 眉をしかめる私に、篠田は繰り返した。

「何、どういう字よ」

「吉行淳之介の小説で、そういう言い回しがあってさ」

「誰、それ」

「作家。有名な作家」

「でもあたし知らない」

「物知らず」

 私は篠田に砂をかけた。篠田はそれを無視して、地面に指で、無毛の腋窩、と書いた。それはおよそ昼間の校庭にそぐわなかった。

「女の、ムモウノエキカ、って言う一節」

 そこで篠田は可愛らしい彼女の名前を出し、今まで考えたことなかったけど、それを読んだ後で彼女を見ると、確かにそうだなーと思って、と、心底感心した声を出した。私は呆れ返ってしまった。

「篠田君、それは男の幻想というものです」

「え」

「確かに中にはつるつるの子もいるだろうけど、努力して処理してる人が大半でしょう」

「え」


まあその努力が世の美人を作っているのだけれどね、と私は続けたけれど、篠田はあくまで納得行かない顔で、それは千花だけなんじゃないの、と無礼なことを言った。次は正確に顔を狙って砂をかけた。




ムモウノエキカ。

妙な響きのその言葉を、シナ子さんと寝るたび私は思い起こす。彼女の腋の下は本当にすべらかで、乳房の次に柔らかい。少し乱暴に腕を伸ばさせて舐めあげると、微かな汗の味と、動物の肉体の匂いと、彼女の重い香水のかおりが混じりあって、私はいつもわけがわからなくなる。ムモウノエキカ。その言葉が浮かぶのが最後の合図で、全身が彼女を感覚するためだけの器官になる。私の口は無意識に言葉を紡いでいるが、それはもはやシナ子さんにじかに触れる指や爪や足や舌と同じく、直接に彼女の肌を撫でるものだ。


シナ子さんの首すじを滴る汗をたどり、舌は耳たぶにたどり着いた。丁寧なつくりの小さな耳を、音を立ててむさぼる。シナ子さんの銀のピアスが、私の歯にかちかちと当たっても、食べるようになめる。


シナ子さんが、ああ、と、身をしぼるように喘いだ。けれどもそこに若干の技巧を感じ、私はハッと息が詰まった。体をひいて、彼女の目を見つめる。シナ子さんはぼんやりしていて、視線が合わない。

「どうしたの」

と私は彼女の耳元に口を寄せてつぶやいた。あついため息を吐きつつもシナ子さんの目は伏せられたままで、遠くを見ているようなのだ。また、悲しさがせりあがってきた。しかしわけが分からなくなっている私にはもうなぜ悲しくなったのか見当がつかない。

「あたし、どうしたらいいの」

迷子の子のような涙声になる。

「いつもみたいにして」

シナ子さんはかすれた声で言い、手をまわして私の頭を生白い足の間に導いた。


私はおとなしく誘導され、いつもより丁寧に彼女の言葉に従った。シナ子さんは下着を着けておらず、柔らかな繁みを撫ぜて、拙い私の人差し指がそのままシナ子さんの中に分け入った。優しく幾度か突いたら、あ、千花ちゃん、と、今日初めてシナ子さんが私の名前を呼んだ。今しがた私がいるのに気がついたみたいな口ぶりだった。シナ子さんの焦点が私の方へ合わせられたのが分かった。シナ子さんが私の髪をぎゅっとつかみ私の顔を柔らかな太ももで強く挟み込んだ。指を引き抜き舌をいれる。小犬が鳴くみたいにシナ子さんは喘いだ。私は無理矢理太ももを押し開く。舌をかたくして、後ろから舐めあげる。シナ子さんは壊れたラジオみたいにかすれた声が止まらなくなった。ひざで立ち上がってシナ子さんの下半身を引きずり上げ、私のしていることが彼女に見えるようにした。シナ子さんは体を捩りながら声をあげた。


彼女の体液をすすりながら、それがだんだんあまやかになっていくのに私は安堵した。私たちのまわりの湿度が増してゆく。シナ子さんが私の名前を叫ぶように繰り返した。ちかちゃん、ちかちゃん、ちかちゃん。


よかった、やっと、シナ子さんもわけが分からなくなったんだわ。私は安らいで、彼女が達するまで、滴る液体を口に受け続けた。


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