第43話  第六巻 決意の徒 仕手

 一九九九年の正月は賑やかなものになった。

 故郷島根の浜浦で漁師をしている従兄の門脇修二が、大量の冷凍紅ズワイガニを送ってくれたので、森岡が昨年中断した新年会を自宅で催したのである。

 部長以上の役職に加え、英国勤務となった宇都宮と萩原を、送別の意味を込めて特別に招待していた。

 茜の姿もあった。彼女にとっても森岡と過ごす初めての正月であったが、その接遇には貫録を漂わせていた。茜に加えて、ロンドのホステスの中から八名が参加していたので、賑やかさの中に華やいだ色が加わった新年会となった。

 そしてもう二人、石飛将夫と鴻上智之も招待していた。幹部社員との親睦という森岡の配慮であった。

 石飛将夫の加入は、森岡が密かに描いていたもう一つの計画遂行に大きく寄与するものだった。

 その計画とは仕手戦である。

 仕手戦とは、株式相場において仕手と呼ばれる投機家同士が売り方と買い方に分かれて売買を繰り返し、利益を得ようとする状況のことをいう。能や狂言において、『シテ方』が役により面を被ることから、正体不明の存在として仕手という名が由来している。当然のことながら、巨額の資金が必要であり、とどのつまりは資金量の豊富な方が勝利する確率が高い。

 森岡は、総額で五百億円程度の現金を集める腹積もりだった。

 そこで、まずイの一番に松尾正之助の許を訪れ、百億円の借金を申し込んだ。担保はウイニットの持ち株である。森岡は七千株所有していたが、そのうちの三千株は上場時に売却する予定で、すでに関係各位と調整に入っている。したがって、森岡が自由にできる株数は残りの四千株であった。

 森岡にとってはなけなしの株であり、もし借金の形に取られてしまえば、ウイニットは森岡の会社ではなくなる。しかも、ウイニットの市場価値は、高騰したとはいえ、一株あたり三百万円程度であり、担保価値は百二十億円にしかならなかった。株式の担保価値は時価の七割から八割程度であるから、上場後のさらなる値上がりを見込んで、ようやく担保として有効といったところである。

 しかも、ブックメーカー事業資金として、すでに百億円を松尾から借り入れていた。世間の常識で言えば無茶な申し出であった。

 ちなみに、五百億円というのは他の一般的な仕手筋と比較しても多い方である。

 現金が五百億円あれば、投資額は一千億円から最大一千五百億円が可能となる。買った株を担保にして日本証券金融から資金を借りることができるからだ。これを信用取引といい、相場の過熱感により担保利率が決まっている。

 バブル崩壊後、株式相場は下落の一途を辿っていることもあって、現在の担保率は三十パーセントだった。つまり、単純計算で時価三百億円分の株式を担保にすれば、一千億円が借りられるということである。

 しかし、これには箍が嵌められている。六ヶ月以内に清算の義務があることだ。期日が来れば、たとえ含み損があっても決済しなくてはならない。また、借金しているわけだから当然利息が付く。手数料や金利分を上回る利鞘が稼げるかどうかということになる。

 そして最大の留意点が二つ。

 一つは、たとえば買い方に回った場合、株価が値上がりすれば担保価値が上がることになり、貸付枠は広がるが、値下がりして担保価値割れした場合は、『追証』といって不足分の担保を差し出さなければならないこと。売り方はその逆である。

 もう一つは、相場が白熱すると、一般投資家の保護の名目で過熱感を下げるため、保証利率の引き上げや一定の現金を求める措置が講じられるということである。したがって、ある程度の資金的余裕を持って相場に当ることが肝要だった。

 森岡は、松尾から百億円の融資を受ければ、それだけで最低でも二百五十億円程度の相場を張れると考えていた。

 松尾正之助の個人資産は、少なく見積もっても一兆円は下らないと目されていた。そのうち、七千億円は創業者の特権ともいえる自社株の時価総額である。残りの三千億円のうち、二千億円が土地と中心とした不動産、国債、他社株、金などで、残りの一千億円が現金だった。さしもの松尾にとっても、百億円というのは一割に当たる巨額なものだった。

「何に使うのか聞いておこうかの」

 松尾は瞑目したまま訊ねた。

「株式相場に手を出そうと思います」

 森岡は正直に言った。松尾相手に駆け引きは禁物である。

 松尾は首を捻った。

「なんぞ、金が必要になったのか」

 百億円を元手に相場を張ろうというのである。森岡がそのような大金を必要としているとは承知していなかった。

「いえ。金儲けが目的ではありません」

「なんだと?」

 珍しく松尾が瞠目した。株式相場に手を出しておいて、金儲けが目的ではない、とは道理に合わない。

「ほう、では買占めか。どこか手に入れたい企業でも見つけたか」

「いいえ。それも違います」

「うむ」

 と、松尾はさらに困惑顔になった。

「降参しよう。いったい、お前の目的は何かの」

「勅使川原公彦の資金を収奪したいのです」

「勅使川原公彦? 確か立国会の会長だったな」

「そうです」

 松尾は暫し沈思した。

「そうか。彼の金が今後も神村上人の妨げになるのじゃな」

「……」

 森岡は黙って肯いたが、これは嘘である。栄覚門主と勅使河原公彦は一枚岩ではなかったし、枕木山の水晶鉱脈が採掘されれば、栄覚門主が勅使河原を頼ることは無いと思われた。

 だが松尾に対して、坂根好之を拉致され、身代金を搾取された意趣返しをするのだとは言えない。

「それで、どうするのかの。勅使川原が売買している銘柄に相対相場を張るのか、それとも罠を仕掛けるのかの」

 松尾は冷たい目で訊いた。

 立国会及び勅使河原の個人色の強い宗教団体である勅志会が、その資産を株式で運用しているのは周知の事実だった。そこで、手掛けている銘柄の反対の相場を張る、つまり相手が買いであれば売り、売りであれば買いを手掛けるのである。しかし、それでは大きな損失を与えるまでには手間暇が掛かってしまう。そこで手っ取り早いのは『仕手戦』ということになった。

「仕手戦に持ち込もうと思います」

 森岡が決然と言い放った。

「勅使河原に仕手戦を挑んで勝てる勝算はあるのか」

 松尾の口調は疑念を含んでいた。それもそのはずで、立国会と勅志会を合わせたの総資産は、少なく見積もっても三兆円を上回ると目されていた。その大半は不動産価値であるが、現金と株式や債券といった現金性の資産も五千億円近くあった。

 むろん、いかに会長の勅使河原といっても、独断でその全てを仕手戦に投入することはできないが、二割の一千億円程度であれば可能と見なければならない。松尾からの融資に成功しても実に十倍の多寡である。仕手戦は、資金量の豊富な方が有利という常識に立てば無謀な挑戦であった。

「御懸念は重々承知しております」

 森岡は目を逸らさずに答えた。

「何か策があるようだの」

「まだおぼろげですが、会長に融資をして頂ければ、必ずや」

 勝利して見せると言った。

 森岡の目に決意の程を確かめた松尾が、

「わしは天真宗内の権力闘争になど全く興味はないが、お前には興味がある。とはいえ、わしも商売人じゃでの、損をするのが一番嫌いじゃ」

 と言ったところで厳しい顔つきに変わった。

「百億は貸してやろう。期限は、玉(ぎょく)拾いの時間もあるじゃろうから、そうじゃの、二年で良かろう。利息は年率三パーセントだ。ただし、期日までに返済できなかったときは、お前の身柄を三年間拘束する」

「……」

「三年間、わしとこで無給で働き、返済不足分を儲けさせろ」

 と言った松尾の顔が緩んだ。

「もっともお前のことじゃ、一年も掛からんじゃろうがの」

「承知しました。宜しくお願いします」

 森岡は立ち上がって深く腰を折った。

 玉拾いとは株の仕込みのことである。

 仕手戦を仕掛けるためには、一定数の『玉』、つまり株を手にしておく必要がある。しかし、いきなり巨額の資金で買い求めれば、株価は高騰するし、正体も明かすことになる。

 したがって、長い時を掛け、あるときは数万株単位、また出来高によっては数千株単位で地道に安値で拾って行くのである。

 松尾は秘書に命じて、松尾電機現社長の日下部(くさかべ)と常務の松尾正博(まさひろ)を呼んだ。

 正博は正之助の長男で、日下部の後の社長と目されている人物だった。

 会長室にやって来た二人に松尾が森岡を紹介した。

「この方が噂の森岡さんですか」

「松尾技研と業務提携する会社ですね」

 正博と日下部がそれぞれ言った。

「今後、宜しく御指導下さい」

 森岡は謙ってお辞儀をした。

「正博、わし個人の金、百億を彼に貸すことにした」

「そうですか」

 正博は少しの動揺もなく言った。

 彼は、父の破天荒な人生を知っている。桁外れの商売上手なのを知っている。また、滅多なことでは他人に金を貸さない、言わばケチな人物だということも知っている。その父が百億円などという大金をこの若者に貸すという。それはどういう意味なのか瞬時に理解したのである。

「担保はの、ウイニットの四千株じゃ。担保としては不足だが、返済ができない場合は高技術の会社が手に入る。悪い話ではないぞ。それに、彼には三年間無給で働いてもらうことで話が付いた」

「森岡さんが松尾電器(うち)で、ですか」

 日下部が驚いたように訊いた。

「そうじゃ。そこで君らに紹介したのじゃ。万が一のときは、森岡君を然るべき職に就かせ、大いに稼がせると良い」

「その折は、宜しくお願いします」

 森岡は深刻な顔つきで言った。

 松尾は、日下部と正博を退室させると、

「だがな、森岡君。わしとて榊原さんや福地さんの恨みを買いとうはない。何ぞ、困ったことがあったら、遠慮のう言うてくれや」

 と微笑みながら言った。

「御厚意、感謝します」

 と、森岡はただただ頭を垂れた。


 森岡は榊原壮太郎と福地正勝にも了承を請うた。榊原は大学生時代からの最大の支援者、福地はかつての岳父である。なによりも二人は持ち株会社の共同経営者なのだ。

 森岡は話を聞き終えて、榊原が真っ先に口を開いた。

「勅使川原の資金力が神村上人の邪魔になるのだな」

「はい」

「しかし、本妙寺の貫主の件は決着したのでは……」

 福地が怪訝そうに訊いた。

「福地さん、洋介はその先を考えているのですよ」

「その先?」

「どうやら、先々法主の座に上がらせたいようですな」

「法主? 在野の者は無理なのでは」

 ないか、と福地が言った。

「そこですよ。洋介はその難題に挑もうと考えているようですな」

「門主は、私以上の難関に立ち向かっています」

 森岡は栄覚門主の野望を話した。

「まさか、門主がそこまでの大望を抱いていたとはな」

 と憂い顔の榊原が、

「しかし、勅使川原と繋がっているのであれば、なぜ坂東貫主らに金をばら撒かなかったのだ。資金は無尽蔵だろうに……」

 と疑問も呈した。

「おそらく、金の力に頼らなくても勝利する自信があったのでしょう。むしろ、資金量を見せ付けると、久保や村田の背後に目が行くと考えたのではないでしょうか」

 森岡は、榊原と福地に対しても真の目的は伏せた。

「なるほどの」

「しかし、松尾会長がな」

 榊原が得心したように言い、福地は先のブックメーカー事業への百億円の投資に続いて、さらに百億円も貸し付けたものだと驚き入っていた。

「ロンドでの言葉は本気だったようですな」

「本気、と言いますと」

「茜さんへの遺産相続ですよ」

「なるほど、なるほど」

 福地は何度も肯いた。先の百億円は、茜への生前贈与の意味合いだと理解したのである。

「福地さん、感心している場合ではないですぞ。もし、洋介が返せなかった場合は、体良く宝を取られてしまうのですからな」

「それそれ……」

 と、福地は語尾を濁した。

――二百億や三百億程度であれば、わしでも何とかなる。

 心の中でそう決心していたが口には出さなかった。

「それで、わしらには頼らないのかの」

 榊原が不満そうに言った。

「お二人には、ブックメーカー事業に多額の出資をお願いしました。これ以上はご無理を言えません」

「洋介君、何を遠慮しているのだ。松尾会長のようには行かんが、三十億や五十億ならなんとかなるぞ」

 と、福地が言い、

「わしも、あと二十億ぐらいなら何とかなるで」

 榊原も勇んで言った。

 二人が提示した額は、共に個人名義の資産である。福地がその気になれば、松尾と同じ額は用意できた。何しろ味一番株式会社は、ここ三十数年間増収増益を続けている超優良会社である。

 一兆円を超える内部留保金の、約二割に当たる二千億円を余資運用に回していた。大半は株式と債権である。

 味一番は上場企業ではない。味一番研究所を介して、実質上発行株数の八十パーセントを福地正勝が所有している同族会社である。したがって、余資運用の差配などどのようにでもなる。もっとも、大きな損失を出せば全くの無罪放免とはいかないであろうが……。

「お気持ちは大変嬉しいのですが、それではもしものときに、肝心の持ち株会社が傾きかねません。僭越ながら、お二人はいざというときの保険として残しておきたいのです」

 と、森岡は本音を言った。

「まあ、洋介がそういうのなら、私たちは金以外のことで協力しましょうか」

 福地の言葉に、

「洋介のことだ。勝てる算段があってのことだろうからな」

 と、榊原も応じた。

「いずれ皆様の前で納得の行く計画を発表するつもりです」

 森岡は自信有り気に断言した。


 松尾正之助から融資の確約を貰い、榊原と福地から了解を得た森岡は坂根、蒲生、足立と共に石飛将夫を連れて島根半島の諸角へ飛んだ。坂根好之の実兄秀樹に会うためである。今夏、秀樹には森岡が考案した株式投資理論をプログラム化する仕事を依頼していた。

 森岡は秀樹に石飛将夫の紹介を終えると、

「システムは完成したらしいな」

 と訊いた。

「なんとかな」

 秀樹は安堵したように答えた。

 依頼したシステムの全容は、秀樹の技術力からすれば、半年分のボリュームだと森岡は目算していたが、彼はその半分の期間で完成させていた。帝都大学法学部卒が伊達ではない明晰な頭脳である。

「さすがだな」

 森岡は感嘆した。

「えんや、大したことではないが」

 秀樹は顔を赤らめた。

 いいや、と森岡は首を振った。

「大したもんやで。俺はな、時間より難易度の方が気になっていた。野島に確認したんやが、ほとんど助力しなかったと言っていたで」

「ちょっと難しかったが、マニュアルを参考にして何とかした」

「システム設計はな、ある程度知識がものを言うが、プログラム開発は感性が肝要なんや」

「おらには、そんなことまではわかしぇんが」

 と謙遜した秀樹は、

「それよりな、お前が考案した売買理論だが、俺なりに改良してみた」

 とパソコンのファイルを開いた。

「改良だと」

「勝手なことをしてすまないが、シミュレーションしてみたら、的中率、利鞘幅とも一割ほどアップした」

「どこを直したんや」

 森岡は、秀樹が開いた条件設定ファイルを見た。

「ここだ。出来高と終値の相互関係の係数を変更してみた」

 秀樹はパラメータフィルの数値を指差した。

「なんでわかったんや」

「俺も株式を学習しただが。そがしたら、元のシステムで弾き出される銘柄に疑問を抱いた。そこで係数を変更して、同じ銘柄をシミュレーションし直すと、株価上昇の場合はもっと早く買いシグナルが、もっと遅くに売りシグナルが出た」

 秀樹は株価推移グラフに、修正前と修正後の売買シグナルを重ねて説明した。

「そうか。お前は俺なんぞが足元にも及ばない頭脳の持ち主やからな。これぐらいは朝飯前やろ」

「そげではない。お前は俺なんかより遥かに優秀な男だ。第一、俺にはお前のような発想力はない。お前の理論をプログラム化する作業をしていて、中学時代にこんなことを考えていたのかと驚愕した。岩崎先生がおっしゃっていたようにお前は一種の天才だと思う」

「岩崎先生? 中学の担任の」

「先生は、お前は天才だと言っておられた」

 森岡は、中学入学早々に実施された知能テストで一四八という高数値を叩き出していた。だが、成績は最上位というわけではなかった。株式の研究に没頭していたため、自宅学習を全くしていなかったからである。

 当時は、インターネット技術がなく、今日のように証券取引所の銘柄、出来高、始値、最高値、最安値、終値といった種々のデーターがパソコンに取り込むことができなかった。ゆえに、森岡は新聞紙上から目星を付けた銘柄のデーターをノートに書き写して言ったのである。一つでも多くの銘柄に着目したいがため、勉強する時間など無かったというわけである。

 だが、森岡は中学三年生のとき本領を発揮した。臨時テストにおいて、帝都大学進学率全国一位の灘浜高校の入試問題が出題されたのだが、一人だけ抜きん出て高得点を獲得したのである。

 余談のついでに言えば、森岡の株式研究は社会に出てから大いに役立っていた。興味が湧いた銘柄は、会社四季報で徹底的に調べ上げたからである。得意先で担当者や幹部らと談笑の際、何気に会社の歴史や業績内容、株式構成まで話し始めるのだから、相手は恐れ入るという次第なのだ。むろん、事前に最新の情報と更新する作業も忘れてはいなかった。

 秀樹は弟を見た。

「なあ、好之。傍にいるお前もそう思うだが」

「社長が天才かどうかというより、人間力は桁外れだと思う」

「人間力か……。そげかもしれん」

 秀樹は納得の表情で肯いた。

「兄貴には悪いけど、勉強は兄貴の方ができたかもしれないが、人間力では社長に遠く及ばない。兄貴だけやない。この俺も未だ社長の器を量りかねている」

「島根県下に轟いた『諸角の坂根四兄弟』の金看板なんて、高が知れてちょうの。将来、この男は日本全国に名を轟かすのだらあな」

「兄貴、社長は日本なんてちっちゃい枠には収まらんかもしれんぞ」

「何かあるだか」

 秀樹が森岡を見た。

「まだ詳しいことは言えんが、厄介な事業を任されることになった」

 森岡は曖昧に言葉を濁すと、真剣な顔つきになった。

「それより、今現在の推奨銘柄を教えてくれんか」

「よし」

 と、秀樹は解析プログラムを実行させた。

 その間に、森岡は新しく投資顧問会社を設立し、秀樹を社長にする旨を伝えた。株式指南のサイトの運営と、森岡の個人資産の運用を任せる会社である。

「おらにできるだあか」

 秀樹は躊躇いを見せた。今夏、森岡から話を聞いて以来、自問自答を続けていたと告白した。

「いまさら、否はあかんで」

 強い口調でそう言い、

「まあ、心配せんでええ。お前の能力はこのシステム開発でも実証済みや」

 と肩を叩いたとき、解析プログラムが終了した。

 弾き出された銘柄は買いが五銘柄、売りが三銘柄だった。

 森岡はプリントアウトした用紙を石飛将夫に渡した。

「この八銘柄を調査してくれ」

 森岡は証券マン時代の人脈を生かし、石飛将夫に裏付け調査を指示した。その費用として一千万円を渡していた。

 石飛がかつて勤めていた丸種証券は、関西の中堅証券で仕手筋が利用する証券会社として名が通っていた。だが、懲戒解雇された手前、石飛が丸種証券から直接情報を探り出すことは困難だと思われた。そこで一千万円を元手に他証券会社の人脈を通じて情報収集を図ろうというのである。

 石飛が全額を弁済していたため、丸種証券は刑事告訴しなかった。身内の不祥事を隠匿したいがためであったが、いずれにせよ他証券会社や顧客には依願退職扱いとなっており、接触に障害はない。

「それとな、秀樹。五千万出すから、この家をバリアフリーに建て替えろ」

「なんだって?」

「建物だけだったら百坪の家が立つやろ。建物は新会社の名義にして、登記をこの家にするから、三十畳ぐらいの事務所も作ってくれ」

「あ、うん」

「新会社は土地の賃貸料を毎月支払う」

 森岡はそう言うと秀樹に微笑んだ。

「心配するな。新会社の株は、いずれ過半数をお前に譲る。そうすれば土地、建物ともにこれまで通りとなるやろ」

「社長……」

 あまりの驚きに声のない秀樹に代わって、好之が感涙に咽ぶ声で呻いた。

「前にも言うたやろ。今の俺があるのはお前のお陰が大きいんや」

 森岡はそう言った後で、

「ただし、その分兄弟で働いて貰うで」

 と笑った。


 石飛将夫は一行から一人離れ、一足早く帰阪の途に着いた。森岡の指示にしたがって情報収集するためである。

 森岡にはもう一人会いたい人物がいた。森岡は坂根、蒲生と足立の三人を連れて、米子市と松江市の間にある過疎の村に立ち寄った。

「社長、あの家ですか」

 坂根は何とも言えぬ表情で訊いた。

「そうや、あれや」

「表現はおかしいですが、聞きしに勝るボロ家ですね」

 そう言って唸った坂根の横で、

「まさか、あのお方ですか」

 統万が驚いたように訊いた。

 森岡は、おっという顔をした。

「さすがに、境港に住んでいただけあって、統万は知っているらしいな」

「知っているというほどではありませんが、噂は耳にしていました」

「どういうことですか」

 蒲生が首を傾げる。

「蒲生、あの家にもの凄い霊能力者がおられるのだ」

「霊能力者?」

 蒲生は戸惑いの声で訊き返した。

「元警察官のお前には信じられんかもしれんな」

「いえ。非科学的なものを全否定するつもりはありませんが」

「あまりにみすぼらしいか」

「イメージが一致しません」

 蒲生は正直な印象を述べた。道端に立つ四人の眼前には、四方を畑に囲まれ、ポツンと建っている家があった。バラック小屋に毛の生えたような粗末な建屋で、今にも継ぎ接ぎだらけの衣服を身に纏った住人が姿を見せそうな佇まいだった。

 周囲の道路は、畦道を少し広くした程度の道幅しかなく、車が通れなかったので、ずいぶんと離れた場所に駐車し徒歩でやって来ていた。

「さあ、叱られる覚悟で行ってみるか」

 森岡がそう呟いて歩き始めた。後に続いた三人には、その言葉の意味がわからなかった。

 森岡は古びた玄関の戸を開け、

「御免下さい」

 と声を掛けた。

「あー、やっぱり来たかい」

 一畳ほどの土間の先、黄ばんだ障子紙の向こうから声が返って来た。娘の光子の声だった。娘といっても五十歳の坂は超えているはずである。

「お母さん、洋ちゃんが来たよ」

 光子は奥の部屋にいるであろう母の糸に声を掛けると、障子を半分だけ開けた。

「久しぶりです。お婆さんはお元気ですか」

 森岡が頭を下げた。三人もそれに倣った。

「何年振りかいね」

「大阪へ行く前に参りましたので、十六年振りでしょうか」

「そんなになるかいね」

 光子は感慨深げに言い、

「汚いところだけど、まあ上がりなさい」

 と障子を全開した。

 三人は口々に、失礼しますと言って式台に上がり、中へ入った。

 四畳半の中央に小さな炬燵が置いてあった。三人は肩を寄せ合うように炬燵に入った。

 しばらくして、隣の部屋から糸が姿を現した。十六年前と然して変わらぬ矍鑠とした姿だった。

 森岡が初めて本宮糸(もとみやいと)と出会ったのは十五歳のときだった。高校進学を控え、祖母のウメに連れられて来たのである。

 森岡は、身近に信心深い祖母がいたこともあってか、神仏に対する抵抗感がなかった。多感な思春期にあっても、祖母に同行し、世間に名高い糸の許を訪れることに躊躇いは無かった。

 ウメは高校進学の相談と同時に、森岡の精神状態の鑑定も依頼していた。親友の坂根秀樹のお蔭で病は影を潜めていたが、いつまた再発するとも限らないと心配してのことだったのだが、そのとき糸はいずれ解決するとしか言わなかった。

 当時森岡は、糸は八十歳ぐらいだと思っていた。それくらい老けて見えていた。さすれば、今は百歳を超えていることになるのだが、目の前にいる糸は二十年前とほとんど変わっていなかった。森岡は、おそらく現在が八十歳前後で、当時は六十歳ぐらいだったのだろうと推察した。

「お婆さん、ご無沙汰していました」

「うん、うん。洋ちゃんも元気だったかい」

 糸は相好を崩して訊いた。

「なんとか、元気でやっています」

「そうか、それは良かったの。一昨年の初冬に受けた傷は痛まんかの」

「え?」

 坂根は唖然となった。

 今夏、浜浦へ帰郷した折、灘屋の親族は誰もそのことを知らなかった。森岡が黙っていたのだから当然である。然るにこの老婆はなぜ知っているのか。

 森岡がにやりと笑った。

「さすがに、見抜いておられたのですね」

「洋ちゃんはすでにおらの手か離れているから、救済の祈祷はできんかったがの」

「え? そうなのですか。私はてっきりお婆さんが神さんにお祈りして下さったものと思っていました」

 いいや、と糸は首を横に振る。

「前も言ったとおり、洋ちゃんは神村上人に引き渡しているからの。そげなことはできん」

――では、いったい誰が?

 洋介は凶刃に倒れて生死の境を彷徨っていたとき、少年の頃、二度まで命を救われた霊妙な女性から、もう一人救いの手を差し伸べている方がいると告げられていた。

 不審顔の洋介を他所に、

「だがの、神さんに別の用件でお祈りしとったら、急に洋ちゃんの守護霊様が現れての、お前さんが危ないと告げらたけん、命をお救い下さいと頼んでおいたわい。洋ちゃんの守護霊様だけんの、おらの神さんとの契約違反にはならん」

 糸は、くゎくゎくゎと笑った。

 なるほど、もう一人のお方とは守護霊様だったか、と洋介は思った。

 洋介の守護霊は、月光地主大明神といって正一位という最高位の神様である。有り得ないことではない。


 二十数年前、初めて本宮糸を訪れたとき、森岡はそのまま信者となった。

 いや、信者というのは誤解を生じるかもしれない。糸は新興宗教の教祖ではない。若い頃、夫を亡くし、また幼い娘を抱えて自らも死の病に罹ってしまった。娘の将来を憂えた糸は、母の代から信心していた神棚に一心不乱にお祈りをしたという。

――命を助けて頂きましたら、生涯精進を重ね、世のため人のために尽くします。

 と懇願した。

 その祈りが天に通じたのか、糸は奇跡的に命を取り留めた。そこで糸は、神様との約束通り、慎ましい生活をしながら、多くの相談者の力になっているのである。

 森岡もその相談者の一人ということである。

 しかし、森岡が神村と縁を結んだとき、

『洋ちゃんはもうおらの手から離れたよ。今後は神村上人に相談しなさい』

 と、糸から言い渡されたのだった。

 神村が大変な高僧だと糸が知っていたことも理由の一つだが、糸の話によると、糸が信心する神様の能力は三千人までというのがもう一つの理由だった。

 本宮糸は島根、鳥取に跨るこの地域を中心に、大変な数の相談者を抱える有名人だったが、その許容人数が三千人ということらしい。

 したがって、数を満たした場合、新規の相談を受けるには、古い相談者あるいは手放しても良い状況になった者を切るしかないのである。森岡は神村という頼れる人物と知り合った。糸にすれば、安心して手離すことのできる相談者というわけであった。

 ただ不確かなことがあった。三千人という数は糸の能力ではなく神様の能力である。そうであれば、その神様は糸一人の信心なのか、他にも信心している者がいるかいないかでは、糸が受け持つ相談者の数は変わるだが、森岡はそこまで問い質してはいなかった。

 それはともかく、糸によるとその神様は刹那に地球を十周するほどの速さで空を飛び回っているのだという。そうして天空から護るべき三千人の動向をつぶさに観察していて、たとえば横断歩道を歩いていて交通事故に遭いそうな相談者が居れば、すっと降りてきてひょいと横にどかせて死亡を重傷にするのだという。

 高校時代にその話を聞いていた森岡は、奈津美を失ったとき、ほんの束の間だったが、もし自分が糸の相談者のままで、奈津美を糸の神様の相談者にしていれば、彼女は死なずに済んだのではないかと後悔したことがあった。

 しかしすぐに、神村と出会えたからこそ糸は自身を手放したのであり、奈津美とも出会うことができたのだと思い直していた。

「ずいぶんとご活躍のようだね」

 コーヒーを運んで来た光子が意を含んだ口調で言った。

「本意ではありませんが」

 とだけ森岡は答えた。

 糸の前では、大風呂敷も謙遜も通用しないと思っているのだ。

「お上人さんの手助けまでは良かったが、なんとも奇妙なことになったわい」

 糸は声には棘があった。暴力団をはじめとする裏社会との関係を憂えているのである。尚、お上人さんとは、むろん神村正遠のことである。

「成り行き上、仕方なく」

 森岡は弁解がましく言った。

――やはり凄い。何もかも見透かされている。

 森岡は、久々にその神通力に触れ、感動すら覚えた。 

 本宮糸は神村正遠とは少し違っていた。

 神村の神通力も度々目の当たりにしていたが、彼は決して森岡のことについては語らなかった。おそらく神村は、未来については端から見ようとはしなかったのであろう。

 その点、糸は森岡の未来について、問われたことは何事でも答えてくれた。森岡が松江高校に進学したのも糸による『神様のお告げ』があったからである。

 森岡の中学時代の成績では、松江高校の進学は無理とされていた。島根県下全域から優秀な生徒が集まる松江高校である。森岡の通っていた中学校では、毎年成績上位者五名から八名が受験し、全員合格していた。島根半島の片田舎の中学校である。中学浪人を出すことなど言語道断で、教員らはまず間違いなく合格する生徒しかしか受験させなかった。

 森岡の順位は十数番だった。十番以内ですら滅多に入ったことがない。担当教諭は、当然如く松江高校より一つランクが下の高校への進学を薦めた。だが、森岡は頑として松江高校への進学を希望した。彼は中学浪人も覚悟していたのである。

 自らの祈祷では合格と出ていたが、何せ可愛い孫の進学である。念には念を入れる意味で、祖母のウメは人伝に聞いていた本宮糸を頼った。

 糸の神様のご託宣は『合格する』というものだった。それを受けて、意を強くしたウメが三者面談のとき、『孫の好きなようにさせて下さい』と主張したものだから、学校側も渋々ながら承諾したのである。

 森岡は合格するどころか、同中学から受験した十名のうち、特進クラスに合格した坂根秀樹に次ぐ好成績で合格し、学級委員長を務めることになったのだった。

 もっとも何事も答えてはくれたが、相談者の求めるもの導き出していたわけではない。

 あくまでも神様のお告げであるから、たとえば『しばらく待て』と言われれば、相談者はそれ以上を問えなかった。

「それで、今日は何の用かい」

「はあ」

 森岡は身を固めて口籠もった。坂根と蒲生は、我が目を疑った。このように縮こまる森岡を初めて見たのだ。神村への畏敬の念とは様子が違っていた。

「実は、お勧めの株を教えて頂きたくやって来ました」

「なんだと。何のためだ」

 糸の声色が変わった。

「し、仕手戦に挑もうと思っています」

 森岡が怯むように言った瞬間、糸の面が鬼の形相になった

「この、大馬鹿者が!」

 障子が震えるほどの怒声が響いた。およそ八十歳過ぎの老婆のそれではなかった。

「わしの神さんを何だと思っているか! 神さんのお告げは金儲けのためではないぞ」

「も、申し訳ありません」

 森岡は平身低頭して詫びた。

「そんな用なら、顔も見たくない、すぐ帰れ!」

 糸は捨て台詞を吐くと、隣の部屋に引き籠もってしまった。神棚のある部屋である。すぐに読経の声が聞こえてきた。どうやら、神様に森岡の不敬を詫びているらしい。

「どげしただ? 洋ちゃんが金に執着するとは思えないがの」

 光子は訝しげに訊いた。

「どうしても、確実に儲かる銘柄が知りたかったものですから」

「事情が有りそうだの」

 はい、と肯いた森岡は、

「でも、私が間違っていました」

 森岡は光子にも頭を下げた。

「お婆さんを怒らせてしまいましたので、今日はこれで失礼します」

 光子は、申し訳なさそうな顔をして、

「せっかく十数年振りに来たのに、すまなかったね」

 と玄関先まで見送った。


「やはり駄目だったか」

 畑の畦道を歩きながら森岡が呟いた。

 道幅は狭く、蒲生が先頭を歩き、続いて森岡、彼の後ろに坂根、統万の順に従っていた。

「でも、社長がおっしゃっておられた通りのお方でしたね」

 坂根はどこかほっとしたような口調だった。

「あれだけお元気なら、まだまだ大丈夫やろ」

 森岡も怒声を浴びたことなど忘れたかのように応じた。

 そのとき、後方から声が掛かった。

「洋ちゃん、ちょっと待って」

 光子が息を切らして走って来た。

 坂根と統万が、畑に踏み入って道を空けた。

「ほれ、お母さんからだよ」

 そう言って光子はメモのようなものを森岡の手に握らせた。

「これは?」

「ああ言ってもね。お母さんはずっと洋ちゃんのことを気に掛けておっただよ」

 森岡はメモを開いてみた。

『近畿製薬』

 と記してあった。

 森岡は、株式売買システムが弾き出した売り銘柄の中に、この近畿製薬が名を連ねていたと承知していた。

「ただね、洋ちゃん。値上がりするのかそれとも値下がりするのか、お母さんにもわからんのよ」

「……」

 仔細が飲み込めない森岡に、

「今朝、神さんがいつもと違って何も言われんと銘柄だけを告げられたんだと。だから、お母さんも手を出しておらんのよ」

「そういうことですか」

 と飲み込んだ森岡に、光子は言葉を続けた。

「お母さんはね、洋ちゃんが来ることはわかっていたらしいけど、まさか用件が株のことだとは思っていなかったらしいの。でも、洋ちゃんが株の話を持ち出したので、ああそういうことか、と神さんのご託宣に合点がいったらしいわ」

 光子は言い終えると、優しい笑み零して肯いた。

 森岡は胸が熱くなった。

「わかりました。後はこちらで調べます。お婆さんには宜しくおっしゃって下さい」

 森岡は溢れ出る涙を隠すかのように深々と頭を下げた。


 その後、柿沢康吉からギャルソンの資産運用として三十億円を任され、台湾の林海偉とは、天礼銘茶グループが運用する投資資金の委託契約で合意した。こちらの委託金は三百億円である。

 天礼銘茶の林海偉は、森岡の依頼に対して一千億円を提示したが、森岡の方がこれを断った。仕手戦において、多額の資金が有れば有るほど有利なのは言わずもがなである。ましてや、相手は勅使河原公彦である。林海偉の申し出は、喉から手が出るほど有り難いものだった。

 だが、ブックメーカー事業を介在して、台湾と中国との外交関係に首を突っ込みつつある現在、これ以上林海偉に付け込まれないためには、三百億円が限度だと森岡は考えていたのである。

 一方、林海偉にすれば、仮に三百億円を失っても、少しも惜しいとは思っていなかった。世界的大企業の天礼銘茶の総資産は十兆円もあり、そのうち現金性の資産は二兆円を超える。

 その四分の一に当たる五千億円を世界中の株式市場、債券市場、為替相場、原油などの商品先物相場などで運用している。世界に冠たる華僑の情報網をもって、年六パーセント以上の運用利回りを達成していた。つまり、三百億円は一年分の運用利益に過ぎないのだ。

 林海偉は、闇賭博からブックメーカー事業への資金流入は、最大で三十パーセントの三千億円、最低でも十パーセントの一千億円程度と見込んでいた。仮に中間の二千億円だとすれば、広告代理店への分配金は年間百億円になる。

 むろん全額を自由に出来るわけではない。諸経費もあるし、利益は郭銘傑と二分しなければならない。自身の手にはせいぜい年に二十億円程度であろう。三百億円の損失を回収するには、単純計算で十五年という時間が掛かる。

 それでも、林海偉は安いものだと考えていた。単純な三百億円とブックメーカー事業による収益金とは、裏社会及び民衆の人心掌握という点において値打ちの次元が全く異なるからである。たとえ回収に十五年も掛かろうともである。

 一方で、真鍋高志と奥埜清喜には、仔細は打ち明けたものの金銭の助力は願わなかった。二人とも、まだ会社経理の決裁権は有していないし、稟議に掛けても事が事だけに難航することが予想されたからである。

 それでも、森岡が二人に打ち明けたのは、金銭以外の協力を当てにしてのことだった。

 結局、目標の五百億円には届かなかったが、四百三十億円という額は、森岡にとって満足のゆくものだった。


 仕手戦の資金の目途が付き、ほっと一息吐いたある日のことである。

 奥埜徳太郎が、ふいに森岡を訪ねて来た。

 徳太郎と茜がチンピラに絡まれているところを、森岡が救ったことがきっかけで交誼が始まっていた。ウイニットが入っているビルも奥埜家の所有であり、近所に本社のある徳太郎は、何かにつけて前触れもなしに顔を出していた。

 奥埜家は代々の豪農だったが、東京オリンピックに合わせた新幹線開業の際、奥埜家所有の土地に新大阪駅が建設されたため、それを機に不動産経営にも手を出すことになった。

 現在(いま)では新大阪界隈だけでなく、大阪で言えば梅田や難波にも、他都道府県で言えば東京、横浜、名古屋、京都といった大都市に多数の商業ビル群を所有する大資産家である。

「洋介君、君はわしを蔑ろにする気か」

 徳太郎はいきなり睨み付けた。

「な、何をおっしゃているのか……」

 資産数千億年を有する男の眼光にさすがの森岡も一瞬怯んだ。 

「心当たりはないか」

「ありません」

「胸に手を当てて、篤と考えてみよ」

 森岡はしばらく沈思したが、やがて、

「私の気づかないところで会長を不快にさせたのであれば謝ります」

 と頭を下げた。

 ふん、と徳太郎は鼻であしらった。

「勅使河原に仕手戦を挑むそうじゃの」

「な、なぜそれを」

「知っているのか、というのか」

「はい」

「それぐらいの情報網は持ち合わせておるわい」

 と、徳太郎は嘯いた後、一転、

「と偉そうに言ったが、実は茜ママから聞いた」

 と苦笑いした。

「茜が?」

「君は松尾会長から百億を借り受けたそうだの」

「はい」

「此度で二度目ということらしいが、一度目の金は茜への贈与代わりというではないか」

 たしかに、松尾正之助からブックメーカー事業資金として百億円を借り受けるとき『この金は茜からのものだと思え』と言われていた。

「そういう経緯があったからの。松尾会長は、さらに百億貸し付けたことを茜ママにそっと漏らされたのだ。ブックメーカー事業に続き、またしても巨額資金を借り受けたことが気になった茜ママが、わしに相談に来たというのが種明かしじゃ」

――俺の知らないところで茜が……。

 森岡は思わずにやけてしまいそうになるのを堪えた。

「そこでな、調べてみようと、まずは君に世話になっておる清喜に鎌を掛けてみたら、あっさりと口を割ったということじゃ」

「なるほど」

「洋介君、孫を責めんでくれよ」

 徳太郎が頭を下げた。そこには可愛い孫を庇う祖父としての愛情が溢れていた。

 森岡は、真鍋高志と奥埜清喜には厳しく他言無用を願っていた。したがって、清喜も自ら徳太郎に相談することはしなかったらしいが、何せ徳太郎の『老練な鎌掛け』である。清喜を翻弄することなど朝飯前であろうから、森岡とて清喜を責める気にはならなかった。

「わしは、そないに頼りにならんか」

 徳太郎は覗き込むようにして訊いた。

「いえ、決してそのようなことは」

 ない、と森岡は必死に弁明する。

「ならばなぜ相談に来ない」

「それは……」

 森岡には返答のしようがなかった。

「そりゃあ、わしには松尾会長のような政治力はありゃせんし、榊原さんや福地社長に比べたら君との付き合いは短いがの」

 徳太郎は慨嘆した。

「松尾会長はともかく、榊原さんや福地社長のことまで御存じなのですか」

「茜から聞いておる」

「彼女が……」

 森岡は訝しげな声を発した。

「何を不思議な顔をしておる。君は知らないようだが、松尾会長とは違い、彼女は本当にわしの孫娘になるところだったのじゃぞ」

「……」

 森岡は頭を巡らした。

「清喜さんの嫁に?」

 うむ、と徳太郎は肯く。

「すんでのところで君に横取りされてしまった。御蔭で大魚を逃した気分じゃ」

 徳太郎は恨みがましい口調で言うと、

「冗談じゃよ。清喜の嫁にと願ったのは本当だが、茜には端から相手にされてはおらなんだ」

 と恐縮する森岡に笑顔を向けた。

「だがの、それこそ松尾会長ではないが、わしも彼女の後見人を自負しておるし、彼女もわしを頼りにしてくれておる」

「はい」

 森岡はとりあえず相槌を打った。

 たしかに徳太郎はロンドにとって最上級の客には違いないだろうが、二人の関係がそれほど親密なものだったとは思いも寄らないことだった。

「君のことなど筒抜けじゃ」

 といって徳太郎は笑った。

「はあ」

 森岡は複雑な顔をした。

「案ずるな。茜は賢い女じゃ。いかにわしとて、話して良いこと悪いことぐらいは分別が付く」

「そのようなことは、微塵も心配しておりません」

 森岡はきっぱりと言い切った。

「それで良い」

 と言った徳太郎の表情が一変した。 

「君に五十億をくれてやる」

 それはあまりに唐突だった。

「や、やる?」

「花岡組、柳楽組と、君にはずいぶんと世話になった。エトワールと西中島のビル建設だけでは、礼として不足だと思っていた」

 森岡は、花岡組が嫌がらせをしていた奥埜家が所有する店舗を買い取り、解決に導いていた。また、柳楽組が所有していた地下鉄西中島駅前の土地の売買交渉を纏め上げ、新築ビルの共同建築主となっていた。

「とはいえ、一応借用書を取るし、利息も貰う。でないと、贈与税は高いからの」

「もちろんです」

 貸付と聞いて、むしろ森岡はほっとした。エトワールと西中島のビル建設の礼としては、五十億円は法外過ぎた。

 だが、

「有るとき払いの催促無しじゃ。本当に余裕が出来たときに返せば良い」

 裏を返せば、返済できなければ踏み倒しても良い、と言っていた。

「しかし……」

 と躊躇する森岡の目に、徳太郎の鋭い視線が突き刺さった。

「実は、一つ君に相談があるのじゃ」

「どのような」

 森岡は、警戒の声で訊いた。五十億円の相談である。容易なことではないと推察された。

「東京銀座で手広くテナントビルを構えている『丸正(まるせい)不動産』が倒産の危機に陥り、ビルを売却したがっておる。奥埜不動産(うち)が買い取りたいのだが、なにせ伝手が無い。そこで君に間に入ってもらいたいのじゃ」

「何をおっしゃっているのですか、奥埜家が伝手が無いのに私などにあるはずがないでしょう。しかも、大阪ならまだしも東京の銀座など……」

 とてものこと無理だ、と森岡は言った。

「いいや」

 徳太郎は、意味ありげな笑みを浮かべた。

「丸正に委託されて債務整理をしているのが、宗光賢治の息の掛かった人物なのだ」

 都市銀行はもちろん、商工中金など企業向け金融機関への返済交渉は纏まり、残るは街金などややこしい債権者が残った。そこで、丸正が宗光賢治を頼ったという構図だった。

 森岡は頭を巡らし、

「……これは清喜さんからですね」

 と訊いた。

 そうだ、と肯いた徳太郎は、

「これは咎められることはないぞ」

「承知しております」

 森岡は苦笑いしながら言った。

 榊原壮太郎と福地正勝は、奥埜清喜や真鍋高志には紹介していなかったが、付き人をしている宗光賢治の息子賢一郎は引き合わせていた。その折森岡は、『さる人物の子息』と紹介した。目鼻の利くものであれば、そこから宗光賢治に辿り着くのは簡単であろう。

 森岡は真顔になった。 

「私に宗光氏と話を付けよ、と」

 うむ、と徳太郎は肯いた。

「金が掛かりますが」

 徳太郎は、わかっているという顔をした。

「そこでじゃ、先ほど五十億をやると言ったが、その金を充てて欲しい」

 つまり、宗光賢治との交渉次第で森岡の受け取る金額が決まるというのである。

「しかし、五十億を捨てても元が取れますか」

 森岡はその銀座の物件というのが気になった。

「君だから話そうか」

 徳太郎の目が商売人のそれになった。

「丸正は相当窮地に追い込まれておるでな、通常の売買であれば六百億といったところだが、半値近くの三百五十億ほどで手に入る」

 丸正が銀座に所有するビルは二十五棟もあったが、此度その大部分を売却するという。丸正は、銀座の他に赤坂や六本木にもグループ会社が数十棟のビルを所有していた。連鎖倒産を回避するためには、銀座のビル群の早期売却が必須なのだという。ために、足元を見ることができるのだと徳太郎は言った。

「五十億は十四パーセント強じゃからの。口利き料としては高額過ぎるが、二百五十億も安く手に入るうえに銀座のビル群は、買ったその日からある程度の収益が見込まれるでの。遣り様によっては、すぐに元は取れるという算段じゃ」

 徳太郎は、にやりと辣腕経営者の笑みを零した。

 五十億円のうち、約四十億円が森岡の懐に入る計算になった。当然のことながら宗光の息の掛かった債務整理屋は、売買成立時に丸正から手数料を貰うことになる。したがって森岡は、宗光賢治への口利き料として三パーセントの十億円余さえ用意すればよいという計算になるのである。


 その日の夜、森岡は奥埜清喜の呼び出しに応じ、西中島の小料理屋へと足を運んだ。小料理屋といっても、その店はカウンター席とテーブル席の他に、間仕切りした小部屋がいくつかあった。

 店の者に案内されて部屋に入った森岡は驚いた。奥埜清喜と共に、真鍋高志の姿があったのである。

 森岡が着座するや否や、二人は座布団を横に退けて、いきなり畳に頭を擦り付けた。

「森岡さん、申し訳ありません」

 奥埜清喜が吐くような声で言った。

「いったい、どうしたというのです」

 森岡には訳がわからなかった。

「貴方との約束を破ってしまいました」

「ああ、そのことですか」

 徳太郎のことだと察した森岡は、

「まあ、頭を上げて下さい。それでは話も出来ません」

 と優しい声で促した。

「お祖父様に鎌を掛けられたそうですね」

 森岡は顔を上げた清喜に笑い掛けた。

「鎌と言うより恫喝に近かったですが、まんまと罠に嵌ってしまいました」

 清喜はばつの悪そうな顔をした。

「あのお祖父様なら仕方がありませんよ」

 森岡は同情の声で言うと、

「何と言って鎌を掛けられたのですか」

「森岡君が松尾会長から百億円という大金を借りたことは、茜ママから聞いて承知している。何に使うかも聞いたが、詳細を話せと言われました」

 と言って、清喜があわてて弁明を足した。

「いえ、私は貴方との約束を守り、口を閉ざしていました。ですが、それを見た祖父が、『黙っているならそれでも良い。だが、万が一、森岡君が窮地に陥ってもわしは知らん顔をするが、それでも良いのだな』と恫喝したのです」

「なるほど」

「私も、勅使河原が相手の仕手戦となれば、さすがの貴方も苦戦すると思い、その折には祖父に助勢を依頼するつもりでいましたので、祖父から見限られるような言葉を聞いてやむなく……」

 奥埜清喜はいま一度、頭を下げた。

「そこまで……」

 森岡は奥埜清喜の厚情に胸が熱くなった。

「もう、この話は蓋をしましょう」

「本当に」

「ええ、御蔭で貴方のお祖父さんから多大な助勢を賜ることができました。感謝の頭を下げなければならないのは私の方です」

「しかし、その裏で何やら面倒な仕事を託されたのではないですか」

「まあ、何とかなるでしょう」

 森岡は楽天的な口調で言うと、視線を真鍋に向けた。

「でも、なぜ真鍋さんまで頭を下げられるのですか」

「それは、私一人で森岡さんに詫びるのは怖かったものですから、真鍋さんに無理をお願いしたのです」

「この私が、怖い?」

「口の軽い男とは絶縁する、と言われるが怖かったのです。もし、そのような次第になったとき、真鍋さんに 弁護して頂こうと……」

 奥埜清喜がそう言ったとき、真鍋高志が、

「あらためまして、森岡さん、申し訳ありません」

 と詫びた。

「真鍋さんが何度も頭を下げることではないですよ」

「いえ、実は清喜君から相談を受けた後、それならばと私も父に相談し、三十億の融資を引き出しました」

「ああ、そういうことですか……」

 森岡はしばらく唖然としたが、敷いていた座布団を外し、正座して頭を下げた。

「お二人に感謝します」

「止めて下さい」

 奥埜清喜が叫んだ。

「私たちの付き合いはまだ始まったばかりです。おそらく向こう半世紀にも及ぶことでしょう。貴方と知り合えて、私がどれほど心強く思っていることか」

「この先、どれだけ貴方に助けられることか、想像に難くありません」

 奥埜清喜の言葉に、真鍋高志が肯きながら付け加えた。

「お手を上げて下さい」

 奥埜清喜が促したが、森岡は頭を上げなかった。いや、上げられなかった。二人の友情に涙が溢れそうだったのである。

 こうして、当初の目的であった五百億円の運用資金に目途が付いた森岡は、神村の本妙寺晋山式を終えた後、徐々に仕込みに入る予定でいた。


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