第29話  第四巻 欲望の果 傷心 第四巻・了

 鹿児島で菊池龍峰に引導を渡した森岡洋介は、その足で東京青山にあるギャルソン本社へ出向いていた。森岡が峰松に語った、示談交渉をして慰謝料を支払わせる相手である。

 受付で用件を述べ、相談役室に案内された森岡は、

「貴方は……」

 と待ち構えていた老人に目を見開いた。

「君はあの夜の……」

 老人の方も驚きのあまり、茫然と見つめている。

 なんと、目の前にいるのは、帝都ホテルの寿司屋で意気投合し、一期一会の縁を結んだ相手ではないか。

 お互い詳しい素性を問わないという約束を交わし、銀座の花水木というクラブで語り明かした。その折森岡は、老人が後継者問題で悩みを抱えている様子だったことを記憶していた。

――なるほど、あの馬鹿息子なら苦労するはずだ。

 森岡は心の中で同情した。

 森岡が訪れたのはギャルソンの会長柿沢康弘の実父の許であった。つまりこの老人こそ、ギャルソンを下町の一介の洋菓子屋から、宮内庁御用達まで成長させた創業者であった。

 名を柿沢康吉(やすきち)といった。相談役に退いてはいるものの、創業者で大株主でもあることから、今なお隠然たる権力を保持していることは周知の事実であった。

 森岡は門前払いを食らわないようにと、松尾正之助の紹介状を持参していた。

 紹介状に目を通した康吉は畳んでテーブルの上に置くと、怪訝な目を森岡に向けた。

「この紹介状には、君は孫も同然とあるが、松尾会長とはいったいどういう関係なのだね」

 彼の疑念はもっともであった。松尾正之助は身内同然などという言葉を容易く吐く人間ではない。  

「おそらく、松尾会長の縁の女性と結婚するからだと思います」

「なるほど。しかし会長ほどのお方に、孫も同然と言わしめるとは、ただ者ではないな」

 康吉は射抜くような眼で森岡を見た。あの夜の優しげな眼光とは全く異なるものだった。

「ところで、今日はいったい何の用かね」

「率直に申し上げて、良い話ではありません」

「弁護士を同行しているから、それくらいのことは察しが付く」

 康吉は不快感を露にした。

 森岡は、菊池龍峰との談判に同席させていた弁護士をそのまま伴っていた。

「では、これをご覧下さい」

 森岡は弁護士から書類を受け取ると、康吉に手渡した。

「これは告訴状ではないか」

 はい、と森岡は頷く。

「ご子息の康弘氏を婦女暴行の共同正犯で刑事告訴する旨の訴状です」

「康弘が強姦だと? 馬鹿な……」

 康吉の声が思わず上ずった。

「残念ながら事実です。文面をよくお読み下さい」

 森岡は穏やかな口調で言った。

 森岡に促されて、文面に目を通した柿沢康吉の身体が、わなわなと小刻みに震え出した。

「証拠は、確かな証拠はあるのかね」

 康吉は動揺を押さえ込むように訊いた。

「ございます」

 森岡は、鷺沼幸一が恐喝用にと柿沢康弘とのやり取りを録音していたレコーダーと、実行犯である鷺沼幸一並びに勝部雅春の自供を録音したDVDをテーブル上に置いた。

 森岡から依頼を受けた当初、神栄会若頭の峰松重一は若頭補佐の一人に事態の収拾を任せていた。だが、鷺沼と勝部の身体を拐ったとき、鷺沼が本部長という神王組ナンバー四の要職にある河瀬正巳の名を出したため、親分である寺島龍司と相談して自ら出馬した。

 極道者が介在した一般人の揉め事は、両方の極道者の貫目によって解決する。言うまでもなく、貫目の上の方の言い分が通るのである。

 盃事を介した厳格な階級社会である極道世界は、目上に対して服従が原則であり、身内であればあるほどその絶対性は強まる。時として同じ貫目同士、あるいは貫目が違っても敵対する組織だったとき、交渉が決裂し抗争へと発展するのである。

 先代の世であれば、筆頭若頭補佐だった川瀬の方が、若頭補佐の寺島より貫目は上だったが、蜂矢司の代になって寺島が若頭に就任したことから両者の立場は逆転した。

 蜂矢組長の子分である寺島にとって、同弟分の川瀬は叔父貴に当たるため、盃事の上では川瀬の方が上だが、若頭という役職がものをいうのである。

 つまり、蜂矢の兄弟分の数より圧倒的多数の子分を束ねる寺島の方が実権を握っているということである。また通常でも、若頭は次期組長の筆頭候補であるが、非公式とはいえ、蜂矢が寺島を後継指名したため、神王組内における寺島の存在感はますます高まっていたのだった。

 したがって鷺沼が当てにしていた後ろ盾は、峰松の登場によって封じ込められた形となった。

 またこの時点では、峰松は鷺沼と勝部に手荒いことはしていない。身柄を攫って、自白をさせただけである。もし柿沢康吉が示談に応じなければ、森岡が刑事告訴すると知っているからである。

 むろん、片桐瞳をこれ以上傷つけたくない森岡が、裁判審理に持ち込むことはない。その前にマスコミによる徹底糾弾で、ギャルソンのイメージダウンを図りたいだけである。

「なるほど、これであったか」

 康吉は呻くように言った。

「何かございましたか」

「いや、愚息がいかがわしい連中に恐喝されているようだと報告があったばかりだったのだ」

「鷺沼という男が御子息を恐喝するために録音していたのでしょうね」

「良い年をしてこのような愚かなことを仕出かしていたとは……」

 康吉は声を絞り出すように言った。

「心中お察し申し上げます。しかし、こうしてレコーダーは取り上げましたので、今後恐喝はありません」

 森岡は慰めの言葉を掛けた。康吉の心の痛みが伝わっていたのである。

「それは助かる」

 康吉は小さく頭を下げ、

「それで、示談の条件は?」

 と本題に入った。

「まず、慰謝料として五億頂戴致します」

「また五億か」

 康吉は苦い顔をした。柿沢康弘はブックメーカー事業に五億円を出資し、回収不能となっていた。

「ご子息は、それくらいお持ちでしょう」

 柿沢康弘の年収は二億円。他にギャルソンの株式の二十パーセントを所有している。ギャルソンは非上場会社だが、市場外取引の時価に換算すると百億円は下らなかった。

「調べているようだな……それから」

 康吉は苦々しい顔つきで急かした。

「まずは御子息の代表取締役の解任です。その後、取締役からも退いて頂きたい」

「そ、それは……」

 康吉は狼狽を隠せなかった。

 しかし森岡は、

「失礼ながら、もともと無能なのですから、会社経営にさして影響はないと思いますが」

 と冷徹な言葉を浴びせた。

――なんという迫力だ。

 森岡の威圧感に、さすがの柿沢康吉も気圧されていた。

「君も、耳の痛いことをずけずけと言うのう」

 柿沢康吉は、そう言い返すのが精一杯だった。

「その代わり、お孫さんが佐藤万商事にお勤めとか。彼を取締役に任じ、後継教育をなさってはどうでしょうか」

「それも承知のうえか」

 そう唸った康吉は、

「仕方がない。その条件も飲もう」

 と観念した顔つきで言った。

 しかし、用件はこれで終わりではなかった。

「では、最後に」

 森岡が居住まいを正すと、

「まだ、あるのか」

 柿沢康吉が強張った。

 森岡は柔和な表情を向ける。

「この件は、御社にとっても悪い話ではありません」

 そう前置きして、寺院ネットワークを駆使した通信販売のプレゼンテーションを始めた。森岡の腹は、第二次計画として展開予定の、一千寺院の費用負担を求めようというものだった。

 黙って聞いていた康吉は暫し思案をした後、口を開いた。

「その計画は君の発案かね」

 はい、と森岡は肯き、

「実は、御子息はこの事業計画を私から盗み取ろうと企て、失敗に終わったため、その腹いせにこのようなくだらない行動に出たのだと思われます」

 と事の発端を説明した。

「そうか。そこまで不出来だったとは……私は育て方を誤ったようだ。全く面目もない」

 柿沢康吉は顔を顰めた。

「それで、これにはいくら出したら良いのだ」

「三億です。ですが、こちらの出資は早ければ五年、遅くても十年で回収され、以降は高収益が見込まれる事業だと思います」

「それぐらいは私にもわかる」

 同調した康吉は、

「もし断ったら、どうなる」

 と訊いた。

「不本意ながら、あらゆる手段を用いても、必ずや御社を潰させて頂きます」

 森岡は非情な最後通告をした。

「あの松尾会長に認められるほどだから、君がやると言えば、必ずややり遂げるのだろうな」

 柿沢康吉は溜息混じりに言った。

 康吉もひとかどの人物である。あの一夜の交誼で、森岡の大よその力量はわかっているつもりだった。

「承知した。その申し出も飲もう。ただし、こちらにも条件が一つある」

 康吉の目に力が籠もった。

「何でしょうか」

「松尾会長の紹介状によると、君の会社は近々上場する予定で、尚且つ松尾グループの傘下企業と業務提携をするそうだね」

「はい」

「では、孫に君の会社の株を譲って貰いたい。むろん、ギャルソンの株も君に譲ることにする」

「お互いが株を持ち合うことによって、信用を担保しようというのですね」

 森岡は、康吉の心底を見極めるように凝視した。

「わしはもう先が長くない。康弘がこうなってしまったからには孫の先行きが心配でならない。怪我の功名ではないが、この際君のような男が孫の傍にいてくれれば、わしも安心して死ねるというものだ。どうかね、森岡君」

 齢八十に届こうかという老人の必死の形相に、

「承知しました。こちらこそ、宜しくお願いします」

 森岡は襟を正して頭を下げた。


 ギャルソンの玄関先で弁護士と別れ、森岡が車に乗り込もうとしたときだった。

「森岡さんではないですか」

 と左後方から声が掛かった。どこか聞き覚えのある声に森岡が振り返ると懐かしい顔がそこにあった。

 ギャルソンは洋菓子を扱っていることから、本社の敷地内にカフェレストランを併設していた。女性はそこで喫茶していたらしい。

「……吉永さん」

 複雑な声が森岡の口から漏れた。

「やはり森岡さんでしたか、横顔しか見えなかったもので確信はなかったのですが」

 女性は安堵した笑みを浮かべながら近づいて来た。

「お久しぶりです」

「本当に。元気だったかい」

「はい、身体は元気です」

 身体は、とわざわざ付言したことに、何か悩み事でもあるのかと思ったが、言及

しなかった。

「お連れさんは良いのかな」

 森岡は同伴者に目をやった。

「会社の同僚ですから心配いりません。宜しければ、お茶をご一緒しませんか」

「そうだね。難しい話だったから喉が渇いたし、久し振りの再会だから、少し話をしようか」

 と、森岡は蒲生に命じて再び車を駐車場に移動させた。東京出張時、昼間は東京支店が所有している車を使用し、夜はタクシーを利用していた。

 蒲生の他に同行しているのは足立統万と、いつものように九頭目他神栄会の組員二名が少し距離をおいて影警護していた。

「森岡さんはどうしてギャルソンに」

 やって来たのか、と訊いた。

「ちょっと、相談役に用があってね」

「相談役に」

 会社の同僚という男性が声を上げた。

「先輩。こちらはウィニットの森岡社長さんです」

 彼女が紹介すると、

「ええ! 貴方があの森岡さんですか」

 男性はさらに上ずった声になった。

「私の名をご存じでしたか」

 森岡は苦笑した。

「もちろんです。菱芝電気グループのヒット商品を手掛けた森岡さんは、グループ会社の社員であれば誰もが知っている伝説のエンジニアですから」

「ということは、貴方は菱芝電気グループに務めているのですか」

「菱芝アニメーションという子会社に務めています」

 男性が名刺を差出し、

「私も同じです」

 と彼女も名刺を差し出しため、森岡も内ポケットから名刺を取り出した。

 彼女の名刺には『吉永』とあった。自分で吉永と呼んでおきながら、森岡の心がチクリと痛みを覚えた。最前、彼女が『身体は……』とわざわざ断りを入れた理由がそこにあるような気がしたからである。

 蒲生と足立は秘書だと紹介し、二人には、彼女はかつて仕事で世話になった吉永千鶴だと説明した。

「お世話だなんて、こちらこそ良い勉強になりました」

 千鶴はそう言うと、

「でも、どうして森岡さんが畑違いのギャルソンの相談役に用があるのですか」

「新事業をね、相談役と立ち上げることになった」

 まさか、会長の柿沢康弘による片桐瞳強姦教唆の示談交渉をしたなどとは口が裂

けても言えない。森岡は、最後の事業出資のみを伝えた。

「ギャルソンの、それも相談役と直に契約交渉ができるなんて、さすがですね」

 千鶴は憧憬の眼差しで森岡を見た。

 森岡は熱い視線を避けるように、

「大したことではない。それより、君はキャラクターデザイナーだったね。菱芝アニメーションに移ったのかい」

 と話を戻した。

「菱芝アニメーションに引き抜かれたのです。森岡さんとの出会いが幸運を齎したようです」

 彼女はそう言って屈託なく笑った。

 だが森岡は、その笑顔に再び胸に痛みを覚えた。


 吉永千鶴との出会いは七年前になる。

 森岡が独立する一年と少し前のことで、妊娠していた奈津美を事故で亡くした直後でもあった。

 当時、森岡は傷心の真っ只中にいた。

 それこそ母小夜子を失い、祖父洋吾郎と父洋一を相次いで亡くし、喪失感のあまり、故郷浜浦の笠井の磯に身投げしたときと同じくらい傷ついていた。会社も休みがちになり、業務遂行に支障をきたすことが懸念され始めていた。

 事態を深く憂慮した部長の柳下は、一旦システム開発のリーダーから森岡を外した。ブックメーカー事業と関わりを持つことになった大手空調機メーカーのシステム開発である。

 開発の仕事から遠ざけた柳下は、自宅に引き籠もりがちでは精神衛生上良くないと考え、気晴らしに毛色の違った仕事を任せることにした。

 ちょうどその頃、菱芝電気は自社製品のラインアップを一新し、そのコンピューター操作マニュアル製作を大阪支社が担当することに決まっていた。柳下はその製作責任者として森岡を指名したのである。

 その第一回目の打ち合わせが、菱芝電気の大阪支社で行われたときのことである。発注元が東京本社で、しかも担当者は係長職、下請け側は大阪支社で責任者は主任クラスである。当然、森岡が東京に出向くべき力関係にあったが、どういう訳か相手側が大阪に出向いて来た。

「貴方が噂の森岡さんですか」

 東京本社の担当者が名刺を交換した後、まじまじと森岡を見た。その横で訝しげ に名刺を差し出したのが吉永千鶴だった。当時、二十四歳。専門学校を卒業後、キャラクター商品製作会社でデザインを担当していると紹介された。コンピューター操作マニュアルではあったが、難しい文字列を綴るのではなく、親しみ易いキャラクターを登場させ、分かり易いように工夫するという意図があった。

「噂、ですか」

 不機嫌そうな森岡を見て、

「これは失礼しました。今や我がグループ会社の主力商品となっているパッケージソフトを、次から次へと手掛けた伝説のエンジニアが大阪支社にいる、と皆の口の端に上っているのです」

 と、担当者は弁明した。

――なぜそのような有能な技術者が、畑違いの仕事を担当するのか?

 吉永千鶴は訝しく思ったが口にはできなかった。

 二時間ほどの打ち合わせが終わると、柳下が部屋に入って来て、

「明日は土曜日だから、一泊して京都見物でもしたらどうかね」

 と二人に勧めた。

 男性担当者は妻子が待っているので夜の新幹線で東京へ戻ると言ったが、吉永千鶴は最初からそのつもりで宿泊先を予約していると言った。

 すると、柳下がとんでもないことを言い出した。

「森岡君、気分転換に彼女を案内してあげたらどうだね」

 いきなり何を言い出すのだと思ったが、身籠の愛妻を亡くした悲しさを少しでも紛らわせてやりたいという柳下の心遣いが看て取れたし、何より彼女の目の前で断るというのも気が引けたので、

「吉永さんさえ良ければ」

 と了解してしまった。京都見物が初めての彼女は快く応じたが、森岡とて夜の花街であればともかく、神社仏閣、史跡等は不案内ではあった。


 翌日、森岡は彼女が宿泊したJR新大阪駅前のビジネスホテルへ迎えに行った。

 ホテルの玄関先で待っていた彼女は、車のドアを開けて姿を見せた森岡に目を丸くした。 

 森岡が乗っていた車は、フェラーリ・テスタロッサという三千万円もしようかと

いう最高級車だったのである。いかに森岡が優れた技術者であっても所詮はサラリーマンのはずである。彼女が驚くのも当然だった。

 生来、物欲のない森岡だったが、愛妻を失った心の空白を物で埋めようとの苦肉の行動であった。

 大阪から京都までのドライブの間、彼女は何も訊かなかったし、森岡も説明しなかった。通常であれば、不相応な高級車入手の経緯を知りたがるものだが、彼女は車の話題にさえ触れなかった。

 それが森岡には心地良かった。また、少し鼻に掛かった話し方と、時折髪を掻き

揚げる仕種が亡き奈津美に似ていて微笑ましくも感じていた。吉永千鶴は、衆に秀でた美人というわけではなかったが、その心根が表に出ているような清新な表情が印象的な女性だった。これもまた、奈津美と重なった。

 とはいえ、森岡が彼女に心を奪われることはなかった。奈津美とお腹にいた胎児

を同時に失ったばかりで、他の女性に気を移す心の余裕などなかったのである。

 京都定番の観光コースを巡り、昼食に南禅寺の湯豆腐を食しているときだった。

 森岡が何気に言った。

「どうです。折角の京都です。一日では廻り切れません。明日は日曜日だし、もう一泊されませんか」

 後になって、森岡はどうしてこのような言葉を口にしたのが自分でもわからなか

った。彼女に恋をしたということではないはずであった。

 吉永千鶴は、一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、

「じゃあ、お勧めに従います」

 と、森岡の提案に微笑んだ。

 京都を観光している間、森岡は妙に陽気な一面を見せたかと思うと、静かに遠く

を虚ろな目をして見つめていることがあった。その表情の落差が気になっていた千鶴は、その原因を知りたかったのである。

「実は、嵐山に隠れた名温泉宿があるのです」 

 彼女の表情が一瞬曇った。

 誤解されたと思った森岡は、

「もちろん、部屋は別々ですし、親しい知人が経営していますので、特別価格にさ

せますから」

 と声を強め身振り手振りで説明した。

 ふふふ、と吉永千鶴に笑みが戻った。

「そのようなこと、少しも心配していませんよ」

「そりゃあ、そうだね」

 森岡も照れ笑いを返した。

 女性と親しく会話を交わしたのも久しぶりなら、心から笑ったのも、奈津美を失ってから初めてのことだった。

 午後の市内観光を終えて宿に着いたのは、夕焼けに赤く染まった西の空が、黒ずみ始めた頃だった。森岡が言った温泉宿というのは、知人が経営しているのではなく、彼がよく泊まった料理旅館であった。

 ある程度覚悟していた吉永千鶴だったが、その敷地内に入った途端、その格式高

い佇まいに腰が引けた。とてものこと庶民が利用するような宿ではなかったのであ

る。

「見た目と違い、それほど高くはないから」

 森岡はもう一度念を押した。このとき料金は自分が支払おうと森岡は思っていた

が、下心があると誤解されたくなかったので黙っていたのである。

「とりあえず、中に入りましょう」

 森岡が背を押すように言うと、ようやく彼女が敷居を跨いだ。

「これはこれは、ずいぶんと可愛らしいお嬢さまをお連れになられましたこと」

 女将がからかうように言った。

「相変わらず女将は人が悪い。俺は構わないが彼女に失礼だろう」

 森岡が咎めるように言ったが、

「お言葉ですが、森岡さんが若い女性を同伴なさるなんて初めてのことですので、

からかいたくもなりますわ」

 女将はいっこうに介することなく言ったものである。

「お食事の前に露天風呂でもどうですか」

「そうさせてもらいましょうか」

 森岡は彼女にそう言うと、女将に案内されて部屋に入った。 

 食事は自室ではなく、広間座敷に用意されていた。後から座敷に入った吉永千鶴はその豪華な料理もさることながら、二人にしては広過ぎる座敷に戸惑いと不審を覚えた。

 だが、それも三十分もしないうちに謎が解けた。

 襖の向こうから女性の声が掛かったと思いきや、三人の芸妓と二人の舞妓に、三味線方が流れ込むように入って来た。そして、皆がずいぶんと馴れ馴れしい態度で森岡と話を始めたのである。

 吉永千鶴はその遊びなれた様子から、ようやく森岡の真意がわかった気がした。この温泉宿は彼の知人が経営しているのではなく、彼の馴染みの宿であるということを……。

 フェラリー・テスタロッサと考えれば合わせれば、彼の実家は相当な資産家なのだろう。

 森岡は舞妓らと賭けゲームをし、負けた罰として痛飲していた。その自暴自棄のような振る舞いを茫然として見ていた吉永千鶴に、

「森岡さんは、ああやって悲しみから逃れようとされているのです」

 と女将が呟くように言った。

「悲しみ?」

「ほんの二ヶ月前、身籠った奥様を交通事故で亡くされたのです」

「まあ」

 吉永千鶴は絶句すると同時に、有能なエンジニアである森岡がなぜ畑違いの仕事に携わったのか、そして観光の間で垣間見せた虚ろな眼差しの理由に辿り着いた。

「私も仲間に入れて下さい」

 彼女は叫ぶように言って、遊びの輪の中に入っていった。


 森岡洋介は何かに手が触れた気がして目が開いた。

 外はまだ十分に明るくなってはいない。

 寝ぼけ眼が大きく見開いたのは、横を向いたときだった。そこには吉永千鶴の顔があったのである。

 その瞬間、森岡は脳を激しく作動させて記憶を辿った。

 芸妓や舞妓と虎拳(とらけん)というゲームをして、したたか酒を飲んだことは

覚えている。

 屏風を挟んでお互いの姿が見えないように立ち、三味線合わせてあて振り、唄の最後ので、『虎(ガオーっと唸る)』、『おばあさん(杖をつく)』、『和籐内(槍をかまえる)』の、いずれかの格好をしながら屏風の陰から飛び出して勝負。虎はおばあさんに勝ち、おばあさんは和籐内に勝ち、和籐内は虎に勝つという、ジャンケンをジェスチャーで行うものである。途中から彼女が参加したところまでは覚えているが、その後の記憶がない。

 森岡は、咄嗟に自身の身形を確かめた。下着は身に着けていた。浴衣も乱れてはいるが一応身に纏っている。彼女はどうか、と確かめたい衝動に駆られるが蒲団を剥ぐわけにはいかない。

 どうしたものか、と思い詰めているとき、瞼を開けた彼女と目が合ってしまった。

「大丈夫?」

 彼女が心配げに言った。

「少し頭が痛いけど、大丈夫。それより……」

 といった顔が余程不安げだったのだろう、クスっと彼女は笑った。

 森岡は全身から力が抜けていくのがわかった。

「本当に何もしていないよね」

「はい。それどころじゃなかったです」

「途中から記憶がないんだ。いったい俺はどうなったの」

「それはもう大変だったのですよ」

 彼女はわざと怒ったような口調で言った。


 ゲームの途中で、森岡は酔い潰れてしまった。料金と花代は、店が立て替える仕組みなので問題はない。花代とは別の、芸妓たちへの心付け(チップ)は、日頃森岡が渡している額を女将は知っていたので、それも立て替えたのだという。

 しばらく広間で寝かせて置いたが、片付けもあるので無理やり起こして自室へ運ぼうということになった。起こしてみると案外しっかりとしていたので、女将と吉永千鶴が付き添って森岡の部屋まで見送ったということだった。

 森岡を蒲団に寝かせつけたところで、女将は部屋から出て行ったが、彼女はもう少し様子を看ようと付き添ったのだという。

 しばらくして、安定した様子に彼女も退室しようと腰を上げたときだった。

 森岡が突然、

「奈津美!」

 と叫んだのである。その様子から寝言だとわかった。

 奈津美……奈津美と何度も訴え掛けるように声を上げている。そのうち、両眼から涙が零れ始めた。

 吉永千鶴は、その場から動けなくなった。自分が傍にいてどうにかなるわけでもなかったが、立ち去るのが躊躇われた。

 何度目かの咆哮のときである。彼女はなぜか、

「私はここに居ますよ」

 と応じてしまった。すると、寝ているはずの森岡が、急に上半身を起こし、彼女に抱き付いたのだという。彼女は一瞬、まさか酔ったふりをした芝居だったのか、

と勘ぐったが、森岡はただ、

「奈津美、何処へも行かないでくれ」

 と懇願するばかりだった。

 森岡は夢を見ているのだろうと千鶴は思った。夢というか、無意識の意識というべきか、ともかく森岡が亡き妻を渇望しているということははっきりしていた。

 千鶴は、まるで赤ん坊を寝かせつけるように宥めると、自らは母親のように添い寝をしたのだ言った。


「これは、とんだ迷惑を掛けました」

 森岡は居住まいを正して詫びた。

「止めて下さい」

 彼女はそう言うと、

「なんだか、奈津美さんが羨ましいわ」

「羨ましい?」

「もちろん、理不尽な絶命に、さぞかし無念だったことでしょうけど、亡くなった後もこれだけ愛れているのですもの」

 千鶴の面に暗い影が映ったのだが、頭を垂れている森岡にはわからなかった。

「いつまで頭を下げているですか」

 と、千鶴が身体を寄せて森岡の両手を掴もうとしたときである。頭を上げようとした森岡の前に彼女の顔があった。

 その刹那、森岡の脳天から爪先に掛けて電流が奔った。

 森岡は思わず唇を彼女のそれに当ててしまった。

「ひっ」

 と、しゃっくりのような声を上げた千鶴だったが、抵抗はしなかった。

 森岡は浴衣の胸を広げて乳房に触れた。彼女は少し身を堅くしたが、拒否することはなかった。奈津美を失ってから二ヶ月ぶりの女性の身体である。もう森岡に理性は残っていなかった。

 だが千鶴を抱いた後、森岡は強烈な悔恨に襲われた。

 千鶴が好ましい女性だということは確かである。だが、明確な愛情があったとは言い切れないまま、欲望に押し流されるように抱いてしまったことは、彼の哲学に反していたのだった。

 森岡は千鶴に対して、

「すまない」

 と謝ろうした。女性の心理に疎い森岡ならでは愚かな行為である。

 その仕種に彼女が先に反応した。

「謝らないでね。私がみじめになるから」

 何とも言えない寂しげな表情で言った。

 千鶴とて覚悟の上で森岡に抱かれたのである。それを謝られては、自身の決断を否定されたことになる。

「順番が逆になったけど、僕と交際してくれませんか」

 それは決意に溢れた十分に誠意のある口調だった。

 だが、意に反して千鶴の表情は冴えなかった。

「私、来月結婚式を挙げるのです」

 再び森岡の胸を悔恨が掻き毟る。それは、先刻のそれに比して数倍だった。

「それなら、なぜ?」

 と問おうとして森岡は踏み止まった。謝罪以上に彼女を傷つける言葉だと気づいたのである。

 相手の男性は、母親が経営する会社のメインバンクの担当者なのだという。会社の事業拡大に骨を折ってくれた恩人で、いまさ婚約破棄はできないとのことだった。

 それ以降、森岡は言葉を見つけることができなくなった。

 結局、その日は京都見物を取り止め、彼女をJR京都駅まで送った。車の中でも二人は終始無言だった。

 車を降りた後、一度も振り返らなかった彼女の背中が今も森岡の瞼の裏にこびり付いている。

 その後、電話では何度か仕事の話をしたが、顔を合わせたのは七年ぶりだった。

 

「この後の予定はどうなっているのですか」

 吉永千鶴が訊いた。

「大阪へ戻る予定だが」

「あら、久しぶりにお会いしたのに、このまま帰っちゃうのですか」

 千鶴は咎めるような口調で言った。

 森岡は、そうか七年前のあの日、京都にもう一泊させた自分と同じことを言っているのだと察した。

「そうだね。せっかくだから一泊することにしようかな」

 胸に痛みを感じた森岡は、蒲生に予定の変更連絡を、足立にホテルの予約をさせた。

 一旦吉永千鶴と別れた森岡は、十九時に帝都ホテルのロビーで再び彼女と会った。

 森岡は銀座の高級寿司店六兵衛で食事をするつもりでいたが、千鶴はまたもや七年前の森岡の言葉をなぞった。

「東京は私のホームグランドですから、今夜は私に任せてもらえませんか」

「どこか穴場的な店でも知っているのかい」

「知り合いが飲食店を経営しているのです」

「何料理かな」

「手広くやっていますから好きな料理を選べます」

「そういうことなら日本料理が良いかな」

「では、そちらに向かいましょう」

 と、吉永千鶴の案内でリムジンタクシーは白金へと向かった。

 やがて周囲の景色が高級住宅街へと変わったとき、

「あっ」

 と、森岡が横の席に座っている吉永千鶴を見た。

「どうかしましたか」

「まさか、君の知っている店って『幹吉(みきよし)』じゃないよね」

 と訊いた。

「その幹吉ですけど、森岡さんはご存知なのですか」

「吉永……ああ、なぜ気づかなかったのか。幹吉は知人ではなくて君のお母さん

が経営しているのじゃないかい」

「母を知っているのですか」

 千鶴が驚きの声で訊き返した。

「い、いや……テレビ番組に出演されているだろう」

 森岡は、別格大本山法国寺の貫主の座を巡って対立していた経緯は伏せた。

「そういうことですが。あまりテレビに出て欲しくないんですけどね」

 千鶴はうざんりという顔をした。

「大きな宣伝効果があるから、それも仕方がないと思うが、君が娘さんだったとは……でも、店を手伝わなくても良かったのかい」

「兄夫婦が後を継ぐことになっていたので、私は自由に生きれたのです」

「それで、キャラクターデザイナーを目指したんだね」

 と、森岡が納得の表情になったとき、車は幹吉に着いた。

 娘が連れて来た知人が森岡だと知って驚愕する女将の吉川幹子に、森岡はすばやく目配せをした。

「初めまして、森岡洋介と申します」

 初見の振りをした森岡に、

「ようこそいらっしゃいました。娘が世話になったそうで、ありがとうございました」

 と、吉永幹子も卒なく応じた。

 蒲生と統万は隣の部屋に通され、二人の会話が聞こえないよう遠慮した。

「ずいぶん偉くなったみたいですね」

 千鶴はグラスにビールを注ぎながら言った。

「それほどでもないけど、窮屈になったのは確かだね」

「近くウィニットは上場するようですね」

「良く知っているね」

「柳下さんから聞きました」

「部長、いや今は取締役だっけ、付き合いがあるのかい」

「実は柳下さんに引っ張って頂いたのです。せっかく菱芝電気の子会社に就職できたのに、森岡さんが退職していたなんてショックでした」

「勤務地は東京だろう。俺は大阪だったから会う機会はなかったと思うよ」

「いいえ。しばらくは大阪の仕事が多くて良く出向いていたのですよ」

「とはいえ、人妻とは気軽に会えないだろう」

「名刺を見て気づいていたでしょう」

 千鶴は咎めるように言った。

「まさか、破談になったのかい。それとも離婚?」

 森岡は恐る恐る訊いた。もし破談であれば、自身が原因である可能性は高い。

「離婚です」

――良かった……。

 森岡は心の中で、安堵の吐息を吐いた。

「理由は聞かないのですか」

「離婚の原因なんて、たいていが男の浮気か、金の浪費、家庭内暴力と相場が決まっている。いずれにしたって、君にとっては思い出したくない過去だろう」

「浮気ならまだ許せたかもしれなかったけど、夫は本気になってしまったの」

「確か銀行マンだったね」

「ええ。富国銀行の」

「富国は最大手の一行なのに、その行員がまた愚かなことをしたものだ」

「勉強ばっかりしてきた世間知らずだったから、水商売の女性に嵌ってしまったの」

 千鶴は嘆息した。

 たしかに思春期以降、適当に恋愛や失恋を繰り返して来なかった者が、成人してから夜の世界の遊びを知ると歯止めが利かなくなるというのはよくある話である。

 それは女性に関してだけでなく、ギャンブルでも同様である。

「借金を重ねてしまい、裏社会の人たちまで家に押し掛けるようになったの」

「それで、離婚を決意したんだね」

「私だけらならまだしも、子供に危害が及びそうになったのです」

「子供?」

「四歳の女の子がいます」

「その子はどうしているの」

「私が仕事の間は、兄夫婦の子供たちと一緒に家政婦さんに面倒を看てもらっているのです」

「そうか、苦労しているんだね」

 労りの言葉に、うう……と千鶴は嗚咽した。

「ご、ごめんなさい。化粧を直してきます」

 感情を抑えることができなくなった千鶴が席を立ってほどなく、入れ替わるようにして女将の幹子があらためて挨拶にやって来た。 

「こんな奇遇があるのですね」

 幹子は何とも言えぬ顔でビールを注いだ。

 森岡はグラスをそのままテーブルに置いた。

「もう一つあるのではありませんか」

 咎めるような口調だった。

「どういうことでしょう」

 幹子が身構えて問う。

「女将は鴻上智之に出資しましたね」

「えっ」

 幹子は絶句した。

 森岡はすかさず鎌を掛ける。

「今回も筧からの要請ですか」

「筧さん? 何のことですか」

 幹子は怪訝な顔で言った。

「今度の鴻上さんが進めている事業の裏には、あの筧がいるのですよ」

「本当ですか。私はそのようなこと一言も聞いていません」

 吉永幹子は驚いたように否定した。彼女が嘘を吐いているようには思えなかったが、森岡は疑いを解いてはいなかった。

「同じ寺院関連のネットワーク事業と聞いて、筧を思い浮かべなかったのですか」

「寺院関連のネットワーク? 鴻上さんからはIT事業とだけ聞いていました。ITなど詳細に聞いてもチンプンカンプンですから、他には何も……」

「チンプンカンプンなのに、どうして鴻上に出資したのですか」

 森岡の舌鋒は鋭かった。

 吉永幹子は辣腕経営者である。詳細も把握せずに巨額資金を出資するとは思えない。

 突き刺すような問いに、幹子の口から思いも寄らない事実が明かされた。

「どうしてって、鴻上さんは千鶴が別れた元夫だからです」

「な、なんですって……」

 思わず森岡が声を上げた。何という因縁の連鎖に、口を半開きにしたまま硬直した。

「そうか、幹吉拡大に尽力した銀行マンとは、鴻上さんのことだったのですね」

 はい、と頷いた吉永幹子は、離婚の原因が鴻上の女性問題だと告げたうえで、

「彼は魔が差しただけなのです。子供もいることですし、千鶴も内心ではもう許しているようです。ですから、復縁の良いきっかけになればと思い、彼の事業に出資することにしたのです」

 と辛い胸の内を明かした。

 お気持ちはわかります、と幹子の心境に理解を示し、

「それにしても、鴻上が千鶴さんの別れた夫だったとは、世の中は狭いですね」

 と驚きを漏らした森岡だったが、案外この世はそのようなものかもしれないと思い直した。

 現世は天運と地縁で成り立っている。地縁とは天運が導く人との出会いである。

 日本には一億二千万余の人間がいるが、無作為に出会いと別れを繰り返しているのではない。天運、宗教的に言えば神の意志、科学的に言えば宇宙の摂理が出会うべき人間同士を定めているのだろう。だが、それを理解しない人々は因縁奇縁の出会いに『世の中は狭い』と感ずるのだ。

「でも、鴻上さんの事業に筧さんが絡んでいるのでしたら、私は手を引きます」

 幹子は無念の想いが滲んだ声で言った。彼女が金銭的支援を断念すれば、鴻上の事業は頓挫し、千鶴との復縁のきっかけを失うのだ。

「女将、それはもう少し待ってもらえますか。一度彼と会って話をしてみましょう」

 森岡にしても、鴻上と筧が与している確証を掴んでいたわけではなかったし、仮に与していたとしても、鴻上が裏事情を知らされているとは限らないと思い直した。

 ではお任せします、といった吉永幹子が、

「それにしても……」

 と、森岡をまじまじと見つめた。

「『男子三日会わざれば括目して見よ』という諺がありますが、森岡さんは以前お会いしたときに比べて数段大きくなられましたね」

 吉永幹子は内心、胸を撫で下ろしていた。法国寺の件で、森岡が藤井清慶への寄進を取りやめるよう直談判にしに訪れたとき、彼女は拒否しようと思っていた。だが、森岡の異様な殺気に押し切られてしまった。その際は、忸怩たる思いに駆られた幹子だったが、こうして再会してみて、一段と大きくなった器に舌を巻いていたのである。 


 森岡が帰阪して三日後、神戸の榊原商店本社ビルの会長室では、榊原壮太郎が鴻上智之の訪問を受けていた。寺院ネットワークを利用した通信販売事業計画の詳細なプレゼンテーションを受けていたのである。

 榊原は計画書を閉じるとテーブルの上に置き、傍らにあった葉巻を咥えて一服した。

「なかなかの計画書やな。さすがは大手都市銀行の富国でその人ありと言われただけのことはある」

「有難うございます」

 鴻上は安堵した顔つきで軽く頭を下げた。だが榊原の言葉に、すぐに緊張が戻った。

「じゃがのう、わしと事業をするからには条件が二つある」

「どのようなことでしょう」

「一つはの、経営哲学が同じでなければ組まないことにしているのや」

「それは、至極真っ当なことかと思います」

「ほう、君もそう思うか」

 榊原は目を細めた。

「はい」

「では、二つ三つばかり、わしの質問に答えてくれるかの」

 鴻上は畏まって、

「私で答えられることであれば何でも」

 と背筋を伸ばした。

「まず、富国を辞めた理由を聞かせてくれんかの」

 その瞬間、鴻上の顔が曇った。てっきり、思想信条か人生観を訊かれると思っていたのだ。

「少し調べさせてもらったのやが、帝都大学法学部卒の君は、富国の幹部候補生だったというではないか。その君がなぜ輝かしい未来を捨てたのか解せんのや」

「それは……」

 鴻上は口籠った。

「無理にとは言わん」

 と言いながら、榊原は追及の目を解かなかった。

 しばらく考え込んでいた鴻上は、ふっと決意の吐息を漏らした。

「お恥ずかしい話でお耳を汚すことになりますが」

 と前置きした後、六本木のクラブのホステスに入れ揚げて富国銀行を首になった顛末を話した。

「なるほど、言い難いことをよく話してくれた」

 榊原は満足そうに言うと、

「だが、借金を抱えていた君が、どのようにして事業資金を獲得したのかな」

「吉永さんという女性会社経営者がスポンサーになって下さったのです」

「吉永社長とはいかなる人物かな」

「東京を中心に、関東一円でレストランや喫茶店など飲食関係のお店を事業を手広く展開されているお方なのですが、私が広尾支店勤務だったとき担当していた関係で……」

 鴻上は、そこで言葉を切った。

「いや、正直申し上げますと、実は別れた妻の母親ですので、声を掛けて下さったのです」

「ほう。元義母というわけじゃな」

「私の不行状が原因で別れたのにも拘わらず、良くして下さいます」

「よくわかった。胸襟を開いてくれた君の誠意は重く受け止めよう」

 榊原は、森岡からの情報と一致したことで鴻上を信用に値する人物だと評価した。

 鴻上の顔が明るくなった。

「ありがとうございます。では、もう一つの条件というのは」

「それがの、ある男が首を縦に振らなければどうにもならんのや」

「どなたでしょうか」

「紹介しよう」

 榊原はそう言うと、

「こっちに来てくれるか」

 隣の部屋に向かって声を掛けた。

 榊原の呼び掛けに応じて姿を現したのは、むろん森岡洋介である。この場を設定したのも彼の発案だった。

「当然で申し訳ありません。森岡洋介と申します」

 森岡は名刺を差し出した。

「これは、貴方が森岡様……初めまして鴻上智之です」

 鴻上はあわてて立ち上がった。

「私をご存知でしたか」

「もちろんです。関西に本拠地を置く有望なIT企業は少ないですから」

 と言った鴻上の顔が訝しいものになった。

「榊原さん、この森岡さんが承知されないと駄目なのですね」

 そういうことだ、と榊原は肯いた。

「この男は、わしの孫での」

「えっ、お孫さん」

 鴻上が目を見開いた。

「いえ、血は繋がっていませんが、家族同然の付き合いをさせて頂いているという意味です」

 森岡が笑って答えた。

「そういうことですか」

 鴻上は納得の表情を浮かべた。

「それで、どうでしょうか。この事業計画に同意して頂けるでしょうか」

 ほう、と森岡は目を光らせた。

「私が参加して宜しいのですか」

「……おっしゃる意味がわかりませんが」

 鴻上は戸惑いを隠さなかった。

「本当に」

 森岡は念を押した。

「もちろんです。貴方はITのプロ、素人の私としては大いに助かります」

 鴻上を凝視していた森岡が核心の言葉をぶつけた。

「筧が黙ってはいないのではありませんか」

「筧さん? 彼をご存知なのですか」

「少々因縁があります」

「それは奇遇ですが、なぜ筧さんが反対されるのですか」

 鴻上は不思議な顔つきで訊いた。

「爺ちゃん、どうやら鴻上さんは何もご存知ないらしい」

 森岡がにやりと笑みを向けると、

「そうみたいやな」

 と、榊原も応じた。

「どういうことですか」

 一人だけ蚊帳の外の鴻上が榊原と森岡を交互に見た。

 森岡は、筧克至との経緯を掻い摘んで話した。

「なんと、では筧さんは森岡さんへの意趣返しのため、私を利用して寺院ネットワーク事業を盗み取ろうとしているのですね」

「しつこい野郎です」

 森岡は苦笑いをした。

「でも、私が嘘を吐いている可能性だってありますよ。私の話を鵜呑みにして良いのですか」

 鴻上はしばらく視線を落として考え込んだ。

「正直に言えば、私にはどちらが正しいことをおっしゃっているのかわかりません。ですが、この事業は榊原さんがいらっしゃらなければ、事業展開が難しいことぐらいはわかります」

「そのとおりです」

 森岡が目を細めて言った。

「ですから、できればお二人と事業できればと思います」

「良く言って下さいました。私としても、話によっては共同事業としても良いと考えていました」

「本当ですか」

 鴻上の声に張りが戻った。

「そこで、私も幾つかお訊ねしたいのですが宜しいですか」

「もちろんです」

「こちらへ来られたのは覚善寺の御住職の紹介だということですが、鴻上さんとはどういう関係なのでしょう」

「筧さんから話があったとき、宗門の世界に疎かった私は、とりあえず実家の菩提寺の御住職に相談いたしまた。すると、菩提寺の御住職と覚善寺の御住職とは兄弟弟子ということで紹介して頂き、その覚善寺の御住職から運良く榊原さんへ辿り着くことができたという次第です」

 なるほど、と森岡は得心したように肯いた。

「では、そもそもこの事業話はどこから貴方の耳に届いたのですか」

「今、名前の出た筧さんです。面白い事業があるがと言われ、協力して欲しいと。ただ、手元不如意なので資金を分担して欲しいとのことでした」

「筧はどのようにして貴方を知ったのでしょう」

「はっきりとはわかりませんが、筧さんは富国の上の方から私のことを聞いたと言っていました」

「そういうことですか」

 富国銀行の上層部には立国会の会員がいた。そこから鴻上が浮かび上がったのだろう。

「恥ずかしながら、借金を抱える身でしたので資金を融通して欲しいと言われても当てなどありませんでした」

「それで」

「榊原さんにも申し上げたとおりり、別れた妻の実家が資産家でしたので、恥も外聞もかなぐり捨てて頭を下げに行ったのです」

 なるほど、と森岡は肯いた。

「僭越ながら、吉永さんはいくら出すと」

「借金の一千万の肩代わりと事業資金には五千万円までなら、と」

「事業資金としては全く足りませんね。それで鴻上さんの待遇は」

「こちらの方は、筧さんとは成功報酬ということで話が付いていますので、当面は二十万円の月給のみです」

「二十万……それで、やっていけるのですか」

「正直に申しまして、ぎりぎりです」

「失礼ながら、貴方は帝都大学法学部卒の聡明なお方です。その気になれば遥かに良い条件で他社に再就職できたはずです」

「おっしゃるとおり、職種さえ選らばなければ再就職は簡単でした。ですが、妻とも離婚しましたし、今更宮仕えなどは、と思案していたときに筧さんから声が掛かったものですから、昨今のITブームの時流に上手く乗れば世間を見返せると思ったのです」

 鴻上は偽ざる心境を吐露した。

「良くわかりました」

 森岡はそう言うと、榊原を見た。

「爺ちゃん、計画書も素晴らしいし、人物も申し分なさそうや。どうや、いっそのこと例の寺院ネットワーク事業も鴻上さんにやってもらおうか」

「洋介がええというなら、わしに異存はないで」

 榊原が同意すると、森岡は鴻上に視線を戻した。

「鴻上さん、あらためてこちらの条件を言いますので、不満がなければ共同で事業をしましょう」

「はい」

 鴻上の声が弾けた。

「まず、吉永さんから借りた一千万と、すでに受け取った事業資金は私が支度金として用立てますので彼女に返済して下さい」

 鴻上は森岡の意図を察した。

「筧さんだけではなく、吉永さんとも手を切れと」

「できませんか」

 一転、鴻上は苦渋の面をした。

「手を切るのは構いませんが、経緯はどうであれ、私がどん底のとき、しかも娘の別れた夫に手を差し伸べてくれた方ですので、何らかの形でお礼ができればと思います」

「なるほど。義理堅い方でもあるようですね」

 森岡は感心したように言うと、

「吉永さんにその気があれば、事業に一枚加えましょう」

「そうして頂けると肩の荷が下ります。ところで、支度金ということでしたが……」

 鴻上は言い難そうな顔をした。

「貴方に差し上げます。全ての負債を清算し、気持ちを新たに再出発して下さい」

 遠慮は無用、という顔つきで森岡は言った。

「次に、資本金五千万円の新会社を設立し、社長を貴方にやってもらいます」

「私?」

 鴻上は指で自分の顔を指した。

 はい、と森岡は肯くと、

「新会社には、貴方が提案した事業の他に、私が抱えている案件を引き継いで貰います」

 そう言って、天礼銘茶、ギャルソン、彩華堂他との共同事業を説明した。

「なんと、そのような事業計画が進行中なのですか」

 元優秀な銀行マンだった鴻上には、そのスケールの大きさが想像できた。

「貴方には、その陣頭指揮を執って頂きたい」

「私が……」

 いきなりの大役に鴻上は戸惑いを隠せない。

「富国の幹部候補生だったのです。この程度はやって貰わなければ困りますよ」

 森岡が笑って言う。

「ご期待に沿えるよう全力を尽くします」

 鴻上は緊張の面で受けた。

「そこで、株も二十パーセント差し上げましょう」

「株式まで……」

 と恐縮する鴻上に、

「その方がやる気と責任感が湧くでしょう」

 森岡は平然と言ったものである。

「ですが、恥ずかしながら購入資金がありません」

「それも心配は要りません。ストックオプションの権利を付与します」

「昨年解禁された制度ですね」

 鴻上は、さすがという顔をした。

 ストックオプションとは、会社の役員や従業員が一定期間にあらかじめ決められた価格で自社株式を購入できる権利のことで、株価が値上がりすればそれだけ利益が大きくなるため、会社の業績に貢献した者に対する報奨として用いられることが多い。

「残りの八十パーセントを爺ちゃんと俺で分けるということでええか」

「何を言うとんのや。榊原商店の株も、その大半をお前にやるのやで。新会社の株なんて、いらん、いらん」」

 と、榊原は迷惑だと言わんばかりに手のひらを顔の前で振った。

「榊原商店の株を譲るとは、森岡さんがオーナーになられるのですか」

 鴻上が探るように訊いた。

「洋介はな、わしの会社だけでなく、味一番や松尾会長の個人会社も傘下に収めるのや」

「な、な……」

 鴻上は驚きのあまり言葉が出ない。

 それでも、

「味一番も凄いですが、松尾会長というのはあの世界の松尾会長ですか」

 と絞り出すように訊いた。

「洋介は松尾会長の孫なんや」

「はあ?」

 鴻上はとうとう蚊の鳴くような声を出した。さきほどは自分の孫と言い、今度は財界の巨人のそれだという。訳がわからなくなるのも無理はない。

「鴻上さん、冗談ですよ。この爺ちゃんと同じで義理の関係ですよ」

 聞いた鴻上の顔が一段と引き締まった。

「いえ、考えようによっては血が繋がっているより義理の方が凄いと思います」

 榊原は、おっという顔をした。

「それはまたどうしてじゃな」

「榊原さんや松尾会長は、森岡さんの人物を評価してのお付き合いということでしょう」

 榊原はにやりと笑った顔を森岡に向ける。

「どうやら、また一人使える人間が仲間になったようだな」

 そうらしいな、と応じた森岡は、

「さて給料ですが、当面年俸一千八百万でどうですか」

「どうですかって、今の私には夢のようなお話です」

「毎月の手取りが百万ぐらいになるでしょう。社宅も用意しますので半分を先程言ったストックオプション用に充てて下さい」

 わかりました、と言った鴻上が神妙な顔つきになった。

「私も一つお聞きしても良いですか」

「もちろんです」

「森岡さんは、どうしてここまで良くして下さるのですか」

 鴻上としては当然の疑問であろう。

 ははは……と森岡は笑い出した。

「理由は三つ。一つは私の道楽です」

「道楽?」

「道楽というのは失礼ですが、私は、これはと思う人物には金を惜しまない性格なのです」

「私がそうだと」

 はい、と森岡は肯いた。

「貴方が、ただ単に帝都大学法学部卒のエリートでしたら歯牙にも掛けなかったでしょうが、幸いと言って良いかどうか、大きな挫折を味わわれた。これが気に入りました」

「……」

 鴻上は複雑な表情で聞いている。

「挫折というのは人の心を強くします。たとえば、土壇場に追い込まれたときでも、簡単に屈することなく、粘り強く対処法を考えるようになります。要は胆力が錬られるということです。帝都大法学部卒の頭脳優秀な貴方に強靭な胆力が加われば、まさに鬼に金棒というやつですよ」

「なんともはや、そのようなものですか」

 鴻上は曰く言い難い顔つきをした。

 彼の心中には、

――目の前にいる男は自分より一歳年下のはずである。自慢ではないが、学力という点に限れば、帝都大法学部卒の自分がこの男に劣るとは思えないその男に講釈を垂れられて、少しも反発心がわかないのはなぜだ。

 という不思議な思いが駆け巡っていたのである。

「二つ目は、貴方にその挫折を与える片棒を担いだ美佐子というホステスの贖罪のためです」

 えっ? と鴻上の目が点になった。

「森岡さんは彼女をご存知なのですか」

「ひょんなことで知り合いました」

 腑に落ちない様子の鴻上に、

「誤解しないで下さい。彼女の悪事は私が彼女を知る前のことですから」

 と言葉を加えた。

「それはもう」

 承知していると鴻上は頷く。

「それにしても、彼女の贖罪を肩代わりされるとは、いったい彼女は森岡さんの何なのですか」

「情報源といったところでしょうか」

「単なる情報源ですか」

「彼女が気になりますか」

「いえ。もうきっぱりと諦めました。というか、夢から覚めました。ただ、彼女が惚れるとしたら森岡さんのような男かもしれないと思ったものですから」

「ははは……私はそれほどもてやしませんよ」

 笑いながら顔の前で手を振った森岡に、

「三つ目は」

 と、鴻上が訊いた。

「それは墓場まで持って行きます」

 森岡は明言を避けた。まさか、婚約中だった貴方の元奥さんと、昔一夜を共にしたなどと言えるはずがなかった。

「それより最後に一つだけ、本拠地は大阪になりますが、大丈夫ですか」

 と、森岡は本題に戻した。

「大阪? 東京ではないのですか」

「東京は日本の政治、経済、文化、スポーツ等々あらゆる分野の中心ですが、一つだけ関西に後塵を拝しているものがあります」

「あっ、私としたことがお恥ずかしい」

 鴻上は頭を掻くと、

「関西移住に問題はありません」

 きっぱりと言った。

 奈良、京都だけでなく、和歌山の高野山と滋賀の比叡山を抱える関西は紛れもなく日本仏教の中心地である。さらに伊勢神宮を加えれば、日本人の精神の故郷とも言えるだろう。

「でしたら、差し出がましいようですが、この際近況を報告して奥様と復縁なさったらどうですか」

 鴻上は気恥ずかしい顔つきになった。

「私もそう考えていたところです」

「では世間、いや辰巳さんを見返すよう頑張って下さい」

 森岡の目に、私も協力しますよ、との意を感じた鴻上は感謝の頭を垂れた。

「では、こちらの担当を紹介します」

 と言って森岡は坂根好之を呼び入れた。

「今後は、万事この男と図って進めて下さい」

「この若さで企画部長さんですか」

 鴻上は受け取った名刺を見て驚いた。

「肩書きだけは立派ですが、未熟者ですので宜しくご指導下さい」

 坂根は丁重に頭を下げた。

――さてと、筧に目に物を見せてやるか。

 森岡は心の中で呟いた。

「鴻上さん、一つお願いがあるのですが」

「私にできることであれば、何でも致します」

 鴻上は返礼とばかりに意気込んだ。

「そう難しいことではないのですが」

 森岡は言葉を切った。

「どうされました」

「貴方にとって後味の悪いことなのです」

「どうぞ、遠慮なくおっしゃって下さい」

「筧克至を呼び出してもらえませんか」

 鴻上は苦い顔をした。瞬時にその意味を理解したのである。

「貴方にそのような役目を押し付けるのは心苦しいのですが、今筧と接触できるは貴方しかいないのです」

「何をされるのですか」

 鴻上は思い切って訊いた。筧に何度も苦汁を飲まされたことを聞いた鴻上は、森岡がいかなる報復に出るのか気になった。その片棒を担ぐことには忸怩たるものがある。

「心配には及びません。暴力的なことは極力控えますし、鴻上さんには迷惑が掛からないようにします」

「そういうことでしたら、協力します」

 鴻上は安堵した表情で言った。

 後日、事の顛末を聞いた吉永幹子は、森岡の厚情に涙して頭を垂れた。むろん、彼女に畑違いの事業に参画する気はなく、寺院ネットワーク事業から手を引いた。その代わりとして森岡は事業拡大、とくに関西進出の際には資金協力すると申し出た。

 鴻上との共同事業は、早晩千鶴にも伝わることだろう。

 森岡は、自己満足に過ぎないことを承知していたが、それでも彼女への罪悪感が薄らいだ気がした。


 一旦大阪に戻った森岡だったが、伊能剛史から上京の催促を受け、翌週には再び東京へ出向いた。

 電話でのあらたまった物言いに、先の要請に対する返答だとわかっていた。要請時の感触は良かったが、正式な返答を前に森岡は気が引き締まる思いだった。

 ブックメーカー事業は、一歩間違えば命取りとなる危険を伴う。森岡にとって元キャリア警察官である伊能の協力は不可欠であった。

 指定されたホテルの着き、ロビーのソファー座る伊能を看とめた森岡の目から驚きの光が放たれた。伊能の傍らに、喫茶店エトワールで花岡組の組員と口論していた高井がいたのである。

「貴方は、高井さんではないですか」

 驚く森岡に、

「申し訳ありません。この方は高井ではなく、本当は蒲生貴市(きいち)さんと申しまして、私の大先輩に当る方なのです」

 伊能が詫びるように紹介した。

「蒲生? まさか」

 森岡は唖然とした顔つきで呟いた。

「蒲生貴市さんは、亮太君の叔父に当ります」

「大先輩ということは、高井さん、いや蒲生さんが私の命の恩人でしたか」

「はて、何のことでしょう」

 蒲生貴市は訝しげに訊いた。

「貴方が、お盆休みに戻った亮太君を一喝されたので命拾いしたのです」

 と、森岡は浜浦での襲撃の一件を話した。

「なんと……」

 蒲生貴市は言葉を失うと、

「それは命拾いとは言いません。むしろ、亮太の大失態となるところでした。このような不出来な甥を雇って頂き、誠に恐縮です」

 深々と腰を折った。

「しかも、貴方を騙した形になり、申し訳ないことを致しました」

 と重ねて詫びた。

 森岡は笑いながら首を横に降った。

「そのようなことより、蒲生さんがエトワールにいらっしゃったのは偶然ではないのですね」

 その語調は、全てを察したものだった。

「御賢察のとおりです。貴方から手を組まないかとお誘いのがあった折に申し上げた、相談したい人物というのがこの蒲生さんでした。その後、甥の亮太君が警察を辞する決断をしたとき、私の事務所に入れて欲しいと願ったのですが、私は貴方を推薦したのです」

 伊能が事情を話すと、

「すると、亮太は貴方に興味を持ちましてね。結果、お世話になったという次第です」

 と、蒲生貴市が再び頭を下げた。

「いやあ、伊能君の話の後、亮太から直に接した貴方の人物像を聞いているうち、是非人物鑑定をしてみたいという欲求に駆られまして、大阪へ出向いたのです」

 と事情を説明した蒲生貴市の横から、

「社長、この件に関しまして私は何も存じていません」

 蒲生亮太が、思わぬ話の成り行きに必死の形相で弁解した。

「心配するな、それはわかっている」

 肯いた森岡は、

「そうであれば、うちの女性社員の災難など放って置けば良いですのに、律儀なお方ですね」

 と笑みを零す。

「しかし、そのお陰で貴方と親しく話ができ、失礼ながら十分に分析することができました」

 蒲生貴市は何とも意味深長な物言いをした。

「それで、結果は如何でしたかな」

 森岡は悪戯っぽい顔をした。蒲生貴市の眼鏡に適ったからこそ、この場に同席していることは言わずもがなである。

「ふふふ……森岡さんもお人が悪い」

 蒲生貴市は声も無く笑った。

「森岡さん、申し出をお受けする条件が一つだけあります」

 伊能の声があらたまった。

「伺いましょう」

「これはと思う人物は、私の判断で参加させて貰います」

「それは警察関係者ということですね」

「もちろんです」

「そうであれば、別会社を設立して、私の会社と取引関係を結び、売上の一定率を回しましょう。その範囲であれば、伊能さんの自由にどうぞ」

 森岡は一も二も無く了承した。いまさら伊能を疑うべくもない。しかも元警察関係者の組織が背後にあれば、身の安全がより強固となる。森岡にとっては願っても無いことだった。

 蜂矢六代目と寺島龍司が裏切ることは無いと思われる。

 しかし、この二人の政権が十五年以上続けば問題ないが、八代目の案件が早まるようだと、安穏としておれなくなる。当然、森岡は寺島の後を峰松重一が継げるように後援するつもりだが、確実な保証などどこにもない。

 もし、他の者が八代目に座れば、先行きは一気に不透明となる。森岡は、極道の世界が生易しいものではないことを知っている。寺島の跡目が事業奪取を目的に自分を亡き者にしようと画策しても何の不思議もないのだ。むしろ、峰松を後援した鞘当から、敵対行為に及ぶ可能性の方が高いと見るべきであろう。

 そのとき、伊能が側近に居れば、少なくとも警察当局との関係を鑑み、慎重な行動を取らざるを得なくなる。

「お言葉に甘えまして、まずはこの蒲生貴市さんに参加を願おうと思います」

 伊能は腹を決めた顔つきで言った。

「なるほど、相心寺貫主の一色を人物鑑定されたのも蒲生さんでしたか」

 悟ったように言った森岡に、蒲生貴市が笑みを浮かべて肯いた。


 鹿児島冷泉寺での菊池龍峰の捨て台詞は、満更負け惜しみというのでもなかった。

 耐え難い屈辱を受けてから半月後、森岡に一矢を報いたい一心の菊池は、東京のあるホテルに瑞真寺門主の栄覚を訪ねた。森岡に関する興味深い情報を入手した菊池が、その取り扱いについて相談を持ち掛けたのである。

 菊池は、まずもって法国寺の宝物紛失の顛末を詳細に報告した。

 話の途中から、栄覚の顔が怒りに打ち震えているとわかった。だが、菊池にはその理由がわからず、戸惑いを覚えながらもどうにか話し終えた。

 すると開口一番、

「なぜ、宝物紛失の一件を私に知らせなかったのですか」

 菊池はその静かな口調に、却って栄覚の怒りの大きさを感じた。

「な、なぜと申されましても、すでに久田上人の法国寺貫主就任後の話ですので、それほど重要ではないと思っておりました」

 必死に抗弁しながら、菊池は訝しいものを感じずにはおれなかった。菊池は、栄覚の野望も久田帝玄に対する恨みの深さも知らせれていなかった。栄覚が神村を敵視するのは、自身と同じで、有能な神村に対する嫉妬だと思っていたのである。

「上手く行けば、久田を法国寺貫主の座から引き摺り下ろせたかもしれないのですぞ。そうなれば、本妙寺新貫主の件もこちらに有利になったはず」

「それは……」

 菊池には返す言葉が無かった。

「それをわかっていながら、上人は自分一人の力で解決しようとされた」

「……」

「首尾よく天山修行堂を手に入れても、私の影響が残ったのでは意味が無い。そう考えたのですな」

 栄覚が菊池を睨んだ。

「そ、そのようなことは決して……ただただ、御門主のお手を煩わせなくても上手く行くと……」

 菊池はしどろもどろになった。まさに図星を指されていたのである。

 野望実現の最大の障壁が神村正遠だと見定めた栄覚は、人を使って彼の交流人物の身辺も入念に調査させた。当然、菊池龍峰や谷川兄弟もその対象になった。

 調査の過程で、栄覚は菊池龍峰が久田帝玄所有の天山修行堂を狙っていることを知った。瑞真寺の御本尊盗難の経緯から、久田帝玄への意趣返しを秘めていた栄覚は、バブル時代の派手な不動産投資のツケに苦しむ帝玄の現状も当然把握していた。把握していて苦悩する帝玄を、留飲を下げる心地で嘲笑っていたのである。

 その栄覚は、もし菊池を取り込むことができれば一石二鳥だと考えた。神村の本妙寺貫主就任阻止と久田帝玄への鉄槌である。

 だが同時に、神村正遠と菊池龍峰は古くからの朋輩であることも知っていた栄覚は、しばらく静観し、時節を待つことにした。もし菊池が共闘を拒否したら、彼を通じて自分の存在が神村陣営に洩れてしまうからである。

 栄覚は万全の策を配し終え、自身の存在が神村陣営に知れても問題はないと判断したとき、初めて菊池に声を掛けた。すると、朋輩とは名ばかりで、天山修行堂奪取に助力することを交換条件に、あっさりと共闘に同意したのである。

 ところがその後、菊池の耳に帝玄が法国寺の宝物を石黒組に手渡したという報が入った。法国寺の執事の一人を懐柔していた成果だった。

 久田帝玄の弱みを握った菊池は小躍りして喜んだ。

 栄覚の助力を得なくても天山修行堂を我が物にできると思ったからだ。栄覚の推量どおり、菊池は栄覚の影響を排除しようと考えたのである。面従腹背とは、まさにこのことである。

 顔面蒼白の菊池を見た栄覚の口調が変わった。

「まあ、済んでしまったことは仕方がありません」

 自分自身に言い聞かせるように言うと、

 一転、

「それで煮え湯を飲まされたということですな」

 と労わりの声を掛けた。

 栄覚は、必要以上に菊池を咎めて反感を買うのは得策ではないと判断した。森岡によって高千穂の本山華法寺の貫主就任は阻止されたが、九州寺院会の副会長の要職には留まっている。時節到来に向けて九州地区を纏めるうえでも、菊池龍峰は重要な手駒の一つだったのである。

「不覚を取りました」

「森岡という男、やはり思った以上ですな」

「私も用心していたつもりでしたが、さらに上手でした」

 と肩を落とした菊池だったが、すぐさま気を取り直したように、

「ですが、彼に関しておもしろい情報を握っています」

 と語気を強めた。

「おもしろいとは」

 栄覚も目を光らせる。

 菊池は何やら耳打ちするように言い、

「この話を公にして糾弾することはできませんか」

 と問うた。

「折角の情報ながら、その程度では致命傷にはならないでしょうな」

 栄覚は厳しい表情で言った。

「やはり、そうですか。では、神栄会の峰松とやらとの交誼を暴露するのはいかがでしょうか」

 菊池は、自坊冷泉寺において森岡と峰松に恫喝されたことも話した。

「株式上場を目前にした彼にすれば、そちらの方が数段痛手でしょうが、残念ながらそれも難しいこととなりました」

「は?」

「私の有力な支援者が勝手に暴走して同様の行いをしてしまいました。私は関与していませんが、藪蛇になる可能性が全くない無いとは言えません」

 栄覚は、虎鉄組による坂根好之拉致監禁事件を話して聞かせた。栄覚から枕木山に入った坂根への対処を問い詰められた鬼庭徹朗が白状していた。

「どこまでも悪運の強い奴だ」

 菊池は忌々しげに吐き捨てた。

「しかし、先の方の話しですが」

 栄覚は話を戻すと、

「致命傷にはならなくとも、やり方次第では森岡を動揺させること、あるいは目をそちらに釘付けすることはできるかもしれません」

「どのようなことでしょう」

 菊池が身を乗り出した。

「週刊誌にでも載せて、揺さぶりを掛けてみますか」

「マスコミを利用するのですね。宜しくお取り計らいをお願いします」

 いくぶん溜飲を下げた面の菊池龍峰が、

「ところで御門主。その……過日の約定はまだ有効でしょうか」

 と恐る恐る訊いた。

 うむ、と頷いた栄覚が菊池を睨み付けた。

「此度の件は不問に付しましょう。ですが、今後は……」

「も、もちろんでございます。神村に関連することは、どのようなことでも真っ先にお知らせ致します」

 菊池は、栄覚の言葉を奪うようにして恭順の意を示した。

「であれば、必ずや天山修行堂を上人の手にお渡しします」

「厚かましいようですが、いつ頃になりますか」

「いくら切羽詰まったとはいえ、法国寺の宝物に手を掛けるなど、いよいよ久田帝玄も耄碌(もうろく)が始まったらしい」

 栄覚がにやりと笑った。

「あ奴の頭も、あと五年もてば良いところでしょう。その頃には、私の宿願も目途が付いているはずです。そのあたりですかな」

 栄覚は久田帝玄を攻撃すると宣した。

「承知しました」

 菊池はようやく安堵したように頭を下げた。


 伊能との盟約が成立した翌日の夜、森岡は帝都ホテルのスイートルームで、あるパーティーを催していた。伊能の呼び出しに応じたとき、一緒に手配させていた。

 森岡が招待したのは、大物詐欺師である児玉久孝と彼の仲間たちであった。

 言わずと知れた、菊池龍峰に鉄槌を下す協力をしてくれた連中である。森岡は一億円の謝礼を申し出たが、児玉は娘の桜子に力を貸すことを条件にして、金銭は受け取らなかった。だが、桜子の事業へは出資という形式を採ったため、金銭的な貸しを作りたくない森岡はせめてもと慰労の会を開いたのである。

 児玉父娘の他、岩清水哲玄、公佳ら七名の部下とホステス役の女性たちも参加していた。その中に驚くべき人物がいた。

 児玉から紹介され、名刺を受け取った森岡はその名に驚愕した。

「朝比奈慶一郎さん? まさか」

 森岡は、児玉から詐欺の詳細な計画を聞いたとき、弁護士朝比奈慶一郎の名は耳にしていたが、あくまでも児玉が成りすます人物だと承知していたのである。

「さすがの貴方も驚かれたようですね」

 児玉久孝は愉快そうに笑った。

「まさか、本物の朝比奈先生がお仲間だったとは、想像だにしませんでした」

「仲間という表現は違います。先生は何もご存知ありませんし、あの日に名古屋で学会があったというのも事実です」

「では、どういうご関係なのですか」

「古くからの知人というだけです」

 児玉が曖昧に答えた。

「では、児玉さんの?」

 憚った森岡に、

「むろん、知っておられる。じゃが、何時、誰を、どのように騙したかは一切ご存じない。そのあたりは曖昧模糊、と承知してくれんかの」

 岩清水が因果を含めるように言った。

「承知しました。これ以上は」

 詮索をしない、という目で言った。

「それにしても、やることがいちいち小憎らしいわね」

 桜子がワイングラスを手にしながらやって来た。

 森岡が定宿としているのは、エグゼクティブ・スイートだったが、この夜は最上級の部屋を使用していた。一泊の費用が百万円というこのスイートには、四つの部屋があった。七十畳ほどのリビングルームと二十畳のベッドルーム、十八畳の応接室、そして十二畳の書斎である。

 そのリビングルームに寿司と鉄板焼き、天ぷらの施設を持ち込ませ、飲み物としてロマネ・コンティやドンペリ二ヨンやルイ十三世といった高級酒を取り揃えていた。

「たいしたことではありません。それより、顔が揃ったところでお話があるのですが」

 と、森岡の表情があらたまった。

「難しい話かの?」

 岩清水が訊いた。

「少々」

 森岡が神妙に答えたため、一同はまた詐欺行為の相談だと思った。

 朝比奈慶一郎も、

「では、私は失礼しよう」

 と席を離れようとしたが、

「ご懸念には及びません。是非、朝比奈先生も同席して下さい」

 と皆を応接室に誘った。

 森岡は南目輝を同席させた。

「さて、単刀直入に申し上げます。児玉さん、足を洗われる気はございませんか」

「なんと?」、

 児玉が耳を疑った。

「私に詐欺師を辞めろと」

「……」

 森岡は黙って小さく肯いた。

「ご冗談を。私が足を洗ってどうするのです? 仲間の生活もある」

 児玉は憮然とした表情で言った。

「私の事業を手伝って貰えませんか」

「貴方の事業って、榊原商店ですか、それとも霊園事業ですか」

「失礼ながら、寺院関係は向いていないと思います」

「では、何を手伝えと」

 児玉は少し苛立った声で訊いた。

「皆さんはブックメーカーというのをご存知ですか」

「ブックメーカー? 博打の胴元ですな」

 朝比奈慶一郎が口を開いた。

「そうです。そのブックメーカーです」

「それなら耳にしたことはあるが、それがいったいどうしたというのです」

 児玉が怪訝そうに訊いた。

「この度、その事業を私が仕切ることになりました」

「なんですと!」

 部屋中に驚きの声が響いた。

「仕切るって、簡単に言いますが、命あっての物種ですよ」

 児玉が心配げに言った。彼にしても事業の性質は心得ている。

「もしや、神栄会かの」

 岩清水が閃いたように言った。彼は霊園地の買収の折から、森岡と若頭の峰松重一との交誼を薄々感づいていたようだ。

「ええ」

 森岡は曖昧に頷いた。

「そう言えば、神栄会の寺島が神王組本家の若頭に就いたようですな。そのあたりが関係していますかな」

 朝比奈が付け加えた。

「そのようなものです」

 尚も森岡が明言を避けると、

「もしかして、その上じゃないの」

 桜子が口を挟んだ。

「その上って言うと、蜂矢六代目しかいないのだぞ」

 怒ったように言った児玉は、森岡を見て面を強張らせた。

「まさか、そのようなことが……」

「過日、呼び出しを受け要請されました。一旦は断ったのですが、頭を下げられまして仕方なく……」

「一度断った? 六代目が頭を下げたですと……何を悠長なことを」

 呆れ顔の児玉の横で、

「何とも愉快な人物ですな」

 朝比奈は感心し、

 石清水は例の如く、

「ひゃあ、ひゃあ、ひゃあ」

 と皺顔に目鼻を埋めるようにして笑った。

「でも、詐欺しかできない父たちに、いったい何をしろっていうのかしら」

 桜子は興味津々の目である。

「蜂矢六代目から御墨付きを貰っているとはいえ、今後も極道者を相手にしなければならない場面もあるでしょう。そのとき、押しが利かないと舐められてしまいます」

「ふむ」

 児玉が腕組みをすると、

「いずれ台湾、香港、上海にも手を伸ばしますし、その後は全世界を又に掛けることになります」

 森岡はにやりと笑い、

「丁々発止の交渉時には、ときに芝居掛かることも必要でしょう」

 と不適な言葉を吐いた。

 つまりは何重もの仕掛けが必要になる場合もあるだろうし、何よりも詐欺師特有の、相手の心理を読む力は必要不可欠だと森岡は考えていた。

「具体的にはどのような」

 児玉が気を取り直して訊いた。

「株式会社を設立して貰い、私の事業会社とコンサルティング契約をします。契約料は総売上の〇.五パーセントを予定しています」

「〇.五パーセントも? 大丈夫ですか」

 児玉が驚いたように言った。商売柄、児玉は瞬時に計算したのである。

 〇.五パーセントというと少額だと思いがちだが、実はそうではない。年間の総売上が一千億円であれば五億円になる。場合によっては、詐欺という危ない橋を渡って得る金より多い。

「神王組への上納を一パーセント減額することを条件の一つにしましたので、余裕ができました」

「貴方は、六代目と条件交渉までしたのですか」

 朝比奈は恐れ入った、という顔をした。

「事業資金としては、とりあえず自前で百六十億を容易しました」

「百六十億? 貴方はどこまでも簡単に言いますな」

 児玉は呆れた声を上げた。

 森岡は蜂矢六代目との交渉過程で、神王組からの資金援助を一切断り、自前で都合を付ける代わりに、上納を五パーセントから四パーセントに減額させていた。ブックメーカー事業を展開するにあたり、出来得る限り神王組との関係を秘匿したい森岡にしてみれば、致命傷となる金銭的繋がりを絶っておくことは至極当然のことだった。上納金にしても、幾重にも仲介業者を挟み、国外での取引を模索していた。

 森岡は自身の資産から十億円を捻出し、他に榊原と福地から二十億円ずつ、松尾から百億円、そして真鍋高志と奥埜清貴から、それぞれ五億円の融資を受けていた。

 担保はウイニットの持ち株である。

 所有する七千株のうち、上場時に三千株を売却する予定なので、残りの四千株が担保可能となる。時価評価額からいえば過剰融資もよいところなのだが、そもそも榊原と福地には貸すという概念はなく、松尾にしても百億円は茜への相続分だと考えていたので、三人とも担保提供を免除していた。

「コンピューター関連に十億と、半年の流動資金として百五十億です。幸い、コンピューターシステムは前回時のソフトウェアーが使えそうですので、手直しに半年で済みそうですから、来年の春頃には営業を開始できます。初年度の売上は三百億を予定しています」

 森岡は詳細に説明した。

 森岡が管理することになった英国のブックメーカーライセンスは、五年間営業実態が無ければ剥奪される恐れがあった。前回の失敗により、営業を中断してからすでに四年近く経っていた。森岡は急ぐ必要があった。

「どうするパパ?」

 桜子が両肩に手を置いて覗き込んだ。

「悪い話ではないな。しかし、皆が何というか」

 躊躇する児玉に、

「いつまでも詐欺でもあるまい。万が一にも下手を打てば、君は残りの人生を塀の中で暮らすことになるぞ」

 朝比奈が脅しを掛け、

「松っちゃん。若い者を正道に戻す良いきっかけかもしれないぞ」

 と、岩清水も助言した。

「ブックメーカーが気に食わないというのでしたら、別の事業を手伝って貰っても構いません」

「別の事業って言われても、IT関係はチンプンカンプンですよ」

 児玉は苦笑いした。

「いえ、他にもあります。たとえばゴルフ場などはどうですか」

 森岡は、代表に就くことになった持ち株会社の事業内容を説明した。

「何と」

 児玉は息を飲んだ後、

「やはり、貴方という人はおもしろい、実におもしろい」

 と破顔した。

 その傍らでは桜子が、

「うーん、やっぱり逃がした魚は大きかったのね」

 と悔しそうに天を仰いだ。

 だが内心では、

――堅物の彼が彼女を抱いたということは……。

 と仄かな期待を膨らませていた。彼女とは沈美玉である。

「表の世界ではすでに一兆円企業群のトップに手を掛け、裏の世界でも兆を目指す事業を手掛けるのですな」

 朝比奈も嘆息した。

「朝比奈先生には、顧問弁護士に加わって頂きたいと思っています」

「これはこれは……」

 朝比奈は、まさかの勧誘に一瞬息を詰まらせたが、

「真っ当な事業であればお力になります」

 と顎を引いた。

「承知した。私の残りの人生を貴方に掛けることにしよう」

 児玉は晴れ晴れとした顔つきで言った。

「有難うございます」

 森岡は頭を下げると、

「では、こちらのメンバーを紹介しましょう」

 と、南目に目配せをした。一旦応接間を出た南目は、書斎に待機していた男を連れて戻った。

 その男の顔を看た瞬間、児玉は身体を硬直させた。

「貴方は……」

「ご存知でしたか。元警察官の伊能さんです」

 森岡が紹介した。

「森岡さん、こ、これは」

 児玉が恐れをなしたように言った。職業柄というのもおかしいが、児玉は警察幹部の顔を記憶していた。管轄外の公安畑で、しかも退任した伊能であっても例外ではなかったのである。

「ご心配なく、貴方をどうこうということはありませんよ」

 森岡が懸念を払拭すると、

「私はもう現役ではありません。それに目の前の犯罪であれば看過できませんが、いまさら過去を問おうなどとは思いません」

 伊能も断言すると、

「時効に掛かっていないものは、告訴されていないでしょうし、証拠も残してはおられないでしょう」

 と笑った。

「森岡さんもお人が悪い。寿命が縮まった思いです」

 児玉はようやく安堵の声に戻った。

「伊能さんが事業責任者なのですか」

「いいえ。当面は私が陣頭指揮を執りますが、いずれこの南目輝が後を継ぎます。伊能さんは大番頭というところでしょうか」

「これはしたり」

 児玉は安請合いをしたことを悔やんだ。いかに罪状を問われなくとも、元警察官僚との仕事は気が引けた。

「伊能さんだけで、尻込みされては困ります。今後、警察OBを大量に採用するつもりです」

「うう……」

 児玉は呻くしかなかった。

「警察OBだけではありません。裏の世界からも人を入れます。もちろん、足を洗ってからの話ですが」

 森岡は、ブックメーカー事業には出来得る限り日本社会の表と裏の人材を結集するつもりでいた。日本国内だけの営業であればその必要はなかったが、いずれ世界に進出するとなれば、国対国の、ある意味で経済戦争の様相を呈することが想像できたからである。

「呉越同舟とは、まさにこのことですな」

 朝比奈が達観したように呟き、

 岩清水は、

「松っちゃん、年貢の納め時だ」

 と諭すように言ったものである。

「ええい。こうなりゃ、煮て食おうと焼いて食おうと、森岡さん、貴方のお好きにどうぞ」

 児玉があまりに駄々っ子のように言ったものだから、その場にどっと笑いが巻き起こった。


 宴に戻った森岡の傍に桜子がやって来た。百七十センチの長身で、白磁のように白く透明な肌に赤いドレスが良く似合っている。

「私が見込んだ以上の活躍だわね」

 桜子は自分のグラスを森岡のそれに軽く当てた。

「何の因果だろうか、次々とお鉢が巡って来る」

 森岡は視線を逸らして言った。大きく開いた胸元から零れる豊かな双丘に目のやり場が無いのだ。

「でも、それを力に変える能力が貴方にはあるわ」

「これはこれは、女王様にお褒め頂き、恐縮です」

 森岡はおどけて見せると、

「それはそうと彼女はどうかな」

 と訊いた。

「大変な子ね。よくあんな娘(こ)を手に入れたわね」

 桜子は嘆息した。

 台湾人タレントの卵の沈美玉は来日し、桜子が設立した芸能事務所に所属しながら、デビューに向けてのレッスンを開始していた。これに尽力したのは、昭和の歌姫と謳われた美咲こずえの忘れ形見の渡辺聖(きよし)だった。面識はあったが、念のため神村の紹介状を持参して渡辺と会った森岡は、彼の協力を得ることに成功していた。

「彼女なら、そう遠くない時期にデビューできるわよ」

「成功すると思うか」

「成功なんてものじゃなく、上手く売り出せば大スターになる可能性まであるわ」

「となると、俺は影を潜めた方が良いな」

 森岡は顎を撫でながら言った。

「でも、できるかしら」

「どういう意味だ」

「貴方、彼女を抱いたでしょう」

「……」

「堅物、いえ誠実な貴方が茜さん以外の女性を抱くなんて信じられなかったけど、彼女を見て納得したわ」

 ふっ、と森岡が笑みを零した。

「俺が本当に彼女を抱いたと思うか」

「彼女のぞっこん振りをみれば疑いようもないわ」

 桜子が嫉妬の滲んだような目をした。

「俺にぞっこん?」

「いじらしいほど」

「それはない」

 森岡は手を顔の前で大袈裟に振った。

「日本でデビューするという夢を適えてもらったことに感謝しているだけだ」

「そうかしら」

「まだ十七歳だぞ。早婚であれば子供の年だ。それに俺はそんなにもてやしない」

「それこそ冗談だわ。言い寄って来る女性が途切れないくせに」

「それは俺自身にではない。皆、俺の持っている金に興味があるだけだ」

「密に群がる蟻ってこと」

「そうだ」

「だったら言わせてもらうけど、亡くなった奥様や茜さんはそうじゃないって言い切れるの」

 桜子は挑発的な物言いをした。

「奈津美と出会ったのは俺が大学一年のときだ。たしかに灘屋の遺産を受け継いだから学生にしては金持ちだったが、彼女はそのようなことは知らなかった。茜とは幼い頃に出会っていたから、赤い糸で結ばれていたのだと思う」

「二人とも金目当てではないと言い切れるのね」

「少なくとも俺はそう思っている」

「私も金目当てなんかじゃないわよ」

 桜子が真顔で言う。

「俺もそうだと思う。とても嬉しいけど俺には茜がいるし、君ほどの女性なら男なんか事欠かないだろう」

「さっきの貴方の言葉を借りるなら、男どもは私の中身ではなく外見に惹かれているだけ。薄っぺらい愛情だわ」

「君の気持ちもわからなくはないが、そのうち眼鏡に適う男が現れるさ」

「貴方と出会ってしまったのよ」

 桜子は、森岡以上の男が容易くいるはずがないと言った。

 一転、森岡が神妙になった。

「ブックメーカー事業は難しい事業だ。失敗すれば命さえ失うかもしれない。たとえ命が残ったとしても俺が一文無しになるのは間違いない。そのとき、俺を食わせてくれるか」

 桜子の目が大きく見開いた。

「それって本気なの」

「本気だ。ただしその場合、俺は今の俺でなくなっているけど、それでも良いか」

「……」

 桜子には言葉の意味がわからない。

「無一文になったとしても、茜は俺を見限ったりはしない。俺を養い、再起を期するよう鼓舞するだろう。彼女はそういう女性だ。だが、俺は命を賭してブックメーカー事業に向かおうと思っている。全身全霊を掛けて挑戦しようと思っている。そうしなければ成功など覚束ない事業だからだ。そのような事業に失敗すれば、俺はそれまでの俺でなくなっている」

「そんなことは……」

 ない、と言い掛けた桜子の口の前に森岡が手をやった。

「必ず俺は廃人同様になる。やる気が失せ、生きているのか死んでいるのかわからない無為な日々を送ることになる。本当は、俺は心の弱い人間だ。俺自身がそれを一番よくわかっている。俺は母に捨てられただけで、祖父や父が死んだだけで精神を病み、自らの命を絶とうまでとした」

「でも、それを救って下さった神村先生がいらっしゃるわ」

 桜子は神村がいる限り、二度と森岡がそのような状態になることは無いと言った。

「いや、全くその逆だ。今言ったとおり、俺の精神を蝕む原因となった母の失踪、祖父や父の死は俺の責任ではない。だが、神村先生の薫陶を得、茜の愛情に包まれ、榊原さんや福地さんに慈愛を注がれ、ウイニットの社員をはじめ多くの仲間の助力を受けた中で事業を失敗すれば、取りも直さずそれは俺が無能だからだ」

 動き掛けた桜子の唇に、再び森岡が人差し指を当てた。

「君の言いたいことはわかっている。それだけ難しい事業だと言いたいのだろう」

 桜子は黙って肯いた。

「それも承知のうえだし、決して自惚れてもいない」

 森岡は桜子の目を真っ直ぐに見つめた。

「それでも俺は、自身への失望から立ち直る自信が無い」

 それは森岡の偽りのない心情だった。

 森岡は、ブックメーカー事業は最初の五年が勝負だと考えていた。その間にレールが敷ければ、南目輝に任せることができる。

 また、その五年間で神村に関する手立ても出来得る限り講じておこうとも思っていた。そうすれば、己に万が一のことがあっても神村の行く手に支障はない。

 桜子はごくりと唾を飲んだ。

「私は一度もお会いしたことはないけど、貴方が選らんだ女性だもの、貴方の言うとおり情けない姿になっても、茜さんは離れないと思うわ」

「だから、俺から離れるのさ」

「……」

 森岡の迫真が桜子の言葉を奪う。

「どうだ。そんな無様な俺は嫌になるだろう」

 桜子は何も答えず、

「そうとわかれば、パパに真面目に働かないように進言するわ」

 とだけ言った。

「俺をヒモにしてくれるのか」

「一生でも……」

 桜子は微笑した。

「じゃあ、そのときは頼む。もっとも、ブックメーカー事業に失敗したら、生きていられるかどうかわからないがな」

「神王組ね」

 森岡は黙って頷いた。

「失敗の度合いにもよるが、命は保てても身包み剥がされるのは間違いない」

 森岡は神妙な顔で、もう一度手に持ったグラスを桜子のそれに弱く当てた。

 桜子はシャンパンを一口に含み、気持ちを整えると、

「話を元に戻すけど、本当に彼女を抱いていないの」

 森岡の顔を覗き込むようにして訊いた。

 だが、

「さあ、それは言わぬが花ということにしておくよ」

 と、森岡は煙に巻いた。


 実は、森岡は沈美玉を抱いてはいなかった。

 台湾でのあの夜、ベッドに横たえた森岡は美玉にキスした後、

「今夜はここまでにしておこう」

 と優しい顔で言った。

「え?」

 美玉は不安げな目を向ける。

「この続きは、君が無事日本でデビューしたときにしよう」

「でも……」

 何か言いたげな美玉に、森岡が言葉を重ねた。

「その方がお互いのためにも良い。今僕に抱かれたとして、僕が本気で君を支援する保証はないだろう? 言葉は悪いがやり逃げするかもしれない。それは君も不安なはずだ。一方僕にしたら、君を自分のものにしたい一心で、一生懸命援助しようとする」

 森岡は催促するように頷いて見せた。

「……」

「やはり林さんに見破られるだろうか」

 美玉はしばらく思案した後、

「いいえ、大丈夫です」

 と迷いのない口調で言った。

「なぜかな?」

 美玉は森岡の胸に顔を埋め、

「だって、心を奪われたから……」

 と蚊の鳴くような声で囁いた。


 筧克至は、胸に一抹の不安を抱きながら帝都ホテルに向かっていた。

 鴻上智之からの、会いたいとの連絡に応じたものの、彼が指定した場所が気に入らなかった。これまでホテルで待ち合わせたことなど一度もなかったのに、今回に限って、なぜ帝都ホテルの喫茶店を指定してしてきたのか。

 筧が引っ掛かりを覚えたのはそこである。帝都ホテルが森岡の東京出張時の定宿であることも、不安を増幅させていた。

 本来であれば、『君子危うきに近寄らず』の教えどおり、面会を断ることも考えたが、このとき彼には迷いがあった。

 事業への協力を見返りに、勅使河原公彦の指示に従ってウイニットに転職した筧だったが、森岡に見破られるという失態を犯し、信用を失ってしまった。約束は保留となり、起業の目途が立っていなかった。したがって、鴻上との縁を切ってしまうのも惜しい気がしていたのである。

 そこで鴻上と会う決意をしたのだが、用心には用心を重ね、変装して出掛けることにした。ビジネススーツではなく、カジュアルな服装にし、野球帽を被り、サングラスまで掛けた。

 しかも、約束の時間より一時間も早く、ホテルに着くように家を出たのである。

 ホテルに到着すると、筧は喫茶店横に並べてあるソファー群の一番端に腰を下ろした。

 帝都ホテルの喫茶店は、ホテルの正面玄関の対極にあった。広さは五十坪ほどもあるだろうか、間仕切りの代わりとして、ソファーが並べられているのである。

 筧が玄関から向かって左端の席を選択したのは、喫茶店の入り口が右側だったことに加え、筧の正面には地下駐車場への出入り口もあったからである。つまり、右手に正面玄関、正面に駐車場と両面から人の出入りを確認することができた。

 ソファーに座った筧は、サングラスを外し、代わりにマスクをすると、おもむろにスポーツ新聞を拡げた。彼としては、サングラスとマスクの両方を用いたかったのだが、高級ホテルでは却って不審人物として目立ってしまう可能性がある。そこで、マスクの方を選択したのである。

 さて、約束の時間まで三十分となった頃だった。

 正面玄関を注視していた筧の背中を悪寒が奔った。森岡が姿を現したのである。

――森岡め……。

 筧は心の中で詰った。

 森岡は喫茶店ではなく、エレベーターホールへと向かった。

 もちろん筧は、森岡が上京した際には帝都ホテルを利用すると承知していた。したがって、全くの偶然である可能性もなくはないが、鴻上からの呼び出しの経緯と照らし合わせれば、背後に森岡が潜んでいると見るのが妥当と考えた。

 森岡を挟むようにして二人の男が並行していたが、どちらも筧には見覚えのない顔だった。だが、十メートル後方にいる三人の男たちは、森岡の手配した極道者だと筧にはわかった。

 皆一般のビジネススーツを着用してサラリーマン風を装っているが、その中に一人筧の見知った神栄会の極道が混じっていたのである。

――どのようにして、鴻上を操っているのがこの俺だとわかったのだろうか。奴には千里眼でもあるのか……。

 筧は、いまさらながら森岡に畏怖した。情報網が凄いのか、それとも勘が鋭いのか、いずれにしても何もかも見透かされているようで胆を潰される。

 実際、筧は榊原壮太郎を知らなかった。したがって、鴻上から榊原という人物と接触したとの報告を受けても、森岡の存在に辿り着くことはなかった。

 勅使河原の要請に従い、瑞真寺の門主栄覚のために働くことにした筧は、ウイニットに入社後、森岡の人脈を探ろうと試みたことはあったが、予想以上の脇の固さに断念した。無理強いをして、森岡に勘付かれれば元も子もなくなるからである。

 そうこうするうち、鴻上が姿を現した。時間を確認すると、約束の時間の十分前だった。

 鴻上は喫茶店へと入って行った。

 筧は迷った。このままここに留まり、森岡と鴻上の関係を確認するか、それとも危ない橋を渡るのを止めて鴻上を切り捨てるか。

 熟慮の末、筧は後者を選択した。

 仮に森岡が関わっていれば、どういう網を張っているか知れたものではない。今であれば、喫茶店を背にして正面玄関から逃げ出すことができる。筧は、苦虫を噛み潰したような顔をマスクの下に隠し、帝都ホテルを後にした。

 結果的にそれは賢明な判断だった。

 一旦エレベーターを使って部屋に入った森岡だったが、五分後には一階に降りて、喫茶店の方を注視していたのである。

 筧がホテルを出た直後のことである。もし、そのまま筧がソファーに座っていれば、怪しい人物に気づいた森岡が蒲生に声を掛けさせたであろう。

 それから三十分間、森岡は遠くから鴻上の動向を注目していたが、いっこうに姿をあらわさない筧に、

――勘付かれたか……。

 と唇を噛んだ。

 そのとき、鴻上がテーブルの上に置いていた携帯を手にして操作したかと思うと、辺りを見回し出した。

 森岡は、筧からのメールがあったと推察し、足立統万に電話するように命じた。

 はたして森岡の勘は当たっていた。筧からの断りのメールがあったと鴻上が告げたのである。

「どうやら見破られたようですね」

 森岡はそう言いつつ鴻上の前に座った。

「私の物言いが悪かったのでしょうか」

「いいえ、あいつもそれなりの男ですから、悪い予感が働いたのでしょう」

 森岡は苦笑いをした。

「ところで、これまで筧との連絡はどうでしたか」

「と、言われますと」

「鴻上さんから連絡したことはありましたか」

「もちろんです。事業開始に向けて進捗状況を報告するためお互いに連絡をし合っていました」

 ふむ、と森岡は沈思した。

「では、いつもどこで会っていましたか」

 今度は鴻上が俯くようにして記憶を辿った。

 あっ、と顔を上げた。

「そういえばほとんど駅の改札口で待ち合わせをして、近所の喫茶店に入っていました」

「それです。このような高級ホテルでの待ち合わせは初めてだったのでしょう」

「……」

 鴻上は黙って肯く。

「であれば、このホテルを面会場所に選んだ私のしくじりですから気にしないで下さい。それにまたの機会もあることですから……」

 森岡はそう気遣ったが、内心ではそのような千載一遇の好機は、二度と訪れないかもしれないと悔やんでいた。他に自身の影を悟られることなく筧を誘い出す手段が思い浮かばなかったのである。 







  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る