第22話  第三巻 修羅の道 法力 第三巻・了

 それから一週間後のことであった。

 突如、衝撃の噂が京都の街を疾風の如く駆け巡り、やがて森岡洋介の耳にも飛び込んで来た。

 別格大本山法国寺貫主の久田帝玄が朝の勤行中に倒れ、病院に緊急搬送されたというのである。一切の面会は拒絶され、予断を許さない状態が続いているとのことであった。

 久田帝玄は法国寺の前貫主だった黒岩の後を継いで、京都本山会の会長に就任していた。その彼の急病により、合議の日まで二週間を切っていた大本山本妙寺次期貫主の人選案件は一時棚上げとなり、帝玄の進退に関する最終的な判断を一ヶ月後とする臨時処置が取られた。

 それに伴い、本妙寺の新貫主選出の合議は、それからさらに二か月後の十二月初旬と変更された。急転直下、天の戯れとしか思えない奇妙な雲行きとなったのである。

『久田倒れる』の一報は、森岡や神村にとっても青天の霹靂であった。もし帝玄が逝去すれば、いやたとえ命を取り留めたとしても、宗務に支障をきたすと判断されれば、またしても法国寺貫主の選任から始めなければならなくなる。

 再び藤井清慶が立てば、今度こそ対抗できる人物はいない。

 不安の火種を胸に抱えたまま、森岡は神村、谷川兄弟との対策協議のため、幸苑へと向かった。三人と顔を突き合わすのは、実に久々だった。本来であれば、神村の選出を前に喜ばしい席のはずが、不穏な事の成り行きに、四人の顔色も冴えなかった。

 森岡が着座するや否や、待ちかねたように谷川東良が口を開いた。

「御前様の事で何か知っていることあらへんか」

「いえ、何も……」」

「そうか。まあ、そりゃあそうやろうな」

「御前様の様子はわかりませんか」

「私も訪ねてみたのだが、けんもほろろに断られた」

 天真宗の関西地区・寺院会会長の要職にある東顕でも目ぼしい情報は取れなかったという。

「先生も、ですか」

「ああ、私もお会いできなかった」

 神村の口も重かった。

「だが、執事長の様子がおかしいのや」

「どのようにですか」

 森岡が東顕に訊いた。

「面会を断わられたのは断られたのだが、御前様が生死の淵を彷徨っておられるというのに、まるで悲壮感が感じられかった」

「そう言われれば、私もそのように感じた」

 神村が同調した。

 森岡の脳裡にある疑念が過ぎった。

「まさか、仮病ではありませんか」

「仮病? なるほどな、それは考えられるな」

 東顕も思い付いたように頷く。

「しかし、何のためでしょうか」

 森岡は自分で言っておきながら首を捻った。

「それがわかれば誰も苦労はせんが、考えてみれば搬送された病院が吹田市の北摂高度救命救急センターというのも妙な話やな」

 東良が疑問を呈した。

「京都の病院じゃないのですか」

 森岡が訝しげな声を上げた。北摂高度救命救急センターは、かつて彼が凶刃に倒れたとき救急搬送された病院である。

「そうやねん。京都にかて、ええ病院はある。せやのに、なんぼ北摂高度救命救急センターの理事長と知り合いやから言うて、わざわざ時間を掛けてまで吹田の病院へ運ばせんやろ」

「理事長と御前様は知り合いなのですか」

「理事長は帝都大学時代の後輩らしい」

 神村が答えた。神村は、実父正周(しょうしゅう)が心筋梗塞で倒れたとき、久田帝玄から理事長を紹介され親交があるという。

「何やら、ますます臭いますね。しかし、仮病であれ何であれ、先生には一言断りがあっても良さそうなものですよね」

 森岡は東良に視線を送り、小さく顎を引いて同意を催促した。

「そうだよな。わしが言うのも何だが、これだけ世話になった神村上人に一言も無いとはな」

 目論見どおりに東良が賛意を表したことで、森岡はさらに一歩核心に踏み込んだ。

「先生にもお会いになられないということは、先生にとって良くない事をお考えなのか、あるいは一切誰にも話せない事情が起こったのか、そのいずれかではないでしょうか」

「森岡君は何が起こったと言いたいのかね」

 神村が訊ねた。

「そこまでは私にも推量が付きませんが、最悪のことを想定致しますと、御前様の身の上に、これだけ助力した先生をも裏切らなければならない特別な事情が降り掛かった、ということでしょう。仮病だとすれば、そのための時間稼ぎかと」

「私を裏切る特別な事情か」

 神村は視線を庭にやった。

 夏の終わりを告げるヒグラシの鳴き声が、森岡の耳に物悲しく届いていた。

「調べてみましょうか」

 森岡は、神村の心底を探るように言った。

「うーん。難しいところだなあ」

 口調に戸惑いが滲み出ていた。

 だが、師の真意を量りかねて苦悩する神村に向かって、いつもはその心中を慮る森岡が容赦のない質問をした。

 それは禁句に近いものであった。

「つかぬ事をお訊ねしますが、もし御前様が本妙寺の貫主に久保上人を推すおつもりだとしたら、先生はどうなさいますか」

「どうするとは?」

 神村の意外と落ち着いた表情に、

「御前様と戦われますか、それとも身を引かれますか」

 森岡は息を呑むようにして訊いた。

 彼には焦りがあった。最悪の事態を想定すれば、時間はいくらあっても足りないと感じていた。何と言っても、今度の相手は影の法主・久田帝玄なのである。

「森岡君、それは酷な質問やで。神村上人が御前様に反目できるはずがないやないか。上人にとっては親以上の恩を受けた方なんやで。たとえば、君は神村上人に敵対できるかあ」

 東良が神村の言を待たずに、いかにももっともらしいことを言った。

「それは、できません」

「そうやろう。たとえそれが理不尽なことであっても、余程のことでない限り、師と諍いを起こすことなどできやせんのや」

「しかし……」

 森岡の目に鈍い光が宿った。

「しかし?」

「仮に、先生のためになる反目であれば、私は先生に逆らいます」

 森岡は言い切った。

「まあ、君の言うことも理解できるが、今回の件は御前様の事情が全く掴めんのやから、動きようがないやろ」

「ですから、先ほどそのあたりを調べてみてはどうかと申し上げたのです。先生が御前様を疑うこと自体、後ろめたくお思いであると重々承知しておりますが」

 森岡は、東良が帝玄の身辺調査に乗り気ではないと感じた。しかもそれは、神村の師に対する遠慮を気遣ってのものではなく、別の思惑があるようにも感じ取っていたが、ともかく相手が相手だけに、最終的な判断は神村に委ねるしかなかった。 

 森岡は神村の決断をひたすら待った。 

「とりあえず、もう二週間待ってみないか。病気の真偽が定かになってからでも遅くはないと思う。その後、どうするか決めよう。もし、それまでに事情が判明すれば、そのときに相談することにしようじゃないか」

 しばらくして、神村の口から出た言葉は、彼の立場からすれば無難なものだった。

 森岡は、黙したまま諾否の意思を示さなかった。神村の考えは理解できなくもなかったが、座して二週間もやり過すわけにもいかなかった。

 ただでさえ時間が足りないというのに、二週間も時を無駄にした挙句、直前になって帝玄の裏切りが明確になれば、それこそ手の打ちようがないからである。森岡の脳裡を埋め尽くしているのは、今度の相手はこれまでと数段勝手の違う巨人久田帝玄なのだという畏怖であった。

 同時に、故郷園方寺の先代道恵和尚の、

『久田は殊の外浮かぬかをしていた』

 という言葉が苛めてもいた。

――御前様は本気で裏切るつもりなのだろうか? いや、いくらなんでもそれはないだろう。しかし、しかし……。

 森岡は反芻した。しかし何度打ち消しても、春霞のようにいつの間にか心を不安の膜が覆った。

 森岡は神村に師事してから、初めて恩師の意思に逆らうことを決心する。それは、彼にとって絶縁をも覚悟した決断だった。

 久田帝玄に関する不穏な情報が、相次いで彼の耳に飛び込んで来たのはその直後だった。

 一つは本山桂国寺の坂東貫主から谷川東良に連絡が入り、帝玄に本妙寺の件で、見返りとして神村から受け取る金額を訊ねられたというものであり、もう一つは榊原壮太郎を介して、別格大本山法国寺の前執事長だった兵庫県三田市・楽光寺住職の里見から齎されたものだが、その内容は俄かには信じ難い面妖なものだった。


 それは、久田帝玄の法国寺晋山式の余韻が冷めやらぬ頃であった。

 里見が宝物殿に入ってみると、宗祖栄真大聖人の直筆の書や手紙に加え、栄真手ずから彫ったという釈迦立像といった宝物が五点消えて無くなっていたというのだ。闇ルートに流通すれば三億円は下らないと思われた。

 法国寺は、総本山真興寺に次ぐ格式高い寺院である。宝物殿には国宝級の宝物が数多く保管されていた。

 里見は毎朝宝物殿を訪れ、施錠の確認や周囲を見回して、不審な形跡がないかを確認し、十日に一度は中に入って現物を検めていた。

 里見は血の気の失せた面で帝玄に報告するが、予想に反して彼は警察に通報するよう指示をしなかった。当初は、騒ぎが表沙汰になり、責任問題に発展することを恐れたためで、いずれ内々に捜査を依頼するものだと思っていた。ところが、帝玄にはいっこうにその気配が感じられない。

 平静を取り戻した里見は、よくよく思い返してみた。すると、不審な点がいくつも浮かび上がった。

 まず、鍵を壊したような形跡が無く、警報音も聞いてはいなかった。つまり、泥棒は合鍵を用意し、警報装置を遮断するという周到な準備をしていたことになる。

 また、他にも多数宝物はあったが、それらに手は付けられていなかった。紛失した品から推測すれば、たとえ一人であっても、充分に手は余っていたはずなのに、何故五点だけなのだろうかという疑問も残った。

 様々な状況から判断すると、とても泥棒が入ったようには思えなくなった。

 宝物殿の鍵は、貫主の帝玄と執事長の里見の二人だけしか所持していない。

 里見は紛失の報告のときの冷静な反応を考えてみても、帝玄が怪しいと疑ったが、確証がないうえに帝玄がその様な所業をする動機がわからず、誰にも話すことができずにいたというのだ。

 だが半月が経って、突如として執事長の職を解任されたことにより、このままでは自分が濡れ衣を着せられるのではないかという不安に駆られ、保身のためには、とにかくこの事実を誰かに伝えておかなければという思いに至った。

 しかし、宗門内における帝玄の威光を考えると、迂闊に同僚らには相談することができない。そこで、自坊楽光寺を通じて親交のあった榊原壮太郎を頼ったという次第だった。


 森岡は熟考を重ねた。

 脳細胞をフル稼働して、必死に考えを巡らした。里見の話が真実ならば、帝玄が持ち出したに違いない。

 問題はその動機である。

 今回もたらされた二つの情報と、帝玄の仮病と思しき行動がどのように関連しているのか、いないのか。 そして彼が我々を裏切るとすれば、いったいどのような理由によってなのか。

 ともかく、この情報も神村の耳には入れまい、と森岡は心に決めていた。

 何といっても、久田帝玄は最重要人物である。神村の行く末においても不可欠の人物である。したがって、たとえ帝玄が神村に対する裏切りを考えていたとしても、未然に防ぐことができれば、彼は己ひとりの胸の内に納めておくつもりだった。

 僅か一時間ほどの思案にも拘らず、森岡は猛烈な疲弊に襲われていた。女性秘書が十五時のコーヒーを入れたときには、ソファーにその身を横たえていたほどであった。

 このとき、森岡は帝玄の本心を確かめるため、直談判する決意を固めていた。

 一切の面会を拒絶している帝玄だが、森岡は、

――もしや、御前様は自分を待っておられるのではないか。

 という奇妙な観念に囚われていた。

 何の確証もない、ただの希望的観測に過ぎないのだが、帝玄が京都ではなく、わざわざ吹田にある北摂高度救命救急センターに搬送されたのは、彼のサインではないか、つまり自分が凶刃に倒れた件を知っている帝玄の、理事長を介せという信号ではないかと思い至った。

 もう一つ、片桐瞳から帝玄が自分の近況を知りたがっていたとの連絡を受けていたことも、その思いを増長させていた。

 そうとなれば一刻も早く、と心焦る森岡だったが、彼にはその前にやるべき事が一つあった。


 まだ月が天空を支配する深夜三時――。

 天真宗・京都大本山本妙寺の西の井戸端で、白衣一枚を纏った神村正遠が水行に専念していた。

 神村は『如来神力品(にょらいじんりきほん)第二十一』を唱えながら、一時間余りも一心に水を被っていた。本妙寺には、昔ながらの古井戸があり、つるべを手繰って清冽な水を汲み上げていた。

 残暑厳しい季節とはいえ、地下水は神村の身体から熱を奪うに十分な冷たさである。もっとも、極寒の季節の荒行を十二度も達成した彼であれば、この程度の冷水は何ほどのことでもなかった。

 身体を清め終えた神村は本堂に入り、御本尊の前で胡座をかき、瞑想に入った。本妙寺の御本尊は『観世音菩薩像』である。神村の守護霊と同じであった。

 ほどなく、広大無辺の闇に入り込んだ神村は、ただひたすら天界からの来訪者を待った。


 諸仏救世者(しょぶつくせしゃ)

 住於大神通(じゅうおうだいじんつう)

 為悦衆生故(いえつしゅじょうこ)

 現無量神力(げんむりょうじんりき)

 

 舌相至梵天(ぜっそうしぼんてん)

 身放無数光(しんほうむうしゆうこう)

 為求仏道者(いぐうぶつどうしゃ)

 現此希有事(げんしけうじ)


 そのとき、一点の凡庸とした光が灯り、老僧が浮かび上がった。旅装束の見窄らしい身形だが、威厳と風格が備わり、玄妙な霊気が漂っている。

「久しいのう、栄麟」

 老僧が親しげに声を掛けた。

 法名を呼ばれ、目を見開いた神村はあわてて正座に直り、

「御宗祖様、御心をお騒がせし申し訳ございません」

 と平伏した。

「そのようなことは斟酌せずとも良い。それより、三度目じゃな」

「はっ」

「仏の顔も三度というからの」

 栄真が、からからと笑った。

 神村はこれまでに二度、栄真と会っていた。黄泉の国の住人である栄真と『会った』という表現はどうかと思うが、ともかく二度栄真に命を救われていた。

 一度目は、神村が六歳のとき、一家が寄宿していた鳥取県米子市にある大経寺での灌仏会の法会のときだった。庭の椎木の枝を切り落とした際、天の怒りのような落雷を身体に受け、意識不明の重体となった。そのとき、栄真が現世に下り命を救った。

 二度目は、四十七歳のとき、天山修行堂に於いて十二度目の荒行のときだった。最終の滝行の最終日、意識朦朧となった神村はそのまま滝壺に落ちた。滝壺自体の深さは、成人男性の腰の辺りであったから、通常であれば溺れることはないのだが、そのときの神村は意識を喪失していたため、溺死寸前となったのである。その危難を救ったのも栄真であった。

 そして今回の降臨である。

「如何したかの」

 栄真は慈愛の声で訊ねた。

「身体極まってございます」

「どうもそのようじゃが、呑気なことを申しておるな」

 栄真は呆れ顔になった。

「しかしながら、此度のことどのように処すれば良いか妙案が浮かびません」

 神村は深刻な声で訴えた。

「奥義を伝承してくれた栄興に遠慮してのことかえ」

 栄興とは瑞真寺の先代門主である。 

「は、はい」

 神村は言葉を濁した。

「なんとのう」

 栄真は嘆息した。

「そなたらしいといえばそれまでじゃが、そのようなことで拙僧の生まれ変わりと言えるかえ」

 声には叱責の響きが含まれている。

「そのようなだいそれたこと、この栄麟、努々思ったこともございません」

 神村は精一杯の抗弁をした。

「そなたがどのように考えようと、拙僧が二度までも命を救った限りは、拙僧の、いや仏道の本分を人間界に遍く広めて貰わねばならぬ。それが、このような些細なことで遅滞するな」

「しかし……」」

 神村は縋るような眼をした。

「それに栄興ではないが、そなたはまだ伝承しておらぬ」

「ははあ……」

 神村は平伏した。 

「そなたの意中の者が仏道に目覚めるのはまだ先ぞ」

「……」

 神村には返す言葉がなかった。

「よもや、わしの血脈者に伝承されておるで、安心しておるのではあるまいな」

「決してそのようなことは……」

 神村は顔を上げて弁明した。

「わかっているとは思うが、あの者は備えであって、あくまでも正統はそちじゃぞ、神村上人」

「恐れ入ります」

 神村は親に叱られた童のように縮こまる。

――困った奴じゃのう。そなたが身を削ってまで救ったあの者じゃが、伝承などとてものこと無理な相談だと重々承知しておろうに……。

 と、栄真は呟くように言葉を続けたが、神村の耳には届いていない。

「何か、おっしゃいましたでしょうか」

 いや、なんでもないと言った栄真は、

「それより一度目はともかく、二度目を救ったは、そなたがまだ奥義を伝承していなかったからだ。空海様が御苦労なされて我が国に持ち帰られた秘伝奥義の正統継承が中断しては、大師様に申し訳なかろうが」

 と厳しい口調で諭した。

 神村は再び平伏し、身を震わせた。

「仕方がないのう」

 苦い顔をした栄真は、

「八葉を訪ねよ」

 と言葉を掛けた。

――八葉? おお、そうだった。

 神村の目に光が宿った。

 有り難うございます、と平伏したまま礼を述べた。

 その頭越しに、

――栄麟、ともかく急げよ。

 と呟いたが、これもまた神村の耳には届いていなかった。

 そして神村が顔を上げたとき、もはやそこに栄真の姿はなかった。

 東の空が明るくなっていた。

「執事長」

 神村は、自分を呼ぶ執事の声で瞑想から醒めた。


 森岡は帝都ホテル大阪で伊能剛史と会った。伊能の怪我はすっかり平癒し、通常の生活に戻っていた。

 森岡は、久田帝玄と蔵王興産及び石黒組との関係調査を彼に依頼していた。この件は、かつて週刊誌に掲載されたこともあり、それほど難しい調査ではなかった。

「森岡さんの睨まれたとおり、久田貫主は石黒組から借金されているようですね。もっとも、直接貸しているのは、石黒組の企業舎弟である極東金融ですが」

「やはり、そうでしたか」

 森岡の顔が鈍く歪んだ。この石黒組への借金が、宝物の一件に関わっていると考えるのが妥当であった。

――あのとき、軽く受け止めた忠告が、先の醜聞に続き、このような難題に形を変えて、行く手を立ち塞ぐことになるとは……。

 過日の真鍋高志の忠告を再度思い出していた。

「それで、借金はどれくらいでしょうか」

「それは、はっきりとしませんが、二十億までだと思われます」

「二十億まで、と言いますと」

「森岡さん、これをご覧下さい」

 伊能は、長厳寺の登記簿謄本の写しを広げた。

「約三万坪の土地に設定された根抵当権です。その限度額が二十億円となっています。ですから、実際に借り受けた額まではわかりません」

「最大二十億か」

 そう言ったきり、森岡は黙り込んでしまった。福井正勝拉致監禁の際の解決金とは事情が違った。いかな森岡でも、二十億という金額はおいそれと動かせる額ではなかったのである。

 根抵当権とは、一定の範囲内の不特定の債権を極度額の範囲内において担保するために不動産上に設定された担保物権のことである。したがって、久田の借金は二十億円以下ということになるが、最悪のケースを想定するのが常識であろう。

 思案に耽る森岡を見た伊能は、他に用が無ければ失礼しますと言い、その場を去ろうとした。

 森岡があわてて呼び止めた。

「待って下さい、伊能さん。今日はもう一つ大事なお話があるのです」

「他に何か調査でも」

「いえ、調査の依頼ではありません」

 森岡は首を横に振り、

「端的に言いましょう。伊能さん、私と手を組みませんか」

「はあ? 森岡さんと私が手を組む……」

 さすがの伊能も困惑を隠せなかった。

「唐突なようですが、これまでの貴方の仕事ぶりを見させて頂いて、ずっと考えていたことです」

 森岡は決して思い付きではないことを強調した。

「具体的に言いましょう。貴方に我が社の社外取締役をお願いしたい。そして、僅かではありますが、私の持ち株の中から株も譲ります。逆に、私個人あるいは我が社も、貴方の会社にいくらか出資しましょう。そうすれば、貴方の会社が調査だけでなく、他に事業を拡大したい場合に支援が可能です」

 森岡は一呼吸入れ、

「どうでしょうか」

 と、伊能を正視した。

「あまりに突然のお話で、驚くばかりです。伺った限りでは、私には良いお話のようですが、森岡さんには何かメリットがあるのですか」

 伊能は遠慮気味に訊いた。

「ご心配なく、大いにあります。たとえば、此度の件の延長線上には、神村先生の法国寺貫主就任という次のステージもありますし、それとは別に、先生と私の夢の実現のため、全国の数十ヶ所を調査して頂く仕事もあります。その土地々の権力構造とか、地回りのヤクザとかね」

 森岡は話を続けた、

「それだけではありませんよ。これからの私の事業にも、伊能さんのお力が必要になってきます。伊能さんもご存知のとおり、我が社は二年後に新興市場への上場を計画しています。そして、上場後の事業展開として、M&Aも視野に入れております。その買収先の調査もお願いしたいと思っているのです。そしてさらに……」

 森岡は、味一番と榊原商店を含めた持ち株会社設立構想まで力説した。

 だが、そこまで言って唇をぎゅっと噛み締めた。

「いや、そうではない」

 森岡は独り言のように呟くと、肚を据えたような面をした。

「私との提携には、何か裏があるのですね」

 さすがは元公安畑のエリート警察官である。森岡の心中を瞬時に看破した。

「本当の目的は、伊能さんにブックメーカー事業を手伝って欲しいということです」

「ブックメーカーって、あの?」

 伊能は探るように問い返した。

「ええ、賭博の胴元です」

「しかし、日本国内は法令に抵触しますし、外国での事業となると厄介な問題が山積でしょう」

 伊能は、地元マフィアとの軋轢を示唆した。

「それが、英国のライセンスを取得することになったのです」

「英国の? そう言えば、七年前にも日本人が取得していましたね。えーと、確か神州(しんしゅう)組の縁者ではなかったですか」

「さすがですね。阿波野という先代組長の実子が絡んでいました」

 そう言った森岡の表情が一段と引き締まった。

「実は、今度そのライセンスを私が管理することになったのです」

「何ですと! ということは、まさか神王組と」

 伊能の声が思わず上ずった。

「ええ」

 と肯いた森岡は、蜂矢六代目からの要請を詳細に話した。黙って耳を傾けていた伊能は、話が終わると目を閉じて思案に耽った。

 退職したとはいえ、元キャリア警察官である。しかも伊能は、監視対象である暴力団の情報も耳にしていたし、今でも交流のある公安警察官は数多くいる。

 もし、自分が警察当局に情報提供すれば、森岡の立場は砂上の楼閣となる。森岡自身もそのことは十分承知のうえでの告白だ、と伊能は理解していた。

 長い瞑目だった。

 森岡はソファーから腰を上げ、窓際に立って外を眺めた。

 正面右手、西の遠方に位置する大阪湾に、太陽がその巨体をゆっくりと隠し始めていた。その残照が反射して海原に現れた黄金の道は、ビル群や家並みを染め上げながら、すっと手前に伸びて来て、ホテルの足元に横たわる寝屋川を隔ててすぐのところに聳え立つ大阪城を、いっそう勇壮な姿に浮かび上がらせていた。

「私の役割は何ですか」

 伊能の声が背中越しに届いた。森岡は振り返ると、

「渉外担当をしてお願いしたい」

「私が保険になりますか」

「それは何とも……ですが、少なくとも丸腰ではなくなります」

「ふむ」

 伊能は呻くように息を吐くと、再び瞑目した。

 言葉は悪いが、森岡はブックメーカー事業に伊能を引き擦り込みたいと欲していた。それは、ひとえに警察権力を盾にした保身のためであった。

「先ほど、神王組のバッジをもらったとおっしゃいましたね」

 はい、と肯くと、

「これです」

 森岡は背広の内ポケットから取り出して伊能に手渡した。それを見た瞬間、伊能が驚嘆の声を上げた。

「これはプラチナバッジではありませんか」

「そのようですね」

「そのようですねって、何を悠長なことをおっしゃっているのですか」

 伊能は少し怒ったような物言いになった。

「このバッジには特別な意味でもあるのですか」

 森岡は率直に訊いた。

「えっ? 貴方ほどの方でも、知らないこともあるのですね」

 今度は呆れた顔つきになった。

「プラチナバッジは、神王組でも二十数人しか所有できない最高幹部の証なのです」

 ああー、と森岡はようやく思い至ったように息を漏らした。

「そういえば、峰松さんは金バッジでした。金より上ということでプラチナですか……私としたことがお粗末でした」

「峰松とは神栄会若頭の峰松ですか」

「ええ。実は若頭とは、止むを得ない事情で親交があるのです」

 森岡は、神栄会との関わりの発端となった霊園地買収問題から、福地正勝拉致監禁事件までの経緯を説明した。

「なるほど、それで納得しました。蜂矢六代目は、一連の言動から貴方に白羽の矢を立てたということですね」

「そういうことになるのでしょうか」

 森岡はまるで他人事のように言った。

「六代目がプラチナバッジを渡したということは、よくよくの思い入れということになります」

「その良し悪しは曰く言い難しでしょうが」

 森岡は苦笑いをした。

「いかにも貴方らしいですが、さらに驚いたのは、まもなく売上一兆円の企業グループのトップに君臨するということです。只者ではないと承知していましたが、それほどまでとは……」

 伊能は呆れたように言ったが、先刻の様な皮肉の混じったものではなく、ある種の感動を含むそれであった。 

「少しお時間を頂戴できませんか。私の方も二、三相談したい方もいますので」

 言葉と裏腹にさばさばした表情である。

「もちろんです。返事は急ぎませんので、前向きに御検討をお願いします」

 そう言いながら、森岡は伊能に握手を求めた。伊能もそれに応え、二人はお互いの手を硬く握り締め合った。その手に伝わる感触から、森岡は『盟約なった』と確信した。

 猶予を求めた伊能ではあったが、このときすでに腹を決めていた。彼もまた、森岡の魅力に引き込まれていた一人だったのである。


 その日の夕刻、御山を登る一人の男がいた。

 男は額の汗を拭いながら、ふうーと息を吐くと、おもむろに後ろを振り返った。耳には紀の川の轟々たる流れの音が届き、瞼の裏には紀伊水道の青々とした海が浮かんでいた。

――何年ぶりだろうか。

 男は記憶を辿りながら、魂の故郷に戻ったような安らぎを覚えていた。

 ここは弘法大師空海上人が宗教活動の拠点とした真言密教の聖地高野山である。

 平家物語の高野巻には、

『高野山は都を離れること二百里。人里離れて、人の声もしない。緑の間を吹く風が木々を鳴らして、夕陽の光が穏やかである。八つの峰と、八つの谷は本当に心も澄み渡るだろう。花の様子は、霧の立ちこめた林に美しく咲いていて、僧侶の鳴らす金剛鈴の音は山頂の雲に響いた。寺のかわらを松が覆って、垣根には苔が生していて、歳月の長さを感じさせる』

 とある。

 まさに神秘に満ちた霊場と言えた。


 その男、神村正遠は僧衣ではなく、スーツ姿で訪れていた。他宗の高僧が足を踏み入れることを憚ってのことであった。瞑想の折、栄真が『八葉』と言った地はこの高野山だったのである。

 高野山とは特定の山の名ではなく、この八葉連峰一帯を総称した名である。金剛峰寺というのも、今の寺院がそう名付けられたのは明治になってからで、それまでは高野山と同じくこの一帯を金剛峰寺と呼んでいた。

 高野山への参詣道はいくつかあったが、神村は空海上人が歩いたとされる町石道(ちょういしみち)を登っていた。町石道は、空海上人が表参道の玄関として開いた慈尊院から壇上伽藍まで、一町(約百九メートル)毎に石塔を建てたことに由来する。その数、実に百八十基、距離にして約二十キロメートルにもなるが、時の権力者である藤原道真や白河上皇も歩いたとされる参詣道であった。

 神村は金堂の前でひとしきり読経をすると、一の橋口を渡った。そこから東に広がる一体が彼の目指す奥の院であった。

 神村は、ある人物を訪ねてこの地に足を踏み入れた。

 先の座主堀部真快(ほりべしんかい)大阿闍梨である。

 真快は齢八十八。金剛峰寺の座主にあったとき、主だった宗派が加盟する仏教会の代表も務めていた、日本仏教界の第一人者であった。

 神村は大学生のとき――といっても、すでに天山修行堂において二度の荒行を終えており、前途を嘱望された僧侶であったが――学問の師より真快を紹介されていた。

 神村には、滝の坊の中原是遠、天山修行堂の久田帝玄の、二人の宗教上の師がいたが、もう一人中国思想、哲学の教示を仰いだ学問上の師がいた。

『政財界の黒幕』の異名を取り、昭和日本の思想的支柱であった奈良岡真篤(ならおかまさあつ)、その人である。

 奈良岡真篤の先祖は、代々出雲松江藩・松平家の家老職を務める名門家系で、真篤自身は幼少期より『天童』との称賛を受けた大天才だった。

 僅か十二歳にして大正天皇に論語を説き、後年には昭和天皇も、度々四書五経の講義を受けられたと言われている。

 帝都帝国大学在学中に『中国哲学及び思想に関する一考』を著し、これが日本国内だけでなく、中国の識者からも大きな反響を呼ぶこととなった。とくに時の海軍中枢には信奉者が多く、日露戦争時の勇将で、海軍大学校の校長や海軍大臣の要職を歴任した五代大将などは、数十歳も年下の青年学者にも拘らず、初対面で弟子入りしたという逸話が残っている。また、太平洋戦争開戦時の連合艦隊司令長官・山辺少将も弟子の一人であった。

 そのため、戦後はGHQによりA級戦犯の嫌疑が掛けられることになった。思想的に軍部を戦争へと導いたと判断されたのである。

 その窮地を救ったのは、当時の中国国民党である。国民党の上層部は、類稀な中国思想の大家を亡き者にするのはあまりに惜しいと考えたのである。

 仇敵である中国からでさえも、畏敬の念を抱かれていた奈良岡真篤たるや並みの学者ではないことの証明であろう。

 その奈良岡の功績として世間的に有名なのは、戦後の詔勅発表(玉音放送)に加筆したことであろうか。原文を読んだ彼は、内容があまりに自虐的であったため、日本国と日本民族の誇りを保つための最低限の加筆を加え、昭和天皇の信頼を受けた。一説には、天皇自ら『奈良岡に相談せよ』との命があったという話も伝わっている。

 さらに、終戦直後のある内閣においては、閣僚の半数以上が奈良岡の薫陶を受けた者たちで占められたため、明治新政府をなぞって『昭和の吉田松陰』と称されたこともあった。

 戦後は、生家のある松江に戻って執筆活動に専念しようとした。だが、これほどの偉人を世間が放っておくはずがなく、晴耕雨読を望んだ彼の許には、政治家や菱芝、三友、住川といった旧財閥系企業のトップをはじめとする会社経営者、芸能界やスポーツ界など、ありとあらゆる各界、各層の著名人が指南を求めて引っ切り無しに訪れた。 

 中でも政界との繋がりは一際深く、後に『歴代総理の指南番』とも称されたように、国会での施政方針演説や国連総会での基調演説の原稿等を多数校正した。沖縄返還交渉に臨んだ際の、佐島総理の演説も奈良岡の手によるものである。

 神村と奈良岡の交誼は、神村が大学に入学して間もなく、奈良岡に宛てて手紙を送ったことに始まる。神村も中国思想を齧っていたことから、当然奈良岡が執筆した書物、論文も読破していたのだが、己の見解と異なる部分を、『認識違いである』と手紙で指摘したのである。

 神村は、後に若気の至りと大いに恥じ入ったが、当の奈良岡は神村を気に入り、直接会って『君の説はおもしろい』と笑ったということである。

 むろん、奈良岡の解釈に妥当性があったことは疑いようもない。しかし、一学生の意見にも耳を傾け、自分の主張を押し付けることなどしない。まさに、奈良岡の人間としての懐の深さ表わした逸話であろう。

 実は知る人ぞ知る、堀部真快はその奈良岡真篤の実弟なのである。

「お上人、久しぶりじゃの」

 真快は親しげに声を掛けた。

 神村はその口調から訪山を歓迎しているとわかり、ほっと息を吐いた。

「大変、ご無沙汰しております。御上(おかみ)の健やかな御様子を拝見致しまして、安堵致しました」

 神村は謙って頭を下げた。

「憎まれっ子、世の憚る、とはまさにわしのことじゃの」

 真快は、あははは……と哄笑した。

「たとえ憎まれっ子でございましょうとも、御上には仏教会のために長生きしていただかなければなりません」

 神村はどこまでも神妙だった。

「その様子では、何か出来(しゅったい)したようだの」

「はっ」

 神村はいっそう畏まった。

「久田上人が妙な動きをしているようだが」

「御上の耳にも届きましたか」

「隠居したうえは、生臭い話など耳にしとうないのじゃが、意に反してなんやかやと入って来る」

 真快は苦笑いをした。

「申し訳ございません。私も御上の耳を汚すことになりますが、今日は久田上人のことではございません」

 神村は恐縮して言った。

「いやいや。上人は別じゃ、気にせんで良い」

 真快は気遣うように言い、

「はて、久田上人のことではないとすると……」

 と首を捻った。

「もしや血脈のことかの」

「……」

 神村は何も答えなかった。

「よいよい。上人の立場であれば、口に出すのも憚れるじゃろうからの」

 真快は労わるように言った。

「本妙寺、法国寺と、あの者とぶつかっておるのかの」

「確証はございませんが、おそらくは、そのようなことかと……」

 神村は明言を避けた。

「それで、悩みに悩んでここに参ったか」

「御賢察のとおりでございます」

「先の門主栄興上人に遠慮してのことじゃの」

 はい、と神村は頭を垂れた。

「上人らしいのう」

 真快は慈悲深い笑みを零した。

「上人は、当世稀なる仏教徒である。これは疑いようもない事実であり、兄真篤が全幅の信頼を置いていたのが何よりの証拠じゃ」

「身に余るお言葉、恐れ入ります」

 神村は畳に額を擦り付けた。

「しかしのう、人が良過ぎるのが欠点じゃで」

 真快はもどかしそうに言うと、一転、

「良いか、神村上人。各宗派を問わず、仏教徒の本分は釈尊の教えを遍くこの世に伝えることじゃ。そのためには手段を選ぶな、とまでは言わんが、過ぎたる遠慮は仏教徒の本分から外れると思われよ」

 と叱咤した。

「では、このまま争いを続けて宜しいのでしょうか」

 神村は平伏したまま訊いた。

「あの血脈も、密教奥義伝承者たる上人ほどの者をそこまで苦悩させたのじゃ。そなたに敗れても以って瞑すべし、であろうな」

 真快は瞑目して答えた。

「ご教示、誠に有難うございました」

 と言って頭を上げた神村に、真快が、

「さて、久しぶりに会ったのじゃ、今宵はゆっくりとできるのだろうな」

 と微笑み掛けた。

「そのつもりで参りました」

 神村の顔にも笑みが浮かんでいた。

 真快が呼び鈴を鳴らすと、すぐに若い修行僧が膳を運んで来た。端からそのつもりで用意していたのだ。

「ちょうど今宵は満月じゃ。ちと早いが、名月を肴に久しぶりに般若湯を頂こうかの」

 真快が相好を崩すと、

「では、虫の音も愛でながら、昔語りなど致しましょうか」

 と、神村が答えた。

 宗派と世代の壁を超えて心の通じ合う二人は、夕闇が迫る中、酒を酌み交わしながらゆるりとした時を過ごした。

 そうした中、神村から酌を受けた真快が、

「おお、そうじゃ」

 と思い出したように口を開いた。

「何でございましょう」

「上人の傍におる、おもしろい男はどうしておるかの」

「私の傍と申されますと」

 神村は誰だろうか、と訝った。真快が心に留めている僧侶などいないはずだ、との思いがあった。

「なんと言ったかの」

 真快は首を傾げ、

「そうじゃ、森岡じゃ、森岡」 

 と、いかにも取って付けたように言った。

「森岡? 森岡洋介のことでしょうか」

 神村が言葉を検めた。

「その森岡じゃ」

「御上は森岡君をご存知なのですか」

 神村には信じられなかった。日本仏教界の頂点に立つ男が、一介の若者、しかも仏門とは関わりのない俗人の名を口にしたのだ。

「解せんかの」

「正直に申し上げて」

「実はの、神村上人」

 真快は顔を突き出すと、声を低めた。

「その森岡という男は、わしの親戚筋に当るのじゃ」

「何ですと!」

 さすがの神村も驚嘆の声を上げた。

「いったい、どのようなことでしょうか」

 神村は食い入るような目で訊いた。

「わしの先祖は、松江藩二十万石、松平家の家老職であったことは知っておろう」

「奈良岡先生より伺っておりました」

「そこじゃ」

 真快はまさに昔語りを始めた。

 江戸末期に国家老を務めていた奈良岡真広(まさひろ)は大変な釣り好きだったらしく、お忍びでしばしば島根半島に釣りに出掛けていたという。いつも泊り掛けとなるのだが、その際の宿泊地が決まって浜浦の灘屋だったのである。

 網元である灘屋は、船を出し釣りの徒もしていたのだが、あるとき真広は身の回りの世話をしていた灘屋の娘を気に入り側室にと願ったが、娘の方が堅苦しい屋敷暮らしを嫌ったため、灘屋での密会が続くことになった。

 やがて娘には子ができた。生まれたのは男児だったが、いまさら庶民に産ませた子など屋敷に迎え入れられるはずもなく、真広はそれなりの手当てを与えるしか術を持たなかった。

 ところが、である。兄である灘屋の当主は子に恵まれなかったため、結局その男子を養子に迎え入れ、後継としたのだった。

 当時の灘屋の威勢は、浜浦の他の網元や他村のそれらに比べ、特別に抜きん出ていたわけではなかった。だがその後、松江藩から漁業利権の取得や山林田畑の払い下げなどに便宜を図られた結果、島根半島界隈随一の分限者にのし上ったのである。この背後に、国家老である真広の後ろ盾があったと推察するのは容易なことであろう。

「そのような経緯があったとは、全く存じませんでした」

 神村は嘆息混じりに言った。

「わしもの、兄真篤からこの話を聞いたとき、俄かには信じられなかった。じゃが、兄は中国の思想、哲学だけでなく、国や郷土の歴史も研究しておっての、晩年には奈良岡家の系譜も調べておったようで、真広様が残した備忘録が菩提寺に保存されているのを探し出したらしい」

「失礼ながら、確かなことなのでしょうね」

 神村は未だ信じられぬという面で念を押した。

「うむ」

 真快は大きく肯き、

「正式な過去帳や系図には載っておらんが、真広様の備忘録にはの、我が子の証として、家紋付きの小刀と花押入りの添え書きを灘屋に送った、と記してあった故、間違いのない事実だと兄は言うておったわい」

 と断言した。 

「まさに、奇縁とはこのことでございますね」

 と唸った神村の脳裡に、ある疑念が浮かんだ。

「しかし、自坊に寄宿の折、彼がそのような品を所持していたようには見受けられませんでしたが」

「彼もまだ子供じゃったでの、一時親戚筋かあるいは菩提寺にでも預けられているのではないかな」

 真快の推量に、神村は得心顔で肯いた。

「本人はこの事実を知っておりましょうか」

「まだ知ってはおるまい。知ればほれ、必ずや上人に打ち明けるであろうからな」

 真快は、森岡の神村への敬慕の念を推し量るように答えた。

「ともかくの、兄は浜浦に人を遣わして灘屋を調べさせたところ、なんと上人、そなたが預かっているというではないか。さすがの兄も驚いたようだが、同時に安堵もしたようじゃ」

「安堵、とおっしゃりますと」

「もし、森岡が見どころのある男であれば、兄は自分の手元に置くつもりだったらしいが、上人の許にあれば学問と宗教、つまり教養と精神修養の一石二鳥だからの。そこで、自らは口出しをせず、上人に任せようと考えを改めたということじゃ」

「そうとはおっしゃりながら、奈良岡先生の森岡君を見る目は違っておりました」

「そうか」

「はい。いつ頃からか、先生との面談の折は、必ず森岡君の同道をお望みになられ、何かと親身なお言葉を掛けておられました。今思えば、親戚筋とわかり、慈愛のお心で接しられていたのでしょう」

 神村は、森岡が経王寺に寄宿して二年が経った頃、初めて奈良岡との歓談の席に森岡を伴った。以来、奈良岡が亡くなるまで、年に数度同席させていた。

 神村と奈良岡の歓談の場は、奈良岡が住まいしている松江ではなかった。彼自身は、松江に身を置き、世間から一線を画したつもりだったが、彼を慕う人々が親睦会を作り、数ヶ月に一度、東京に招いた。

 ホテルで講義を受けた後、主だった者が赤坂の高級料亭で酒宴を催し交誼を深めた。

 神村と森岡は、その席に招かれていた。むろん、奈良岡の要望である。そのとき、奈良岡が傍に招き寄せて、親しく歓談する一書生を皆が注視していた。

「というてもの、上人。なにぶん百五十年以上も昔、高祖父に遡ることじゃて、親戚と呼べるかどうかも怪しいものじゃ」

「いいえ。高祖父あろうと何代前であろうと、先祖が同じとわかれば情が沸くのが人という生き物でございましょう」

「そうかの」

「しかも、お話を伺ったからでしょうか、どことなく御上に面差しが似ている気がします」

「ほうほう」

 真快は童のように喜ぶ。

「彼が奈良岡先生や御上の親戚筋と伺って、見立てが正しかったと私も安堵致しました」

 神村がどこか誇らしげに言うと、

「どういうことかの」

 真快は探るような目で訊いた。

「それは、御上も気が付いておられるはず」

 覗き込むように問い返した神村に、真快は何も答えなかった。

「だからこそ、御上は彼のことを気に掛けておいでなのでしょう」

 さらに神村が問い質すと、真快は神村に酌をしながら、

「ちと、上人が羨ましいわい」

「私が羨ましいですと」

「人としての最大の喜びは、己の立身出世や栄達などではなく、土中に珠玉を見つけることじゃからの」

「真に……」

「わしも、いつお迎えが来てもおかしくないでの、一刻も早く会いたいものじゃ」

 と天を仰いだ。

「では、機会を見て私が事情を話し、御山を訪ねるよう薦めてみましょう」

「そこじゃ、こちらから知らせて良いものかのう」

 迷いを見せた真快に、

「彼ももう立派な大人です。どのような事実を知っても、心惑うこともないでしょう」

 と、神村が請け負った。

 ふふふ……と真快は思わず目尻を下げた。

「この世にまだ楽しみが残っておったかのう」

 そう言った真快が、一転して神妙な顔になった。

「さて、せっかく上人と会ったのじゃ。耳触りが悪いかもしれんが、一つ訊ねて良いかの」

「伝承のことでございますね」

 神村もまた緊張の声で答えた。

「候補の人物は見つかったかな」

「未だに……」

 神村は、申し訳なさそうに頭を下げた。

「それはよい。わしも上人の心中は察しているつもりじゃ」

「恐れ入ります」

「じゃがの、神村上人。栄興上人もすでにこの世を去り、わしもいつ何時お迎えが来るとも限らない。いや、この歳では奥義伝法灌頂は無理な相談じゃ。となると、万が一にも上人の身に何ぞあれば、継承が途絶えてしまうことになる」

「ご懸念はごもっともでございます」

 神村は瞑想の折の、栄真大聖人の苦言を思い出していた。

「そこでじゃ。誰かに伝承して貰えまいか」

「御上には、心当たりがございますか」

「ないこともない」

「どなたでしょうか」

「ここへ呼んでも良いかの」

「ここへ? 高野山のお方ですか」

「わしの最後の直弟子じゃ」

「それはそれは……」

 神村は畏まって首肯した。

「善快(ぜんかい)、神村上人の許しが出た。入って参れ」

 真快が隣の部屋に呼び掛けた。驚く神村に、

「般若湯を用意させたとき、呼んでおいた」

 と告げた。

 善快が入って来た。

 年齢は五十歳過ぎであろうか。細身だが、眉が濃く目元が涼やかでいかにも聡明な顔つきである。

「初めてお目に掛かります。三枝(さえぐさ)善快でございます。かねがね神村上人の御高名は耳にしておりました。宜しく御指導賜りますようお願い申し上げます」

 善快は平伏した。

「神村正遠です。こちらこそ宜しくお付き合い下さい」

 神村は軽く会釈を返した。

「善快は真言学徒きっての秀才での。わしの弟子の中では随一の器量の持ち主じゃ」

「それは素晴らしい」

 神村は素直に称賛した。

「とんでもございません。大阿闍梨様の買い被りでございます」

 善快は恐縮して言った。

「いえいえ。御上がこれほどまでにおっしゃるのです。実に頼もしい限りです」

「もっとも、他宗に目を向ければ上には上がおるがな。のう、善快や」  

 問われた善快は、

「承知しております」

 と、微笑みながら神村に視線を送った。

「どうじゃの、神村上人。上人が落ち着いたら、この善快に伝承してくれまいか」

「御上の御意志に否など申すはずがございません」

「いや、礼を言いますぞ、上人」

 と、真快が居住まいを正して深々と頭を下げた。善快も真快に倣った。

「お二人共、どうぞ頭をお上げ下さい。元はと言えば、御上から伝承されたものです。御上の秘蔵弟子にお伝えするのは当然のことでございます」

 神村は恭しく言った。

 初秋の夜長、月光はますます冴え渡り、松の木の根元でチロチロと鳴く松虫の音色が風雅な時の流れに色を添えていた。







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