第17話  第三巻 修羅の道 火種

 八月十三日、森岡洋介は旧盆に合わせ、山尾茜を伴い故郷の浜浦へと向かった。

 実に十六年ぶりの帰郷である。

 坂根好之と南目輝も同行させた。坂根の実家は近隣の村、南目のそれも車で一時間ほどの距離にある。

 他方で蒲生亮太には休暇を与えた。

 入社以来、勝手の違う職種で息を吐く暇もなかっただろうし、森岡の故郷であるから何事も起こらないであろうという判断だった。

 茜と結ばれた鳥取での夜、森岡はその場で求婚した。彼女から良い返事を貰ったことで、夏に先祖の墓参りをしようと思い立っていたのである。

 先妻である奈津実との結婚は浜浦を出て僅か四年後のことだった。そのため、まだ故郷に対するわだかまりが残っており、墓参や親戚との交流をする気にはなれなかった。

 だが、それから十一年が経ち、森岡もそれなりに分別が付いたということであろうか。これまで煩わしさを理由に避けていた冠婚葬祭に絡む諸事が、人の世では肝要なのではないかと思い始めていたのである。

「痛い!」

 腕に痛みを覚えた洋介は、思わず悲鳴を上げた。

 横を向くと、茜が睨み付けている。

「さっきから、どうかしたの」

 と口を尖らせた。

 車が吹田インターチェンジから中国自動車道に入った頃より思案に耽っていた森岡は、あれこれと浜浦について訊ねた茜に生返事を繰り返していた。

 そこで、業を煮やした彼女が森岡の二の腕を思いきり抓ったのである。

「ごめん、何の話やったかな」

 森岡は腕を擦りながら訊いた。

「もう良いわよ。それより、何か気になることでもあるの」

「うん?」

 森岡は、一瞬戸惑いの色を見せた。

 別格大本山・法国寺の新たな貫主に久田帝玄が就任したことで、本妙寺に関しての憂いは去ったが、森岡の身辺が落ち着くことはなかった。彼は、福地正勝拉致監禁事件に続き、新たな難問を二つ抱えていたのである。

 その一つが、ウイニットのライバル会社出現の予感だった。

「いやな、榊原の爺さんから電話があったんやが、爺さんを口説きに来た男がおったということやねん」

 と、坂根や南目も初めて耳にする話を口にした。

「榊原さんを口説くとは、どういうことですか」

 坂根が敏感に反応した。

「それがな。寺院を介在させたインターンネット通販を事業化したいから、爺さんに協力して欲しいということやったらしい」

「それやったら、兄貴発案の寺院ネットワークシステムと同じやないか」

 南目も興奮気味に言った。

「そうや、俺と同じ仕掛けを考えている奴がおる、ということやな」

「いったい、どんな奴や。兄貴のアイデアをパクったんと違うか」

「輝、まあそういきり立つな。世の中は広い。俺と同じ事を思い付いた奴がおっても不思議はないやろ」

「そうだとしても、私も気になります。どういう人物ですか」

 森岡の声に懸念の色を感じた坂根が訊いた。

「東京のサイバーネットワークという会社の、鴻上智之(こうがみともゆき)という男や」

「聞いたことがありませんね」

「設立されたばかりの新しい会社でな、社長の鴻上は、三十代半ばの元大手銀行員らしい。真鍋さんに確認してもろうたんやが、なかなかに優秀でな、将来の頭取候補にも挙がっていたらしい」

 森岡は胸の内を悟られないように、つとめて冷静さを装った。


 鴻上智之が榊原壮太郎の許を訪れたのは半月前のことだった。

 その前日、榊原商店と取引のある、東京の浄土宗覚善寺(かくぜんじ)の住職から電話があり、鴻上の訪問を仲介していた。

 鴻上は、榊原の素性を知ったうえでの大阪入りということになる。

「榊原さん、私は寺院を機軸とした檀家向けのインターネット販売として二つの事業を考えています」

「それはまた、どのようなことかな」

 榊原は一応興味のある振りをした。

 だが、

「一つは、簡易の仏壇販売です」

 鴻上の放った一言に、

「うっ」

 と、榊原は思わず唸った。

「さすがにおわかりのようですね」

 鴻上は我が意を得たり、という顔をした。

 簡易の仏壇とは、組み立て式の仏壇のことである。核家族化が進み、マンションや団地住まいの家族が多くなる中、故郷に実家が存続している場合は問題なかったが、昨今では廃屋とすることが頻繁になり、仏壇をどうするか悩むケースが増大していた。

 狭い住居に一戸建て用の仏壇を入れるスペースはなく、さりとてテーブルとかダンボールのような粗末な拵えでは祖霊に対して不敬となる。

 そこで、引越しにも対応できるよう組み立て式の仏壇を製造、販売しようという折衷案を考え出したのだという。

 商売柄、榊原はその潜在的な需要を見込んでおり、事業化へ向けて計画を練っているところだった。鴻上の訪問は、その矢先のことだったのである。

「なかなか良いところに目を付けたの」

「恐れ入ります」

「それで、もう一つは」

「インターネット霊園です」

「ほう」

 榊原は、これもまた予期していたような声を出した。

「先ほどの件とも絡みますが、とにかく霊園地が高価で、墓地を持てない家が急増しています。また、故郷にお墓はあるものの、忙しさにかまけ墓参できないので、せめてパソコン上でお参りをしたいという者も多いのです」

「なるほど、事業の内容はわかったが、わしにどのような協力をせよというのかな」

 榊原は察しの付いた面で訊いた。

 現在でも全国の寺院を廻っている彼は、ある程度の実情を掴んでいた。都会の寺院では地価高騰で墓地が持てず、地方の寺院では故郷を捨て都会に出たため、それぞれ永代供養を依頼する者が急増していた。森岡もまた後者の一人である。

「まずは、寺院ネットワークのために、各寺院をご紹介頂きたいのです」

「それだけで良いのか」

「御社が組み立て式仏壇の製造会社を選定し、私どもに卸して頂けませんか。それも、最高級の檜製から、安価なプラスチック製まで幅広く品揃えして貰えれば有難いです」

「販売はそちらでするということやな」

「はい」

「申し出は良くわかった。なかなかの計画だが、わしもこの年じゃでの、新たな事業を起こすのも億劫じゃで、少し考えさせて欲しい」

 むろん、榊原には承諾する意思などない。だが、森岡が後を継ぐのは数年先である。時代の流れがそれまで待ってくれるかどうか、一抹の焦りを抱いたのも事実だった。

「もちろんです。良いご返事をお待ちしております」

 鴻上は丁重に頭を下げて、榊原の許を去った。


「今後はインターネット隆盛の時代になるでしょうから、こういう起業家が雨後の筍のように出て来るでしょうね」

 坂根は警戒の色を滲ませた。

「うごのたけ?」

 南目が馬鹿面をして訊いた。

「雨後の筍。雨が降った後に、筍が一斉に顔を覗かすように、物事が相次いで起こることよ」

 森岡が嫌味を浴びせる前に、茜が助け舟を出した。さすがに、北新地の最高級クラブを経営するだけのことはある。高校中退とはいえ、彼女は実に博学であった。

 高級クラブのママは押し並べてそうだが、一流と言われるホステスたちもまた、その知識は極めて豊富である。高級店になればなるほど、そこで働くホステスたちは経済界を中心に、政界から文化芸能界、スポーツ界と、あらゆる分野の一流人の接客に努めなければならない。

 そのため、新聞や雑誌から話題を拾うだけでなく、茶道、華道といった習い事で教養も深めている。

 茜に関して言えば、新地の名門クラブ花園のママ・花崎園子に見出されてから、心機一転一流のホステスを目指し、毎週二回、表千家宗匠の室町周鶴(むろまちしゅうかく)に師事し、盆点(ぼんてん)の目録を得ていた。表千家では上から三番目の許状で、教授の資格を有する高弟である。

 茶道だけでなく、華道は未生流の師範級、着物もホステスの着付けを熟すほどの腕前である。さらに英会話も、高学歴の森岡や坂根より堪能であった。まさに才色兼備の一言に尽きよう。

 その茜の折角の気配りにも拘らず、梅田のパリストンホテルでの光景を思い出していた南目は不思慮にも、

「筧のように脅しといたらええやんか」

 と口を滑らせてしまい、

「あほ。筧とは違うやろ。鴻上は真っ当な事業を計画しとるだけや。しかも、俺の考えが及ばんことまで思い付いとる」 

 森岡に一喝されて肩を落とす破目になった。

「それで、榊原さんはどうされるのでしょう」

 坂根が話の先を訊いた。

「返事は留保したらしい」

「まさか、お受けになるのでは」

「心配するな、爺さんにその気はない。事業化するんやったら、俺が後を継いでからやろうが、その場で断るのもどうかと思い、保留にしたらしい」

「じゃあ、何が気になるの」

「う、ううん」

「鴻上智之という男が覚善寺を訪れたのは、偶然なのかそれとも社長と榊原さんの関係を知ったうえで、紹介を願ったのかということではないでしょうか」

 言葉に詰まった森岡に代わって坂根が答えた。

「それは俺も考えたが、鴻上が幾つもの寺院を廻っていれば、覚善寺に行き当たったとしても不思議ではないな」

 森岡は忌々しげに吐き捨てた。

「そ、それは、そうですね」

 怯むように同調した坂根は、森岡がなぜ不機嫌なのかわからなかった。

「じゃあ、何を苛立っているの」

 茜が重ねて訊いた。

「寺院ネットワークシステムの事業化を思い付いてから、もうすぐ一年や。せやけど、本妙寺の件も決まっとらんし、新しいスポンサーも見つかっとらんから、天礼銘茶の林さんも焦れとるやろうと思うてな」

 寺院ネットワークーステムとは、神村正遠が本妙寺の貫主に就いた後、天真宗を中心に榊原と付き合いのある全国寺院にパソコン配備を展開し、檀家管理や会計サービスを無料で行うシステムである。交換条件として、緒寺院には商品とカタログを置かせてもらい、直接販売や通信販売を斡旋してもらおうというものである。

 その初期費用の半分は、世界最大のウーロン茶製造販売会社の天礼銘茶が負担する予定だが、残り半分を出資する協賛企業を獲得する必要があった。

 一旦は東京に本社を置く大手洋菓子メーカーのギャルソンが名乗りを上げたが、会長の柿沢康弘と元ウイニット社員の筧克至及び宇川義実の裏切りに遭い頓挫していた。

 初期費用の内訳は、パソコン、プリンター等のハードウェアー一式が一寺院当り約三十万円、第一次計画は一千寺院を対象としていたので、合計で三億円となる。加えて、ソフトウェアー開発費用として二億円が必要であった。

 バックミラー越しに森岡の表情を窺っていた南目が、

「兄貴、大阪へ帰るまでに、親父に会ってくれへんか」

 汚名挽回とばかりに意気込んで言った。

「おう。お前の親父さんとは久しく会っておらんからな、大阪へ戻るとき挨拶に伺おうと思っていたところだ」

「いや、そういうことやないのや」

 南目は含みを持たせた言い方をした。

「どういう意味や」

「兄貴が今言った、スポンサーの件やけどな。親父が力になりたい、ということやねん」

「スポンサーの件で力になるって?」

 森岡は思わずオウム返しをした。

「お前の親父さんが金を出すということか」

「どうやら、そのつもりらしい」

「せやけど、お前んとこは和菓子やろ。寺院ネットワークで販売するんは難しいんと違うか」

「それがな。最近は彩華堂(うち)も、伝統的な和菓子に加え、創作菓子も創っとるらしい。中には、洋菓子との折衷案というか、日持ちのする菓子もあるらしいで」

「けどな……」

 森岡は思案顔で言った。

 南目は森岡の心中を察していた。

「うちぐらいの会社では無理やと思うとるんやろ」

「い、いや」

「わかっとるんや。せやけどな、うちも結構捨てたもんやないで。売上も利益も、あのギャルソンの四分の一ぐらいはある。それに、うちだけやなくて山陰の業界団体や個人的に付き合いのある全国の同業者にも声を掛け、結構賛同を集めているようやで」

 弁解しようとした森岡に南目が内情を明かした。

「親父さんがそんなことを……」

 森岡は言葉を失った。

「初期費用の半分、二億五千万円を彩華堂だけで負担するのは無理でも、十社集まれば一社当り二千五百万円になる。これならうちでも十分いけるで」

 南目は得意げに胸を張った。

「でも輝さん、ライバル会社が増えれば、彩華堂さんの売上に影響するんじゃないですか」

「好之、それが素人考え、と言うんや。その土地々の特産品なら別やが、一般的な商品というのはな、単品より品揃えの多い方が消費者の購買意欲を刺激し、その相乗効果で全体の売上が伸び、結果的に個々の売上も伸びるんや」

 坂根の懸念に、南目は商売人の息子らしい一面を覗かせたものだ。

「しかし、お前の親父さんに甘えてええんか」

「当たり前やがな。親父が、昔兄貴に命を助けてもろうたことを忘れるはずがないやろ」

「洋介さんが、輝さんのお父様の命を救ったとはどういうことですの」

 初めて耳にした茜が訊いた。

 南目輝は、経王寺で同居していた折、心臓疾患で倒れた父昌義の手術の際、森岡が父の特殊な血液の収集に尽力してくれたことを話した。

 昌義は退院後、感謝の気持ちを伝えるため、輝を介して森岡の元を訪れていた。

「親父は、生きているうちにあのときの恩を返したいと思うとったらしい」

「情けは人の為ならずって、こういうことをいうのね」

 茜がしみじみとした顔で呟いた。

「俺が世話になっていることにも礼を言いたいらしい。俺が更生したのは、神村先生というより兄貴のお陰やからな」

 南目はそう言うと、口調を変えた。

「実は、親父は以前から兄貴に会いたがっていたんやが、兄貴は忙しい身やったから、ずっと俺が勝手に自重を促していたんや」

 と実情を明かした。

「あほ。なんぼ忙しい言うて、お前の親父さんが会いたがっておられたのなら、いつでも会うがな」

 森岡はぶっきら棒な口調とは裏腹に、優しい表情を浮かべていた。昌義の情けに、心の中で手を合わせていたのである。

「じゃあ、今回は輝の親父さんに甘えるとするか。ただ、榊原の爺さんの縁やから、林さんが離れるというは無いやろうけど、鴻上のような男も出て来とるから、これ以上の停滞は許されん。先生が本妙寺の貫主になられたら、一年の遅れを一気に取り戻せるよう準備に気張らにゃならんな」

 森岡は自らを鼓舞するように言ったが、その実、先刻の坂根の『鴻上が覚善寺を訪れたのは偶然か否か』という言葉は、彼の懸念そのものであった。


 それは鴻上智之が榊原の許を訪れた直後であった。

 幸苑に於いて榊原、福地との会食を終えた森岡は、ある存念を抱いて東京へと飛んだ。大手総合商社三友物産の専務で、神村の幼馴染でもある日原淳史(あつし)に面会を求めたのである。

 森岡は、持ち株会社構想を抱いたときから、味一番の社長として彼に白羽の矢を立てていた。

 三友物産の本社ビルは、日本経済の中心地ともいうべき、千代田区丸の内にあった。受付で姓名、用件を述べると、受付嬢が直々に応接室まで案内した。坂根と南目、蒲生を喫茶コーナーに待機させ、森岡は一人で面会に臨んだ。

 案内された部屋は、巨大な楕円卓に高級背凭れ椅子が三十二脚もあった。応接室というよりは会議室のようである。

 十分ほど待ったであろうか、扉が開いてにこやかな顔をした日原が入って来た。

「よう、森岡君。久しぶりだな」

 森岡は素早く立ち上がると、スーツの前ボタンを閉め、

「御無沙汰しております。お元気でしたか」

 と軽く頭を下げた。

「元気だけが取り柄のようなものでな。相変わらず、毎週球を転がしておる」

 日原はゴルフのスイングをして見せた。

「それは何よりです。八十は切れましたか」

「それだ。スコアだけは上手くいかんでな」

 苦笑いをした日原だったが、すぐさま折り畳んだ。

「お上人は元気でおられるかな」

 日原淳史は五十七歳。中肉中背で、切れ者というよりその篤実さが滲み出ているような面立ちをしている。神村と同じ鳥取県米子市の生まれで、神村より一歳年上だった。日原家は、神村一家が一時寄宿していた大経寺の檀家役員をしており、神村と日原は幼馴染だった。

 京都の京洛大学から三友物産に就職した日原は、順調に出世を重ね、大阪支社長を経て、二年前本社に戻り専務の要職に就いた。大阪支社長時代に神村から紹介されたのだが、その後二人は神村のいないところでも飲食を共にするほど懇意になった。

 日原が、出雲大社の流れを汲む由緒正しき浜浦神社の大祭を観光するため、幾度も浜浦を訪れていたことがお互いの距離を縮めたのである。

「お元気はお元気ですが、例の件が揉めておりますので、心労はいかばかりかと案じております」

 森岡は気遣うように言った。

「うむ。私もこれほど厄介なことになるとは思ってもいなかったが、今日の用件とはそのことかな」

「いえ。今回は私事で御相談がありまして、時間を取って頂きました」

「君自身の事で私に相談事とはまた珍しい。何かな」

「失礼ながら、転職される気はございませんか」

「転職? 私が、かね」

 突然のことに、日原は目を見開いた。

 はい、と肯いた森岡は、福地正勝の身に降り掛かった一連の騒動を詳細に話し、日原に味一番株式会社の社長に就いてもらえないかと持ち掛けた。人柄も承知しており、大商社である三友物産の専務であれば、このうえない適任者であった。

「これはしたり……」

 日原は予想だにしなかった転職話にしばらく沈思したが、やがておもむろに口を開き、

「何時の話かな」

 と確認した。

「福地社長の年齢を考慮致しますと、遅くとも五年後ぐらいにはお願いしたいのですが」

「五年後か」

 日原は呟くように言うと、再び目を瞑った。

 大都会の一角とは思えないほど、深閑とした時間が流れていた。正面のビルの窓に夕日が反射して、木漏れ日のような光を散りばめていた。

「承知した。その話、前向きに考えよう」

 日原がそう言ったのは、森岡が熟れた果実のような洛陽に見惚れていたときだった。

「君も知ってのとおり、どうせ三友物産(ここ)ではトップにはなれそうもないし、いずれ子会社に流されるのがお決まりだからな」

 日原は自嘲した。

 たしかに日原は優秀だった。豪快さはないが、誠実で真面目、地道に努力を重ねるタイプだった。四十七歳で取締役に抜擢され、出世コースといわれる大阪支社長も務め上げた。だが、彼は京洛大学出身であり、帝都大学閥が幅を利かせる三友物産において、社長まで上り詰めるのは至難の業といえた。 

「有難うございます。福地の義父も喜ぶと思います」

 森岡は安堵の表情で頭を下げた。

「私にも了解を得ねばならない人もいるから、正式な返事は後日ということにしてくれるか」

「承知しました」

「しかし、君はとんでもない奴だな。あのお上人が目を掛けられたほどだから、只者ではないとは思っていたが、まさか縁が切れたはずの君に、味一番を任せたいと望まれるとはなあ」

 日原は感心しきりで言った。

「だたただ運が良いだけです」

 森岡は謙遜した。

「俗に、運も実力のうちと言うが、運だけで成し遂げられるものとそうでないものがある。君の場合は運も有るだろうが、それ以上に君の能力だと私は思う」

 日原は何度も肯くと、突如笑みを浮かべ、

「ところで、今夜は期待して良いのだろうな」

 と意味有り気な口調で言った。明らかな饗応の催促である。

 森岡が相当な資産家であることを知っていた日原は、大阪支社長時代にも、しばしば接待の催促をしていた。断っておくが、日原が強欲で集り癖のある人間だというのではない。

 彼は、そうしてわざと借りを作ることによって、此度のように森岡が気楽に相談できる素地を整えていたのである。森岡は榊原や福地、そして日原といった目上の人物に、こういった親心を抱かせる徳も備えていた。

「もちろんです」

「ならば、他に二人を同席させたいのだが、良いかな」

「構いませんが、どなたでしょうか」

「一人は平木さんだ。もう一人はその場で紹介するよ」

 日原は謎めいた面で言った。

 平木直正は警察庁内閣官房審議官であり、探偵の伊能剛史を紹介してもらった人物である。森岡に否はなかった。


 森岡が接待の場に選んだのは、銀座の六兵衛だった。かつて別格大本山法国寺の貫主に久田帝玄を担ぎ出すため上京した際、決起集会の場所となった高級寿司店である。

「伊能は役に立っていますかな」

 平木の穏やかな面には、後輩への気遣いが看て取れた。

「それはもう大変な力添えを頂いております」

 森岡は緊張の面で答えた。何といっても、次の次には警察庁長官間違いなし、と呼び声の高い平木である。森岡も普段とは勝手が違った。

「先日、暴漢に遭われたようで、申し訳ないことをしました」

 森岡が頭を下げると、平木の顔が引き締まった。

「そのことは私も承知している。上がって来た情報では、どうやら虎鉄(こてつ)組が関与しているようだ」

「虎鉄組ですか」

 森岡も顔を顰めた。

 広域指定暴力団・虎鉄組は、神戸神王組、東京稲田連合に次ぐ大組織である。構成員の数では神王組、稲田連合の後塵を拝しているが、合従連衡や抗争の果てに傘下に組み入れるなどして巨大化した二団体とは違い、江戸時代の香具師に始まり、幕末、明治の博徒が源流の虎鉄組はすこぶる結束力が強い。

 そのため一度抗争ともなれば、最後の一人まで戦い抜く気概を持つ組織であり、組全体が神栄会のようなものなのである。したがって、神王組としても決して侮れない相手であった。

「暴対法施行の下、虎鉄組がわざわざ警察を挑発するようなことはしないだろう。とすれば、裏で彼らを動かした者がいるということになるが、残念ながら公安部もそこまでは掴めていないようだ」

 平木は、森岡と同様の見解を示した。

「公安は何も掴んでいないのですか」

 森岡はいかにも意外という顔つきで言った。

「少なくとも私の耳には入っていないが、君は何か知っているのかね」

「伊能さんは何も話しておられないのですね」

「取り調べの刑事には、頑として暴力団風の男たちに殴打されたとの一点張りだったらしい」

「うーん」

 森岡は視線を落として考え込んだ。

「何か知っているのなら、話してくれないか」

 平木の声は催促を超えて、強制の色を滲ませていた。

「伊能さんが話しておられないのに、私が話すのも気が引けますが」

 森岡はそう断りを入れ、

「暴漢の口から天真宗の高尾山の名が出たそうです」

 と唯一の手掛かりを告白した。

「高尾山?」

「総本山の護山です」

「はて?」

 平木は訝し気な顔をした。

「高尾山には瑞真寺が有るのです」

 はっ、と平木は何かを閃いたように眼光が鋭くなった。 

「瑞真寺?」

 日原が怪訝な声を上げた。

「瑞真寺とはいかなる寺院かね」

「代々、宗祖栄真大聖人の血脈家が継ぐ寺院ということしかわかりません」

 森岡は伊能を見舞った後、すぐさま榊原に連絡を入れ、瑞真寺の簡単な縁起を聞いていた。

「宗祖の血脈か……なるほど、なるほど」

 平木が思案げに俯くのを他所に、

「天真宗内にどれほどの影響力を持っているのだろうか」

 と、日原が興味深げ訊く。

「そのあたりは全く未知数ですが、先ほどの平木さんのお話では、暴力団を動かすことができる力があるということになりますね」

 森岡がそう答えると、平木が吹っ切れた表情で口を開いた。

「ようやく心の霧が晴れたようだ」

「どういうことでしょうか」

「瑞真寺の縁起を聞いて、伊能の古い因縁の謎が解けたのだよ」

「やはり、そうですか」

 森岡は、平木に同意するかのように言った。

「やはり? 森岡君は伊能が警察を辞めた経緯を知っているのかね」

「ええ。御本人から伺いました」

「本人から、か」

 平木はそう呟き、

「伊能は君に絶大な信頼をおいているようだね。過去の経緯もそうだが、今度の災難も君だけには真実を話していることからもわかる」

 と納得したように言った。

「私には話せないことでしょうか」

 一人蚊帳の外に置かれていた日原が願った。

「実は……」

 日原は、伊能が警察を辞することになった経緯を詳細に話した。  

「では、宅間議員の事情聴取中止を監物氏に依頼をしたのが瑞真寺だということですか」

「おそらくは……」

「しかし、いまさら昔の事を蒸し返すはずもないから、伊能を襲った理由は此度の動きを嫌ったものだと考えるしかあるまい」

「そうなると、私にも責任があります」

 いや、と平木は首を振った。

「仕事上のことだ。君が責任を感ずることはない」

「恐れ入ります」 

 森岡は、ほっと安堵の息を吐いた。

「幸い法国寺の件は決着が付きましたので、これ以上の狼藉はないと思います」

「そうかな」

 平木は咎めるような目で森岡を見た。

「と、おっしゃいますと?」

「一連の騒動の裏には、思ったよりも大きな思惑が働いているかもしれないぞ」 「うっ」

 森岡には返す言葉がなかった。

 正直に言えば、彼もそのように思い始めていたところだった。たしかに法国寺の件は落着した。だが、藤井清慶に久田の暗部を教えた人物は特定できずにいたし、『R』の実態も解明出来ていなかった。

「監物氏が相手側に付いているとなると、ある程度警察権力をも押さえ込むことができる。これは少々厄介なことになるかもしれない。森岡君、君も身辺に十分気を付けた方が良い」

 平木はいっそう険しい表情になった。

「ご忠告、肝に銘じておきます」

 森岡は神妙に答えた。

 虎鉄組とて、神栄会の若頭である峰松重一との関係は掴んでいるだろうから、迂闊に手を出すことはないと思われたが、森岡が警察庁最高幹部の平木の前で、それを口に出すことは厳禁だった。


 六兵衛を出た森岡は、日原を銀座でも最高級のクラブである『有馬』へ招待した。有馬は森岡が真鍋興産グループ・三代目御曹司の真鍋高志と初めて会った夜、彼に招待された店である。以来、上京した折は顔を出し、顔馴染みとなっていた。

 有馬は銀座でも指折りの老舗の名店である。

 開店は昭和三十年代の後半で、ママの勝代の実母多恵(たえ)が始めた。辰緒(たつお)という源氏名で赤坂の売れっ娘芸者だった多恵は、当時首相だった曽根隼人(そねはやと)に見請けされて愛人となり、有馬をオープンさせたのである。

 時の権力者の肝煎りである。有馬はたちまち政界、財界の社交場となり、活況を呈するようになった。勝代は認知こそされていないが、紛れもなく曽根の実娘であり、大物政治家の血を受け継ぐだけあって肝の据わった豪気な性格だった。

 所用のため、食事だけで退席した平木直正に代わり、森岡と同年代の男性が顔を出した。日原が紹介したいと言った人物だと思われた。

 交換した名刺には「富国銀行参事・辰巳拓也(たつみたくや)』とあった。銀行の社員が役職名ではなく、階級のみを記載していることに違和感を抱いたが、日原の説明で謎が解けた。

「辰巳君は現在、労組の委員長をしているのだよ」

 辰巳は、森岡より一歳年上の三十七歳。

 中背のがっしりとした体躯で精悍な顔つきだが、森岡には目に険があるように見受けられた。それにしても、この若さで労働組合の委員長を務めるとは驚きであったが、森岡をいっそう驚嘆させたのは日原が付け加えた言葉だった。

「森岡君、労組の委員長と聞くと、出世ラインから外れているように思うかもしれないが、富国銀行の場合は全く逆でね。役員候補生には必ず労組の幹部を務めさせるのが慣習なのだ。しかも、三十七歳で委員長というのは、いわばトップまで視野が広がっているということだ」

「それは素晴らしい」

 森岡は思わず辰巳を見て唸った。

「とんでもありません。日原専務の買い被りですよ」

 辰巳は謙遜したが、森岡は彼が帝都大学経済部卒と聞いて、営業畑の日原が二十歳も若い辰巳と交誼を結んでいる理由がわかった気がした。

 日原は経済人の親睦団体である東都ライオンズクラブに入会していたが、同じく会員である富国銀行の役員から辰巳を紹介されたのだという。東京ライオンズクラブは、経団連や経済同友会、あるいは商工会議所とは異なり、あくまでも私的な親睦団体である。

 しかし、そこは日本の中心東京である。錚々たる政財界人が名を連ねていた。その中で辰巳が最年少の会員だったことからしても、富国銀行の彼に対する期待の高さが窺えた。

「ところでウイニットさんは上場を計画されているそうですね」

「ご存知でしたか」

「富国(うち)も株の引受銀行になっていますからね」

「大銀行の富国さんにとって、ウイニット(うち)のような小さな会社はゴミみたいなものでしょう。それなのに労組の委員長をしている貴方にまで情報が入るのですか」

「正直に申し上げて、通常であれば入りません。ですが、前もって日原さんから貴方のお名前を伺っていましたので調べさせてもらったのです。IT企業として将来有望な会社だと承知しています」

「有難うございます」

 辰巳の真摯な物言いに、森岡は素直に頭を下げた。

「ITと言えば、君のライバルだった……えーっと、何と言ったかな、彼は……」 もどかしそう記憶を辿る日原に向かい、

「鴻上のことですか」

 辰巳が渋り口調で言った。

――IT、鴻上だと?

 森岡は思わず声を出しそうになった。真鍋高志からの元銀行マンという情報と重ね合わせれば、榊原を訪ねた鴻上智之という男と同一人物の可能性が高い。

「そうそう、その鴻上君もIT企業を設立したそうじゃないか」

「ええ」

「同僚の方がIT企業を?」

 森岡は興味有り気に訊いた。といっても、同業者としてのそれを装ってである。

「私と同期入社でした」

「どのような分野ですか」

「そこまでは……」

 知らない、と辰巳は首を左右に振った。

「では、調べることはできますか」

「それはちょっと……」

「何かあるのかね。森岡君」

 困惑顔の辰巳に日原が助け舟を出した。

「そういうわけではないのですが、ITと聞くと気になってしまいまして」

 森岡は差し障りが無いように弁明した。

「ITといってもまだ設立したばかり、上場間近の君の会社とは比較にならんだろう。それに辰巳君と鴻上君は頭取候補のライバルだったのだ。鴻上君の退社で彼に軍配が挙がったのだから、二人は疎遠だろうよ。なあ、辰巳君」

「はあ」

 辰巳は日原の言葉を受け流した。森岡の目には、何やら曰くがありそうに映っていた。

 そのとき、ママの勝代がホステスを連れて席にやって来てしまい話が途切れてしまった。

「美佐子ちゃんです。宜しくお願いします」

 勝代から紹介された美佐子は、森岡と日原へ一瞬目を配っただけで、辰巳に目を留め、

「まあ、奇遇ですこと」

 と驚いたというより皮肉の籠った声を上げた。

 年は二十五歳前後か、日本人離れした彫りの深い端正な顔立ちと透けるような白い肌。百七十センチほどの長身でスタイル抜群の美女だった。森岡は、その後の雑談で日本人の父とロシア人の母を持つハーフと聞いて納得した。

「辰巳君は彼女を知っているのかい」

 日原が興味有り気に訊いた。

「知り合いというほどではありませんが」

「前の店によくお見えになっていたのです」

 口を濁した辰巳に比べ、美佐子は頓着がなかった。

「まさか、このお店でお会いできるなんて思いも寄らなかったですわ」

「僕も君が店を変わったとは聞いていたが、まさか有馬とはね。普通なら、再会することもなかっただろう」

 どこか落ち着かない様子の辰巳に、

――二人の間には何かあるな。

 森岡は二人の間に男女の関係を直感した。辰巳は新婚らしいが、エリートサラリーマンと、クラブのホステスの不倫など日常茶飯事である。まして、不倫など全く興味のない森岡はすぐに放念した。

「こら。美佐ちゃん、ご挨拶する順番が違うでしょう」

 二人の会話を聞いていたママの勝代が叱責した。表面上は笑顔を繕っていたが、

「ごめんなさい」

 と過ちに気づいた美佐子の顔色は変わっていた。勝代は、礼儀には殊の外厳しいようである。

「申し訳ありません、森岡さん。あらためまして、新しく入った美佐子ちゃんです」

 勝代が森岡に謝ったのは、有馬の常連客はあくまでも森岡であり、日原と辰巳は初見だったからである。

 ご他聞に洩れず、有馬も会員制を謳っているが、多くのクラブのように暴力団関係者を入店させないためというよりは、京都の御茶屋のそれに意味合いが近く、たとえ資産家であれ、大会社の役員クラスであれ、会員の紹介がなければ入店させなかった。年長の日原がいても、あくまでも有馬の主賓は森岡なのである。

 森岡は真鍋高志の紹介で会員となったが、真鍋自身は父清志が旧曽根派所属の国会議員の後援会長を務めており、その縁から常連となっていた。

「大変失礼しました。美佐子です。宜しくお願いします」

「森岡です。私は大阪の人間なので、月に一、二度ぐらいですですが、宜しく」

 そう言って手渡した名刺を見て、一瞬美佐子の表情に緊張が奔った気がしたが、むろん森岡に理由などわかるはずもなかった。

 その後も美佐子は、まるで辰巳が存在しないかのように森岡をまじまじと見つめ、席を移っても、ときどき遠くから視線を送って来た。それは色恋といった熱視線ではなく、どちらかといえば指名手配書の人相と重ね合わせているかのようであった。

――もしかして、彼女は俺のことを知っているのか。

 有馬での二時間ばかり、森岡はそのことが気になり、酒の味も何もあったものではなかった。


 日付が変わった頃、森岡らはホテルの部屋に戻った。

 東京での定宿は、帝都ホテルのエグゼクティブスイートである。一泊三十万円に加え、坂根と南目、蒲生の部屋代を加えると、正規の代金は四十万円ほどになるが、彼は常連客として二十五パーセント割引の特典を受けていた。

 通常、月に一、二度の滞在ぐらいでは常連客とは見なされないが、森岡の場合はルームサービスやホテル内の飲食を加えると、一度の滞在で百万を超えることもしばしばあり、ダイナースのプラチナカードで精算しているという信用保証もあったため、特例扱いとなっていた。

 深夜の一時頃になって、インターホンが鳴り響いた。

 普段であれば、坂根、南目、蒲生のうち誰かが応対するのだが、三人はすでに自分たちの部屋に戻っていたため、森岡自身が出た。

 モニター画面には美佐子の姿が映っていた。怪訝に思った森岡だったが、ともかく彼女を部屋の中に入れた。

「すんなりと中に入れて下さるとは思ってもいなかったですわ」

 美佐子は言葉とは裏腹に、自信有り気な表情を浮かべている。

「ホテル内とはいえ、深夜に追い返すわけにはいかないだろう。タクシーを呼んで下まで送るよ」

「やさしいのね」

 妖艶な笑みを返した美佐子は、

「それにしても凄い部屋、IT企業ってそんなに儲かるの」  

 と、森岡の言葉を無視するかのように、部屋中を散策した。

「大したことはない。もっと儲けている奴もいるし、バブル時代はこんなものじゃなかったと思うよ」

 森岡の言は正しかった。バブル全盛の頃の東京の場合、高級ホテルであればあるほど、しかも高額な部屋から予約が埋まって行っていた。

 ある年の週末、日帰りの予定で東京へ出向いた森岡は、思いの外仕事に手間取り、最終の新幹線に乗り遅れてしまった。急遽、ホテルの部屋を探したが、いわゆるシティホテルはどこも満室だった。そこで森岡は、始発の新幹線まで飲み明かすことにして、真鍋高志にも連絡を取った。むろん、一晩中付き合わせるつもりはなかった。

 ところが事情を聞いた真鍋が、そういうことならと真鍋興産が接待客用として年間契約をしていたプリンストンホテル赤坂の部屋を用意してくれたことがあった。

「ところで、こんな時間に何の用かな」

「こんな深夜に部屋を訪れたのよ、目的は一つに決まっているでしょう」

 美佐子は思わせぶりな返事をした。

「君みたいな美人が、そっちから飛び込んで来るなんてラッキーというべきだな」

 森岡はそう言うと、冷蔵庫からドン・ペリニヨンを取り出した。

「まずは乾杯しようか」

 美佐子をソファへ導き、グラスを差し出した。 

「何にかしら」

「もちろん、二人の出会いにさ」

 森岡は、軽くグラスを当て口に含んだ。

「じゃあ、契約は成立ということで良いわね」

 美佐子は一口飲んだ後で言った。 

「契約? 何の」

「惚けないで。決まっているじゃない、愛人契約よ」

「残念だけど、それは無理だな」

「だって今、出会いにって……それにその気が無いなら、なぜこんな深夜に部屋の中に入れてくれたの」

「深夜だからさ。そのまま追い返すわけにはいかなかないだろう。それに、俺には大切な人がいる」

「奥さんね」

「いや、女房はいない」

「あら、独身だったの」

 美佐子は意外という顔をした。

「一度結婚したけどね」

「離婚したのね。浮気でもしたんでしょう」

「そうじゃない。七年前に死別した」

 揶揄するように言った美佐子に森岡は神妙に応じた。

「あら、ごめんなさい」

 一転、美佐子は殊勝な顔つきで詫びた。

「俺には、結婚を約束した女性がいる。だから、君とはそういう関係にはなれない。それに、君だって辰巳さんとの関係があるだろう」

「辰巳さんって何のこと? 彼とは何でもないわよ」

 美佐子口調には嘘を吐いている気配がない。

「僕の勘違いかい」

「辰巳さんにはしつこく口説かれたのは事実だけど、タイプじゃなかったから断ったわ」

「彼がばつの悪い顔をしたのはそういうことか」

「それと……」

 そこで美佐子は口を閉じた。

「それに、何?」

「興味あるの」

「そりゃあ、あるさ。何といっても、大銀行の頭取候補だからね」

「でも、その先はただでは言えないわ」

 にやりと勿体ぶった笑みがまた魅惑的だった。

「いくら欲しい」

「一千万でどうかしら」

 森岡は無言で立ち上がって寝室へ向かうと、札束を手に戻って来た。

「これで良いかな」

「参ったわ」

 美佐子は呆れ顔になる。

「法外な金を吹っ掛けられて、断らないだけでも驚きなのに……どんな情報かも聞かずにに大金を払うというの。ネタを聞いてから、返せはないわよ」

「そんなケチくさいことはしないよ。その代わり、君の本当の目的を教えてくれないかな」

 美佐子のグラスを口にしようとした手が止まった。

「本当の目的って?」

「僕だって、君がここに来たのは色事でないことぐらいはわかる」

「なあんだ。見破られていたのか。あっさりと部屋の中に入れたのは、他の男と同じで私の身体が目的だと思ったのに」

「正直に言うと、その気が無くもない。外見だけで惹かれそうになった女性は君が初めてだしね」

「あら、それって誉め言葉かしら」

 美佐子は挑発するように言った。そのきりっとした目元につい吸い込まれそうになる。

「そう受け取ってもらって結構」

「嘘でも嬉しいわ」

「嘘じゃないけど、それより君の本当の目的は」

 森岡は誤魔化しは許さないという眼つきをした。

「貴方でもそんな目をするのね」

 美佐子は観念した表情になった。

「ある人から貴方の名を耳にしていたの。それで、興味が湧いたというわけ」

「ある人とは?」

「それは秘密、でもすぐにわかるわ」

 そうか、といって森岡は圧力を弱めた。

「しかし君も良い度胸をしているね。もし、僕が無理やり肉体関係を迫ったら、どうするつもりだったんだい」

 森岡は興味深げに訊いた。

「私だって、貴方はそんなことをする男じゃないことくらいお見通しよ」

「どうしてわかる」

「お店でのホステスに対する態度を見ればね」

「男を見る目には自信が有るようだね」

「男性経験が豊富っていうことじゃないわよ。素直に人を見る目が有ると受け取ってね」

「わかった。でも、物好きが過ぎるといつか痛い目に遭うから気を付けた方が良い」

 はい、と意外にも美佐子は素直に応じた。

 そして、

「実は、他にも話があったの」

 と話題を転じた。

「話? なんだい」

「有馬で私が席に着く前、鴻上という人の話をしていたでしょう」

「え?」

 思わず驚きの声が漏れた。

「どうかしたの」

「いや、なんでもない。会話が聞えたのかい」

 森岡は取り繕うに言った。

 ええ、と顎を引いた美佐子が眉を顰めた。

「実はね、その鴻上さんが銀行から追い出されるように仕向けたのは辰巳さんだったの」

「ほう。出世競争のライバルを罠に嵌めて蹴落としたとでもいうのかな」

 そう言いながら森岡は、

――面白い展開になった。

 と内心ほくそ笑んだ。

「そうだけど、それが陰険なやり方だったの」

 思い出すのもうんざりといった顔つきで言った。

「実は、辰巳さんの指示で鴻上さんを借金漬けに仕向けたのは私だったの」

 美佐子は、有馬の前は六本木の『バンカトル』という高級クラブに在籍していた。政財界の社交場である有馬に対し、バンカトルは芸能人やスポーツ選手が屯する店として名を轟かしていた。

 そのバンカトルに、先に足を踏み入れたのは辰巳だった。

 美佐子に一目惚れをした辰巳はしつこく交際を迫ったが、彼女は適当にあしらっていた。そのうち、辰巳が鴻上を連れてやって来たのだが、鴻上もまた美佐子にぞっこんとなった。当時、独身の辰巳に対して鴻上は妻帯者であったが、以来美佐子を目当てにバンカトルに足繁く通うようになった。

 しかし、いかに大銀行の幹部候補生とはいえ、所詮はサラリーマンである。収入の限られている彼が、借金塗れとなるのに時間は掛からなかった。それも、消費者金融からの借り入れに留まれば問題は起こらなかったが、彼は一線を超えてしまった。街金にまで手を出してしまったのである。

 街金が取立てに手段を選ぶことはない。ついに、会社まで押し掛けるようになり、事が露見してしまった。銀行に居辛くなった鴻上は退職し、IT会社を起業したというあらましだった。

「なぜそういうことを?」

「鴻上さんが私に言い寄っていることを知った辰巳さんが、適当に繋ぎ止めて欲しいとお金をくれたの」

 共に帝都大学出身である辰巳と鴻上は、入社以来出世レースのライバルであった。だが法学部卒の鴻上に対して、経済学部卒の辰巳は後塵を拝していた。辰巳は起死回生の策として、鴻上の美佐子への恋慕の情を利用したというのである。

「今になって思えば、売上のためとはいえ馬鹿なことをしたと思っているわ」

 美佐子は沈んだ顔で言った。有馬でもそうだが、バンカトルでも彼女は口座持ちだった。売上アップは死活問題ではある。

「夜の世界は狐と狸の化かし合いだ。当然のような顔は感心しないが、必要以上に気に病むこともない」

「客が皆貴方のような人だったら、どんなに楽なことか」

 遊び慣れていない男が、いきなり東京の銀座や大阪の北新地などの高級クラブに足を踏み入れてしまうと、そのあまりの華やかさに我を忘れての減り込んでしまうことが往々にしてある。とくに子供の頃から勉強一筋で、恋愛や酒、たばこ、麻雀や競馬も知らない真面目な男は罠に陥り易い。

 高校時代までの森岡もまた、別の意味で世間知らずだったが、大学に入って神村というその道の粋人に仕えたことで道に迷わずに済んだ。

 また、クラブやキャバクラのホステスを性の対象でしか見ない男も多いが、その点でも真摯な態度で接する森岡は稀有な存在だったのかもしれない。

「しかし、なぜそのような話を俺にしたのかな」

 鴻上を罠に嵌めたなど、自身にとっては都合の悪い話のはずである。というより、もし森岡が悪人であれば脅迫のネタに使うことだって考えられるのだ。

「久しぶりに辰巳さんと出会い、鴻上さんの名まで聞いたとき、罪悪感が充満したの。その再燃した心の鬱積を貴方に吐き出してしまいたくなったのね」

「初対面なのに?」

「そうだけど、なぜだか貴方なら優しく受け止めてくれそうな気がしたの」

 美佐子は憂いの宿った顔をした。

「それでわだかまりは消えたかい」

「少しだけ心が軽くなったみたい」

「それは良かった」

 森岡は優しい笑み浮かべると、

「何しても良い話を聞かせてもらった。約束どおり、この一千万を受け取ってくれ」

 札束を美佐子の方へ押しやった。

「お金は冗談よ、悩みを聞いてもらったのにお金は受け取れないわ」

 と、美佐子は押し返した。

「しかし、ただというのでは俺の気持ちが済まない」

「じゃあ、明日同伴して貰えないかしら」

「そうしたのはやまやまだけど、明日は大阪で大切な仕事があるんだ」

「残念ね」

「近いうちにまた上京するから、そのとき同伴すると約束しよう」

 そう言うと、森岡は分厚い茶封筒を差し出した。

「これは受け取ってもらうよ」

「タクシー代にしては多いわね。どういう魂胆かしら」

 美佐子は疑いの視線を送った。

「有馬は政財界の溜まり場だから、高度な情報が飛び交うと思う。それを教えて欲しい」

「情報屋をしろと」

 美佐子の目が鋭くなった。森岡は、とても素人の目ではないと感じた。

「いや、意識して情報を集めなくても、客との会話を漏らしてくれればそれで良い」

「どういった類の?」

「とくにない。君が面白いと思ったことで良いんだ」

「私の感覚で良いのね」

「うん」

「うふ」

 一転、美佐子は謎の笑顔を零し、

「面白そうね。このお金は前渡しの報酬っていうことかしら」

「そういうこと」

 にやり、と口元を緩めた森岡は、少し前屈みになった。

「ところで、鴻上について、もう少し訊きたいことがある」

「何かしら」

「鴻上の借金はいくらだったの」

「一千万近くだったと思うわ」

「うーん」

 森岡が考え込んだ。

「それが何か?」

「一千万の借金に困っていた男が、半年も経たないうちに会社を起業したということは、誰かスポンサーが付いたということになる。心当たりはないかい」

「銀行を辞めた後は、一度も会っていないから確信はないけど、バンカトルには何人かと一緒に来ていたわね」

「名前は憶えている?」

 ううん、と美佐子は首を横に振った。

「でも、名刺を調べればわかるかも」

「じゃあ、今度会うまでに調べておいてくれるかな」

「お安い御用だわ」

 美佐子は快く請け負った。

「有難う。今晩は実に有意義だった。これはボーナスだ」

 森岡は一千万円の束から二百万円を手にして、茶封筒の上に重ねた。

「まあ、ずいぶんと太っ腹ね」

「そうじゃない。情報というのは金では買えないものでね。この話、今後の展開次第では、本当に一千万以上の価値が出るかもしれない」

「へえ。よくわからないけど、遠慮なく頂いておくわ」

 美佐子は封筒と札束を手にしながら、

「この先もこれだけの報酬をくれるの」

 と、森岡を覗き込むように訊いた。

「そうだな。情報次第だが、毎月最低百万は出しても良いよ」

「愛人契約でもないのに、月に百万も出す人がいるなんで信じられない」

 言葉とは裏腹に、美佐子に驚いた様子はもうなかった。

「じゃあ、下まで送って行くよ」

「それは遠慮するわ」

 美佐子は強い口調で断った。

「ホテル内とはいえ、用心した方が良い」

 森岡は重ねて忠告したが、

「そういう意味じゃなくて、もうそろそろ迎えが来るはずなの」

 美佐子は腕時計を確認しながら答えた。

「迎え? やはりそうか」

「やはり?」

「有馬で会ったときから気になっていたのだが、君はいったい何者なんだ」

 内緒よ、と言って美佐子はウインクした。

「安心して、貴方の敵じゃないことは確かよ」

「それは信用したいが」

 うふふ、と笑った彼女は半信半疑の森岡に向かって、

「そのうちわかるときが来ると思うわ」

 と謎めいた言葉を残して部屋を出て行った。

 ドアまで見送った森岡は、明らかに堅気ではない風体の男が立っているのを確認した。

――まさか、彼女は暴力団関係者なのか。

 森岡の胸に不安が奔った。よくよく考えてみれば、初対面にしては口が軽過ぎる。心情を吐露したときの彼女に嘘は無かったと思うが、反面何かの目的のために近づいてきた可能性もある。

――彼女の真の目的はいったい何だったのだ?

 森岡の心には新たな戸惑いが沸き起こっていた。

 加えてもう一つ。

――もしや、筧か? 筧が鴻上のスポンサーとなって、形を変えた寺院ネットワークシステムの事業化を画策しているのではないか。

 美佐子を送り出した森岡は、須之内高邦に続いて鴻上智之という男の背後に筧克至の臭いを本能的に嗅ぎ取っていた。

 森岡は、榊原の存在を筧に教えてはいなかったが、裏切りを前提としていた彼であれば、目敏く嗅ぎ付けていたとしてもおかしくはない。

 森岡の憂いは、仮にあれだけ恫喝しておいた筧が、それを承知のうえで榊原に触手を伸ばしてきたとすれば、いかにして身の安全を担保する勢力を持ち得たか、ということであった。

『R』というのは、資金力、政治力の他に神栄会にも刃向かえるだけの暴力をも有しているというのだろうか。

 そして、探偵の伊能剛史が総本山で筧の姿を看とめたことと、Rはどのように繋がるのか。森岡は、ますます頭を悩ますことになりそうな予感を本能的に働かせていたのである。


「筧がまた悪さをしてんのか」

 南目が憤りを露わにした。

「まだ確証はないが、嫌な予感がする」

「普通であれば、あれだけ脅されたのですから、二度と敵対しようとは思えわないでしょうが、Rというのが気になりますね」

 坂根は警戒の滲んだ口調で言った。

 森岡は無言で肯き、

「ほんま、女というのは恐ろしいな生き物やな」

 と嘆息した。

「なんや、急に」

「輝よ、実はな、茜は筧の裏切りを予見しとったんや」

「ほんまでっか」

「えっ」

 南目と坂根が同時に振り返った。

「こら、輝、前を見んか」

 森岡は南目に注意すると、

「筧がロンドで飲んでいる様子を見て忠告してくれたんだが、俺が無視してしまったんや」

「裏切りの予見だなんて大袈裟ですよ。私はただ胡散臭いと思っただけです」

「それでも大したもんやで、なあ、輝」

 はい、と南目は同調すると、

「ところで、茜さんから見て俺はどうですか」

「どうですかって?」

「胡散臭くないですか」

 ほほほ……と茜は笑った。

「胡散臭くはないですが、直情傾向は直した方が良いですね。そうでないと、いつまで経っても雷を落とされることになりますよ」

「綺麗な顔をして、言うことはきついな」

 決まりが悪そうに頭を掻いので、車中に笑いの渦が巻いた。








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