第5話  第一巻 古都の変 調略

 平年より半月も早く梅雨が明け、本格的な夏を迎えた七月の中旬――。

 京都では祇園祭が賑わいを見せ、大阪では天神祭の準備に、市民が胸を躍らせていたその日――。

 約束の時間通り幸苑に着いた森岡は、女将の勧めで彼女自慢の庭を眺めることになった。彼より先に到着していた谷川東良が、汗を洗い流すため湯船に浸かっていたからである。

 幸苑は、創業時から昭和四十年代まで、割烹旅館を生業としていたため、四畳ほどもある総檜の内湯が残っており、今でも客が所望すれば入浴することができた。

 森岡はいつもの鶴の間ではなく、東の庭が良く見える女将の部屋に案内された。

 打ち水を浴びた草花は生命を吹き込まれたかのように鮮やかな緑を放ち、薄闇の中に浮かび上がる灯篭の凡庸とした灯りと、静寂を打ち破って響き渡る鹿威しの添水の音が幽玄の趣を醸し出していた。

「あの松の姿は良いですね」

 森岡は、表門のすぐ脇の松を見て言った。

「まあ」

 夏らしく紗の着物をきりっと着こなして、斜め後ろに座っていた女将の村雨初枝は、驚きの声を上げた。

「失礼ながら、森岡さんの口からそのような風情のある言葉が聞けるなんて、思ってもみませんでしたわ。でも、有難うございます。庭師が聞いたら喜びますわ」

 いや、と弁解の音色が漏れた。

「恥ずかしながら、私は庭に興味を持ったこともありませんし、良し悪しもわからないのですが、あの松の枝振りが、生まれ育った家の庭の松に似ていましてね。ですから、あの松を観る度に、祖父がいつも丹精込めて手入れをしていたことを思い出してしまい、懐かしさで胸が詰まってしまうのです」

 その声は切ない響きに溢れていた。

 彼がことさら感傷的になったのは、この日はちょうど祖父の命日であり、彼は永代供養を依頼している島根の菩提寺にお礼の電話を入れたばかりだったからである。

「現在、森岡さんの生家はどうなっておりますの」

 女将はそう訊ねておきながら、すぐに後悔した。

 彼女は大まかにではあるが、森岡の身の上を察していた。結婚披露宴のときに、彼の家族、親族が一人も出席していなかったことから、ある程度の見当を付けていた。そこで、つい立ち入ってしまったのである。

「従兄が住んでいます。その従兄に先祖の墓守も頼んでいます」

 と言うと、少し間を置いて、

「私は、ずいぶんと前に生まれ故郷を失ってしまいました。ですから、余計にあの松の木が懐かしく思えるのでしょうね」

 生家である灘屋はすでに無くなっていた。彼が小学生の頃に次々と不幸が襲い、廃家同然となったのである。 

「そうですか。それはお寂しいでしょうね。私のように生まれも育ちも大阪で、初めから田舎というものが無い者にはわからない喪失感なのでしょうね」

「おそらく……」

「はい」

 女将は静かに先を催促した。

「おそらく、あの松と生家の松の枝ぶりは全く違うと思います。というより、正直に言いますと、私は祖父が大事にしていた松の枝振りを全く憶えていないのです」

 森岡は、腹の底から搾り出すように言った。

 そのとき、女将は森岡の背中を透して、心の中に大きな空洞を見た気がした。そして、初めて見せた森岡の一面に居た堪れなくなった。

「冷えたお茶をお持ちしましょうね」

 女将が、かろうじてそれだけを言い残し、その場を立ち去ろうと腰を上げたとき、襖の向こうに若女将の声がした。

 谷川東良が席に着いたという知らせだった。 

 

 二人の協議は最終局面に入ろうとしていた。いよいよ誰を、いつ、どの様な策で籠絡するのか、決断するときを迎えていたのである。

 森岡の手には、榊原壮太郎と伊能剛史によって、桂国寺の坂東、相心寺の一色両貫主に関する詳細な情報が握られていた。

「谷川さん、あれから何か目ぼしい情報がありましたか」

 森岡は、まず谷川東良の出方を窺った。

「なんとか、二人の情報を掴んだ」

「誰と誰ですか」

「桂国寺の坂東上人と相国寺の一色上人や」

「それで、どのような情報ですか」

「おう、坂東上人はな、とにかく女好きでな、二日と空けず祇園に繰り出しているそうや。何でも、入れ揚げているホステスがおるらしいんやが、それがどの店の誰かがわからんのや。もう一人の、一色上人やねんけどな、執事の一人に訊ねたところ、異常なほど金に執着があるようやな。その執事は大学の後輩で、可愛がっていた奴やから、間違いはないと思うんや。ただな、相当なプライドの持ち主ということやから、正面切って現金の話をするわけにはいかんやろうな」

 谷川東良は、己の手柄を誇示するかのように捲くし立てた。

「なるほど。やはり、間違いないようですね」

「やはり?」

 東良が言葉尻を捉えた。

「ええ。私の方でもそれなりに調べていたのですが、谷川上人の情報と一致したので安心しました」

「そういえば、君も調べると言うとったな」

「初めはそうでもなかったのですが、時間が経つにつれて、三億も無駄に捨てるのが惜しくなりましてね。よくよく考えた結果、自分自身が納得するためにも、私なりに手を打つことにしたのです」

「そりゃあ、そうやろう。いくら学生時代の恩人やいうて、三億をどぶに捨てるかどうかの瀬戸際やからな」

 東良の目は冷ややかなものだった。

 森岡は、その微妙な声の変質が笑いを押し殺したものだとわかっていた。そしてそれは、金に執着心を見せたことで、偉そうに大口を叩いていたが、所詮は金を惜しむ俗人だったか、と蔑んだためとも察していた。

 森岡の豪気に圧倒され続けていた谷川東良は、いくぶん溜飲を下げた気分だったが、それも束の間だった。

「お話の、坂東上人が入れ揚げているホステスというのは、クラブ・ダーリンの源氏名が『瞳』というちいママです」

「なにい。クラブ・ダーリンのちいママってか」

 森岡の一言に、再び動揺の色が浮かんだ。

「よ、よくわかったな」

「先週、三夜連続で通いました」

 森岡は、どこまでも平然としていた。

 まさしくあの夜、彼はその瞳なる女性をを目当てに、祇園に足を踏み入れたのである。

「三夜連続で、か。それでどんな女や」

「年は三十過ぎとか言っていましたが、おそらく私より二、三歳年上の四十手前ってとこでしょう。でも、結構良い女ですよ。年齢より若く見える男好きのする美人でしたし、気さくな感じでした。それに、金に任せて粉を掛けてみましたが、乗ってこなかったですから、尻軽でもなさそうですし、あの女なら坂東上人でなくても、大抵の男は入れ揚げるでしょうね」

 森岡は、差し障りのない印象を述べた。

「そうか。しかし、女好きというだけではなあ。飲み代に困っている風でもなさそうだし……」

「いえ、付け入る隙はありますよ。どうやら坂東上人は、何とかその瞳を愛人にしたいらしいのです」

「囲い者か。それなら、相当に金が掛かるやろなあ」

 はい、と森岡が同意する。

「彼女が条件として出したのが、祇園で店を持たしてくれということらしいのです。祇園なら、ちょっとした店でも一億近くは掛かりますからね」

「そ、そうか。そこまで調べたんか。坂東上人なら、それぐらいの金は持っているやろうが、上人は入り婿やからな。財布は奥さんに握られていて、自由になる金はほとんどあらへんやろう」

「おっしゃるとおりです。ですから、自由になる金が喉から手が出るほど欲しいはず。久保上人からの金では、到底足りないでしょうからね」

 森岡は皮肉を込めて言った。

 いわゆる大本山や本山というのは、天真宗宗門の寺院である。したがって、たとえ貫主といえども、金の私的流用は厳禁である。また、本山で生涯を全うすることもあるが、勇退した場合はその多くが、自らが所有する寺院に戻ることになる。いずれにしても、坂東が自由にできる金は多寡がしれていた。

 尚天真宗において、末寺は宗門所有と個人所有に分かれ、その個人所有も宗門に属する場合と、独立した単立寺院とに分かれている。宗門所有の末寺の場合、大本山や本山と同様、前住職が後継を指名し宗務院が承認する形を採っているが、仮に後継指名がない場合は、選挙ではなく宗務院が人選を行う。

「しかし、たいしたもんやな。どないして調べたんや」

 すでに呆れ顔の谷川東良に対して、

「まあ、それは良いじゃないですか。金を掛ければ、それなりに調べられるということです」

 と煙に巻いた森岡は、

「それより、一色上人の方ですけどね。こちらも、谷川上人のおっしゃったとおりのようですね」

 さらに情報収集能力の差を見せ付けるかのように畳み掛けた。彼の許には、伊能の雇った情報分析官からの調査報告書もあった。

 かつて、滋賀で機械工場を営んでいた一色魁嶺の生家は、彼の幼い頃は戦争景気もあって、かなり羽振りが良かったらしい。ところが、好事魔多しということだろうか、巧妙な手形詐欺にあって、財産をすっかり巻き上げられてしまった。

 突然、三度の食事にさえ困るようになった両親は、口減らしのために、一色を菩提寺だった常楽寺(じょうらくじ)へ養子に出した。常楽寺としては、羽振りの良かったときに支援された手前もあって、断ることができなかったのだが、何分戦中戦後の貧しい時代である。一色は邪魔者扱いされ、ずいぶんと肩身の狭い思いをしたというのである。

 それが、彼の片意地を張るようなプライドと、異常なまでの物欲に繋がっているのであろう。

 ところが、男の実子二人が共に夭折してしまい、結局一色が寺を継ぐことになったのだから、 人の運命とは摩訶不思議なものである 。

「ほんま、ようそこまで調べられるもんやな。プロでも使っとるんか」

「そんなところですが、あくまでも過去の調査ですからね。現在は不明ですから、丸ごと鵜呑みにするわけにもいかなかったのですが、相心寺の執事の話ということから、裏付けが取れましたので安心しました」

「とはいえ、一色上人は相当プライドが高いからな。どうやって賄賂の話をするかが問題やな」

 東良は難しい顔で腕組みをした。

「そのことですが、私に妙案が浮かびましてね。現在その準備をしているところなのです」

「妙案やと」

「現金ではなく、般若心経の経典を献上しようと思うのですが、ただの経典ではなく、細工を施した逸品をと思いましてね、急いで試作品を作らせているところです」

 森岡はその経典の製作を榊原に依頼していた。商売柄、仏師をはじめ各種工芸の名工たちと交流がある。森岡は榊原を通じて、人間国宝級の職人に手掛けさせていた。

「経典に細工って、どないな細工や」

「それは、後のお楽しみということにしましょう。仕上がりましたら、谷川さんには事前にお見せいたしますので」

「そうか。君がそういうのなら、そのときのお楽しみということにしておこうか」

 東良は、森岡の言におとなしく従った。もはや、森岡に逆らう気力など失せてしまっていたのである。

「しかし、まだ二人やからな。もう一人をどうするかや」

 東良の口調は、渋い顔つきに反して軽いものだった。穿った見方をすれば、苦境を楽しんでいるようにも見えなくはない。

「いえ、大丈夫です。もう一人味方に付けました」

「えっ?」

 驚きのあまり、ただでさえ細い東良の目が点になった。

「いったい誰や? わしの知る限り、そんな奴はおらんで」

「奈良龍顕寺の斐川角上人です」

「ひ、斐川角……」

 とうとう悲鳴のような声を上げた。

「斐川角上人は、前回も久保上人に味方したんやで。そないに簡単に寝返るわけがないやろ」

「それが、私の高校時代の友人に斐川角上人の甥がおりまして、彼の紹介でお上人にお会いしたところ、快諾して頂きました」

「高校時代? たしか君は、島根出身やったな」

「ええ」

「もしかして、斐川角上人も島根出身ということか」

「松江です」

「ということは、神村上人の生まれ故郷の米子とも近いというわけやな」

 島根県の松江と鳥取県の米子は、車で約三十分ほどの距離にある。

「せやけど、同郷というだけではなあ」 

 谷川東良は、未だ信じられないと言う表情で呟いた。

 森岡は、南目を伴って再度奈良に赴き、斐川角勇次と会った。勇次は、森岡との面会を拒んだが、南目輝の名を聞いて態度が一変した。

 暴走族は、仲間との関係を大事にする。それは十年経とうが二十年経とうが変わることはない。似たような境遇の者が集まっているため、殊の外絆が強いのである。

 勇次にとって、南目輝は憧れだった。百五十人のメンバーを従え、颯爽と先頭を走る姿を、彼は後方から眩しく見ていた。

 しかも、勇次には負い目もあった。

 南目が傷害事件を起こしたのは、元はといえば、彼が他県の暴走族とトラブルを起こしたのが発端である。南目は、いざこざを起こしていたのが勇次だとは知らなかったが、仲間の窮地に駆け付け、相手に重傷を負わせてしまったのである。

 したがって、勇次は南目の言うことであれば、どのようなことであろうと、黙って従わずにはおれないのである。

「いや。何にしても、味方に付いてくれたのなら、有り難いことやな」

 そう言った谷川の声には力が無かった。

 谷川には『金を掛けた』ということにしたが、情報収集ということで言えば、坂東に関しては少し意味合いが違った。

 

 話は数日前の夜に遡る。

 京都祇園のクラブ・ダーリンのソファーに腰掛けて、三十分も経ったであろうか。同伴らしき男性と店に入って来た女性を見て森岡は驚嘆した。

「あら、洋ちゃん」

 一瞬、凝視した女性がすぐさま親しげに声を掛けた。

「菊、姉ちゃん?」

 森岡は我が目を疑った。

「洋ちゃんが、どうしてここに?」

「菊姉ちゃんこそ、どうして……」

 混乱状態の森岡に向かって女性が目配せをした。

「菊姉ちゃんは止めて。ここでは『瞳』っていうの」

「えっー」

 何という奇遇に、重ねて仰天した森岡は、しばらくの間、あんぐりと口を開けたままだった。


 二人にとって、十五年ぶりの再会であった。

 森岡が神村の書生に入って数ヶ月経った頃、京都祇園の御茶屋『吉力(きちりき)』で、さる企業の社長の接待を受けた。その社長というのは、神村の自坊である経王寺の護山会の副会長を務めていた。神村は、毎月社長宅の仏壇へ経をあげており、そのお礼の意味合いで、吉力において饗応を受けていたのだが、その日初めて森岡もお相伴に預かったのである。

 毎回、鳴り物入りの酒宴となったようで、このときも馴染みの芸妓と舞妓を呼んだ。その中にいた菊乃という芸妓が、森岡のダーリンでの目当ての女性・瞳その人だったのである。


 実は、森岡にとって菊乃は初めての女性だった。

 御茶屋吉力で初めて出会った二人は、すぐに打ち解けた。三歳年上の菊乃は、さっぱりとした気質で、どちらかといえば内気な森岡をリードした。吉力での酒宴が終わると、菊乃は一旦置屋へ戻って女将の許可を得て外出し、森岡は神村をホテルに送り届けてから、深夜に部屋を抜け出した。そうして二人は、再び祇園や木屋町のラウンジで落ち合った。

 化粧を落とし、素っぴんと見間違うほど薄化粧の菊乃は、少女のような童顔だったが、気性は姉御肌で、その落差が彼女の魅力の一つになっていた。

 もっとも、森岡に恋心があったというのではない。彼には書生修行という大目的があったので、女性に現を抜かしている暇は無いと自らを厳しく律していた。

 だが、菊乃には妙に心が惹かれた。神村の許で緊張の日々が続く中、彼にとって菊乃は、恋人というより気の休まる姉のような存在だったのかもしれなかった。

 菊乃の方も、森岡に惚れていたわけではなかったが、彼女はある事情を抱えていた。

 二人は、毎月の酒宴後の密会以外にも、度々デートを楽しむようになった。

 そうして、三ヶ月が過ぎた頃、菊乃からの突然の呼び出しを受け、森岡は京都に足を運んだ。

 その日、気分に任せてしたたかに飲み過ぎた森岡は、酔った勢いで菊乃が置屋の他に借りているアパートへ転がり込んだ。菊乃の部屋に入ってまもなく、森岡は安心感から眠りに入った。神村は宗務で総本山に出向いていたため、経王寺に戻る必要はなかったのである。

 どれくらい時間が経ったかはわからなかったが、夜中にふと目が覚めた。下半身で何かが蠢いているのだ。

 森岡が頭を擡げると、菊乃が一物を口に含んでいた。驚いた森岡だったが、あまりの快感に、なすがままになっていると、やがて菊乃が上になって二人は繋がった。

 あっという間に森岡は果てた。初めてのことなので無理もなかったが、若さゆえ蘇るのも早かった。菊乃の身体の中で、すぐさま大きくなったのである。

 小柄で華奢な割に適度な大きさの乳房と、抜けるように白い肌は、初めて快感というものを知った森岡の性欲を駆り立てた。その後、続けざまに二度、間を置いて朝方にもう一度、二人は目合った。

 だが、二人が身体を重ねたのは、その一晩だけであった。

 当時は携帯電話など無く、森岡が置屋に連絡を入れるのは憚られたため、もっぱら彼女からの電話を待ち続けたが、その夜以降は一度も無かった。

 そして、翌月御茶屋へ出向いたとき、菊乃は姿を見せなかったのである。

 お茶屋の女将の話によると、彼女はある中小企業の社長に身請けされたいうことであった。

 身請け料は三千万円。花柳界に生きる女性の選択肢の一つだった。愛人として生きる決心をした菊乃は、最後の恋人もどきの情交を森岡に求めたのである。

 断っておくこともないが、今の時代は花柳界の女性も自由恋愛である。身請け料というと人身売買のようで聞こえが悪いが、支度金と思えばわかりやすいだろう。

 以来、十五年ぶりの再会であり、彼女は本名の片桐瞳を名乗っていた。


「ふーん。なるほど、それで私がどのような女性か調べに来たのね」

 瞳は、含みのある言い方をした。

 二人は瞳が店を引けるのを待って、十五年前にも落ち合ったことのあるショットバーで待ち合わせをしていた。

 森岡は此度の一件のあらましを話し、瞳は坂東から執拗に迫られ、迷惑していることを告白した。

「そういうこと。しかし、菊姉ちゃんが瞳だったとは、世の中は狭いなあ」

 森岡は感慨深げに言った。

「菊姉ちゃんは止めて、もう芸妓じゃないんだから」

「ごめん。でも、なんて呼べば?」

「瞳、と呼び捨てで良いわ」

「じゃあ、菊、いや瞳……なんでまた水商売を?」

 愛人だったはずでは、との疑念が含まれていた。

「それがね。中小企業の社長の愛人になったのは良いけれど、三年後に癌であっさりと死んじゃったの。その後、普通のサラリーマンと結婚したけど、それも二年で離婚したわ。後はクラブを転々とするお決まりのコースよ」

 瞳は自嘲の笑みを零した。

「身請けされたと聞いて、複雑な気持ちだったなあ」

 森岡は当時を思い出すように言った。

「あら、嬉しい。もしかして私に気があったの」

「そうではないけど……なんせ、その……」

 森岡にしては、珍しくも歯切れが悪くなった。

 ははん、と訳知り顔になった瞳が、

「男って、初めての女性が忘れられないっていうけど、洋ちゃんもそうなのね」

 と茶化すように言うと、

「あのさ。俺のことも、洋ちゃんって呼ぶのは止めてよ」

 森岡は気恥ずかしさでふくれっ面になった。十五年前も今も、彼女の前では弟のように頭の上がらない森岡なのである。

「じゃあ、洋介。神村先生のことはわかったけど、洋介自身は何をやっているの。ずいぶんと羽振りが良さそうだけど」

「IT企業をやっているだけで、たいしたことはないよ」

「へえ、社長さんか。でも、ママからダイナースとアメックスのプラチナカードを持っているって聞いたわよ。凄いじゃない」

「まあ、それくらいは持っているかな」

 森岡は話題から避けるような口調で答えた。こういうことは、あまり自慢したがらない男なのである。

 それから暫しの間、何やら思案していた様子の瞳が、

「そうだ、洋介」

 と思い立ったように口を開いた。

「洋介が、私の男っていうことにしてくれないかしら」

 森岡は瞬時に瞳の意図を察した。

「それは構わないけど、坂東は簡単に信用しないと思うなあ」

 聞けば、坂東は瞳がまだ舞妓の時代から心を寄せていたというのである。二十年も昔のことであり、その頃の坂東に瞳を身請けする財力などなかった。

 その後、瞳は中小企業の社長に身請けされたため、手の届かないものになったのだが、半年前にダーリンで再会したことで、昔の情熱が再燃したのだという。

 森岡は、その執念深い坂東が安易に彼女を諦めるはずがないと思ったのである。

 だが、その森岡にもあることが閃いた。

「なあ、瞳。この際、自分の店を持ったらどうだ」

「何を言っているの。いくら掛かると思っているのよ」

「俺が金を出すよ。一億もあれば、祇園でもちょっとした店が出せるだろう」

「冗談言わないでよ」

 瞳は取り合わない仕草をした。

「いや、冗談じゃない。一億ぐらいなら出しても良いよ」

 森岡は本気であると重ねて伝えた。

 このとき彼は、瞳を餌にして坂東を釣ろうと考えていた。また、神村が本妙寺の貫主になった以降の、京都での社交の場に使おうとの別の思惑も抱いていた。

「本当に? 私を愛人にしてくれるの」

 瞳は半信半疑で訊いた。

 あははは……と森岡は笑い飛ばす。

「俺は独身だから、愛人なんかじゃないよ」

「独身なの」

「ああ。妻とは死別した」

「あら、そっちもいろいろあったのね」

「まあね」

「じゃあ、私たち付き合うってことかしら」

「いや、そういうことでもない」 

 森岡は曖昧に答えた。

「どうして。別に結婚して欲しいなんて、野暮なこと言わないわよ。それとも他に好い女性(ひと)でもいるの?」

「うーん。ちょっと違うけど」

 森岡の煮え切らない態度に、瞳が感づいた。

「その口振りだと、気になる女性がいるのね。洋介は真面目だから、二股なんて掛けられないだろうからなあ」

 瞳は、森岡を覗き込むように言った。

 真面目な顔つきで軽く首肯した森岡は、

「そんなことより、ともかく瞳を坂東なんかの愛人にさせたくない」

 と語調を強めた。

「私も、あんな狒狒爺の愛人なんか、真っ平ごめんだわ。でも、お店にとっては上客だから無下に扱えないのよ」

 瞳も忌々しげに応じる。

「よし、決まった。では、こうしよう」

 意気込んだ森岡は、瞳をこう言い含めた。

 祇園に出す店の金は、森岡が融通する。純然たるビジネスパートナーとしての出資である。瞳は雇われママではなく、店の裁量一切を彼女に任せる。その代わり、毎月一定の利益を森岡に還元する。

 坂東に対しては、愛人となる条件として、祇園に店を出す費用の七千万円を融通して欲しい旨を伝える。坂東が諦めればそれも良し、諦めなければ森岡の計略に嵌まることになる。

 瞳は本妙寺の貫主選挙の投票が終わるまで、坂東の気持ちを繋ぐこととする。坂東が神村に投票さえしてくれれば、別のパトロンが見つかったので、祇園に店を出すと伝え、引導を渡す。

「でも、虚仮にすることになるけど、大丈夫かしら」

 瞳は不安な目をして訊いた。

「痩せても枯れても本山の貫主だから、事を荒立てて表沙汰になるようなことはしないよ。それにもしものことがあったら、坂東の家庭に揺さぶりを掛ける。奴は婿養子だから、奥さんには頭が上がらないはずだ」

 森岡は、瞳を安心させるような笑顔を見せた。

 

 京都本山本妙寺の次期貫主を選出する合議の日まで一ヶ月を切った。

 その日、帝都ホテル大阪の一階ロビーに、森岡と谷川東良の姿があった。桂国寺の貫主坂東明園(めいえん)と面会するためである。

 谷川東良が事前に連絡を入れたところ、人目を憚った坂東の要望で、大阪での密会となったのである。

 二人はロビーのソファーに腰掛け、坂東を待っていた。

 坂東は約束の刻限ちょうどにやって来た。

――よし!

 森岡は、彼の姿を見た瞬間、気持ちの高ぶりに抗し得なかった。

 坂東は付き人を伴っていないばかりか、スーツを着用し帽子を被るなど、僧侶であることを隠すという用心深さを見せていた。

 僧侶にとって僧衣というのは晴着である。

 かつて女性の看護師を『白衣の天使』と呼んだように、看護師は白衣に誇りと責任を抱いていた。

 僧侶にとっての僧衣はそれ以上のものである。その僧衣を纏っていないのである。坂東にその気がなければ、このような偽装を施す必要はない。

 目顔で確認を取り合った森岡と谷川東良は、お互いの目に光るものを読み取っていた。

 二人は、坂東を最上階のスイート・ルームへと案内した。

 儀礼の挨拶の後、東良はいきなり金の話から入った。

「貫主さん。駆け引きは致しません。神村を支持していただければ五千万出しましょう。お願いできませんでしょうか」

 むろん森岡は、坂東が七千万円必要であることを知っている。谷川東良にわざと二千万円少なく切り出させ、相手の出方を窺ったのである。坂東が心を動かされ、乗り気になったならば、必ず上乗せを要望するはず、と読んでのことだった。

 坂東はしばらく沈黙していたが、やがて勿体ぶるように、

「五千万ねえ。ちょっと難しいかなあ」

 と言ったきり、再び沈黙を決め込んだ。

――ちっ、何気取ってやがる。白々しい小芝居しよってからに、この色ボケ野郎が。

 森岡は心の中で口汚く罵った。

 実に暗澹たる気分だった。

 この沈黙が、駆け引きのポーズであることなど先刻承知の彼は、坂東が掌中に落ちたことには胸を熱くしたが、その反面、この程度の俗物が我が国最大級を誇る天真宗の本山貫主かと思うと、やり場のない怒りが込み上げていたのである。

「そうですか、やはり無理ですか。まあ久保上人とのお付き合いもあることでしょうしねえ」

 谷川東良は少し嫌味を利かして言うと、

「本日は御足労頂きましてさ申し訳ありませんでした。どうぞ、この話はお聞き流し下さい」

 と頭を下げた。

 東良も役者だった。坂東の決断を迫るために、わざと話を打ち切って席を立つ素ぶりを見せたのである。

「ちょっと待って下さい。いや、その、全く話にならない、ということでもないのだが」

 あわてた坂東が、話を元に戻そうとしたとき、森岡はその機を捉えて、

「私どもには、お金という手段しかありませんのでね。大変失礼かと存じますが、あと二千万ぐらいなら何とかなりますけど、それでも無理でしょうか」

 と甘い餌を投げた。

――むむ、上手くいった。

 坂東は上々の首尾に、笑いを噛み殺しながら表面的な体裁だけは整えた。

「いやあ、そうまで言われると……少し時間を貰えませんか」

 森岡が、彼の心の動きを見逃すはずがない。

 すかさず、

「では、ご返事は後日頂くとして、お上人どうでしょうか。席を設けますので、お近づきの印に、これから一献というのは……」

 と酒宴に誘った。念のため、その場で坂東の気持ちに駄目を押そうという腹積もりだったのである。


 三人は幸苑で食事を済ませた後、ロンドに顔を出した。

 森岡は、ここにある巧妙な網を張っていた。

「まあ、谷川上人さん。ずいぶんとお見限りですこと」

「そう嫌味を言うな。このところ京都の件で忙しいんや」

 谷川東良は坂東明園の目を気にしながら、茜の耳元に口を近づけ、小声で詫びた。

「でも、許してあげますわ。代わりに森岡さんを紹介して頂きましたので」

「なに? 森岡君、この店よう使っとんのか」

「いえ、たまにですよ」

「そうかな」

 東良は懐疑的な目を向け、

「しかし、さっき本通りを歩いとったら、客引きの黒服やホステスたちが、やたら君に挨拶しとったな。あれはいったいどういうことや」

 と訊いた。

 本通りとは北新地の中心の通りである。 

「さあ、何でしょうかね」

 森岡は素知らぬ振りをしながら、東良の横に座っていたホステスに目配せをした。

 彼女は、森岡の合図に小さく肯くと、坂東に聞こえるように話し始めた。

「新地が御無汰沙の谷川さんはご存じないでしょうけど、今や新地では森岡さんの話題で持ちきりなのですよ」

「何でや?」

「それがね」

 いよいよホステスが核心を話し始めたとき、森岡はトイレに立つ振りをして席を離れ、東良の死角に茜を呼んだ。

「ママに相談というか、頼みがあるんやけど」

「あら、嬉しい。森岡さんが私に頼み事なんて」

 茜は目を輝かせた。

「他でもないのやが、ロンドの飲み代やけどな。俺はこれまでどおり現金で払うけど、神村先生や谷川さんだけのときは、付けにして後で俺に回して欲しいんや。月極めでも、その都度でもどっちでもええから」

「なあんだ、そんなことでしたの。もっと、違うことかと思ったのに……」

 あからさまに落胆した茜だったが、すぐに、

「承りました、そうさせて頂きます。それで、このことをご本人には伝えますの」

 と、業務口調に戻った。

「いや。もし訊ねられたら、そのとき話すことにして、敢えてママからは言わんでええ」

 森岡はそう答え、

「それより、もっと違うことって何や」

 と惚けるように訊いた。 

「いいえ、何でもありませんよ」

 茜は拗ねた素ぶりをしたが、森岡は見て見ぬふりをして、化粧室へ入って行った。

 頃合を見て、森岡が席に戻って来るや否や、東良が待ち侘びていたように声を掛けた。

「何しとったんや、森岡君。聞いたで、一晩で二千万も使うとは、えらい豪気な ことしたんやなあ」 

「いやあ、お恥ずかしいことです。若気の至りということで、聞き流して下さい」

「そういうのは、若気の至りとは言わんで。しかし、いったい君はどんだけ金を持っとんのや? ITというのはそないに儲かる商売なんか」

 東良は訝しげな顔をした。

「いえいえ、会社ではありません。親の財産を受け継いだだけで、それもたいした額ではありませんから」

 森岡は顔の前で手を振ったが、

「一晩で二千万やで、それはないやろ」

 と、東良はしつこく迫った。

「私は車や時計、海外旅行とか、そういった贅沢には全く興味がありませんので、一度羽目を外して馬鹿をやってみたいと思っただけです」

「納得がいかんな」

 尚も渋い面をした東良は、

「しかし、ママは大儲けしたの」

 と鉾先を茜に向けた。

「谷川上人さんにご紹介頂いて大変感謝しております」

 茜が少し仰々しく頭を下げたのを見て、

「せやったら、もうちょっとサービスしてもええんとちゃうか」

 東良は催促で切り返した。

「そうですねえ、何がお望みですの」

「今度アフターに付き合うてくれるか。家に誰が待っているのかしらんが、ママはいつも素っ気なく帰ってしまうからのう」

 東良の口調が嫌味に変わった。

「誰も待ってなんかいませんよ」

 茜は子供を宥めるかのように言うと、

「わかりました。では、さっそくこの後どうでしょうか」

「へっ?」

 東良は面を食らった。いつものように、けんもほろろに断られると思っていたのである。しかし、すぐに謎解きができたかのように、

 へっ、へっ、と味深い笑みを浮かべた。

「ええけど、森岡君が居るからやないやろうな? それやったら、期待せん方がええで。神村上人から聞いたんやが、なんぼママでもこの男は落ちんで」

「……」

「なんでかというとな。彼はな……」

「谷川さん。先生から何をお聞きなったか知りませんが、私の話はよしましょう。それより、この先我々も何かと京都で飲む機会が多くなりそうですから、良いクラブ(みせ)を見つけないといけませんね」

 森岡があわてて二人の間に割って入った。しかも仰々しく。

 二人のやり取りが、好ましくない方向に飛び火したこともあり、話題を転じようとしたのだった。

「京都? せやな、そうせなあかんな」

 不意を突かれた東良は、一瞬怪訝な表情を浮かべたが、森岡の目論見どおり無難に相槌を打った。

 耳を欹てていた坂東の様子に、森岡は内心ほくそ笑んだ。

 これこそ彼の仕掛けた罠だったのである。

 彼が前もって茜に依頼していた、ホステスの芝居じみた大げさな証言、つまり先日の馬鹿騒ぎの顛末を話したことにより、彼が資産家であるばかりでなく、相当に太っ腹な遊び人であることを印象付けたはずである。

 そのホステスの話と、今の京都で店を探すという森岡の言葉を重ね合わした坂東が、

『神村上人が本妙寺の貫主になれば、つれて森岡も京都で遊ぶ機会が多くなるのは間違いない。もし、瞳の店をこの男が使ってくれれば……』

 と考えるのは、当然の帰結であった。

 森岡は、坂東の欲の絡んだその皮算用こそが狙いだったのである。

 こうして森岡が目的を果たした一方で、話の腰を折られた格好の茜は、少なからずわだかまりを残すことになった。

 

 三日と置かず、森岡と谷川東良は本山相心寺に一色魁嶺を訪ねた。

 貫主の一色は七十歳。痩身の小男で、細長い両眼は濁った光を宿していた。養子先が公家の血を引く家系であったせいか、あるいは不遇だった少年時代がそのように成らしめるのか、そうでもなくても自負心の強い人間の集まりである世界にあって、一段とその傾向が強く、人を見下すようなところさえあった。

 だが、見方を変えれば、森岡にとってそれは好都合ともいえた。森岡は、自負心の裏返しである見栄っ張りで強欲なところに付け入る隙、つまり久保側より高額の条件さえ提示すれば寝返る脈が有ると考えていたのである。

 問題は賄賂の渡し方であった。まともに現金などを積んで、一色の心を逆なでするような無粋な真似はできなかった。

 谷川東良は、通された和室の床の間の掛け軸を見ると、まず適当な追従を口にした。

「見事な山水ですね」

「ま、まあの」

 一色は微妙な反応を返した。

――なるほど、なかなかの腕前らしい。

 森岡は伊能の報告を思い出した一方で、その控えめな態度に違和感も覚えていた。常人ならいざ知らず、たとえ知人の作品とはいえ、高慢な彼であれば得意気になるはずである。

 一色の乗り気のない様子に、それ以上の言及は避けた東良は、持参した風呂敷包みをテーブルの上に置いた。

「お目に掛けたい品があるのですが」

「ほう、何かね」

 一色は木で鼻を括ったように言った。

 だが、風呂敷の紐が解かれて、中の品が目に留まった瞬間、

「これはまた、見事な……」

 と目を丸くしたきり、二の句を継ぐことができなかった。

 森岡の目には、その表情から一色はすでに陥落したのも同然と映っていた。

 それほどまでに一色の心を捉えた逸品とは、文字を金粉で綴った般若心経の経典一式だった。最高級の越前和紙を極々薄い紫に染め、金文字を鮮やかに浮かび上がらせた見事な経典である。装丁も随所に金箔を用いて格調高く仕上げた、まさに芸術品ともいえる代物だった。

 間合いを見計らったように谷川東良が畏まった。

「猊下(げいか)。もし神村を推薦して頂ければ、神村は同じ経典を三十式献上すると申しております」

 谷川東良は、天真宗においては法主、総務、法国寺の貫主の三名にしか許されない『猊下』という尊称を用い謙って見せた。一色の自尊心を擽るのである。

 一色はその申し出に再び驚いた。彼はこれほどの逸品ならば、経典の巻末に相心寺の貫主たる己の名を刻んで世に出せば、金銭的な潤いはもちろんのこと、我が名も世間に広まると考えた。

 一色の表情が瞬時緩んだ。

 心の揺らめきがその表情に看て取れた瞬間、森岡は間髪入れずに、

「猊下。差し出がましいようですが、宜しければその経典十式を二千万円で、私に譲って頂けないでしょうか」

 と申し出た。

 つまり、一色には久保側が提示した額と同額の二千万円が手に入り、なお四千万円相当の品が手元に残ることになる。相心寺の信者に売却しても良いし、例えばその一部を総本山に献上でもすれば、法主の覚えもめでたくなり、自身と家門の誉れともなる。

 一色の性格を勘案したあからさまな猿芝居だが、損得勘定に明るい彼の心は動いた。

――ふん。では、高名な神村にも頭を下げさせるとするか。

 一色は心の中で嘯いた。

「宜しい。では、一度神村上人と話をする機会を作ってくれ」

 一色は即答を避け、高飛車な物言いで神村との対面を申し出た。

――生意気な。先生にも、眼前に平伏すことを求める気だな。

 一色の腹を見抜いた森岡は、腸が煮え返るのを必死に押さえた。

「承知致しました。近々、先斗町あたりに一席設けさせて頂きます」

 東良が平伏して言った。

 こうして森岡は、坂東明園と一色魁嶺の取り込みに成功した。

 二人合わせて、一億三千万円の持ち出しとなったが、彼はそれで神村が本妙寺の貫主の座に就けるのであれば、安いものだと思っていた。


 同じ日の夜である。

 森岡と谷川東良は、斐川角、坂東に続き、一色の支持も取り付けた旨を神村に報告し、勝利の祝杯を挙げるため、ロンドに繰り出していた。

 神村がロンドに足を運んだのは、意外にもこの夜が初めてであった。

「ママ。この方が噂の神村上人様や。俺なんかと違って、もうすぐ大本山の貫主となられる、大変にお偉い方やからな、ちゃんとしてや」

 谷川東良が、いかにも勿体ぶって紹介した。

「お初にお目に掛かります、山尾茜と申します。御高名は、かねがね谷川様より伺っております。何時お会いできるかと、楽しみにしておりました」

 茜は恭しく挨拶した。

「私の方も、貴女が大変な美形だと聞かされていたので楽しみにしていました。なるほど、評判どおりの別嬪さんだ。私が十年若かったら、口説きたいぐらいだね」

 神村も満面の笑みを浮かべて返した。

「まあ。神村先生でも、そのようなご冗談をおっしゃられるのですね」

 思わぬ誉め言葉に上気した茜は、

「それにしても、大変失礼ですが、ご身分をお伺いしなければ、お坊さんというより、お茶か書道の先生といった文化人のようにお見受け致しますわ」

 といっそう嫣然とした笑みを浮かべた。

 神村が夜に外出するときは、ほとんどが羽織袴だった。夏は着流しのときもあったが、それも数えるほどである。ましてスーツ姿にいたっては、森岡ですら二、三度しか見たことがなかった。

 四、五センチのロマンスグレーの頭髪を自然に後ろに流し、白檀扇子で風を創る姿はとても粋で、お茶の宗匠か書道の大家、あるいは能や狂言といった伝統芸能の達人といった趣があった。

 神村は情勢が好転したことも手伝ってか、珍しくも軽口を叩いてみせたのだが、それも一時のことに過ぎなかった。

 前祝にと、ドン・ペリニョンで乾杯をした際、

「この度は、本当にお世話になりました。二人にあらためてお礼を言います」

 と述べたときには、いつもの生真面目な彼に戻っていた。

「いやあ、私はたいしたことはしていません。今回は、森岡君の功績が大きかったですよ。まさに八面六臂の活躍とはこのことか、というような働きでした」 

 神村の言葉を受けて、谷川東良は歯の浮くような追従をしたが、森岡は良く心得たもので、

「とんでもないです。私は谷川上人のお供をしていただけですから」

 と当り前のように謙遜した。

 神村を前にした森岡にすれば、それは決まり事だったのだが、このときばかりは、いつもと様子が違っていた。

 神村があらたまって、

「いや。森岡君、そうではないだろう。すまないね、君にはずいぶんと散財させてしまったようだ」

 と頭を下げたのだ。

 森岡には衝撃の光景だった。

 初めて見た師の姿に、心は千々に乱れ、やがて罪悪感に支配されて行った。

「先生、何をなさるのですか。現在(いま)の私が有るのは先生のお陰です。私にはこういうことでしかご恩返しができないのですから、たかだか金のことで私如きに頭などお下げにならないで下さい」

 その言葉は、真に彼の偽らざる気持ちではあったが、その一方で、

――此度の件は、己の存在価値を知らしめる絶好の機会になった。

 という邪まな心が芽生えていたのも事実だった。彼はその心の歪みを、神村に見透かされたような気がしたのである。

 もう一人、複雑な胸中に揺れる者がいた。二人のやり取りを興味深く見ていた茜である。

 彼女の胸にはある疑問が浮かんでいた。そして、是非ともそれを紐解きたいという欲求に駆られていたのだが、さすがに初見の神村に問うことはできず、

「神村先生と谷川さんは、古いお付き合いですの」

 と、まずは無難な問いに止めた。

「そうやな。初めて神村上人にお会いしたのは、俺が幼稚園の頃やったから、四十六、七年前というとこかな」

 谷川が古い記憶を辿った。

「そんなに長いお付き合いなのですか」

「私の生まれは、鳥取県の米子という街で、森岡君の故郷にも程近いのだが、父は次男でね、私が八歳のとき、大阪の天王寺に寺を開山したのを機に、引っ越して来たのです」

 神村も遠い昔を懐かしむように言った。

「父親同士が兄弟弟子でな、お互いの寺院も近かったもんで、それ以後、行き来することが多くなったんや」

「谷川上人のお父上が尽力して下さって、父は小さな自坊を持てたのだが、経王寺に比べ、彼の寺院は室町時代初期から続く立派なものでね、父がしょっちゅう宗務を手伝っていた関係で、私たちは良く一緒に遊んだものだった」

「そういう経緯があって、二人は兄弟のように育ったんや。ほんま、絵に描いたような賢兄愚弟だったけどな」

 谷川は自嘲の笑みを浮かべて言った。

「なるほどね」

 茜はまじまじと見つめた。

「なんやママ、その目は。どうせ『同じ宗教家やのに、えらい違いや』と、思っとるんやろ? そうや、俺なんかと違って、神村上人は宗門を支えて行くお方。言うたら宗門にとっては宝のような人やからな、違って当然や」

 谷川は大仰にふくれっ面をしてみせた。

「でも、それで納得しました」

「なんの納得や?」

「谷川さんが夜な夜な豪遊できる理由です」

「それは森岡君がスポンサーやからや」

「いいえ、それ以前もですよ」

「まあな、寺の金は死ぬまで兄が手離さんだろうし、ちょろまかした布施で夜遊びをしるぐらいが関の山や」

 谷川は自らを蔑むように言った。

「まあまあ、そんなに僻まないで下さい。谷川さんは谷川さんで、良い所がたくさんあるのですから」

「それは、大そう有り難い慰めやな」

 谷川はそう言うと、

 あはは……と高笑いし、皆の笑いを誘った。

 それから暫く、ロンドでは懐かしい昔話に花が咲き、たおやかに時は流れて行った。


 神村は物心が付く頃から、その溢れる才能を発揮していたのではなかった。

 信じられないことだが、むしろ六歳までは酷く愚鈍な子供で、どもりも酷かった。小学校入学を翌年に控え、神村の両親は養護学級への入学も覚悟していたほどである。

 神村は、相当な未熟児で生まれため、身体はもちろん、知能の発育にも影響を与えたのだと見られた。

 それが、神童と呼ばれるまでの覚醒を起こしたのは、六歳の春であった。

 四月八日のその日は、仏教の年中行事の一つである『灌仏会(かんぶつえ)』を祝うかのような快晴であった。灌仏会とは、釈尊の降誕を祝して行う法会で、花で飾った小堂・『花御堂(はなみどう)』を作り、水盤に釈尊の像・『誕生仏』を安置し、参詣者は小柄杓で甘茶を釈尊像の頭上にそそぎ、また持ち帰って飲んだ。

 俗に花祭という。

 鳥取県米子市にある大経寺は、朝から数多くの壇信徒で賑わっていた。神村の父は次男だったが、この頃はまだ家族ごと大経寺に寄宿し、宗務を手伝っていた。

 神村はただ一人、忙しなく動いている大人たちの目から逃れ、縁側に腰掛けて庭を眺めていた。ところが何を思ったか、彼は突如として納屋から鋸を取り出すと、庭の片隅に植えてあった椎の木によじ登り、一番太い枝を切断し始めた。

 椎の木はまだ若木だったので、太い枝といっても、直径が十センチぐらいのものではあったが、そうかといって、六歳の子供には容易に切れる太さでもなかった。しかも地上から二メートルほどの高さまで登り、他の枝に跨るという不安定な状態なのである。とても、尋常な行動とは思えなかった。

 後年、神村自身が語ったところによると、彼の目にはその幹に白蛇が纏わりついていたのだという。白蛇は椎の木の精霊であり、この大経寺の守護霊だったと思われたが、六歳の子供にそのような神霊現象が理解できるはずもなく、神村は白蛇が椎の木に巣食っていると勘違いし、白蛇を切断するつもりだったのである。

 神村が木の枝を切り始めると、それまで一片の雲さえなかった空は、忽ち黒く厚い雲に覆い尽されてしまい、あたりは漆黒の闇に包まれた。

 やがて、間断なく雷鳴が轟き始めたと思う間もなく、滝のような豪雨となった。

 神村の母が雨戸を閉めようと、縁側に向かったときである。目眩がするほどの稲光とともに、耳を劈くような轟音が鳴り響いた。大経寺の庭先に落雷したのである。

 一瞬たじろいだ神村の母は、次の瞬間『ぎゃあー』と絶叫すると、茫然自失のまま、その場にへたり込んだ。椎の木の根元に、神村がその小さな身体を横たえていたのである。椎の木の幹には、縦一文字に亀裂が奔り、神村の傍らには椎の木の枝が切り落とされていた。

 それからの三日間、神村は意識不明となった。

 戦後の混乱期、地方の町では碌な医療施設も無く、医師は早々に匙を投げ、絶命は時間の問題と思われた。

 非痛な空気に覆い尽された大経寺を、一人の老僧が訪ねて来たのは、神村が意識を失って三日目の深夜であった。

 時を憚らない突然の来訪者に、家族は怪訝を捨て切れなかったが、その得も言われぬ玄妙な霊気に圧倒され、言われるままに老僧を本堂に案内した。

 老僧は『えいしん』と名乗った。

 後日平静になってみると、それは『栄真』、つまり天真宗開祖の霊ではなかったかと推量したが、心に余裕がなかったそのとき、誰一人として気づく者はいなかった。

 老僧は本尊に向かって、ひとしきり読経を済ませ、

「坊やは、明朝六時に目を覚ますであろう」

 とだけ言い置いて、立ち去った。

『えいしん』というだけで、どこの誰ともわからず、またどこから来て、どこに立ち去ったのかもわからないという不審な思いを抱えたまま、一同がまんじりともせず一夜を明かした、その朝であった。

「ご心配をお掛けしました」

 という言葉と共に、神村が目を覚ましたのである。時刻を確認すると、まさに昨夜の老僧の言葉どおり、六時ちょうどであった。

 そのときから神村の言動が一変した。

 これまでの愚鈍が嘘のように才気は迸り、頭脳明晰、言語明瞭となった。誰に言われたわけでもなく、漢文の経典書物を読み漁り、朝夕には読経を始めるようになった。

 周囲の者は、別人に生まれ変わった神村を、この世の者ではないのかもしれぬと、一種の畏怖を抱きながらも、ただただ見守るしかなかったという。

 その後神村は、八歳のとき父に従って大阪に移り、十三歳で総本山の有力宿坊である滝の坊に於いて得度したのである。

 このときすでに、経蔵、律蔵、論蔵の三蔵を読破していた神村に驚嘆した中原是遠は、彼の育成、薫陶に生涯を捧げようと心に決めたのである。

 余談だが、この経蔵、律蔵、論蔵の三蔵に通達した高僧を三蔵法師といい、有名なのは『西遊記)の僧・玄奘(げんじょう)である。

 

 JR京都駅前の京洛グランドホテルで、二人の僧侶が密会をしていた。

 相心寺の一色魁嶺と造反した奈良の本山桂妙寺の村田貫主である。

 谷川東良との面談を終えた一色は、腹蔵あって村田光湛(こうたん)を呼び出していた。

 村田は、一色より五歳年上の七十五歳。関西地区本山会の会長という要職にある。本妙寺の前貫主山際とは、昵懇の間柄であったことから、山際の意向を尊重し、神村を後継として認めていた。

 だが、山際が急逝すると、掌を返すように反旗の狼煙を上げた。

 彼の真意は不明であった。神村の対抗馬である、岐阜県大垣市・法厳寺の久保住職との接点は見当たらず、亡き山際との交誼を蔑ろにしてまで、久保支援に回る理由がわからなかった。

 唯一考え得るのは、谷川東良が言ったように、二十歳も若い神村に対する嫉妬ということになったが、実は彼にはある筋より密命が下されていたのである。

「なに、六千万だと。こちらの三倍ではないか」

 村田は目を剥いて言った。

「しかも現金ではなく、装飾された般若心経の経典とは……正直、私も心が動きました」

 一色は村田を見つめて肯いた。彼は本音を吐露したのではない。彼一流の駆け引きをしているのである。

「神村上人が、それほど金を持っていたとは、信じられないな」

「どうやら、谷川に同行していた森岡という若造がスポンサーのようです」

「森岡? 何者だね」

「IT企業を経営しているようです」

「IT企業? なぜまた、今時風の若造が神村を支援するのだ」

 村田は首を捻った。

「それはわかりませんが、ともかく相当な資産家のようです」

 一色は村田を見据えると、

「金だけではありません。頭も相当に切れます」

 と語句を強めた。

 村田は唇をぎゅっと噛むと、

「それにしても、六千万とは恐れ入った」

 と再び嘆息した。

「他にも声を掛けているでしょうから、油断がならないと思いますよ」

 一色は抑揚無く言った。相手を気遣っての言葉でないのは明らかだった。

 村田も、一色の意図を読み取った。

「一色上人。久保上人には、上乗せを進言するから、変わらぬ支持を頼むよ」

 村田は忌々しく思いながらも、そう言って軽く頭を下げた。


 一週間後、森岡に谷川東良から呼び出しの連絡が入った。

「森岡君、大変や。一色が翻意した。神村上人との席を段取りしようと電話をしてみたら『会えん』とにべもなく断るのや。おかしいと思って、件の執事に問い合わせてみると、どうも久保側から圧力というか、金の増額の話があったみたいなんや」

「寝返りのまた寝返りですか。しかし、久保がこちら以上の金を出すとは思えませんがね」

 いきり立つ谷川東良に対して、森岡は至って冷静に応じた。

「そういうたかて、現金はこっちも二千万やったからな。こんなことになるなら、あんな小細工せんと、全部現金にすりゃあ良かったんや」

 東良は声を荒げて毒づいた。

「それにしても、まさに風見鶏ですね」

 森岡は、東良の露骨な罵りにも憤ることなく、非難の鉾先を一色に向けた。   

 すると、言葉が過ぎたことに気づいた東良が表情を一変させた。

「いや、俺も悪かった。坂東上人のときのように、せめて相心寺以外の場所で会うべきやったな。プライドの高い人やから御足労願うのを憚って、直接相心寺に出向いたのが拙かった。あのとき、誰かに姿を見られたのかもしれんし、俺の後輩のように、向こうにも通じている者が執事の中に入り込んでいたのかもしれんな」

 と、わざとらしく自らの落ち度を詫びた。

「そうだとすると、敵もなかなかやりますね。まあ、簡単に裏切るということは、同じ事を二度やっても平気ということなのでしょうが、しかし、一色は本当に寝返る気があったのでしょうかね」

「どういう意味や」

 谷川の両眼に不審の色が宿った。

「私たちは、咬ませ犬にされたと考えられませんか」

「咬ませ犬やと」

「いつか谷川さんが言われたとおり、先生が本妙寺の貫主になることには、快く思っていない者が多いでしょう。ましてプライドの高い一色ならば、余計にそうじゃないでしょうか」   

「そりゃあそうやな。一色上人は、神村上人より十五歳も年長で、おまけに大本山の本妙寺は、本山の相心寺より二段、三段も格上の寺院ときてる」

「ですから、端から私たちに味方する気はないくせに、私たちと会い、条件を聞き出すことによって、久保に圧力を掛け、懐に入る金を吊り上げたのではないでしょうか」

「むう」

 谷川は眉を顰めた。

「あの人なら、そういうことも考えられなくはないな」

「もちろん、たしかなことはわかりませんが、いずれにしても、私たちの見る目が無かったと諦めるしかないですね」

 森岡は顔色一つ変えずに言った。それが、再び谷川の癇に障った。

「何を呑気なことを言っとるんや! 合議まで、あと三週間しか無いんやで。見る目が無かったでは済まされんやろ。これから、新たに誰かを寝返らせようにも、あまりにも時間が無さ過ぎる。第一、他に寝返りそうな上人はおらんかったやないか」

 と息巻いた。

 だが、頭に血が上った東良を前にしても、森岡は平然とした態度を崩さなかった。

 それには理由があった。

「すみません。谷川さんには黙っていましたが、実は保険のつもりでもう一人寝返らせた上人がいるのです」

「なにい! もう一人いるだと」

 谷川東良は異様な驚きを見せた。森岡が違和感を抱いたほどである。彼の目には、好事を素直に受け取ったものとは違うように映っていた。

「ほんまか、いったい誰や」

「三重法仁寺の広瀬貫主です」

 三重県は、昔の名残で関西地区に振り分けられていた。

「何やと、三重の広瀬上人やて」

 東良は再び目を剥いた。

「法仁寺は、先代の山際上人支持、つまり神村上人支持から、広瀬上人に代替わりして久保支持に回ったんやで。はっきりした額はわからんが、、元々の支持者より張り込んでいるはずや。それやのに、よう支持を取り付けたなあ。いったい、どないしたんや」

「それが、東京で霊園事業をしている友人がいましてね。その友人が法仁寺と浅からぬ付き合いがありまして、彼の線から密かに広瀬上人の支持は取り付けてあるのです。斐川角、 坂東、一色の三人だけだと、六対五でぎりぎりですからね、いかにも頼りないでしょう。今回のようなこともあるかと思い、もう一人保険を掛けておいたのです」

「それにしても、信じられんなあ、どういう条件を出したんや」

 彼の面は、不審というより不満げであった。

「条件は何もありません。友人の話によると、広瀬上人は、久保からの金は一切受け取っていないということですし、支持を明言したわけでもないそうです。ただ、これまでの慣例に従い『年長者の方が好ましいと思っている』とだけ伝えたそうです」

――しかし、まさかその保険が命拾いになるとは……

 淡々と説明する裏で、薄氷を踏む思いに、森岡は背に冷たいものを感じていた。

「無条件でこっちに寝返っただと? 考えられんな。その友人というのは、ほんまに大丈夫なんか」

 谷川は懐疑的な眼つきで森岡を見つめた。

「大丈夫ですよ。真鍋と言いまして、神村先生とも御縁のある人物ですから信用できます」

 森岡は自信に満ちた口調で断言した。

 この真鍋こそ、三友物産の日原淳史を介して、警察庁幹部の平木直正と面談するため東京に出向いた折、協力を仰いだもう一人の人物、坂根に飲み友達と言った真鍋興産グループの三代目御曹司・真鍋高志(たかし)であった。

 真鍋興産グループは、高志の祖父が一介の庭師から造園業を起こし、父の代には霊園業、不動産業、ホテル業、ゴルフ場経営など、次々と手を拡げて成功を収め、今やグループ企業二十七社、売り上げ二千億円を超えるまでに成長した優良企業グループである。

 三年前、神村から四歳年下の高志を紹介されて以来、親しい関係にあった。神村は毎月、真鍋家の自宅と本社にお祭りしてある観音菩薩に読経をしている縁で高志を紹介したのだった。

 二人は初めて会った日に意気投合した。

 きっかけは森岡の悪戯心だった。

 神村を加えて、三人でホテル内の寿司屋で夕食を共にしたのだが、神村が席を外した隙に、森岡は厚かましくも、銀座のクラブで饗応するよう高志に催促したのである。

 ITベンチャー企業を立ち上げ、急成長を成し遂げて自信満々だった彼は、不敬にも高志を世間の三代目に有りがちな、ただの『ぼんぼん』と見なし、値踏みに掛けたのだった。

 代金は自分で払うつもりだった。遠からず、東京に支店を開設する予定であり、森岡には接待用の店を用意しておきたいという別の目的もあったからだ。

 だが、高志は只者ではなかった。彼は自分が品定めされていることを察知すると、政財界の溜り場とも夜の社交場ともいわれている、銀座の最高級クラブ『有馬』へ招待したのである。

 後日、森岡はその夜の飲み代が百万円近くだったことを知り、自分の所業を甚く反省したのだが、それ以来東京での酒代は高志が、関西での酒代は森岡が受け持つという、二人だけのルールを作って飲み遊ぶほどの友人となっていた。

 その高志に、今回の件で協力を依頼したとき、思わぬところに繋がりを見出したのである。

 関西寺院会・会長を務める兄の人脈が使える谷川東良、全国寺院に顔が広い榊原壮太郎、敏腕探偵の伊能剛史と、磐石の手を打っていた森岡にすれば、真鍋高志にはそれほど期待を寄せていたわけではなかった。

 知り合った当初より、関西で霊園事業を手掛けている関係で、大阪にやって来ては一緒に飲み歩いていた真鍋を思い出し、多少の情報でも掴めればといった、軽い気持ちで相談を持ち掛けたのである。

 それが『瓢箪から駒』とはこのことで、その霊園事業を共同で手掛けているのが、法仁寺の広瀬貫主だったというわけである。

「神村上人の知り合いということやから、その真鍋という友人は信用できるとしても、広瀬上人と真鍋君の関係は信用できるんか? まさか、真鍋君が騙されているということはないやろな。一色上人かて、風見鶏のようにコロコロと宗旨替えするくらいやからなあ。森岡君は、直接広瀬上人に会ったわけではないんやろ」

 谷川東良は念を押した。だがそれは、慎重を期しているというよりは、手の内を探っているようにも取れた。

「おっしゃるとおり、私は広瀬上人とはお会いしたことがありません。しかし、今から他の貫主に手を打つ時間はないでしょう。広瀬上人を信じるしかないと思います。どうしても、とおっしゃるのでしたら直に会って、念を押してみますが」

うーん、と谷川は考え込んだ。

「それは難しい選択やな。直接会って念を押したいのはやまやまやけど、却って心証を悪くしたら薮蛇になってしまうしなあ」

「ここまで来たら、余計なことはせず、腹を括って彼らを信じましょう」

「仕方がないなあ」

 谷川東良は押し切られるように承諾した。自身の知らないところで、森岡が斐川角と広瀬の二人を味方に寝返らせていた事実には、彼も舌を巻くしかなかったのである。

 森岡は、東良の覚悟を促すような言い方をしたが、彼はただ闇雲に真鍋と広瀬の関係を信じようとしたのではなかった。東良には話さなかったが、ある明確な根拠があって、二人の関係を絶対的に信頼していたのだった。


「社長、本当に大丈夫なのでしょうか。もし神村先生が敗れるようなことがあれば、これまでの社長の努力も投じた金も全くの無駄になってしまうのですが」

 帰途の車中で、坂根もまた不安顔で訊ねた。

「ここまで来たからには、信じ切るしかないんや。坂根、心配なんは広瀬上人よりも坂東の方や」

「坂東上人ですか」

 坂根は、森岡の真意を量りかねた。

「この世の中で、金が媒介した関係ほど当てにならんものはない。だから、平気で裏切ったりできるんや」

 森岡は、斐川角は南目と勇次の人間関係、広瀬と真鍋の間には出会った経緯、つまり霊園事業絡みという、共に因縁浅からぬもの感じていたが、坂東や一色との金銭のみの関係性は、この上なく希薄で脆弱なものと認識していた。

「おっしゃることはわかりますが、では社長が広瀬上人を信じようとされる理由を教えて下さい」

「勘や」

 森岡は間髪入れずに答えた。

「勘? 社長、こんな大事なことを勘に頼られるのですか!」

 坂根は、珍しくも森岡に対して言葉を荒立てた。それは不安の裏返しでもあった。もっとも、このような重大事を勘に頼るといわれては、彼が気色ばむのも無理のないことである。

「坂根、そう目くじらを立てるな。勘といっても第六感のような、ただの当てずっぽうやない。それにな、勘というのは、時として下手な理屈より真実の的を射ることがある」

 そこまで言って、森岡はミラーに映る坂根を見た。だが、彼の顔には不満の色が残っていた。

「まあ、お前の納得がゆく言葉を使えば、信念と言い換えてもええ」

 森岡は宥めるように言った。 

「信念ですか。それなら腑に落ちます」

「とにかくな。俺がこれまで神村先生の許で養ってきた、物事の本質を見抜く眼力ともいうべき、ある信念を根拠にすれば、広瀬上人は信用できるということになるんや」

「では、その信念の中身を教えて下さい」

「それはな坂根、仏縁や」

「仏縁?」

「そうや。仏縁で繋がっている関係は強い。俺と先生かて仏縁によって巡り会うたんや。お前と俺もそうやと思ってるで」

 ふむ、と坂根は首を傾げ、しばらく考え込むと、

「社長がそこまで信用される、真鍋さんと広瀬上人の仏縁とはどういうものなのでしょうか」

 と訊いたものである。

「お前は、戦国時代に落ちぶれた一介の土豪から、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と主君を替えながら、最後は二十七万石の大大名に出世した権堂正虎(ごんどうまさとら)という武将を知っているか」

 森岡が問い返した。思いも寄らぬ問い掛けに、坂根は一瞬戸惑ったが、

「処世術に長けた人物ということしか知りません」

 と正直に答えた。

「それだけ知っていれば十分や」

 森岡はそう前置きすると、

「その権堂家の先祖代々の墓石はな、都心のある公園の敷地内にあったんや。いうても、初代正虎から十五代正高(まさたか)のもので、明治以降は今の菩提寺にあるんやけどな……」

 と因縁めいた口調になった。

 彼がやおら切り出した話は、次のようなものだった。

 

 その公園というのは、都内でも至極有名な公園だったが、墓石のことを知っている者は、区役所の職員など極少数である。

 墓石地は南東の一角にあったが、鉄柵で囲んであるうえに鬱蒼とした樹木が生い茂っているため人目には付かなかった。鉄柵には施錠もされていて、権堂家の子孫が墓参するときにはいちいち区の許可を得、職員の立会いの下にしなければならないという煩わしさだった。

 権堂家の現当主は、これでは先祖の墓参りもままならないと、移設することを考えたが、これがまた容易なことではなかった。

 なにせ、二十七万石の大大名の墓石である。とにかくやたら大きい。しかも十五代にも亘る藩主と正室のものが対になっていたため、合わせて三十基にもなる。移転地は、相当な広さを用意しなければならないし、移設作業も手馴れた専門業者が行わないと、損壊してしまう恐れもある。

 そこで現当主の息子が、大学のサークルの先輩だった真鍋高志に相談を持ち掛けた。真鍋グループは霊園事業も手掛けていることから、墓石に関しても専門家だと思ったのである。ところが、相談を受けて下見をした真鍋高志も、想像していた以上の巨大さに驚愕した。

 真鍋は、仕事を請け負うかどうか悩んだが、後輩の依頼でもあり、都庁や区役所の公園内の整備をしたいという、行政上の思惑が絡んだ要請も重なったため、とりあえず移設先の選定に奔走してみた。

 だが、やはり事はおいそれとは進まなかった。広大な敷地の確保が難航したのである。

 真鍋も困り果て、とうとう後輩に断りの連絡を入れようと決心した、そのときであった。話を小耳に挟んだ法仁寺貫主の広瀬が、詳細を聞こうと申し出たのである。

 真鍋は、まず権堂家の現在の菩提寺に話を持ち込んだが、いわゆる末寺であり、土台無理な話であった。そこで、菩提寺の住職が親交のあった広瀬に相談したというのである。

 これには、ただ知人というだけでなく、権堂家の徳川幕府での最終的な所領地が伊勢・志摩であったため、広瀬が貫主を務める法仁寺は、権堂家と少なからず縁があったという理由も絡んでいた。

 相談を受けた広瀬は、真鍋との話の中で、彼がその移設を、身銭を切ってでも実現しようと、心を砕いていることに感心し、敷地を提供しようと申し出た。

 その後、移設の件でやり取りを重ねて行くうち、その真摯な心根が気に入り、法仁寺が計画していた霊園事業を真鍋の会社に持ち掛け、共同で開発することになったのである。


「なあ、坂根。俺はな、真鍋さんと広瀬上人は権堂家の墓石という仏縁で繋がっていると思うとるんや。せやから、一度支持を表明したからには変節はせんと信じる。断るんやったら、最初に断ってるはずや」

「では、社長は真鍋さんを、そして真鍋さんと広瀬上人の関係を信じ、ご自分では確かめないということなのですね」

「そうや、今回の件は俺が真鍋さんに依頼して、広瀬上人を味方に引き入れたんや。俺は真鍋さんを信用しとる。決していい加減なことをいう人やない。確たる自信があっての返事やったと思う。それにも拘わらず、俺がもう一度確認してくれなどと、二人の関係にひびが入る危険を孕んだ事は言えんし、まして顔を合わせたこともない広瀬上人に、直接念を押すことなど、さらにできんことや」

 一応の筋は通っていた。いつもであれば、それで納得するはずだった。だが、このときの坂根は違っていた。彼は忸怩たる想いをぶつけた。

「たしかに真鍋さんにしてみれば、自分を信用してないのかと気分を害される可能性もあるでしょう。しかし、お言葉を返すようですが、良いでしょうか」

 坂根の面が緊張で赤らんだ。

「もちろんや。言いたいことがあるんやったら、この際何でも言うたらええ」

 森岡は鷹揚に構える。

「社長にとっては、神村先生こそが唯一無二の存在ではなかったのですか」

「そうや、その通りや」

「では、その神村先生が瀬戸際の今、失礼ながら社長と真鍋さんの関係など壊れても、広瀬上人に念を押すべきではないでしょうか」

「ふふふ……」

 坂根の指摘に、森岡の顔が自然と綻んだ。

「なるほど、実にもっともな意見やなあ、まさに正論ともいえる。俺に臆せず堂々と意見を言う。俺はお前のそういうところも気に入っとるんやで」

「恐れ入ります」

「そうか。お前から見れば、今回の件で榊原の爺さんの協力を得るために、ウイニットの社長を降りようとまでしている俺が、どうして真鍋さんとの関係をそこまで重要視するのか疑問なんやな……いや、疑問というより、自分や子飼いの野島、住倉、中鉢よりも真鍋さんの方が大切なのか、と憤っているのかもしれんな」

 森岡は、坂根の心情に思いを寄せた。

 だがしかし、

「せやけどなあ、坂根。今お前が言ったように、先生が唯一無二だからこそ、広瀬上人には念を押せんのや」

「……」

 坂根には言葉の裏が読めなかった。

「もし俺と真鍋さんが直接知り合った仲なら、お前の言うように、彼が気を悪くしようがどうだろうが、お構いなく念を押すよう依頼するで。せやけど、真鍋さんは神村先生の紹介なんや。つまり、俺と真鍋さんより、先生と真鍋家の方がずっと深い関係なんや。せやから、万に一つも俺と真鍋さんとの関係の拗れが、先生と真鍋家の関係に累を及ぼすことがあってはならんのや」

 と澱みのない声で言った。

 ああ、と坂根が嘆息した。

「そこまで考えが至りませんでした」

 森岡に真意に触れた坂根は詫びるように言うと、

「そこまでの深いお考えならば、信じるしか他はないのですね」

 とようやく納得した面になった。

「ウイニットの社長を辞める件で、ついでに言うとくけどな。どっちみち上場を果たしたら、頃合いを見てて、俺は一線から退くつもりでいたんや。もっと他にやりたいこともあるんでな」

「もっと他に? 榊原さんの会社をお継ぎになっても、ですか」

 森岡の言葉尻が気になった坂根が不審の面で訊いた。

「そうや。むしろ、爺さんの会社を受け継ぐことになって、やり易くなった」

「お聞かせ願えないのでしょうね」

「坂根、まだまだ先のことや」

 やんわりと断った森岡の眦には潔さが宿っていた。

 このときの森岡は、やるべきことはすべてやったという達成感があり、事の結末を天に任せる心境に至っていた。

 そして、三週間後には雌雄を決する運命の裁定が下るはずであった。





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