第21話

 灯りが煌めく夜の道を人力車が駆けていく。

 色褪せた青の綿入れを着てボロ靴を履いた私は、その座席に一人腰掛けていた。


 電影院の看板が端正な男の横顔を見せて通り過ぎる。

 あの洒落た男は、実は広東訛りで話すのだ。

 そう思うと、何だかおかしくなる。


 と、前の方から虹の様に色とりどりの旗袍やビーズのバッグ、翡翠や真珠の耳環(イヤリング)に、滑らかに光る踵の高い靴が流れてきた。

 どれも、これも、私の持ち物ではない。


 不意に、その群れの中に金魚さながら揺らめいている橙色の旗袍を見つける。

 あれは私のだ!


 手を伸ばして服を掴み取った瞬間、周囲から腕がたくさん伸びてきて、手足を捉えられた。


「助けて!」


 四方から手足を引っ張られ揉みくちゃにされながら、背を見せて走っている車夫に叫ぶが、そこで財布にはもう金がない事実に気付く。


 そもそも、今まで走った車代が正確には幾らなのか、払えなければどうなるのかも見当が付かない。


「降ろして!」


 目まぐるしく回転する光の中、顔を陰にした車夫が振り向いた。


 陰になった車夫の顔が灯りの消えた電灯に変わる。


 私は人力車の座席ではなくふかふかの長椅子の上に凭れており、薄青の綿入れでも橙色の旗袍でもなく、白い洋服の上着にスカートを履いていた。

 靴だけは、元のボロ靴のままだったが。


 夢で良かったと胸を撫で下ろす一方で、天井の白壁からぶら下がる灯りの消えた電球を眺める内に、昨日一日の出来事が次々蘇り、思わず長椅子から跳ね起きる。


 もう、朝だ。


「蓉姐」


 隣室への扉を見やると忘れられた風に半ば開かれていた。


「服の手直しの方は終わりました」


 今度はきっと朝食のお使いを言いつけられるに違いない。

 蓉姐はきっと食べる物にもうるさいんだろう。

 私の作る田舎料理なんてお気に召すだろうか?

 そんな風に思いあぐねながら、蓉姐と偉哥がいるはずの寝室に恐る恐る近付く。


「あれ?」


 寝室には敷布や枕のしどけなく乱れたベッドがあるだけで、誰もいなかった。


「蓉姐?」


 二人ともどこに行ったのだろう。

 眠りこけている私に呆れ果てて、外に朝食を食べに出たのだろうか?


 二人が帰ってきたら、今度は何と言われることやら。

 取り敢えず、今出来る仕事として、私は乱れた床の上を直し始める。

 二人どころか軽く三人は横になれそうなベッドだ。

 白い敷布をピンと伸ばし、二つの枕をあるべき場所に置き直して、ベッド一体に散らばっている髪の毛を拾い集める。

 やや赤味のある、栗色の細い毛が蓉姐で、太くて黒い毛が偉哥のだろう。

 絡み合った髪の束からは蓮の香りに混じって、椿油に似た匂いがした。


 あの二人は多分正式な夫婦ではなく、情人とでも呼ぶべき関係なのだろう。

 混ざり合った匂いから、そんな風に察した。


 窓を開けよう。

 そのままでいると、縺れ合う二人の匂いで目眩を起こしそうな気がしたので、窓辺に向かう。


 開け放つと、涼やかな空気や通りを行き交う車輪の音と一緒に、上海の匂いが流れ込んできた。


 伸び上がって思い切り息を吸い込むと、急にお腹が鳴った。


 昨夜は浴室でお湯を飲んで喉の渇きと空腹を紛らした以外は、何も食べずにひたすら針を動かした。

 お腹が空いて暫(しばら)くすると、飢えた感覚が麻痺した状態になるが、そんな状況で一晩過ごしたのだ。


 それが、上海の香ばしい空気でまた蘇った気がした。


「勘弁して下さいよ」


 私はお腹を擦る。

 蓉姐が帰ってきたら、外に出てお粥を食べよう。

 寝坊をしてしまったし、まだ仕え始めて一日だから、お手当てを求めるのは早すぎる。

 でも、財布の残りからするとこの朝しか自腹は切れない。

 いや、昼食からは私が作れば、その賄(まかな)いにありつけるはずだ。

 蓉姐が戻ってきたら、料理も得意だと偉哥の前でも売り込もう。

 大人数分作ればその分だけ、私の食べる分も水増し出来る。


 空っぽの腹を抱えて窓から立ち去ろうとすると、すぐ近くの棚に、小さな額縁じみた物が置かれているのが目に入った。


 何だ、これ?

 私は思わず手に取った。


 誰だろう?

 日に晒されたせいか少し退色していたが、それは旗袍を纏い、髪を西洋風に縮れさせた女の写真だった。


 艶やかな黒い髪、切れ上がった黒目勝ちの目、やや厚めの紅を引いた唇で、嫣然とこちらに向けて微笑んでいる。

 豊満な身を包んだ旗袍は、白黒の写真でも一見して豪奢な品と知れた。


 蓉姐とは表面的な造作はまるで違うものの、酷く似通った雰囲気を漂わせている。


 これは、蓉姐のお母さんだ。私はそう一人合点する。

 この匂い立つ様に美しい女はきっと洋人のお妾(めかけ)か何かで、それで緑色の目をした娘を産んだのだろう。


 写真の女の、挑みかかる風な微笑も、贅を凝らした衣装も、見れば見るほど、金持ち相手の高級妓女か妾という感じがした。


 この写真ではどう多く見積もっても三十路に至らないから、多分かなり昔に撮った物だろう。


 そう推し量ると、急速に、この写真の女はもう生きていない気がしてきた。


「お母様、よくお嬢様を見張って下さいよ」


 私は写真立てを寝室の内側に向けて置き直す。


 大事な母親の写真をどうして、わざわざ、色褪せるのを待つかの様に、蓉姐が窓日に晒しておくのか解せなかった。


 それとも、あの人もさすがに母親の見ている前で、男と乳繰り合うのは気が引けるのだろうか。


「写真があるだけマシなのに」


 私は母さんの写真を持っていない。

 そもそも、田舎の女中が写真なんて、ごたいそうな物を撮る機会はないのだから。


「母さん」


 ずっと禁じていた言葉が、口から勝手にこぼれた。


 窓からはひっきりなしに車の行き交う音が出入りしていて、流れ込む風はひんやりと冷たい。


 ここの片付けはもうこの位にして、他の部屋にも仕事がないか見てみよう。


 先ほど整えたベッドの前を通り過ぎようとして、通路を挟んだ向かいの箪笥(タンス)の扉が、開きかけたままなのに気付く。

 人一人が立ったまま入れそうな大きさだ。


 昨夜の旗袍の山はここから出したのだ。

 殆ど怖いもの見たさにも似た興味で、両の扉を開く。


「うわあ……」


 後ずさった弾みでベッドに尻餅をつく。

 箪笥の中に隙間なく垂れ下がっていたのは、半袖、長袖、袖無しの旗袍の外、まるで西洋の女帝でも纏う様な洋服の大群が連なっていた。

 今まで見たこともない毛皮の外套も控えている。

 その下には、踵の高い靴がずらりと並んでいた。


 応接間の旗袍の山は、この箪笥に収められていた衣装のほんの一部に過ぎなかったのだ。


 これだけ衣装と靴があれば、春夏秋冬や晴雨の微妙な変化のみならず、出かける場所や会う相手による着分けも可能だろう。


 しかし、一着作るだけでも手間がかかりそうな衣装ばかりなのに、よくこんなに何枚も仕立てられたものだ。


 豪奢な衣装の中でも、特に贅を凝らした旗袍の一枚を手に取ってみる。

 艶やかでありながら、品を感じさせる朱鷺(とき)色の絹。


 確かに上質な生地だが、手触りからすると、少し年季を経ている。


「あれ? これ……」


 衣装を手にしたまま、写真立てを振り返る。

 手に取った衣装にも、写真の女が纏った衣装にも、特徴のある蝶の形の襟飾りが付いていた。


「お古なのか」


 衣装をそっと戻して箪笥の戸を閉じる。

 蓉姐はどうやら母親の写真ばかりでなく、大枚を叩いたであろう衣装も形見として取って置いているらしい。


 母さんの形見と言えばお針道具以外持たない私と、何という違いだろう。


 鐘の連続早打ちに似た、けたたましい音が耳に飛び込んできた。


 呼び出しだ!

 この呼鈴の音は体に良くないと思いつつ、隣の応接間へ急いで戻る。


「はい?」


 右手で取った受話器に左手を添える。

 重さはそこまでないが、妙にツルツルしていて、片手だけだと床に落としそうに思えた。


「もしもし」


 聴こえてきたのは、蓉姐ではなく、男の声だった。

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