4 無縁坂

 『無縁坂』と聞くと、さだまさしのグレープ時代のヒット曲『無縁坂』を思い浮かべる方が多いことだろう。

 『無縁坂』はNTV系で放送されたテレビドラマ『ひまわりの詩』の主題歌である。

 確か、後妻役の池内淳子と先妻の子の三浦友一が家業を切り盛りするホームドラマだったと記憶している。


 また無縁坂は、森鴎外の『雁』の舞台となったことでも有名である。舞台は明治13年のここ無縁坂界隈の本郷である。

 医学部学生の「僕」は、後輩の「岡田」君と無縁坂に住む高利貸しの妾「お玉」との間に生まれた『恋』と呼ぶには淡く儚い思いを記す話しである。


 森鴎外はこの無縁坂から10分くらい北に歩いたところに住んでいた。その後鴎外は観潮楼を建てて移り住むと、その後夏目漱石が住んで『猫の家』と呼ばれるようになった建物である。現在は明治村に移築されている。

 明治の世に戻れば、無縁坂を散歩する森鴎外や夏目漱石と行き交うことがあったのだろうか。


 上野広小路から都会の喧騒を離れて不忍池のほとりに入ると、とても空が広々として気持ちが良い。

 湖畔には蓮が群生し、高度経済成長期には異臭を放った池水も、様々な努力が功を奏して、今はずいぶん綺麗なった。


 池沿いに時計回りに遊歩道を歩きだすと、しばらくして大きく北側(右手)にカーブする。

 カーブして間もなく、遊歩道と並行して走る不忍通りと、東京大学医学部付属病院から降りてきた坂とが交わる三差路が『不忍池西』交差点だ。

 この東京大学医学部付属病院から下る坂が、江戸の昔から『無縁坂』と呼ばれている。


 不忍通りから東京大学医学部付属病院の方に50mほど入ると小さな四つ角があり、そこから緩やかな上り坂となる。

 江戸時代の切り絵図を見ると、無縁坂のたもとの北側(右手)に講安寺と称仰寺の二つの寺の名前が記されているが、現代も同じ場所に同じ名前を見ることができる。


 ここ浄土宗講安寺は山号を『専修山』といい、1606年(慶長11年)に湯島天神下に創建され、1616年(元和2年)にこの地に移転した。

 講安寺の開山上人は、講安寺の境内に庵を建て『無縁寺』と名づけた。その後無縁寺は称仰寺とも呼ばれるようになる。

 時が下ると、無縁寺の前の坂を寺の名前を取って『無縁坂』と呼ばれるようになった。

 また、周辺には武家屋敷が多かったことから、『武辺坂』とも『武縁坂』とも呼ばれている。


 ここでいう『無縁』という意味は、「縁が無い・関係ない・地縁、血縁などが無い」ということではない。

 そもそも『無縁』とは中世の学術用語で、「世俗の私的な支配に拘束されないこと」を意味していた。

 中世に使われていた『無縁』を現代語で一番近い意味の言葉に訳すなら『自由』とでもいったらいいのだろう。


 また、仏教用語で『無縁』とは、「誰のためというようなことはなく、すべてにおいて平等であるという仏の慈悲の心」を指している。


 そういったことを踏まえて、改めてさだまさしの『無縁坂』を聴いてみた。そうすると「ふっ」とため息をつくと、幸せを願って明日を夢見る母の姿が浮かんでくる。

 またテレビドラマの『ひまわりの詩』や森鴎外の『雁』も違った意味合いが見いだされるのではないだろうか。


 『講安寺』は寺には珍しく、本堂は土蔵造りになっている。「火事と喧嘩は江戸の華」とは昔から言われるが、火事から本尊をお守りする為に土蔵造りで建立されたのだろう。

 1708年(宝永5年)に建立されて以来、江戸の多くの大火、関東大震災、そして東京大空襲を乗り越えて、現代に伝わる貴重な建築物となっている。

さらに住宅部分は、幕末の1861年(文久元年)の造りで、客殿や庫裏など当時の姿をよく現代に伝えている。

 無縁坂に面する山門は、残念ながら戦後再建されたものだが、再建するに当たっては、古い形式を再現して作られたということである。


 無縁坂の南側(左手)に目を転ずると、2間ほどの高さの石垣の上にさらに1間ほどの高さのイギリス積みの煉瓦塀がそそり立っており、その内側はこんもりとした林になっている。

 都会に貴重な緑を提供しているが、日差しがさえぎられて日中でも薄暗く感じられるくらいである。

 ここは、現在は都立公園として管理されている旧岩崎庭園だ。江戸時代は徳川四天王にも数えられた榊原家の中屋敷のあった場所で、明治になって岩崎弥太郎が購入し、現在の形に整備された。


 坂の途中で後ろを振り返ると、残念ながらマンションやビルに阻まれて不忍池は望めない。ここら辺は森鴎外が建てた『観潮楼』に遠くなく、同じくらいの標高があることから、江戸期には不忍池はおろか江戸湾から遠く房総の山並みまで見通せたことだろう。


 無縁坂を登りきって突き当たると道は南(左手)に直角に曲がる。その角の北側(右手)は、東京大学医学部へと通じる『鉄門』がある。

 現在の鉄門は、2006年に東京大学医学部創立150周年を記念して再建されたもので、煉瓦タイル張りの門柱に、緑色に塗られた鉄製の欠円アーチ型の門となっている。

 この門の由来は遠く江戸時代にまで遡る。

1858年(安政4年)に天然痘の予防と治療を目的に『お玉が池種痘所』がここに設けられ、東京大学医学部へとその系譜は続く。

 その種痘所の門は、厚い板を鉄板で囲って丸い鋲釘で止められ、全体を真っ黒に塗られていたことから、人々は『鉄門』と呼んだようだ。


 明治の世になり東京大医学部となった後も、当初は種痘所の『鉄門』が使われていたが、後に格子模様の鉄製扉に替えられた。

 大正期に取り払われ、しばらくは存在しなかったが、2006年に再建されたのは前述のとおりである。

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