第12話 精霊王との邂逅

 ゴゴゴゴゴ……。

 ズズズ、ズズズ、ズズズ……。


 ドーム状に形成された地下空間に、轟音と地鳴りが絶え間なく鳴り響いている。


 今まで澄み渡っていたはずの湖水は、泥が混じって暗い褐色へと変貌し、さざ波程度だった水面は、地下空間だというのに風が吹いて、三角波が立つほど激しく沸き立っている。

 ほんの数分前までの静かな地底湖と、同じ場所だとはとても思えない光景だった。


 そして、清冽な空気をも振動させる不気味なほどの地鳴りは、ドーム状の空間を揺るがすほどに絶え間なく、轟々と鳴り響いている。


 ドームの底に満たされた地底湖に浮かぶ島。それはもはやそのいびつな形を維持することができなくなって、轟音とともにゆっくり水中へと没しようとしている。この音は、円錐形の島がみずから発する音である。


 剥落した天井の土砂が降り積もって形成され、その頂上だけが水面上に出ていただけの、不安定な円錐形の島――。


 これまで島の崩壊は、長い年月の間、水面下でゆっくりと進むだけだったが、時ならぬ大量の瓦礫と土砂が一気に降り注いだせいか、頂上部の重みが急に増し、自壊が加速したものと思われる。


 突如として波立ちはじめた湖面と、地鳴りや震動とともに崩れゆく円錐形の島。


 信じがたい現実を前にして、泳げないテミスはマカベウスの白衣にしっかりとしがみつき、そればかりか抱きつかんばかりに寄り添って、波立つ水面を震えながら見つめている。


 そんなテミスだが、元気いっぱいの野生児として育ったため、もともと泳ぎが得意だった。


 テミスが泳げなくなったのは、数年前、彼女が住む村とエヴァストを隔てる川が雨で増水した日のこと、ただ一本の橋が流されてしまった際、溺れたのがきっかけだった。

 村人が困り果てるのを放っておけなかった彼女は、ロープを持ち、泳いで対岸に渡ろうとしたのだが、案の定、流されてしまったのである。


 持っていたロープが幸いし、何とか命だけは助かったものの、あの日以来、テミスは水に対して恐怖心を持つようになってしまっていた。


 濁った冷たい水が、残された岩盤にひたひたと迫ってくる。

 恐ろしさのあまり、テミスはすでに涙目になっている。今や彼女にとって、マカベウスだけが唯一の心の支えになっていた。


「ここでお前に、精霊との契約をしてほしい……。生き延びるためには、もうそれしかない」


 そんなマカベウスからテミスに投げかけられた、意外な申し出。

 それは、申し出というよりも、ほとんど懇願に近いものだった。


「――えっ?」


 涙目になった青緑色の瞳をぱちくりさせ、狐につままれたような表情で聞き返したテミスは、マカベウスの真剣な顔を見上げるしかなかった。


「ど、どうしてあたしが、精霊と契約なんて……?」


 精霊との契約をマカベウスに懇願されても、彼がそう懇願してくる理由が、テミスにはとっさに理解できなかった。瞬間的にその意味を理解するだけの、魔術に関する知識が彼女に不足していたからでもある。


 それでも、しばらく必死に考えたテミスは、ようやくこれだけを口にした。


「で、でも……。あたしは呪術魔法の方が合ってるって、おじちゃん言ってたじゃない。そ、それにさ、精霊魔法はおじちゃんの方が得意なんじゃないの? だったら……」


 そう言った途端、マカベウスの顔が不意に緩み、今それを言うのか、とでも言いたげな表情になった。


「それはそうなんだが――。俺はもう、お前を助けるために魔力を使い果たしちまったんだ。魔術を使うだけの魔力は残っちゃいない。そういうわけで……俺としては不本意なんだが、今となっては魔力が残っている、お前だけが頼りなんだ」


 自嘲ぎみに口の端をゆがめ、なぜか恥ずかしそうに目をそらすと、後頭部を掻きながらぶっきらぼうに言うマカベウス。

 その表情が妙に子どもっぽかったせいで、イケメンとのギャップにやられたテミスは不覚にも胸がドキッと高鳴り、顔を赤くしてしまうのだった。


 ――でも、確かにその通りだ、とテミスは思う。


 陥没穴に落ちそうになったあの時、強烈な風を生み出したマカベウスの奔流のような魔力がなければ、今ここで会話することもできなかったはずだ。


 魔力を使い果たすことは、命の危険をともなう。

 命の危険を顧みずに助けてくれたマカベウスには、感謝のしようがない、と思う。


 魔術の権威である彼に、もはや魔力が残っていない以上、精霊魔法だとか呪術魔法だとかを云々できる状況ではない。生き延びるために、使えそうなものは使うべきなのだ。


 ――あ、そういえば。あの本がない。


 そのときテミスは、呪術魔法の発動に欠かせないとされる魔導書が手元にないことに、今さら気づいた。

 呪術魔法の入門者が支えとする魔導書がないのでは、どのみち修行にもならないではないか。


 それに、ここでこのまま冷たい湖の底に沈んでしまったら、それこそ魔術の修行どころではない。そうなったら、来週に迫った盗賊どもの襲来を迎え撃つことすら、できはしない。

 村を守ると決めた以上、今さら自分の命が惜しいとは思わないが、これまで優しく接してくれた村人たちは何とか助けたい。だから、ここで無駄死にしてはいけないのだ。


「う、うん……。わかった。おじちゃんの言うとおりにするよ」


 神妙そうな表情で、まっすぐマカベウスの顔を見上げ、うなずくテミス。

 それを見たマカベウスは、心底から安堵したような、ホッとした表情を浮かべた。


「そうか……。よく決心してくれた。精霊との契約術式ってのは精霊魔術の中でも飛びきり難しいんだが、お前は運がいいぞ。ちょうど去年、古代語だった詠唱式を、俺が現代語に訳しておいてやったからな。俺の天才っぷりに感謝しろよ?」


「うえ……? 今ごろだけどおじちゃんって、ホントに何者なのよ……?」


「ん? 助手のくせに不勉強だな。不世出の天才魔術研究家というのは、俺のことさ」


 喜びのあまり、顎を突き出してドヤ顔するマカベウスを見て、うさん臭そうに半眼になるテミス。

 でも彼女は、こんなふうに浮き浮きするマカベウスを見ると、何よりもホッとするのだった。


「さて、そろそろこの岩盤もやばいな。手っ取り早く進めるぞ、テミス」


「う……うにゃ!」


 茶褐色の泥水が風にあおられ、三角波をともないながら激しくうねる。まるで海の時化しけのようだ。テミスは力強くうなずいたものの、すぐに怖気が走り、顔色が悪くなる。

 風があるのは、マカベウスが呼び起こした暴風の残滓が地底のドーム内に依然として残り、今になっても風の精霊を狂奔させているからだった。


「精霊との契約術式には、『精霊王たるセプター・オブ龍王の王笏・ドラゴンロード』なんていうふざけた名前の、一神教会で聖別された木の杖が必要なんだが……。これだけの数の精霊がいれば、その辺の棒きれでも十分だろうよ」


「うえぇ……。だ、大丈夫なの? その、セ、セプター何とかがないと……?」


 精霊魔法を使用できるようになるためには、自然に囲まれ、水をたたえた神聖な空間における「精霊との契約」が必要だとされている。


 その術式は、気が遠くなるほどの昔に古代人が制定したものだとされる。しかしこの時代になると多くが形骸化し、古代語だった詠唱式もいつしか現代語に近くなっていた。


 このときから二百五十年後までに、「精霊王たるセプター・オブ龍王の王笏・ドラゴンロード」などという聖遺物はその存在すら忘れられてしまうことになるが、そのきっかけを作ったのは、今ここにいる魔術研究家なのかもしれない。


「よし……これでいいか。よく見れば雰囲気たっぷりじゃないか。なあ?」


 折しも流れ着いた一本の流木を拾い上げ、岩盤の割れ目に勢いよく突き立てて固定したマカベウスは、さも得意げに顎をしゃくって見せた。

 吹けば飛ぶような古木の切れ端に過ぎないが、岩に突き立てれば、厳かな儀式に使用される聖具のように見えないこともない。


「うう、不安だよぉ……。そ、それで、あたしは何をすればいいの?」


 テミスは青ざめながらも、へっぴり腰のまま、マカベウスの白衣をしっかりと掴んで古木の前に立った。


 そこから見渡す地底湖は波立ち、風はますます暴風になってくる。まるで嵐の海をゆく船の舳先に立っているかのような、そんな錯覚に陥る。


 それを見て苦笑を浮かべたマカベウスは、へっぴり腰で震えるテミスの横に立つと、周囲を見回しながら呟くように言う。


「――俺の後に続いて、詠唱式を唱えればいい。お前は何も心配することはない。万が一、あいつがしゃしゃり出てきたとしても、俺に任せておけば大丈夫だ」


 あいつというのはいったい誰のことか? テミスはマカベウスの顔を見上げ、聞き返そうとした。


「うん……。でも、あいつって、誰の――」


「よし、テミス! 精霊どもが集まってきた。木の棒に意識を集中しろ。契約の儀式を始めちまうぞ!」


 周囲を確認していたマカベウスが、テミスの問いかけを打ち切るようにしていきなり叫んだ。

 テミスはそれに驚きながらも、ぎゅっと目を閉じると、言われるままに木の棒の先へと意識を集中した。


 途端に、テミスの小さい身体の奥底から、何か温かいものがじんわりと湧き上がってくる。


 暗闇の中から生まれた、赤くて、透き通っていて、とても軽いもの。ほんのりと温かみを帯びた、赤いガスのようなものがこみ上げてくる感じがする。


 それを汲み上げ、腹の中に溜めるような意識で、みぞおちにぐっと力をこめると、温かいものが手足、背中、頭へとめぐっていく。

 それは魔術能力者スキエンティア・マギカだけが感じることのできる、魔力の流れだった。


 テミスが生み出した魔力の流れが、しばらくすると彼女の指先へと集まってくる。


 十分な量が集まったと感じたとき、手を木の棒の先にかざす。

 指先まで持ってきた魔力をそこへ移そうと、テミスは薄目を開けた。


 その瞬間、テミスの目に、見たこともないような光景が飛び込んできた。


 ちっぽけな木の棒の先へ、糸を引くようにして褐色の水の塊が集まっていたのだ。


 そこで集まった円盤形の水の塊は、間もなく周囲の風をまとうと、みずから渦を巻くように、ゆっくりと回転を始めた。回転速度は徐々に増していく。


 円錐形の島を形成していた大小の砂礫が舞い上がり、風に巻き込まれるようにして木の棒の先へと集まるが、回転する水の塊と混じり合うことはなく、細かい粒となってその周囲を回る。まるで互いの干渉を避けているかのように。


 やがてそれらの回転体は、青白い光を帯びはじめた。精霊たちの霊力を供給するとされる、霊気の精霊が集まりだしたのだ。


 その姿はまさに、光り輝く恒星の周囲をめぐる惑星たちのよう。これらはすべて、精霊たちが集まることによって引き起こされた、超自然的な現象である。


 ――わあ……。す、すごい! これが精霊の力……?


 自然界に遍在するとされる精霊が、みずからの姿を現さずに引き起こす魔術的現象。興奮したテミスがふと自分の横に目をやると、マカベウスが厳しい顔つきで回転体を睨んでいるのが目に入った。


 周囲に目をやると、今まで嵐のように吹き荒れ、三角波を立てていた風が、ぱたりと止んでいる。

 不安定な円錐形の島が崩壊しようとして立てる、あの耳障りな地鳴りもやや緩和したようだ。


 それでも、マカベウスの表情は晴れない。


「火の精霊が、思った以上に集まらねえ……。このままじゃやばいが……仕方ねえ。テミス、俺の後に続いて、術式を詠唱するんだ!」


 ひどい焦りと若干の諦めを交えた声で、マカベウスが怒鳴るように命令してくる。


「あ……。う、うんっ!」


 それにハッとしたテミスは、木の棒の先で回転する物体に意識を集中し直すと、マカベウスが読み下した詠唱式に自分の節回しを加えて、厳かに詠唱を始めた。


「――我こそは、汝らに命ずる者。森羅万象の声を聞きし者……。我が言葉は、神なる者の箴言しんげんなり。精霊王たる龍王の、親しき勅諚ちょくじょうなり……」


 マカベウスに導かれるまま、テミスは清らかな高音で、歌うように呪文を口ずさんでいく。

 その声はドーム状の地下空間に響きわたり、岩壁に染みこむかのように、暗い空間へと吸い込まれていった。


「聖なる言葉、拝跪して謹め……。大地の黒豹の眷属、風の霊鳥の眷属、水の神龍の眷属、業火の獅子の眷属、稲妻の天狼の眷属、そして冥界より生まれし、魔の王の眷属たちよ……」


 優しげな節回しと歌声で綴られていく、契約の詠唱式。しかしそれは、神や精霊王の権威を借りた、精霊に対する威圧的な臣従の要求にほかならない。

 それでも、水と土砂の回転体は動き続けている。精霊たちが、テミスの詠唱を受け入れている証拠だ。


 精霊と契約し、その魔力の行使をする者は、清廉潔白な行いや敬虔さといった、いわゆる「聖性」を涵養しなければならないとされるが、神の権威を借りて命ずる人間もまた聖人同然でない限り、本来自由な存在である精霊がその要求を受け入れるはずがない。

 それが、精霊魔術師に聖性の涵養を義務づける理由である。


 天真爛漫で素朴なテミスなら、その点で問題はないだろうと踏んでいたマカベウスだったが、その読みはどうやら当たっていたようだ。

 詠唱式が終盤に差しかかるにつれて、彼の表情にようやく余裕が戻りはじめた。


 ――と、その時。


 地下空間の奥に広がる暗闇の向こうから、急に誰かの声が割って入った。


『待て――しばし待て、人の子らよ。うぬらの……名を申せ』


 風と地鳴りが止み、しんと静まりかえった地下空間。

 最初は遠くから聞こえるだけだったが、やがてはっきりと、老年男性の声だとわかった。


 その老人の声は、若干しわがれていたが、その言葉が最後まで終わらぬうちに、声だけがテミスたちのすぐ近くにまで迫ってきた。

 近くで聞いてみると、その一言一句には力がこもっており、有無を言わせない威圧感がある。


「えっ……? おじいちゃん、誰っ? どこから話してるのっ?」


 驚いたテミスは詠唱を中断し、きょろきょろと辺りを見回して聞き返した。隣でマカベウスが舌打ちをしていることには、当然ながら気がつかない。


 いきなり現れた老人の声は、その問いに対して、少し間を置くかのようにいったん途切れたが、やがて威厳たっぷりな口調で、みずからの正体を明かしてきた。


「われは龍――。龍の王なり。そして精霊界を統べる者、『精霊王』レクス・スピリトゥスなり……」

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